01 始まりの直前(3)
少しの間床の食事を見下ろしていた私は、そっと、パンに手を伸ばした。
ボウルを満たしていた腐った水を思い出す。
口の中にも入り込んだあの水が、あの色で、無味無臭だったのだ。
昨日の鞭とたわしを思い浮かべ、そっと、自分の肩を抱く。
何かが、足りない。
自分の体から、何かが失われている。
もう一をパンに手を伸ばす。指先で持ち上げ、見つめた。
どう見ても腐ったパン、鼻に近づけてもにおいはない。
こういう種類のパンかもしれない。
そんなわずかな期待を無理やり考えて、私は少しだけ、かじってみた。
腐った感じは、分からなかった。
味も分からない。
私はパン好きだったのに、いろいろなパン屋を食べ歩きお気に入りを見つけるほどに、そのお気に入りの店をリスト化してファイリングするほどに好きだったのに。かみしめた時の小麦の味と甘みを分析するほど好きだったのに、今は、その小麦の味を感じない。
パンが悪いのか、それとも自分がおかしいのか。
パンらしきものは、どれだけ噛んでもパサついていて、口の中の水分を奪っていく。
サイドテーブルに置かれたコップには、ボウルの中の水と同じようなものが入っていた。
でも。
(ここに水分はこれしかない)
なんとなく、これもきっと味はないのだろうと、確信めいたものがあった。
だから、一気に飲み干した。
喉を通っていく液体。水分というだけで、私の体は受け入れたようだ。
ノックもなしにメイド服の女が入ってくる。
サイドテーブルと、その下に広がる床を見て、目を丸くしていた。
「食べたんですか」
驚いている。
食べるように言い放ち、持ってきた本人が、私が食べたことに驚くなんて、おかしいだろう。
「はー、めんどくさい」
そう言葉を吐き捨てながら、皿を片付けていく。
ふと、メイド服の女の頭上に四角いプレートのようなものが浮いていることに気が付いた。
ほんのわずかだが、光を放っている。なぜか今、目の前の光景とはかみ合わないと感じた。中世ヨーロッパの世界の中に割り込んできた近未来装置のように、異質な存在感を放っている。
(そうだ、ここは中世ヨーロッパ、っぽいんだ)
ようやく、室内の情景にあった情報を得た気がした。
四角いプレートは半透明のようだ。そして何か文字のようなものが書かれている。
じっと見つめると、その文字らしきものが一瞬消え、再び浮き上がったときには日本語に変わっていた。
一番最初に「マレンダ」と書かれている。
この女の名前だろうか。
確かめる術がなかった。
女は忌々しそうに私をにらみつけ、部屋から出て行った。
それから丸一日、部屋にはだれも来なかった。
朝に腐ったパンとスープが運ばれたきり、食事らしい時間もない。
日が暮れて室内が暗くなっていく。
この部屋には電気がない。
多分、この「世界」に電気はないのだろう。
情報を整理しようと考え続け、昨晩のことを思い出すうちに、歩かされた廊下が暗かったこと、揺らめく明かりは蠟燭だろうと予想でき、顔を洗うためのボウルが運ばれたのなら、水道設備が整っていないということだ。
映画で見る世界が、ここに広がっている。といって、私が知り得る「場所」はまだ、この室内だけだが。
薄暗くなっていく室内が、いずれ暗闇に閉ざされるかと思えば、そんなことはなかった。
現代社会と違って電気がないのだから、夜を無理やり照らす明かりがないということ。
私は部屋の窓を開け、夜空を見上げた。
暗い夜空に輝く満天の星。
生まれて一度も見たことがない、星の照明は、私の影すら作り出すほど、輝いている。
(きれい)
思ったことが言葉には出ない。
どんなに頑張ってみても、相変わらず、声が出せないままだった。
ここはいったい、どこなのだろう。
この体は自分の体だろうか。
うつむくと垂れ落ちてくる髪は、灰色だ。
日本人らしい黒髪ではない。時間とお金をかけて施術している、最近お気に入りのチョコレートブラウンでもない。
何より、私はショートボブヘアだ。髪を腰まで伸ばしたことは一度もない。
顔を手で触ってみる。
確証はないが、どこか自分の顔のつくりとは違っている気がする。
