奴隷 ——オダーリエ——
【不倫】というお題で、エイヤァと書き殴った短編です笑
私は彼をネルギスと呼んだ。
それはボスポラス海峡に面したこの宮殿——私からすれば華麗な牢獄に他ならぬ建物の、細切れに設けられた中庭で咲く、花の名前だった。
そう、たとえばこのオスマン帝国に、征服された国があるとする。領主に娘や息子がいたならば、彼らは奴隷の身に落とされる。
花の名は、そうやって連れてこられた少女や少年の、個性と人格を消し去るために付けられたものであったから、幼いときからハレム付属の事務局で、宦官として厳格な教育を受けてきた彼にしてみれば、むしろ誇りが傷つけられる呼び名であったろう。
私はサフィエ、その名さえも本名ではない。
かつてはヴァネツィアの貴族の娘だったけれども、それはもう、昔の話に過ぎない。
ここはトプカプ宮殿内のハレム。
私は、スルタンの夫人のひとり——だった。昨日までは。
夫人とは、スルタンの寵愛を受け、子供を産んだ女に与えられる称号だ。
スルタンが死んで代替わりが行われ、産んだ子供が新しいスルタンになったなら、その身分は〈夫人〉から〈母后〉になる。ハレム内において唯一、スルタンから尊重され、権力をも持ちうる存在へと変わる。
昨日、やっとあの忌々しいスルタン、ムラト三世が死んだ。
どれほどこの日を待ち望んだことだろう。
私の息子は新しいスルタンとなったのだ。
私はもう、他の寵姫たちからの暗殺の危険に怯えることはない。
息子の命を守るために身を削ることもなければ、憎悪を押さえて、あの不愉快なムラトの寝台に侍る必要もない。
「新スルタンの兄弟十八名、全ての処刑が終わりました。また、前スルタンの子種を孕んでいた女たち七名、マルモラ海に沈めましたこと、見届けました」
私の居室に報告にきたネルギスは、いつもどおりの無表情だった。ただ、普段はきちんと整えられている黒い髪は少し乱れ、美しい小麦色の膚はややくすんで見えた。
「ご苦労様」
何の感慨も込めずに、私は答える。
スルタンは即位と同時に、その兄弟を処刑して良し、という法律は、数代前のスルタンが決めたものだ。
だから、それに殉じただけのこと。
ひどく寒く感じるのは、今が真冬だからだ。
窓のない居室からは、外の天候はうかがえないけれど、冬のマルモラ海はさぞ冷たいだろう。
中庭に花が咲く季節は、まだ遠い。
〈夫人〉になったとき、私付きの宦官を選べといわれて、私は迷わず、ほんの少年だった彼を選んだ。
どうしてあんな無愛想な子供を。もっと華やかで気の利く青年が、いくらでもいるのに。
ムラト三世は鼻で笑ったが、今となっては私にも、なぜ彼を選んだのかは判らない。
感情を露わにしないところが、気に入ったのかも知れない。
選んですぐに、私は彼を居室に座らせて、聞かれもしないのに、長い身の上話をした。
何も知らぬ少女の頃、貴族の娘として真綿にくるまれるように、家族に愛されて育ったこと。そろそろ、ふさわしい婚姻先を探さなければなと、父が言っていたこと。
なのに旅行先で海賊にさらわれて、運命が一変したこと。助けは間に合わず、ムラト三世のハレムに献上されてしまったこと。
処女でなければハレムに入る資格すらないのだと言われ、体中を検分された屈辱を。
「慣れてしまえば、どんなことにも耐えられるものです」
彼はぽつりと、それだけを答えた。
彼を自分付きにはしても、支配できないだろうことが、そのとき判った。
それが口惜しくて、私はその日から、彼をネルギスと呼んだ。
「母上……! あなたは。あなたという人は」
荒々しい足取りで、居室に踏み込んできた息子は、蒼白な顔で私を責めた。
「私がいつ、兄弟全員を殺せなどと命令しましたか。なのにあなたは、私の名前を使って——何の罪もない、女たちまで」
「あなたは即位したばかりで忙しそうだから、手間をはぶいてあげたのよ。ああいうのはね、早ければ早いほどいいの」
息子の怒りが理解できず、その愚かさに辟易して、私は顔をしかめる。
彼らを殺さなければ我が身が危ういことくらい、身にしみているはずなのに。
そもそも、自分が無事に生まれて育ったことそのものが、どんなに稀有な僥倖であることか。そんな簡単なことにすら自覚のない男がスルタンで、この先大丈夫なのだろうか。
「——権力を得、贅を尽くすことができるようになり、気に入りの宦官を側に置いて、ご満足ですか」
息子は憎々しげに、豪奢で精密なタイルで飾られた居室を見やる。珍しい宝石を散りばめた衣装を身につけている私を睨み、控えていたネルギスをも、凍るような視線で刺す。
贅を尽くしている……ですって?
