泡になって消えたあの人
毎週土曜日の夜、1万文字以上、2万文字程度の百合短編を投稿しております。
日本の女子高生と、異国のお姉さんの年の差百合…を書こうとしたのですが、
気付けば違う話になってしまいました。
百合には百合なので、ご容赦ください。
時間ぎりぎりになった上、あまりまとまりのない話になってしまいましたが、
見てやってもいいぞ、という心優しい方は是非、ご覧になってください!
では、拙い文章にはなりますが、週末の暇つぶしにでもどうぞ!
(1)
四角い窓の向こう、青空を反射する海岸線の上空を海鳥が何羽か舞っていた。
地平線に立つ、白い綿飴みたいな入道雲を見ていると、鼻の奥がくすぐられるような気持ちになる。
夏の匂いがしている。
アスファルトの焼ける臭い、田んぼに注がれる水の香り、じっとりとした雨の匂いも、どこからか漂ってきているような気がする。
もう一度、海のほうへと視線を向ける。寄せては返す砂浜には、誰が引っ張ったのか、何本ものラインが描かれている。
すぅ、っと線路みたいに伸びたラインは突き出た半島のほうまで続いており、そこから先は見えなくなっていた。
これだけ綺麗な海なのに、人はまばらで、水着の人間など誰もいない。もうお盆も過ぎて、海月が出る時期だから、誰も泳がないのだ。
釣り人と、波間に自分の時間を捧げることを選んだ人間だけが、ちらほらとそこには立っていた。
やがて、横から飛び出してきたようなトンネルに阻まれて、海は視界から消える。
電車の中で吊り革に掴まってじっ、と海を見つめていた水町鴎は、ゆっくりと瞬きをすると、少しの間だけ暗くなる車内の広告を見ているふりをして、目線を列車の進行方向に向ける。
白い光が暗闇の先で輪を作っており、楽園への入り口のように輝いて見えた。
トンネルはそろそろ抜けそうだ。
十秒ほどして、窓の先にまた青々とした海原が広がった。
ちょうど今なら、潮が満ちる時間帯だ。潮騒の音を聞きながら、あの人の元へと行く。
今日こそ、声をかけるぞ。
水町はいつもいつもそうやって、心の中で同じ決心を固める努力をしながら、最後の最後にそれが出来ずに終わっていた。
車内に車掌のアナウンスが響く。目的地に到着するとなると、心臓がきゅっと収縮してしまうが、本当に今日こそはと、水町は考えていた。
緩やかに列車がスピードを落としていく。駆け抜けていた景色も、それに合わせて歩調を緩めてくれるのが、なんとも優しい。
話は戻るが、水町はもうすでに、二回ほど失敗していた。
三度目の正直という言葉に心を奮い立たせてもらい、水町は扉が開くのを待ってから、焦らず慎重に駅のホームに降り立った。
水町以外は誰も降車することのなかったホームは、駅員のいない無人駅だった。
錆びたフェンスで隣接する防風林と隔てられた駅に、潮風が吹き込む。風が強いからか、満潮が近いからか、海の匂いがかなりはっきりと漂って来ていた。
駅から移動するには、線路を直接跨がなければならない。こういうところが田舎の駅っぽくて、水町は嫌いではなかった。
半年も経てば、大学生活が始まり、人でごった返す駅に降り立つ日々が始まるのだ。それを思えば、なおのこと、今みたいな閑散とした空気が魅力的に見えるものだ。
目指している大学は決まっている。学びたいことだってある。ただ、田舎育ちの自分は、都会の暮らしなんて、想像しただけでも息が詰まりそうだった。
まあ、今から落ち込んでも仕方ない。
それよりも大事なことが、もう目と鼻の先まで迫っているではないか。
携帯で運賃を支払って、一直線に海岸のほうへと向かう。
照りつける日差しは何の躊躇もなかったが、港町で育ち、人並み以上に快活に遊び回った水町の前では、大した弊害にはならない。
堤防沿いに歩き、下りられる場所まで移動する。遮るもののない潮風に、水町は目を細めた。
下に行けば行くほど、一段一段が砂にまみれる石の階段を、テンポ良く、スキップするようなリズムで下りる。視線を半島のほうへと向ける。
ここから100m以上離れた先に、大きな松の木がある。海が荒れているときも、穏やかなときも見守っている松の木陰に、一つの人影があった。
あご紐で、麦わら帽子を頭の後ろに引っ掛け、手元を細々と動かしている彼女の姿を見て、水町は立ち止まった。
良かった、今日もいた。
太腿を叩いて気合を入れ直し、また動き出す。
かける言葉をあれこれと考えているうちに、距離はあっという間に縮まった。
大声で挨拶をすれば、普通に返事をしてくれる間合いだが、やはり、自然な距離まで近付いてからだ。
相手と良好な関係を築くには、第一印象が肝心だと、何かの本で読んだ。
笑顔で、爽やかに。滑舌良く、スマートに。
この日のために新調した、イエローのサマーワンピースの裾を握りしめる。
タンクトップに半ズボン、というラフな服装を好む水町が、普段ならば絶対に着ない服装だった。実際、今友人に目撃されれば、キャラではないと揶揄されるだろう。
だが…。例え、少女趣味と言われようと、今日ばかりは外せない。外せないのだ。
つまり、水町の普段とは違う装いも、ある意味で決意の表れとも言えるものであった。
10mほどの距離まで近づくと、彼女のほうが顔を上げた。こんなにも近くまで寄ったことはなかったため、初めて、彼女をまじまじと見ることが出来た。
私の焼けた肌とは対照的で、透き通るように白い肌。日本人には見られない青白さは、日陰に咲く花とそっくりだった。
すっと通った鼻筋、白いシャツの裾から伸びた長い手にはスケッチブック。
モスグリーンのカーゴパンツのだぼつきに負けないすらりとした足。
そして、色素の薄いウェーブのかかった金髪と、知性のみなぎった灰色の瞳。
ロシア(多分)の血脈を感じられる彼女には、外国人独特の近寄りがたさを十分に備えた雰囲気があった。
二ヶ月ぐらい前に、初めて彼女をこの浜辺で目撃したとき、水町は、そこに海の妖精でもいるのかと本気で疑った。
それほどまでに、彼女の美しさは現実離れしていた。
絵画か、スクリーンの中からこっそりと抜け出してきたとしか思えない彼女に声をかけたくて、水町はもう二度ほど、この場所を訪れていた。だが、そのことごとくが度胸のなさのために失敗に終わっていた。
しかし…、今回こそは。
顔を上げた彼女と、しっかり目線を合わせる。
心の中でカウントする。一、二の、三で声をかけるのだ。
ぎこちないながらも、微笑を浮かべる。普段の自分なら絶対にしない、優雅さを気にした仕草だ。ちゃんと出来ているかは別として。
声をかけるべく、息を吸った。海岸沿いに流れる熱い潮風が肺に滑り込むとほぼ同時に、言葉を発する。
「は、ハロー?」
言った。
とうとう言ったぞ…!