(それに、あのプレート)
メイド服の女の頭上に浮いたプレートを思い出す。
女の名前が書かれていた。その下に分が続いていたが、読む暇はなかった。
何が書かれていたのだろうか。
他の人にもあのプレートがあるのだろうか。
自分の頭上にもあるのだろうか。
頭の上を手で探ってみるが、何かが当たる感触はなかった。
確かめるすべがない。
(朝になったら、何か分かるかも)
そう考えて、私は静かに窓を閉めた。
3日間、自分に起こる出来事をとにかく受け身で待ってみた結果、分かったことはわずかでしかなかった。
まず、朝は必ず誰かが水の入ったボウルとタオルを持ってくる。
水はもちろん腐った水だ。
抵抗なくその水で顔を洗うようにすると、メイド服の女たちは、何もしてこなくなった。
そして、腐った朝食を持ってきて、床にぶちまける。
その食事らしいものも、何も言わずに食べると、次からは食事は皿の上に乗ったままになった。
腐っているらしい状態は変わらない。
だが、においも味も感じないから、食べることは可能だ。
食べた後に多少吐き気とおなかの違和感を感じる程度で、死ぬほどではないことも確認できた。
そして、そのあとは一日、だれも来ない。
2日目の昼間に、一度だけ部屋から出てみたが、すぐにメイド服の女に見つかり、ものすごい剣幕で腕をつかまれ、部屋に戻された。部屋に入った瞬間に突き飛ばされ、女がわめき散らす。
「公子様たちのお目に触れたらどうなさるおつもりですか!公子様のお目を汚す気ですか!」
こうしさま、がよく分からないが、とにかく私は汚いもので、部屋から出てはいけないのだと認識されていることは分かった。
不思議なのは、そこまで言うのに部屋に鍵がかけられていないということだ。
鍵がかかっていないなら、出入り自由ではないのか、と思うが、違うらしい。
そして、その日の夜、三人の女が鞭を手に、私の部屋にやってきた。
「これから正しい行動をしていただくために、躾をいたしませんとね、お嬢様」
三人の女は、それは楽しそうに笑っている。
彼女たちの頭上には、それぞれ1つずつ、プレートが浮かんでいた。
書いてある文字は、日本語だ。
半透明のグレーのプレートには、名前と、彼女たちの経歴が書かれているようだ。
『東部の領地の男爵家に生まれる。12歳でメイドとして中央都市のリーベック子爵家に入り・・・』と、文が続く。
(ん?57歳ではやり病にかかり死亡?)
見た目からすると、この女はまだ20歳前後だろう。
(もしかして、過去未来すべてが書かれてる?)
他の二人のプレートも見てみると、やはり生まれてから死ぬまでが簡潔に書かれていた。時系列で、内容は的確で、回りくどい表現も一切ない。報告書としては完璧だ。
(部下に見せたい教科書だわ)
感嘆する。
(って、そんな場合じゃなかった。どうして未来らしいことまで書かれてるんだろう。これって本当の内容?)
それを確かめるすべはなかった。
背中に当たる鞭の振動を受けながら、私はぼんやりと考える。
背中に当たる衝撃で床に倒れこむと、鞭がやんだ。
女が息を切らしながら嘲笑った。
それに呼応するように、他の二人も笑う。
こんなことで体力を使って、暇だと思う。忙しいと言いながら、くだらないことに精を出しているのだから。
また鞭が振るわれた。
今日は長くなりそうだと思った。
いつ終わるのだろうか。
ただ終わりが来ることを待ちながら、私は蹲って耐えるしかない。
背中の痛みが感じないことへの恐怖から必死に背を向けて、女たちが飽きる時を待ち続けた。
そしてまた、朝が来る。
自分に起こる「事」は変わらない。
腐った朝食と、夜の鞭。
ここで私に起こる出来事は、その二つだけだった。
会議、終わってるよね。
遠のいた出世を思い返しては、鬱々とした感情にとらわれていく。
朝が来るたびに、ここが自分のアパートの一室ではないことに絶望が深くなっていく。
夢ならいつ覚めるのだろう。
ここは本当に夢なのだろうか。
私は一体「だれ」なのだろうか。
重要なことは、何も分からないままだった。