この程度で。
私は軽蔑を込めて、新しいスルタンを見返す。
私の祖国、奇跡のように洗練された国、あのヴェネツィアを見たこともないくせに。
夕暮れ時、聖マルコ寺院が広場に落とす影。水路を行き交うゴンドラ。
元首官邸の素晴らしい威容。
もっとも——
血の匂いなら、パラッツォ・デュカーレにも、等しく漂ってはいるのだけど。
私に接触して、国の利益を図ろうとしているらしいヴェネツィア大使のことを、ふと考える。
「くれぐれも、私の体面を傷つけることのないよう、願いたいものです。宦官と淫靡な遊びに耽ったりなど、なさいませぬように。不貞が発覚したときは、いかに母上といえど処罰させていただきますよ」
捨てぜりふを残し、新スルタンは去った。
私はネルギスに向かって肩を竦める。
「どうでもいいことだけど、あの子、いつかこの国がヴェネツィアと戦争になる可能性を、ちゃんと意識してるのかしら」
ネルギスは表情を変えず、首を横に振る。
「陛下はまだ、即位なさったばかりですから」
「……そうよね。母親に文句言うことしか出来ないなんて、情けないこと」
あの子がネルギスの十分の一でも利口だったら、私はどんなに楽だろう。
「それに、側近たちも新スルタンのご機嫌を取ることしか考えてないときてる。目新しい女の子をみさかいなしに買ってきてあてがうものだから、奴隷市場での若い女の子の値段は高騰しているそうよ」
「代替わりの時期は、伝統的にそうなるようで」
「……また、新しい奴隷が増えるのね。懐かしい祖国や、愛するひとびとから引き離され、スルタンの寝台に侍るためだけの奴隷が」
かつての私は、たしかにヴェネツィア貴族の娘だった。けれども今は、現スルタンの母后。
もしもこの地が他国から——もしかしたらヴェネツィアから攻撃を受けるようなことがあったら、私のような女はどこに身を隠せばいいのかしらね。
何気なく呟いた言葉に、ネルギスは生真面目に答える。
「それはやはり、この宮殿でしょう。ここがイスタンブール防衛の盾になると思います」
「どうして?」
「トプカプ宮殿は本来は城塞として建てられたと、事務局で教えられました」
「そうなの? そんな機能的な建物とは、とても思えないけれど」
私は苦い笑いを漏らす。
かつてはコンスタンチノープルと呼ばれていたこの地。三重の城壁で囲まれていた東ローマ帝国の首都。
それを力ずくで攻め落としたのは、数代前のスルタン、メフメット二世だ。
——新スルタンは即位時に兄弟を処刑しても良い。
そんな恐ろしい法律を作ったのも、メフメット二世ではなかったか。
いつだって征服した側は、その瞬間から守りに転じる。
自分で破壊したはずの防壁を、形を変えて建て直す。
いつかは確実にやってくる、滅びの気配から目を背けるために。
「何にせよ、国はいつかは滅びるものよ。オスマン帝国だって、ヴェネツィア共和国だって……。外から滅ぼされるのか、自滅するのか、それは判らないけれど」
「——お疲れでしょう。今日はもうお休み下さい。ヴァーリデ・スルタン」
スルタンの母——母后、の敬称で私に呼びかけて一礼し、ネルギスは退出するそぶりを見せた。
急に——
私はやみくもに、彼を引き留めたい衝動に駆られた。
待って。
違う。
私は、あなたとこんな話がしたかったわけじゃない。
あらんかぎりの言葉を探してみる。
恥をしのんで、今まで前スルタンに有効だった媚態を駆使しようかとも、思ってみる。
そして、絶望する。
判っている。何ひとつ、彼には通じない。
——罪とは、なんだろう。
人倫に背くとは、どういうことを言うのだろう。
後顧の憂いをなくすためだけの理由で、十八人もの人間を縊り殺し、妊娠している女性たちを溺死させることは、法律で許されるのに。
たとえば私が、宦官である彼を、女性との過ちを犯すことのできない彼を無理に誘惑し、その滑らかな膚に唇を寄せただけで、おそろしい不倫として糾弾される。
「……お休みなさい」
胸の内を悟られぬよう、私は乾いた声を出す。
今までずっと、そうしてきたように。
彼は退出するときは、決して振り向いたりしない。
だから。
永遠に知ることはないだろう。
その背を見つめる私の顔が、夫人でも母后でもなく、海賊にさらわれてハレムに放り込まれたばかりの小娘——下っ端の奴隷のままであることを。
〈了〉
お読みいただき、ありがとうございます!
舞台がハーレムなのにエロくなくてすみません(謝った)。
【本文とは関係ない後書き】
「ハーレム」という単語からは、グラマラスな美女軍団が薄物の衣装でうっふん♡な、華やかな想像をするのですけれども、トルコ共和国のトプカプ宮殿のハーレムは高台にあって居住環境がイマイチで冬場は寒くて、集められた美女ズはトルコ伝統のキルトを着込んでしのいでたらしいんですよね。かわいい。
ハーレムなのにエロくない後書きですみません(謝った)(2回目)。