アクセントだとか、使い方だとかは、この際どうでもいい。
勇気を出して声をかけたこと――計画していたのに、二ヶ月もの間出来なかったこと――が重要で、評価に値するのだ。
そうはいっても、相手の反応はもちろん気になる。彼女が灰色の瞳を丸々と見開いていたから、なおさらのことだ。
急に話しかけられて、警戒しているだろうか。だが、今はとにかく相手の反応を待つしかない。
そうして心の準備を整え、中途半端にはにかんだまま静止していた水町に向けて、妖精は困ったような控えめな笑みと共にこう言った。
「こんにちは、お嬢さん」
「…あ、こんにちは」
「今日も、日差しが強いですね。お散歩ですか?」
「まぁ、そんなところです」
まさか、彼女がこんなにも日本語が流暢だとは、思いもよらなかった。勝手な外国人のイメージで、カタコトを想像していた水町は、何だか出鼻をくじかれたような気持ちになった。
水町の、そういうそぞろな様子が伝わったのか、女性はやはり困ったような顔で笑い、潮風に吹かれる髪を片手で抑えた。
「思ったよりも、日本語が上手だったかしら?」
顔に出ていただろうか、と恥ずかしくなった水町は、初めて視線を逸らした。
「はい」
「まーしーです」
「え?」聞き慣れない言葉に顔を上げる。
「私の名前です。マーシー。マーシー・ストレイド」
そう言って差し出される白魚のような右手に、慌てて応じる。
外国人のアクティブさはすごいな、と改めて水町は感心した。
単に、日本人が控えめすぎるのかもしれないが、通りすがりの人に声をかけられて、自分から名前を名乗り、握手を求めるなんてことは、とてもではないが自分には出来そうにない。
「水町かもめです。初めまして、マーシーさん」
「マーシーで構いませんよ」
「え?いや、それはちょっと…」
さすがに難しい。なぜなら、マーシーは明らかに自分よりも年上だったからだ。後になって知ることだが、マーシーの年齢は二十七歳で、ちょうど今の自分よりも十歳は年上だった。
「ああ、そうですね。ごめんなさい。日本の方は礼儀正しいのでした」
そういう意味でもないだろうが、とりあえずは愛想笑いをしておく。
水町は彼女の知性の溢れる瞳を覗き込みながら、これからどうしようか、と悩んでいた。
当初の目的は、彼女、マーシー・ストレイドと言葉を交わすことにあったため、それに関しては達成したといえる。
だが、水町は話しかけた後のことについてはノープランであった。なので、握手をしたままの右手を外すことも出来ないまま、マーシーと無言で見つめ合った際に、挙動不審な様子で何度も瞬きをしてしまった。
何か話題を、とは考えるが、外国人と話すのに適当な話題なんて、学校では習わない。
もちろん、漁で魚を獲ることばかりを考えている両親、祖父母も、そんな気の利いたことは一切教えてくれなかった。
しかし、マーシーの手元を見たときに、格好の話題があったことを思い出す。
「あの、絵がお好きなんですか?」
松の木漏れ日を白い頬に受けたマーシーが、少しだけ驚いたように眉を上げる。自分が同じような仕草をしたとき、こんなふうに品があるように見えるだろうかと疑念を抱く。
理由は分からないが、マーシーは何かを迷うように一瞬だけ視線を逸らした。
すぐにまた水町のほうを見たので、大きな違和感はなかったものの、気品の良さの中に、凛とした鋭さを備えていた瞳が揺らいだのは、多少なりとも不思議ではある。
開いていたスケッチブックをゆっくりと閉じながら、マーシーが言う。
「好き、ですね。そう、好きなんだと思います」
奇妙な表現をする。自分の好きなことすら、好きだと断言出来ないのだろうか。まあ、改めて尋ねられると、困ってしまうということなのかもしれない。
「マーシーさんは、いつもこの海を描いていますよね?海が好きなんですか」
質問攻めしているようで、鬱陶しいだろうか。
「え?」と彼女はまた目を丸くした。表情が豊かだという印象を受ける。「今までご覧になられていたのですか?」
「あ…」
水町は顔を赤くして片手で顔を隠す。
しまった、これでは盗み見ていたことを自分で暴露しているようなものだ。彼女はどう思うだろうか。
マーシーは、言葉に詰まった少女をじっと観察するように見つめると、ふっと破顔した。
その綻んだような表情は、素のマーシーを表しているような気がして、思いがけず嬉しくなる。
「変わった子ですね、かもめ。私が珍しかったですか?」
えっと、と呟いた後、観念したように肩を竦めた。ただ、内心は彼女に名前を読んでもらえたことで小躍りしそうだった。
「はい。結構この辺では有名なんです」
「何がですか?」
「マーシーさんが、です」
アジア系の外国人は、この港町でもそう珍しくはない。技能実習生として来日しているベトナム人などが、行きつけのスーパーでも見られる。
だが、ロシア系となると話は別だ。観光客が訪れるような場所でもないため、大変珍しい。
「あぁ、やっぱり目立ちますか」
「そうですね、あの、ロシアの方ですか?」
「ええ、よくお分かりで」
「映画をよく観るので、その、たまたま…」
本当は、映画を見るのはよっぽど暇なときだけだ。もっぱら家の手伝いか、学校の勉強で忙しい。こう見えても、水町は学校での成績は優秀な部類に入った。
なぜ、マーシーがロシア系だと分かったかというと、水町は、遠目から見た彼女の外見に近しいものを、ネットで検索していたのだ。
正直、自分でも少し気持ち悪い。
白い肌から、白人系だということは予測出来るが、それについての細やかな分類など、頭にはない。
そして、いくつかの写真を精査したうえで、『浜辺の彼女は、ロシア人だ』と結論づけたのだ。
まあ、そんなことはどうでもいい。
「少しでも馴染めるようにと、日本語も猛勉強したのですが…」
残念そうに笑うマーシーを励ましたくて、水町は大げさに手を振る。
「いえいえ!日本語はとてもお上手ですよ!ただ、そのぉ」
言いづらそうに言葉を中断した水町へ、途端に真剣な顔を向けたマーシーは、「はっきり言ってくださって構いません」と告げた。
どうやら彼女は、マイナスな方面で物事を捉えてしまったらしい。つまり、マーシーは自分の至らなさを指摘されると思ったのだろう。
だが、こうして向かい合ってみれば誰でも分かることだが、彼女は完全無欠のようにしか見えない。
整った目鼻立ち。
折り畳まれていても、長さが分かる細長くも、しなやかで筋肉質な手足。
凹凸に富んだ、グラマラスな体つき。
立ち上がってみなくては分からないが、おそらく身長も170cm以上は確実にある。
そして何よりも、激しい炎の後に残る、美しい灰のようなあの瞳が魅力的だ。
誤解も解きたかったので、とりあえず正直に伝えることにした。
「見た目が、目立ちすぎるんですよ。人の目を引きすぎます」
「えっと、なるほど」あまり分かっていない様子だ。
