⑦フィンランド・キッズの英語力の秘密のお話
前にも書いたかも知れないけど、僕とRindouさんはお互いのパートナーを交えて一緒にネットゲームを遊んだりもする。
日本人の僕たち夫婦とフィンランド人のRindouさん、そしてRindouさんの旦那さんでありアメリカ人のDJさん。たった四人のミニミニ多国籍軍だ。
ところでここで顕在化するのが、日本人とアメリカ人の間に横たわる言語の壁である。
なにしろ我々夫婦は英語が話せないし、アメリカ人のDJさんは日本語が話せない。
チャットで会話している時は翻訳アプリを使っているのだけど、音声通話だとそういうわけにもいかない。
ではゲームプレイ中のコミュニケーションはどうやって取っているのかというと、答えは至ってシンプル、Rindouさんが日本語と英語を同時通訳してくれているのである。
「日本語だけじゃなくて英語もそんだけペラペラって、なんかRindouさんがフィンランド人だってことを忘れちゃいそうだわ」
薄暗い海の洞窟で大ボスのデカい半魚人をやっつけたあとで、僕はしみじみとそう褒めた。
Rindouさんは一万キロの距離の果てで照れ笑いして、それから。
「でも、別に私が特別なわけじゃないですよ。フィンランドでは母語以外に最低二つの言語を学ぶことが義務づけられてるんです」
「そうなの?」
「そうなの。で、それとは関係なく、英語はほとんどみんな喋れますね」
母語がフィンランド語の人でもスウェーデン語の人でもね、とRindouさん。
すごいなぁ、と僕は真っ直ぐ素直に感心する。
日本では英語を話せる人なんて滅多にお目にかからないのに、本当にすごい。
「そういえばこないだテレビで言ってたんだけどさ」
「はいはい」
「日本の英語力が上がらないのは、高等教育を母国語で受けられるのが原因なんだって。他の国では高校、あるいは大学から教育の場で使われる言語が英語になるから、そこより上の教育を受けるためには英語の習得が大前提となる。そのために英語教育に力を入れている、とかなんとか」
僕はそうテレビの受け売りで話して、「フィンランドの英語力の高さの秘密もこういうことかー」と言った。
これに対して、Rindouさんはまず「???」という感じの疑問符を短い沈黙の間に敷き詰めて。
そのあとで、「そんなことないですよ」と一笑した。
「フィンランド人が英語を使えるのは、みんなが日常的に英語を使っているからですよ。たとえば今の小学生たちは私が子供だった時代以上に英語ペラペラらしいですが、けどそれは学校の教育が優れているからじゃありません」
今度は僕がクエスチョンマークを浮かべる版だった。
「でも、基本の使用言語はスオミ語、フィンランド語なんだよね? たとえば家庭での家族の会話もフィンランド語で交わされるわけでしょ?」
「そうですよ」
「なのに日常的に英語を使うの? どこで? なんで?」
話せば話すほど脳内に浮かぶ?の文字のフォントサイズが大きくなっていく気がした。
そんな僕に、Rindouさんは辛抱強く説明を続けてくれる。
「日本では海外から入ってくるメディアが日本語に翻訳されますよね?」
「うん」
「だけど、ヨーロッパの国はそうじゃないんですよ」
ここでようやく、なにかを少しだけ理解した気がした。僕は思わず「あ」と声をもらす。
「あ、あ、なんとなく、ちょっとだけわかったかも」
「はい」
「この話、もう少し詳しく聞かせてくれ」
というわけで、我々はステージクリアのファンファーレが鳴り響く洞窟を後にして、いつものチャットルームに向かったのだった。
※
活字、映像を問わず、ヨーロッパでは他国のメディアが必ずしも自国語、母語に翻訳されるわけではない。また当然の帰結として、この傾向は話者数の少ない言語になればなるほど顕著になる。
世界話者人口が500万人ほどのフィンランド語の翻訳実情は、推して知るべしである。
そしてもちろん、それは子供が楽しみたいコンテンツも例外ではない。
「ええと……あった、これです」
そう言ってRindouさんが送ってくれたURLは、『Mangajulkaisut Suomessa(フィンランドの漫画出版リスト)』というサイトのもの。
添えられたサイト説明は『フィンランドで出版されたマンガ、出版予定のマンガの全リスト』とあるが、しかしそのリストはかなり短い。十秒もかからずに上から下までスクロールできてしまうくらいだ。
「ゲームはもっと少ないですよー。北欧で作られた教育ゲームがたまにフィンランド語にもなるくらいで、他は全然?」
あたかもコンテンツの冬、エンターテイメントの終わらない兵糧攻めである。
さて、そういう環境に置かれた時、人は、子供たちはどうするか?
