02 公子との遭遇(3)
そうやってすべての本を読み終わり、結局、ここがどこなのかは分からずじまいだった。
自分がいる建物は、たぶん、どこかの貴族の邸宅だろう。
建物から見下ろせる景色は、丁寧に整備された庭園が広がっている。写真や映画で見るようなヨーロッパの庭園だ。かなり裕福な家か、高位貴族だろう。
一室を与えられ、「お嬢様」と呼ばれるこの体は、どいう立場なのか。メイドたちからの虐待を考えると、あまりいい立場ではない気がする。
自分の頭の上にも、プレートがあるのだろうか。それを見れば、何かわかるかもしれない。
だが、夜の窓に姿を映しても、中も外も暗いために何も見えないのだ。ぼんやりと浮かぶ体の主が、幼さの残る女だと知れる程度だった。
やはり、鏡が欲しい。
夜の静まり返った室内で、ゆっくりと、慎重に立ち上がる。
誰もいないはずだが、物音を立てないように、息を殺して、ドアへ歩み寄った。
自分の呼吸も止めて、静かにドアノブをひねる。
わずかにあいたドアの隙間から、何かの音が聞こえないかと耳を澄ました。
静寂だけが、あった。
開いたドアから顔をのぞかせると、部屋の外は、広い廊下が左右に伸びていた。
記憶にある廊下は、木造校舎の汚い学校の廊下か、コンクリの建物の中で飾り気内無機質な会社の廊下だけ。
目の前の廊下は、床を絨毯が敷き詰められ、壁には蝋燭の明かりがぽつぽつと灯り、大きな窓からは青白い光が薄く差し込んでいる。幻想的な、絵画を見ているような情景だった。
人の気配は、ない。
静かに、隙間からすり抜けるように廊下へと出た。
裸足でも、絨毯の上は冷たさを感じなかった。
もっとも、痛みを感じないこの体は、寒さも感じていないようだ。
右と左、どちらに進むか迷った。
廊下の奥を見つめると、プレートが現れた。
『本館』
左を見ると『西館』というプレートが出る。
一番収穫率の高そうな本館に行くべきだろう。
この豪華な廊下の真ん中を歩く勇気はないから、壁際を、ゆっくりと進んでいった。
分岐点に差し掛かると、プレートが現れる。
目指す場所はないので、なんとなく、まっすぐ進んでいった。
『歴代当主の軌跡の間』
そのプレートの文字に気づいて、まだまっすぐ進もうとしていた足を止めた。
(この家がなんの家か、分かるかもしれない)
私は初めて、廊下を曲がってみた。
「間」と言っても、部屋ではなく、広い廊下の両壁に、肖像画が飾られている場所にたどり着いた。
向かって右側が男性、左側は女性。
当主と、その妻だろうか。
肖像画の右下に、やはりプレートが現れる。
『第4代当主 アドルド・ヴィスコス』
目を見張った。
そして、マデリンが持ってきた本の意味をようやく理解した。
やはりここは、ヴィスコス公爵家なのだ。
廊下を進むと、突き当りにたどり着いた。
目の前にはひときわ大きな肖像画が飾られている。
『レドルフ・ヴィスコス』
現れたプレートに記された名前だった。
「これが初代・・・」
妻を捨て、皇女と再婚した男。
そして。
邸宅まで建てて、妻を見殺しにした男。それとも、妻に裏切られた男か。
肖像画の中の壮年の男は、静かに、遠くを見ているような眼をしている。
戦争で勝利をおさめ、多くの敵を切り捨て、家門を築いた猛々しさは、感じられない。むしろ哀愁漂う文人のようだ。
しばらく、肖像画を見上げていた。
プレートには、レドルフ・ヴィスコスの経歴が表示されているだけで、すべて読んでしまったから、これ以上の情報は得られないだろう。
知りたいのは、なぜ自分がここにいるかということ。
(答えて・・・くれないよね)
そろそろあきらめて次に行こうかと思った時、背後に、人の気配を感じた。
見つかった!?
慌てて振り返る。
足が震えてきた。
足音と呼べる音はなく、だが、背後から近づいてくる人影。
薄明りでも見えるほどに近づいて、止まった。
長身の男だった。
どこか、肖像画のレドルフ・ヴィスコスに似た男だった。
「何をしている」
男が言った。硬い口調は、好意的ではないと知れる。それなのに、男の顔を見た瞬間、鼓動が跳ねた、気がした。
私はとっさに男の頭上を見た。
やはりプレートが浮かんでいた。
ただ、今までとは違う、ピンク色のプレートだった。
何か意味があるのか、だが今はそれを確かめる術はない。
『アロルド・ヴィスコス』
やはり、ヴィスコス公爵家の人間のようだ。
見上げるほど高い身長、細身だがひ弱な感じはしない。
顔立ちは端正で、人気俳優と言われても納得するほどだ。
肖像画と同じ薄茶色の髪。
そして、若い。20代前半、もしかしたら10代後半かもしれない、大人びている顔立ちというだけで、まだ大人になりきれていないようにも感じ。
「ここで何をしている」
問われて、言葉に詰まる。
何を言っても、まずいことになりそうだったから。
アロルドからにじみ出る気配は、警戒、敵意。そして軽蔑。
すぐに捕まえるといった様子は見えないが、油断はできない。
「答えるんだ、ミリア」
ミリア、初めて聞く名前だ。ここには自分とアロルドしかいない、ならば。
(私の名前が、ミリア)
ようやく、知りたかった情報の一つが手に入った。心の中で名前を繰り返しつぶやくと、なぜか、「ミリア」という名前がなじみ深いものであるかのように感じてきた。同時に、男の声で名前を呼ばれたときに感じた胸の高鳴りに戸惑うしかない。どうして、今私は、こんなにも緊張しているのだろう。
「答えられないのか」
アロルドの声に我に返る。
そうだ、聞かれていたんだった。
「ここで何をしている」
もう一度、男が聞いてきた。
(何って・・・)
「べんきょう?」
今までの自分では考えられないような答え方になってしまった。
本来の私は、常に明確に、的確に、物事状況を判断し、最善の選択と回答を提示していく。そう心がけてきた。余計なことに無駄な時間を費やすことが嫌いだった。
だが今は、状況も、自分自身のことも、何も分からない。判断できる材料もない。だから情報をかき集めている最中なのだ。素直にそれを言うわけにもいかないから、該当しそうな単語を模索したら、幼稚な回答が思わず出てしまったのだ。
アロルドはさらに険しい表情でミリアをにらみつけた。その視線に、胸が締め付けられる。
そして、深いため息をつく。
「早く部屋に戻れ」
それだけを言い捨てて、踵を返し、暗い廊下の奥へと消えていった。
お前とは話もしたくない、そんな思いがあふれ出ている男だった。
それにしても。
(あのピンクのプレートはどういう意味があるんだろう)
プレートの色には何か意味があるはずだ。必ず、そこには法則があるはずだ。
そうでなければ、この世界で、何を信じたらいいのか全く分からなかうなってしまう。
希望も込めて、私はプレートの色に関して思いを巡らしていた。