「ここは、漁を終えて港に戻ってくる船からよく見えます。だから、父が――あ、漁師なんですけど、父たちが話しているのを聞いたことがあるんです」
「なんと?」
「えっと…、人魚がいるって」頬をかきながら水町が答える。「…人魚ですか」
こくりと頷きながら、水町は心の中で彼女に謝っていた。なぜなら、少しばかり嘘を吐いてしまったからである。
父たちが噂をしていたのを聞いた、というのは正確には嘘だ。
『人魚がいた』というのは、水町自身が父の船の上で口にしたことだ。
彼女の目には、砂浜に腰を下ろし、松の木陰で絵を描くマーシーの姿が、異様なまでに美しく映ったのだ。
そうして大はしゃぎしていた水町へ、彼女の父がいつもあそこにいるということを教えてくれたことが、事の発端だった。
褒め言葉のつもりで、マーシーにそれを伝えた水町だったが、彼女は眉をひそめると、申し訳無さそうに肩を落として言った。
「それは申し訳ないことをしました。みなさんを怖がらせてしまうなんて」
「ち、違くて!」
ロシアの人に、人魚は怖いものなのかもしれない。むしろ、こちらが謝らなければならない状況だ。
「マーシーさんが…、綺麗すぎるって…」
尻すぼみになっていく言葉を耳にしたマーシーは、今日で何度目かになる驚きの表情を浮かべた後、黙って海のほうを眺めた。
踊る白波を見つめる彼女は、賞賛の言葉を受けたというのに、喜ぶどころか、むしろ表情を曇らせてしまった。
まるで、海の向こうに残してきた悲しい記憶を想い起こしたような、哀愁のある表情だった。
何か余計なことを言ったかもしれない、と水町がしゅんと俯いた直後に、マーシーが朗らかに笑った。
「ありがとう。嬉しいですが、少し照れますね」
相変わらず美しい笑顔だったが、自分を変わった子だと評したときの笑顔とは違って、どこかまやかしであるような気が、水町はしていた。
(2)
土曜日は学校の授業も半日ほどしかない。昼前頃には終わる。そのため水町は、学校が終わり次第、またあの砂浜に行こうと考えていた。
だが、教室を出て、廊下を歩いている最中の水町の背中を呼び止めるものがいた。
「かもめ!」強い語調だった。
振り返ってみてみると、声だけでなく、顔もどこか苛立っているような友人――朝比奈透が、腰に片手を当てて立っていた。
身長が大して変わらないため、視線は水町とほぼ平行に交わる。
明らかに物言いたげな顔つきにうんざりしたが、水町は一応足を止めて返事をする。
「お疲れ、透」
「『お疲れ、透』じゃないよ。今日もまっすぐ帰るの?」
「まぁ、そんなとこ」適当に受け流す。「嘘、アンタ、例のマーメイドのところに入り浸ってるって聞いたんだけど」
水町はその一言を受けて、小さく息を吸い、顔を逸らしながら吐き出した。面倒なことになった、と彼女の全身が告げている。
「誰、そんなこと言ってるの」
「アンタのお父さん」
どこか勝ち誇った様子で答えた朝比奈を見て、水町は、「最悪」と独り言を発した。
朝比奈とは幼馴染だった。幼稚園の頃から仲が良い。その理由としては、彼女の父親と水町の父親が共に漁をする間柄だったことが挙げられる。
親も含めて親交の深かった水町と朝比奈は、良くも悪くも、互いの情報が親を通して伝わってしまう関係にあった。
例えば、水町が現代文と公民のテストで満点を取ったとか、朝比奈が水泳の大会で新記録を出した、とかならまだ良い。
だが、水町が男子生徒からの告白を無下にしたとか、朝比奈が早弁して先生に怒られ、恥をかいた、とかは知られなくていいことだったと彼女らは思っていた。
もちろん、今回のマーシーの件も同様だ。
水町は不満さを隠すことなく朝比奈を見返した。幼い頃にはなかった自らのテリトリーに踏み込まれ、気分を害したのだ。
昔は、唯一無二の親友である朝比奈とは、好きなものは何でも共有していたいと思っていた。しかし、今ではそれを望まない自分がいることに、水町はだいぶ前から気付いていた。
誰も奪ったりしないし、そもそも自分のものでもない…。そういう類のものでも、誰にもばれないよう、自分の懐に隠していたい気持ちに駆られるのだ。
「…今日も、行くつもりなの」そう言って、朝比奈は睨み返した。
気心が知れているゆえの、無礼な態度。分かってはいても、気持ちの良いものではない。
「そうだけど、何か問題でもあるの」
「あるし」食い気味の返事だった。「勉強、見てもらわないと」
「そんなの、違う人に頼んでよ」
勝手がすぎるだろうと、顔をしかめる。
立ち止まった二人を追い越していく生徒たちが、少々物々しい雰囲気になっている彼女らを不安そうに見つめていた。ただ、朝比奈と水町の顔を確認すると、「またか」と苦笑いして去っていった。
「…かもめの教え方が、一番分かりやすいの」
つんとした口調で、そっぽを向いている朝比奈は、とてもではないが人にものを頼む態度ではない。
「知らないよ、そんなの。だいたい、授業中に寝てるのが悪いんでしょ」
一日に一度は必ず、机の上にうつ伏せになっている姿を見ることの出来る朝比奈は、痛いところを突かれて言葉を詰まらせた。
塩素で色がかすかに抜けたポニーテールを、落ち着かない様子で触った彼女は、趣味が悪いことで定評のある水色の制服のスカートを、ぎゅっと握る。
「それはそうだけどさぁ」
「自業自得。じゃ、そういうことで」と背中を向けながら、手をひらひらと振る。
「あ、ちょっとぉ!それが幼馴染にする態度なの?」
「今度、暇なときにね」
すたすたと歩き出した水町に向かって、朝比奈は頬を膨らませた。恋人にわがままを聞いてもらえなかったみたいに、無自覚な甘えの含まれた不満さが滲んでいる。
「馬鹿かもめ!いつ暇になるのよぉ!」
「雨でも降れば、確実に暇」
マーメイドに対して、明らかに自分の優先順位を低くつけられていることが分かる言葉に、朝比奈は激昂して叫んだ。
「死ね!」
生徒が何事かと彼女らを見守る中、水町は時間を確認して、小さくため息を吐いた。
時計の針はすでに、のんびりしていては次の電車に間に合わない時間を指し示していた。
いや、走れば間に合うかもしれない。
すっかり水町の頭の中は、学校から何駅も先の海岸のことに夢中になっており、背後でまだ何か喚いている幼馴染のことも、スタートまで半年をきった新生活のことも、弾けた泡沫のように消えていた。
(3)
潮風の臭いに混じって、すぐ隣から漂ってくる、香水の甘ったるい香り。
それを嗅いでいるだけでも、ほっとするような多幸感を覚えて、水町は立てた両膝の間に顔を突っ込んだ。
ふわり、と頭の上に何かが乗った。手で確認してみると、麦わら帽子だということが分かる。夏も終わったのに、マーシーはこれを愛用していた。
「付き合わせてすみません、かもめ。一段落したら、どこかお茶でも行きましょう」
「え?あ、いえいえ、とんでもない。大丈夫です、そのぉ、私は好きでここにいるんですから、お気遣いなく…」
そう、主に貴方のことが。
