山影に咲く花
月は、あの夜のまま、歪んだ面影を湛えていた。
まるで、語られぬ相思を胸に抱え、燃え残る想いの火を静かに灯しているようで。
私はただ、風とともに立ち尽くす。
触れることも、追うことも叶わずに。
小さな紅い蝋燭に灯した願い。
それが尽きるまで――この身が朽ちるその時まで、ただ君の隣で、君の時間を照らしたかった。
色褪せることなく、ただ静かに。
帰る場所を失った君の歩む道を、せめて導く灯火でありたかった。
たとえ、叶わぬ想いだと知っていても。
見せることのない涙が、心を苛んでも。
もし、この生が君に続いているのなら、
願わくば、塵にまみれることなく、
消えぬ想いのまま、そこにありたい。
振り続ける雪が、
君の深い傷を、ほんの少しでも癒すものであるように。
未熟だったあの日々が、
骨ばかりの記憶になっても構わない。
それでも、たった一度、君に触れたい
最初で最後でも――生涯一度きりの奇跡でも、この心は、それを生涯の道標とできるから
たとえ私の手が血にまみれ、
語らぬ花のように、ただそこに在るだけの存在となっても。
たとえ深い森に迷い、二度と出られぬとしても――
私の心が、いつも君の隣にあったことを覚えていてほしい。
何度砕けても、欠片を拾い集めて、心と心を、たった一度でいい。ひとつにしたかった。
中原北境、五蓮山の裾野。
霧が絶え間なく満ちるこの地に、ひっそりと朽ちた廃村があった。
春の風が若竹を揺らし、岩間には名も知らぬ小花が咲く。
それらだけが、かつてここに人の営みがあったことを、静かに物語っている。
崩れ落ちた家屋は骨組みを晒し、苔に覆われた石畳は、誰の足音も待たず、ただひっそりと眠っていた。
古びた井戸には、水の気配すらない。
そんな廃村の真ん中に、ひとりの女が立っていた。
風にたなびく黒髪、すらりと伸びた四肢。
藍に染められた薄衣をまとい、彼女はまるで、時の流れから切り離された存在のように、そこにあった。
その顔をひと目見れば、誰しもが息を呑むだろう。
月光に映える白磁の肌、凛とした涼やかな眼差し、そして、紅梅の花弁を思わせる艶やかな唇。
まるで、天上の仙女がふと地上に降り立ったかのような、美しさだった。
名を、霜華という。
その名は知られていないが、天下一の女侠と言われる、 梅孤侠、その人である。
この村で生まれた彼女は、十余年前のある夜を境に、すべてを失った。
父の死は、あまりにも唐突だった。
幼い霜華には到底受け止めきれぬ衝撃であり、その夜から世界は永遠に歪んだ。
母はすでにいなかった。物心ついた頃から、霜華にとっての家族は、父ただひとりだった。
父は、時折ふいに旅に出た。
数週間後、土産を抱えて笑顔で戻る父を、幼い霜華は無邪気に待っていた。
何の仕事をしていたのかは、知らされることもなかった。
ある日、突きつけられた父の亡骸——
町はずれの山奥で見つかったそれは、無惨なまでに傷ついていた。
懐には、短剣が数本、血にまみれたまま隠されていた。
なぜ父は殺されたのか。
父は、何者だったのか。
その答えを知るために、霜華は生きてきた。
それだけが、彼女の命をつなぐ唯一の糸だった。
剣を学び、江湖に名を知られるようになった今も、霜華は過去を手放せなかった。
十二年もの歳月を費やしても、わかったのは、ただひとつ——
父を殺したのは沈剣門という武門に属するものだった可能性が高い、ということだけ。
それも、父が懐に隠していた短剣に、沈剣門の紋が刻まれていた、というだけの、証拠にもなり得ぬ根拠であった。
——カラン。
乾いた音が、静寂を裂いた。
手を触れた崩れた井戸の石組みが、音を立てて底へと転げ落ちたのだ。
そのとき、風の中に、微かな気配を感じた。
カサッと落ち葉を踏む音がする。
霜華の指が、静かに腰の剣へと滑る。
身を翻すと、そこに、一人の男が立っていた。
漆黒の衣をまとい、引き締まった長身を風に晒す。
背には細身の剣。
きちんと束ねられた黒髪、端整な顔立ち。
一瞬、霜華はその姿に心の奥を揺らした。
だが、それ以上に。
男のほうが、先に言葉を失っていた。
ただ、霜華を見た。
見た、その瞬間——
白梅の花が、ひとひら、凍てつく雪の中へ舞い降りたようだった。
眼差しが、時間の流れを奪った。
かすかな溜め息ともつかぬ感嘆が、男の胸から零れる。
頭の奥が白く霞み、立ちくらみのような感覚に、膝が震えそうになった。
武人としての本能が、一瞬だけ、途切れた。
霜華は目の前の男に警戒しながら口を開く、
「……何者?」
霜華の声が、男の意識を引き戻す。
「……通りすがりの者だ」
男は顔を整え、答えた。
だが、その胸の鼓動はなお、速かった。
「この村は、本道からはだいぶ離れているけど?」
霜華が冷たく告げる。
男は小さく笑った。
すでに、自分を取り戻していた。
「そういうお前は……何故、名もなき村にいる?」
霜華は警戒しつつも、答えた。
「名前は、あるわ。....南那村、というのよ」
「.....そうか。」
霜華は、何となくその雰囲気と声に、警戒を少し解いて、男に尋ねた。
「……あなた、名前は?」
「無弦」
男は答える。
「君は?」
「……霜華」
出会いは偶然だった。
だが二人はこの時、まだ知らなかった。
この出会いが、深く愛を結び、やがて深く心を裂くことになるとは——
そして、この男こそが、霜華が追い求め続けた、過去の答えを握っていることを。