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01 始まりの直前(2)

「聞いておりますか!」

 女の金切り声で、気が付いた。

 薄暗い室内、壁でゆっくりと揺れるほのかな明かり。

 ろうそくの明かりだと、分かった。

「さあ、躾のお時間ですよ、お嬢様」

 薄ら笑いを含む女の声、折り重なるように笑いをかみしめる女の声。

 室内には数人、女がいるのだろう。

 予想でしかないのは、目の前にいないから。

 全員、私の背後にいるようだった。

(ここはどこ?)

 見知らぬ室内に、私は立っていた。

 ベッドで寝たはずなのに。今はまだ朝ではないだろうに。

 背後にいる女たちにも心当たりはない。

 不法侵入者か、もしくは、私が不法侵入者となっているのか。

 心臓が跳ね上がる。こわばった体に何とか力を込めて、振り返ろうとした。

 バシッ。

 背中に何かが当たった。

 バシッ。

 また、当たった。

 女の笑い声が色濃く響く。

「まったく、悪いのはお嬢様なのですよ。公子様にご無礼を働いたのですから」

 また、連続で何かが当たる。

 音は鋭いが、不思議と、痛みは全くなかった。

 頭の中には、警告音が鳴り響いているかのように、頭痛がひどくなっていく。

 振り返ってはいけない、そう感じた。

 だから、ただ立ち尽くしていた。

 ひとしきり丁寧な言葉づかいで罵声を浴びせながら何かを私の背中に当て続けた女は、ぴたりと、止まった。

 それがどれだけの時間だったのかも分からない。

 背後で息を切らして、満足げに深呼吸をする女の気配があった。

「さあ、お体をきれいにしましょうか」

 ねっとりと優しい口調だが、悪意がこもっている。

 背後から突き飛ばされて、私は床に倒れこんだ。

 床は、レンガを引き詰めたように、ざらついて、硬くて、冷たかった。

 前触れもなく、頭上から水の塊が落とされた。

 けたけたと笑う女の声が、3種類。

 三人いるのだろう。

 この展開は、昼ドラか。

 頭の中は疑問符だらけだ。

 一番疑問なのは、水の冷たさを感じないことだった。

「さあ、しっかりと洗って差し上げますよ」

 声とともに、腕をつかまれた。倒れたままの上半身を無理やり引き起こされる。

 ようやく、声の主が目の前に現れた。

 やはり、女だ。

 それもおそろいのメイド服らしい格好の女が三人。ニタニタと笑って見下ろしている。

 その手には、たわしが握られていた。

(まさか、あれでっ)

 とっさに逃げようとしたら、肩を床に押し付けられた。

「手間かけさせるんじゃねーよ」

 女が叫ぶ。

「あら、申し訳ありません、お嬢様。つい興奮しちゃって」

「さあ、きれいにして差し上げますからね」

 無理やり上衣をはぎ取るように引き下ろされる。

 背中をたわしでこすられた。

 力任せに、何度もたわしが背中を往復する。

 私の頭はパニックに陥っていた。


 どうなっているの?


 叫びたいのに、声が出ない。


 どうして、痛くないの!


 ただ、されるがまま、私は茫然と、すべての行為を受け入れるしかなかった。


 一連の行為が終わり、濡れたからだそのままに連れていかれた部屋、その部屋の壁にすがるようにうずくまり、私はひたすらに考えた。

 先ほどの女たちは、部屋に私を放り込むと、笑いながら去っていった。

 部屋には私一人だけ。

 外から差し込む月明りで、ぼんやりと見える室内は、家賃12万円のマンションよりも広く、豪華だった。

 絨毯も、ベッドも、サイドテーブルも、高級アンティークのようなデザインだ。

 だけど。

(それしか置かれていない)

 広い室内には、それしかなく、ただ広いだけの空間だった。

 居場所がないから、壁際にいるしかない。


 ここはどこだろう。

 さっきの女たちは何なんだろう。

 また来るだろうか。

 他の誰かが来るだろうか。

 私のベッドはどこにいってしまったのだろうか。

 明日は休みだけど、あさっては仕事なのに、帰れるだろうか。

 会議の書類、あと少しで完成だったのに。

 明後日に間に合わなくなってしまう。

 一つでもミスをすれば、せっかくつかめそうな執行役員の座が遠のいてしまう。

 なにより。


(背中が熱い、気がする。でも痛くない)

 そのことが一番怖かった。

 体を引き起こされたときに、一瞬視界に映ったものを思い出して、私の体は震えた。指先が目に見えて震えている。その震えが止まらない。

(あれは、鞭だ)