自分も女だ。美しいものに惹かれ、憧れ、そばにいたいと思う。それはとても自然なことだろう。
マーシーと関わりを持つようになって、すでに二ヶ月が経つようになっていた。
夏の抜け殻から飛び立とうしている秋が、目の前に来ている。
そうして知っていく、マーシーに関する様々なことが、少女の胸の中ではとてもきらびやかに輝いて見えていた。
例えば、マーシーの描く絵。
彼女は、こうして海を見ながら描いてはいるものの、実際に描いているものは、写実的とは言い難いものだった。
海が赤く燃えているときもあるし、逆に凍りついているときもある。
たくさんの人がいるときもあるが、誰一人いない、寂しげな海岸を描くこともある。
雷鳴が聞こえてきそうな嵐のときもある、穏やかに凪いでいるときも、
一番意外だったのは、どの絵にも必ずと言っていいほど人魚が登場しているという点だ。
ただ、ここでいう人魚は、水町が沖合から見たマーシーを称賛する際に使った『人魚』とはまるで違う。
どちらかというと、日本の妖怪に近い『人魚』だ。
ほとんど魚でいながら、顔は人間のような、鬼のような形相。
目が赤く光っていて、角がある様から、やはり怪物に近い。
人魚の言葉を聞いたマーシーが、どこか物憂げな表情をしたのも、もしかすると、自分が好んで描いている異形のことを思い出したからなのかもしれない。
確かに、これに似ていると言われれば、少々複雑ではあるが…。
あのときの彼女は、そんな刹那的な落胆ではなく、もっと、深い部分に横たわった悲しみに触れているような気がした。
水町がかねてからの疑問を上の空で考えていると、マーシーがおかしそうに笑った。
「本当に、かもめは変わった子ですね」
暇さえあれば足繁く通う水町のことを、相変わらず変わった子だと言うマーシーは、少しずつではあるものの緊張がほぐれていく少女を微笑ましく見守っているようだった。
彼女の柔らかな声に触れ、我に返った水町は、ついさっきマーシーが漏らした言葉を慌てて拾いなおす。
「あ、でも、一緒にランチは魅力的です…」
「それは良かった。お言葉に甘えて、キリのいいところまで仕上げますので、もうしばらくお待ち下さい」
そうして、マーシーを待つこと十五分。彼女が笑顔で、「おまたせしました」と告げてから、砂浜を離れ、海岸道路沿いにある近くのカフェテリアに移動する。
店の玄関口で砂を落とし、中に入る。愛想の良い初老の店主に頭を下げて席に着き、ブレンドコーヒーを二つ注文した。
飲み物が来るまで、水町はあらゆることをマーシーに質問した。
故郷のこと、好きな食べ物のこと、嫌いな食べ物、日本の好きなところ、今日の海のこと…。
マーシーは、どんなことでも穏やかに話をした。
厳しい冬のことを話すときも、暖かい暖炉を想像することが出来た。
馴染みのない異国の文化に翻弄される日々も、新鮮さを友にし、酒の肴にした。
地平線の遠くに浮かぶ望郷の念も、美しい景色として紙の中に保存した。
水町は、話を聞けば聞くほど、マーシーのことが好きになった。
外面も、内面も、十代の少女が一切持ち合わせない、研ぎ澄まされた品格を宿す異邦人は、彼女が思っている以上に、少女の中で大きな存在になりつつあった。
ただの憧れではない、夏の日差しすら打ち倒す、熱い感情。
それを自覚していない少女には、ブレンドコーヒーが運ばれてきて、マーシーが砂糖もミルクも入れずに液体をすする姿すらも、品位に満ちたものに見えていた。
「大人なんですね、マーシーさんって」
「ん、どうしてそう思うのですか?」
「いえ、私、コーヒーをブラックでなんて飲めません」とカップに張った、黒い水面を見つめる。
「ああ…」マーシーは苦笑いを浮かべると、すぐに首を左右に振った。「大丈夫です。いつかは、かもめにも分かるときが来ます」
「ブラックコーヒーの美味しさですか?」
「いいえ」と彼女はおかしそうに笑う。「砂糖やミルクを入れないことが、人間の心身の成熟にとって、無関係だということにですよ」
こういう言い回しが、水町は好きだった。
少し気取っている感じがしないでもなかったが、コーヒー片手に微笑む姿は、まるで美術館の絵画から飛び出してきたみたいに美しい。
まあ、美術館など行ったことはないのだが。
「そういうものですか?」と小首を傾げ尋ねる。「そういうものです」
片目を閉じてウインクして見せたマーシーに、胸がバチバチとする。
やっぱり、大人の女性というのは素敵だ。
彼女と共にいると、自分の不完全さが際立った。しかし、それすらもマーシーの無欠さを証明するものに思えて、かえって都合が良いとさえ思えた。
ふと、水町の頭に名案が浮かんだ。そして、それを口にするのに、今は絶好の機会だと思った。
「今度、友達と家族で、二つ先の山に紅葉狩りに行くんです」
「もみじがり?」と彼女は尋ねた。きょとんとした顔が、少しだけあどけなくて、可愛らしい。
そうか、外国人の彼女にとっては、聞き慣れない言葉なのか。水町は、紅葉狩りについてマーシーに説明した。
すると、彼女は驚いたふうに、あるいは感激したように声を上げた。しかし、すぐに顔を曇らせると、「ですが、私はお邪魔ではないですか?」と謙虚さが感じられる一言を発した。
「邪魔だなんて、とんでもない。むしろ、私はマーシーさんがいてくれたほうが嬉しいです。とっても楽しみになります。あ、その、無理にとは、言わないんですけど…」
尻すぼみになっていく声に、どうやら本心から口にされた提案だったようだと確信したマーシーは、やはり、しばらく逡巡してから、最後に遠慮がちな表情で結論を出した。
「それでは、喜んでお供します」
お供します、というのは、随分と浮世離れした言い方だと、水町はおかしくなる。
「ほんっとうに、ありがとうございます。マーシーさん」
破顔し、喜びを全力で表現しようとしているかもめに感化されたのか、マーシーもまた、上品ながらも心の底から笑って告げる。
「初デートですね、かもめ」
ちょっとした冗談のつもりだったのだろうが、その一言は、水町の青臭さの茂る心に波紋を残した。
茶目っ気たっぷりに再度、ウインクをしたマーシーを見ていると、顔が熱くなった。
何かから逃げるように視線を下げれば、カップの取手を握っている指先が、小刻みに揺れていた。
――…何だろう、この感じ。まともに、マーシーさんの顔が見られない。
(4)
秋の風は、自分たちが思っていたよりもずっと冷たい空気を山の表面に流し込んでいた。涼しい、というよりも明らかに、寒い、という表現のほうが適切な温度だった。
水町は、長袖とはいえ生地の薄い服装で来たことを、若干後悔していた。
赤や橙色に色づいた紅葉は、派手な絵の具で塗りたくった絵のようにも感じられ、正直、どこがそんなに魅力的なのか分からない。
これなら、常に表情を変え続ける海を見ているほうが、ずっと価値がある時間を送ることが出来そうなものだ。