もちろん、あるものを食おうとするに決まっている。
「なるほどなぁ。ゲームとか漫画とか、フィンランドの子供たちは英語版のものを摂取するんだ。どうにか楽しむ為に英語を覚えなければ! っていう」
「『覚えて読む』というよりは『読んで覚える』ですね。英語をできるようになる前から英語の本やゲームに触れはじめて、なんとか読もうとしているうちに自然に覚えるんです」
なるほどなぁ、と僕はもう一度呟いた。なるほど。
フィンランドは国民の英語力水準が高い国ではあるが、特に小学生の英語レベルは日本の大学生のそれを上回っている。
しかし英語教育に目をやると、小学校から高校までの総授業数は日本よりもずっと少ないのだ。
「もちろん学校の授業でもみんな英語のカリキュラムを選択しますけど、でも子供たちが英語を吸収するのは学校の授業からじゃなくて、英語版のゲームとか漫画からですね」
少なくとも私はそうでした、とRindouさんは言った。
ここで恥ずかしい過去を告白してしまうけど、実は僕は中学一年までローマ字すらまともに読み書きができなかった。
そんな僕が現在曲がりなりにも作家なんてやれているのは、中学の時に我が家に導入されたパソコンとインターネットのおかげだと思う。
検索エンジンにワードを入力してネットの海をサーフィンする――そのために僕はローマ字を習得した。
というか、気付いたら習得していたのだ。学校の授業からは全然身につかなかったのに。
二十年前の日本の中学生に起きていたのと同じことが、フィンランドのキッズたちにも起きているのだ。そんな親近感がトピックの理解に血を通わせた。
……いやまぁ、小学生で覚えて当然のローマ字を中学で覚えられた体験と、小学生で日本の大学生以上の英語力を比べるのは、おこがましいにもほどがあるんだけど……。
「今の子供たちはネットゲームとかでも英語で外国のプレイヤーとコミュニケーション取りますからね。英語力の水準は私たちの時代よりも高いはずです」
環境が自発的な興味を生み、興味が学習の親となる。
なんだか『スタディではなくラーニング』というニュアンスがそこには漂っているような気がした。
それが英語表現として正しいのか、日本人の中でもひときわ英語力の低い僕にはわからないけど。
「なるほどなぁ。……さっきからなるほどばっかだけど、聞けば聞くほどなるほどだ。思いがけずいい話を聞かせてもらった」
「いえーい!」
最後にもう一度、僕はなるほどと呟く。
なるほど。今日聞いたような事情のおかげで、二組の夫婦は多国籍チームを組んで日々ダンジョンを攻略できているのだ。
「あ、ちなみにりんどうさんは何歳くらいから英語読めた?」
「んー、十歳くらいからですかね。私は主にゲームで基本の英語を覚えました。画面に出てるテキストをわからないなりに読んで、読んでるうちに理解していく感じ」
「おー、なんてゲームだろ、俺も知ってるやつかな?」
「英語版のポケモン緑。あとプレイステーションのあれこれ」
なんだか日本人としてえらく得意な気分になった。我が国のサブカルがフィンランドの英語力を底上げしてる……!