 あんなもので背中を叩かれていたのだ。

 それなのに、今も痛みが感じられない。

 自分の背中がどうなっているか確かめたくなった。

 立ち上がり、室内を歩いてみる。

 なぜか、この部屋に鏡がなかった。

 唯一の扉に手をかけて、ひっこめた。

 この部屋から出たら、何が待ち受けているのか、怖かった。だから、ドアを開けることができなかった。

 また、先ほどまでうずくまっていた場所まで戻る。

 ドアから一番離れた壁際、自分の体を抱きしめるようにうずくまった。


 これは夢だ。

 だって、痛みがないから。

 夢か現実かを確かめるとき、だいたい体に痛みをあたえているじゃないか。

 痛ければ現実、痛みがなければ夢。

 ならば、痛みはないのだから、これは夢に違いない。

 もう少ししたら目が覚める。

 いつもの自室、少しごみがたまった私の部屋。

 予定のない休日、会議の資料を作って、あさって出社して。

 朝からやるべき仕事を順序だてて考えていく。

 そうすることで気持ちが落ち着いてきた。

 早く朝にならないかな。

 ぐうたら寝るのが好きだったはずなのに、今は、朝が、待ち遠しい。


 ガチャリ。

 突然ドアが開く音で、私の体は硬直した。

 恐る恐る顔を上げ、ドアのほうを見る。

 昨日と同じメイド服を着た女が入ってきた。

 手にボウルを抱え、腕にタオルをひっかけている。

 室内は、いつの間にか昇った朝日の光が差し込み、明るくなっていた。

 私をちらりと見て、メイド服の女が鼻で笑った。

 昨日の女と同じ女だろうか。分からなかった。

 ただ、まだ夢の中なのだということだけは確かだろう。

 女はサイドテーブルに手に持っていたボウルを置いた。タオルを床に落とす。

「さあ、早く顔を洗ってください。すぐに食事をお持ちしますから」

 面倒だと言わんばかりの言い草だ。

 女は部屋から出て行った。

 そろりと立ち上がり、私はサイドテーブルににじり寄る。ボウルの中を覗き込んで、吐き気がこみあげてきた。

 中の水が腐っている。薄黒く濁り、判別できない何かがぷかぷかと浮いている。

 さっきの女は「顔を洗え」と言った。

(これで?うそでしょ)

 言葉が出ない。

 ガチャリ。

 また前触れなく、メイド服の先ほどの女が入ってくる。

 私の顔を見るや、盛大な溜息を落とした。

 母親顔負けの派手な演出だ。

 女は何も言わず、私の頭をつかむと、ボウルの中の液体に私の顔を沈めた。

 突然のことで驚いて叫ぼうとして、口に液体が入り込んでくる。

 力いっぱい体を起こすと、先ほどよりも強い力でまた、頭を押さえつけられた。

 息ができない。

 もがくと、頭から手がどけられた。

 勢いよく顔を上げると、ニタニタと笑う女が私を見下ろしていた。

「手間かけさせないでください、お嬢様」

 女は床に落としたタオルを、私に投げつけた。

 これで拭けということだろうか。

 あの液体が顔についたままなのが嫌で、私は黙ってタオルで顔を拭いた。

 そんな私を見下ろしていた女は、満足げに鼻を鳴らす。

「さあ、早く食べてくださいね。みんな忙しいんですから」

(食べる?)

 食べ物がどこにあるのかとあたりを見回すが、それらしいものはない。

「はぁ、手間ばかりかかる」

 女は嫌そうに言った。だが、声は笑っている。

「ほら、朝食ですよ、お嬢様」

 女がサイドテーブルに手を伸ばすと、お皿を一枚取り上げた。

 そのお皿を傾けると、床に何かの塊が落ちてくる。

(何?)

 まじまじと見る。青みがかった斑点と黒ずんだまだら模様、形状からするに、パンだ。

(く、腐ってるっ、絶対腐ってるっ)

 コロンと転がるその物体を見つめた。

 だが、女の行動は止まらない。

「ほら、今日は特別にハムもあるんですよ」

 そう言って、女は別のお皿を取り上げて、私の頭上でひっくり返す。

 ぼとりと落ちてきたのは、紙よりは厚く切られた、茶色いもの。見ただけでねばついていて、腐っている存在感が強調されている。

 さらに降ってきたのは、ドロッとした液体だ。これも茶色く黒ずんでいる。腐ったパンとハムの上に、ソースのようにかけられた。皿の上ではなく床の上に。

(あ、ここは絨毯がひいてないんだ)

 冷静になってきた頭で気が付いた。

「さっさと食べてくださいね」

 女がドアに向かって歩き出す。

 ドアに手をかけて、振り返った。にたりと笑う。

「全部きれいになめとるんですよ、お嬢様」

 そう言って、部屋を出て行った。

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