ただ、自分が少し変わっていることは、自分以外の人間を見れば一目瞭然だった。とりわけマーシーと朝比奈は、目を輝かせて喜んでいるものだから、とてもではないが、『何が楽しいんですか?』などとは口が裂けても言えない。
嬉々としたマーシーの顔を観察していると、敏感にその視線に気が付いた彼女と目が合った。
どこか恥ずかしそうに苦笑いする表情に、息が詰まるような感覚を覚えた。理由は分からないながらも、何か無理やりにでも言葉を吐き出さなければと、水町は焦る。
「た、楽しいですか?」聞かずとも分かるようなことを尋ねてしまう。
「ええ、もちろん」山にいようと、海にいようと、彼女の朗らかさは健在だ。「こんな素敵なことに招待してくれて、ありがとう、かもめ」
そんな大げさな、とは思ったものの、正直、悪い気はしない。というか、こんな可憐な笑みを向けられて、喜ばない人間などいないだろう。
「私のほうこそ、来てくださって、ありがとうございます」
「いいんです。どうせ、絵を描いているだけですから」
そう言われてみれば、マーシーが何か仕事をしている様子はない。いつもの時間には必ずといっていいほど、松の木の下にいる。どういったところに住んでいるかも知らない。
彼女の身綺麗さを考えれば、その日暮らしだったり、職が無かったり、橋の下で暮らしている、なんてことはありえないだろうが…。
何だか、そういう部分にまで踏み込むには勇気が必要だった。何となく、絵でも売って暮らしている、くらいに結論付けて、自分を納得させる。
「日本の山は、木々に恵まれていますね。水も、とても澄んでいる」
「そうなんですか?」ずっと住んでいると、よく分からない。それに自分は海派だ。
「ええ、私の故郷の山は、もっと獰猛でした」
「獰猛…?」
山に対して用いられる言葉ではないような気がして、尋ね返す。だが、何がおかしいのか分からなかったらしいマーシーは、短く相槌を打つと、また乱れ咲くような紅葉の赤に目を移した。
やっぱり外国の人は言葉のチョイスが独特だ、と水町が考えていると、後ろのほうから、明らかに棘のある口調で声がかけられる。
「うちの山だって、熊ぐらい出ますよ」
不貞腐れたような顔を見せたのは、朝比奈だった。小一時間前に浮かべていた、明るい表情は微塵も残っていない。
「ちょっと、透」彼女は、マーシーに対してはさっきからこの調子だった。「何」
「なんで、そんな脅すようなこと言うかな」
「別にいいじゃん。本当のことなんだし」
ツン、と目も合わせない朝比奈は、そのままじろりとマーシーのほうを睨みつけた。身長差があるので、あまり迫力がなさそうだ。
案の定、相手はむしろ気遣うような言葉を朝比奈に向けた。
「ですが、素敵な山ですね。透」
「気安く名前で呼ばないで」
なんと無礼な態度と言葉だろう。友人ながら飽き飽きする子どもっぽさに、水町は大きくため息を吐いた。
確かに、お互いの家族の間で毎年恒例となっている紅葉狩りに、無断で彼女を誘い、全員の許可を得ないうちから連れてきたのは申し訳ないとは思っている。
しかし、弁解させてほしい。反対意見なんて、朝比奈透以外の誰も出さなかったのだ。彼女の両親や、こちらの両親も、両手を上げて賛成してくれたのに。
ムッとまなじりを吊り上げたままの朝比奈の肩を、強く掴む。
「子どもみたいな真似やめてよ。こっちが恥ずかしい」
「はぁ?」
「何よ」
睨み合った二人を、困ったように見つめていたマーシーは、苦笑いを浮かべて秋の空を見上げた。
その顔つきは、もっと他に見るべきものがあるはずなのだが、と言いたげなものだったが、決してそれを言葉にすることはなかった。
代わりに、穏やかさを保ったまま別の言葉を口にする。
「喧嘩はそれぐらいにして、辺りを散策しませんか?」
「あ…、ごめんなさい、マーシーさん」すぐさま、喧嘩していた相手のことなど忘れ去ったような笑顔を浮かべる水町。「お詫びと言ってはなんですけ、とっておきの場所へご案内しますよ!」
「まぁ!ありがとう、かもめ」
水町の言葉に、最高の笑顔でお礼を告げるマーシー。
二人のやり取りを不服そのものといった表情で見ていた朝比奈は、追い越しざまに水町にぶつかるようにしてから、「女同士でイチャイチャしてんなよ」と低い声で吐き捨てた。
そのまま朝比奈は、二人とは違う方向へと進み、赤の舞う景色に溶け込むようにゆっくりと消える。
彼女の後ろ姿を、心配そうな顔つきで眺めていたマーシーだったが、三人の会話をちゃんと聞いていたらしい朝比奈の両親が、そんな心配はいらない、と苦い顔で言った。
朝比奈とは違い、まともなモラルと常識を持ち合わせている両親は、高校生にもなって反抗期然としている娘に呆れているようだった。
朝比奈の父親のほうは、背中に猟銃らしきものを背負っている。マーシーはそれに興味があるのか、一瞬、視線を向けていた。
ぐっと、未だに心配顔をしているマーシーの手を引く。
「行きましょう、こっちです」
「怒っていますか?」どうしてか、彼女が不安げだ。「…まぁ、多少は」
実は、結構怒っている。
だって、マーシーさんを蔑ろにしたんだもの、到底許されることじゃない。
これで、もしも私までマーシーさんに、常識ない子どもだと思われたら、どうしてくれるというのだ。
水町の中に、幼いながらの友だからこそ、躊躇なく苛立ちが浮かび上がっていることに気付いていたマーシーは、誰を見るでもなく、遠くの秋空を眺めながら告げる。
「友人は、大切にしてくださいね」
「あんな奴、ただの腐れ縁で一緒にいるだけですから」
子ども扱いするみたいな台詞に、水町は思わずムッとして答えた。
ぎゅっ、と水町の右手が力強く握りしめられた。そこで、自分が憧れの人と手を繋いでいることに気付く。
だから、水町はマーシーの顔が陰っていたことを見落としてしまった。
「それでも、大事にしてください。一度切れた糸を繋ぎ合わせることは、とても難しいのですから」
(5)
いくら何でも、遅すぎる。
そう言って、朝比奈透の母親が騒ぎ出したのは、夕闇が月を呼び、月が星を生み出した時分のことだった。
初めのうちは、また勝手をしているのだろう、ということで、水町一家と、朝比奈一家、それからマーシーは、和気藹々と駐車場でたむろしていた。
しかし、日が沈んでいくにつれて、各々の口数は減り、日光さえも紅葉あたりからは、みんな無言になっていた。
朝比奈が戻ってきたときのために、二人の母親が駐車場に残った。そして、他のメンバーで再び森に足を踏み入れ、朝比奈を探した。
三十分して、何の連絡もなければ警察に通報するよう告げられた母親たちは、明らかに動揺した様子であったのだが、酷く冷静だったマーシーに諭されて、大人しくなった。
「透ー!」みんなが、彼女名前を呼んだ。呼ぶなと言われたマーシーも、大声を張り上げていた。
どうしよう、私が透と喧嘩しなければ、別行動させなければ、こんなことには…。
最悪の想像ばかりが、頭に浮かぶ。
落ち着かない様子で、声が潰れそうなほどに友の名を呼んでいた水町へ、マーシーがぼそりと言う。
「落ち着いて、かもめ。声も届かないほど、遠くには行けないはずです」
「そんなこと言われたって…!」苛立ちを抑えきれず、水町は眉間に皺を寄せる。
誰もが焦燥に駆られた表情をしている中、マーシー一人だけが、平常通りの穏やかさを保っていた。
いや、そうではない。その穏やかさは、忍び寄る夜気によって研ぎ澄まされ、むしろ、冷静といえるものに成長している。
確かに、彼女だけが他人だった。名前しか知らないような小娘一人死んだところで、マーシーは痛くも痒くもないのだろう。
マーシーのことを悪く思いたくないのに、あの冷静さが癪に障った水町は、彼女に反抗し、自分に出来ることはこれしかない、と言わんばかりにまた声を張り上げて、朝比奈の名を呼んだ。
「ウスパコイーシャ」
突然、訳の分からない言葉で話しかけられて、思わずびくりと足を止める。彼女の声に、冷たさすら交じり始めたことも、驚いた原因だろう。
マーシーの、少しバツの悪い顔から、彼女の母国語が不意をついて出たのだと悟る。
「冷静さを欠けば、救えるものも、救えないのです」
凛として、鋭い、水町の知らないマーシー・ストレイドの声に、気付けば父親たちも立ち止まり、耳を傾けていた。
マーシーは、全員が自分の発言を聞ける態勢を整えたことを確認すると、そのままの口調で続ける。
「呼びかけにも、電話にも反応しない、ということは、それが出来ない状況にある、ということです」
不安そうに、朝比奈の父の顔が曇る。
「大きな怪我をしているか、それとも、声を出せないか」
そんな、と彼が悲嘆に暮れた声を漏らすが、素早く元気づけるように、というよりか、喝を入れるようにマーシーが続ける。
「諦めては駄目。怪我をするとしても、何もないところでは怪我は出来ません。どこか、建物や、転げ落ちるようなところ、谷のある地点はないですか?」
「そ、それなら、透と別れた道沿いに山を下ると、渓流が広がる谷があったと思います」
こくり、と彼女は頷いた。それから、全員の顔を素早く見回す。
「行きましょう。何もアテがないまま駆けずり回るより、マシなはずです」
そうしてみんなの同意を得てから、躊躇なく道を辿り始めたマーシーの背中を、水町は不思議なものを目の当たりにしたように見つめた。
…誰だろう、この人は。
穏やかで、消えそうで、海の妖精みたいに見えていた彼女は、どこへ…。
早足で進む彼女に付き従っていると、直に渓谷へと出た。彼女はここに来たことはないはずなのに、よくまあ、真っ直ぐ辿り着けたものだ。
何とか夕焼けの明かりで、底が見通せる。どうやら、手前の崖から下りられるようだ。
「いた」と抑揚なくマーシーが呟く。「え、どこ!?」
彼女の隣に移動して、視線の先を探すも、どこにも見当たらない。
「…いないですよ。見間違いじゃないですか」
「いますよ、あの尖った岩の間」
「あ!」
岩の隙間と隙間から、外を覗き込むようにして立っている朝比奈の姿があった。一体、何をしているのだろう。
マーシーに指差しまでしてもらって、ようやく朝比奈の姿を捉えることが出来た。谷底はだいぶ暗いのに、すごい視力だ。
慌てて、渓谷の底に下りる道へと向かう。すると、水町の背中に鋭い警告がぶつけられた。
「まだ下りては駄目です」何で、と水町が聞き返すよりも早く、彼女が応じる。「招かれざる先客がいます」
いつもなら、顔を綻ばせて喜ぶ、彼女の隠喩的な表現も、今はもどかしいばかりで、頭に来る。
一体、何の話をしているのか、と彼女の顔を怪訝に見つめていると、その後ろで、父が大きな声を出した。
――子熊だ。
その声で、谷底へと視線を戻す。
確かに、よくよく見てみると、二頭の子熊が岩の周りを旋回するようにうろうろと歩き回っていた。
サイズは人間と変わらないほどだ。首回りでうっすらと輝く三日月から、ツキノワグマであることが分かる。
今、透はどれほど怖い思いをしているだろう。
獣の唸りと足音を耳にしながら、狭い岩の間に隠れている彼女には、今や、夕日の光すら届いてはいないだろう。
早く、彼女を安心させたい。
大きくなってからは、私たちは喧嘩ばかりだけど…。
それでも、かけがえのない存在であることに違いはない。
ここからは見えない朝比奈の表情が、怯えに満ちているような気がして、水町は、「助けに行かないと」と慌てて崖下に向けて駆け出した。
「待ってください、かもめ!」
マーシーの制止の言葉も振り切り、狭い下り道を駆ける。
待てるものか。
いつから彼女が、こんな心細い目に遭っているのかは分からないが、今夜、透ほど他人の存在を求めた人間はいないのではないか。
あっという間に、川べりに着く。
心に凪をもたらす、美しいせせらぎの音も、今日ばかりは耳障りだった。
じゃぶじゃぶと音を立てて、浅瀬を行く。
マーシーに見せるため用意してきた、不似合いなスカートや、ブーツ。
それらがいくらびしょ濡れになろうと、気にも留めなかった。
水の流れは緩いが、強い抵抗を感じる川の中を抜ける。
石の間につまずき、転びそうになる体を無理やり起こし、こちらに気付いていながら、傍観しているだけの子熊の間をすり抜ける。
そうして朝比奈のいる岩の狭間に辿り着くと、水町は目を丸々と見開き、驚愕の表情をたたえていた友を抱きしめた。
「透!」
勢いのままぶつかった形になって、朝比奈の体は岩肌に押し付けられる形となった。
至近距離で、朝比奈を見つめる。
彼女の中から、驚きは徐々に薄れ、次第に怒りや呆れが顔を覗かせた。しかし、それでいて、隠しきれない安心と喜びもあった。
ぐっ、と水町を押し返しながら、朝比奈が静かながらも興奮した口調で尋ねる。
「ちょっとぉ、何で来たのよ、馬鹿」
「馬鹿ぁ?アンタね、少しは感謝したらどうなの」
「感謝はしてる…けど」すぐ目の前で見つめられたことが、今さら照れ臭くなったのか、朝比奈は紅葉を散らしたように頬を染めた。
普段、朝比奈がすることのない表情に、何だか居心地が悪くなってしまって、水町も顔を逸らした。すると、ちょうど目線の先、岩の隙間から二頭の子熊がこちらを覗いていた。
「うわ」と思わず声が漏れる。
驚きはしたものの、所詮はまだ子熊だ。こちらを襲う気配はなく、むしろ、興味があるだけのように見える。
招かれざる客、というには少々キュートがすぎる。
何はともあれ、このぐらいであれば、隙を見て駆け抜けられそうだ。というか、別に外に出ても襲われないのではないか。
抱き合っていた体を離し、水町は外を見ながら朝比奈に言う。
「一気に走り抜けるわ。上にはお父さんたちもいるから」
さらに、朝比奈の父は、猟銃を持っている。万が一、危険があれば仕留めてくれるだろう。
ぐっ、と外に頭を出そうとしていた水町の肩を、朝比奈が掴んで押し留めた。
「なに、まだ子熊じゃない」
「ああ、そう。子熊」朝比奈が鼻を鳴らす。「だから、危険なのよ」
意味が分からない、と眉間に皺を寄せたところで、川のほうから、バシャバシャと水音が聞こえてきた。
子熊が水遊びでもしているのか、と視線を戻すと、黒い影がこちらへと移動して来ているところだった。
のそのそと、岸辺の小石を踏み潰すようにして迫ってくる巨体に、水町は目を奪われた。
子熊がその周りを楽しそうに駆け回る。子熊と比べることで、その影のサイズを思い知り、思わず息を呑んだ。
――この子たちの親だ。
水滴をぽたぽたと落としながら、熊と言われたときに、真っ先に思い浮かぶ大きな体を揺らして、二人のいる岩の間をじっと覗き込んだのは、大人の熊だった。
立ち上がれば、2mはあるだろうか。いや、それとも、恐怖がそれだけ大きく見せているのか。
気付けば後ずさりしていた水町は、背中をとん、と受け止めた朝比奈が、か細い声で告げるのを、耳元で聞いていた。
「…ずっとこう。暇つぶしに川遊びでもしてたら、気付けば岸辺にいたの。慌ててここに逃げ込んだけど…」
彼女が言葉にしなかったその先が、なんとなく水町は想像できた。
「届いたりしないよね、これ」
「…さぁ、手を突っ込まれてないから、分からない」と朝比奈は呟いた。「さあって、どうするの、逃げる先なんてないんだよ」
「だから、じっとしてたのに…。かもめが来たから、また戻ってきたの、親熊」
責められている、と感じた水町は、いじけたように頬を膨らませて、「それはどうも、余計なことをしてすみませんでした」と素っ気なく言い放つ。
「ほんと、余計な真似」
「はいはい、言ってなよ」
「…嘘だよ」朝比奈が、急に声を小さくした。
今にも死に絶えそうなほど弱々しい声になったので、どこか怪我でもしていたのか、と不安に思って背後を振り返る。
しかし、それは果たせなかった。
体を半分ほどねじった辺りで、おそらく朝比奈のものであろう両腕が、水町の背中越しにぎゅっと胴を包んだからだ。
動転する水町の耳元で、朝比奈は、耳を澄まさないと聞こえないような声を震わせる。
「本当は、すっごく、嬉しい」
「え、ど、どうしたの…」
顔を俯かせたまま続けるので、朝比奈の表情が読めない。
冗談なのか、恐怖で錯乱しているのか。
そうでもなければ、彼女がこんなことを言うはずがない。
「ここで、一人で食べられるんだと思った。それか、置いていかれて、餓死するんじゃって」
「そんなわけないでしょ、誰も置いていかないよ」
「だったら、ちゃんとそばにいてよ…!」
「い、いるじゃん。透、急にどうしたの」
一体、何の話をしているのだ、と眉をひそめていると、
「あんな外国人のところに、行かないで」
「とお――」
彼女の名前を呼ぼうとした刹那、朝比奈の、かすかに涙に濡れた瞳が近付いてきた。
自分の唇を、何かが塞ぐのが分かった。
柔らかいな、と思った。
その感触が離れていくと同時に、朝比奈の顔も離れた。
名残惜しかった。
胸の奥が、熱くなった。
そして、分からなかった。
今、朝比奈を抱きしめ返して、あの涙をせき止めたいというこの想いが、一体何なのか…。
同じような想いを、マーシーにも感じていたような気がした。
幼く青臭い私には、それが恋だと分からなかった。
朱が差した顔を背けた朝比奈に、声をかけようとしたとき、高い、大きな音が渓谷に木霊した。
銃声だ、とすぐに気付く。
朝比奈の父親が持っていた猟銃を思い出す。
撃ったのか。
何を?いや、決まっている。
岩の隙間の向こうで、あの大きな巨体が倒れる様を思い浮かべる。
だが…。
突如、割れるような唸り声が聞こえた。
熊が、涎を垂らし、大口を開けて二人を見ていた。かと思えば、弾かれるようにして、片腕を隙間に無理やり差し込もうとしていた。
「下手くそ!」と後ろで忌々しそうに朝比奈が叫ぶ。熊を煽っているのかと思ったが、どうやら鉄砲を外した父親への文句のようだ。
今にも、岩の隙間をこじ開けてきそうな勢いに、二人は奥へ追いやられる。
「上へ上がって」と水町。
「どうやって」
「私に乗ればいいじゃん」
「嫌よ!」即座に断った朝比奈が続ける。「置いていくなんて…」
くるりと体の向きを彼女に向けて、水町は相手を勇気づけるように笑う。
「ちょっと、上から引っ張ればいいでしょ?」
岩に上ったとしても、この高さなら引っ張り上げられるだろう。
熊の毛皮が夕日で赤く染まり、返り血を浴びたような色になっているのを見て、朝比奈は意を決した。もしかすると、このままでは、本当に血に濡れるかもしれない。
子連れの動物は危険だ。それが、大型の獣になればなおのこと。
砂の上にしゃがんで、土台になった水町の背に乗り、朝比奈が素早く岩肌へと移動する。
さすがに運動神経の良い、と水町は感心する。
彼女に引っ張ってもらって、水町も上へと上がる。こちらは苦戦した。女子の力では、引っ張り上げることは苦難を極めたのだ。しかし、互いに幼少の頃から持っている根性と、体のしなやかさを駆使して、何とか岩の上に立った。
砂浜も、流水も、黒い三匹の獣も、何もかもが赤く燃えていた。
夕焼けが何か、恐ろしいものを暗示しているようで、身震いする。
熊が、未だに岩の隙間にご執心なのを確認して、朝比奈が、こらえきれなくなったように、反対側から下へと飛び降りた。
早すぎる、と思ったが、もう今さら手遅れだ。
水町も、その後ろに続いて、砂の上に足を着ける。
水町は、朝比奈が浅瀬を渡る背中を追いかけようとした。
「きゃ」
だが、石に足を取られて、躓いてしまう。
背後から、黒い巨体がのそのそと近付いてくる気配に、足が竦む。
立ち上がろうとしているのに、足に、力が入らない。
「かもめ!」
白い泡を立たせながら、水をかき分けるようにして朝比奈が近寄ってくる。
来ては駄目だ、と心の中で叫ぶ。
だが、水から上がった朝比奈は、何の迷いもなく飛び込むようにして、河原を駆けた。
熊と、朝比奈のちょうど真ん中に位置した水町は、ぞっとしたような気持ちで空を見上げた。
そのとき、現実から、意識も視線も逸らした彼女の耳に、高い雷鳴が聞こえた。
渓谷に響いたのが銃声だと気付くより先に、ずしん、と大きな質量の物体が倒れ込んだのが分かって、水町はそちらを見やった。
黒い怪物は、何度か痙攣した後に、動かなくなった。
ただ、その両脇に寄ってきた、二頭の獣は生きている。
助かった、と手放しで喜べなかった。
息絶えた母熊にすり寄る子どもらが、哀れに思えて…。
しばらくして、崖上にいた三人が下りてきた。
驚いたことに、猟銃を手にしていたのは、マーシーだった。
「あの」とかける言葉も考えていないのに、声が出た。
だが、マーシーは目を細めて熊の亡骸に近づくと、ため息交じりにうなだれた。
膝を付き、目を閉じている。
祈りだ、となぜかすぐに分かった。
水町も、そばに寄った。
子熊が警戒するように、うめき声を漏らした。
両手を合わせ、祈った。
でも、何に祈ればいいのか、分からなかった。
私が、子どもだからだろうか?
それとも、もっと決定的な何かが、彼女とは違うのだろうか。
(6)
波が砂をさらう様子を、水町は静かに見つめていた。
夏が跡形もなく消え、秋の匂いも段々と薄れ始めた初冬のある日だった。
視線を砂浜から、水平線に向ける。
夏の青々とした空と、立ち昇る入道雲が懐かしくなるほどの、どんよりとした鉛色の空だった。
水町は、そのグレーに彼女の瞳の色を重ねて瞳を曇らせる。
白い息を吐きだし、彼女のいた松の下までゆったりと歩く。すでに疲弊し、力尽きてしまうような足取りだった。
――マーシー・ストレイドは、もうこの町にはいない。
祖国に帰ったのか、それとも、自分のことを、ただの絵描きとしてしか知らぬ場所を求めて、日本の各地をさまようのか。
あの一件の処理が済んだ、帰りの車内で、彼女はいくつかの過去を話してくれた。
彼女は、いわゆるスナイパーとして軍隊に所属していたこと。
何人も人を殺していたこと。
地面に寝そべり、ずっと標的を待っている姿を、人魚になぞらえて、『マーメイド』と呼ばれていたこと。
そして、自爆テロの尖兵として疑われていた少年を、勘違いで殺してしまったこと。
その子たちのために、絵を描き続けていること…。
彼女にとって人魚とは、人の命を奪う物の怪以外の何物でもなかったのだ。
自身の過去を忌々しく、忘れ去りたいものとした女は、自分のことを誰も知らない地で、生きていくことにしたらしい。
幸い、退役の際に貰ったお金で、しばらくは働かなくても良さそうだと、寂しそうに言っていた。
――親を失った子熊は、飢えて死ぬでしょう。
そう彼女は、脈絡なく呟いていた。
そのときの私には、もうすでに分かっていた。
きっと、彼女はもうどこかに消えてしまうのだろう、と。
愛のために、泡となって消えた人魚姫のように…。
松の下に辿り着くと、水町はもう一つ、大きなため息を吐いた。
彼女がいつも座っていた根の上に腰を下ろし、膝を抱える。
もう一度、逢いたい。
せめて、ひと目でいいから。
叶わない願いとは分かっていた。
マーシーにとって、私と接することは、きっと罪滅ぼしの一環だったのだろうから。
膝の間に頭を突っ込み、薄暗い空間を見つめた。そうしていると、不思議と心が落ち着いた。
すると、私の歩いてきたほうから、砂を踏む音が聞こえてきた。
もしや、と一縷の想いを胸に振り向くと、そこに立っていたのは、見慣れた顔だった。
「またここにいたの」そう呟いたのは、朝比奈透だった。「いい加減、忘れなよ」
簡単なことのように告げる彼女に、目くじらを立てる。
「うっさい、馬鹿」
「何その態度、私が心配してやってんのに」
「誰も心配してなんて、頼んでないし」
彼女の登場で、頭の半分が先ほどとは違うことを考えだした。
あのときのキスの意味を、私はまだ聞いていない。
彼女も何も触れないので、なかったことになっている。
互いに見て見ぬ振りをすることで、かさぶたに変えようと必死になっているのかもしれない。
半分は、私の前から消えたマーシーのこと。
もう半分は、このいつも喧嘩腰な幼馴染のこと。
呼んでもいないのに、朝比奈は私の隣に腰を下ろした。
人ひとり分の温もりが…、以前まではそこにいた彼女の残像をかき消そうとしているように思えて、何だか悲しくなる。
「放っておいてよ」
「どこに行こうと、私の勝手でしょ」
「アンタの勝手が、マーシーさんを…」そこまで言って、口をつぐんだ。さすがにこれ以上は良くない。
しかし、朝比奈は何も悪びれる様子もなく、半笑いで答えた。
「そうね、故意じゃないけど、結果的にはそうなったわ。私としては、願ったり叶ったりだけど」
「はぁ?」反省の色もない彼女に、怒りがこみ上げる。「アンタ、いい加減に」
「おかげで、かもめの隣はまた私の居場所になった」
あえて感情を殺したような、淡々とした口調に驚きながらも、何だか良くない予感がして、私は彼女の顔を反射的に見返した。
すると、あの日の夕焼けに染め上げられたような顔色をした朝比奈と目が合った。
決意に満ちた眼差しに、顔を逸らしかけるが、それでは何だか逃げているみたいだと考え、踏みとどまる。
「私にしときなよ、かもめ」
「な、何がよ…」
「分かってるくせに。こういうときにずるいのは、いつもアンタだよ」
「う、るさいから…」
「私なら、どこにも行かない。あのマーメイドみたいに、泡になって消えたりしない。絶対に後悔させないからさ」
「あのさ、こんなの、透のキャラじゃないって、やめなよ、ね?」
「やめないよ」と朝比奈が顔を近づけてきた。「もう、誰かに取られるかもって不安になるのは、うんざりなんだ」
驚きと気恥ずかしさで言葉を失っているうちに、また、彼女が許可なく私の唇を奪った。
そんなに安いものじゃないのに、と文句を言いたくなるが、真剣そのものの面持ちに何も言えなくなる。
「私、気の合う幼馴染は、もうやめるんだ」
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