漂流者たち①(前編)
二つの月が照らす夜の大海原を疾駆する、一隻の船影があった。
歴史に詳しい日本人が目にしたなら。幕末の太平洋を横断した〔咸臨丸〕に似ている……と思うかも知れない、スマートな船型をした三本マスト型の帆船だ。
だが同時に〝違和感〟も覚えさせられるのは、船体の複数箇所に生々しい損傷を負っている事と。
そして何よりもそのマストに並ぶ全ての帆が、ただの一つも展帆をされてもおらずに、帆桁に固縛されたままの状態でありながら。
およそ帆船が発揮出来うる領域を超えた速度を維持したまま、波を切って進み続けている点だった。
と言っても、そんな〝彼女〟が幽霊船だと言うわけではない。
その証拠に、船尾の斜桁には母国であるマズダ連合の旗が翩翻とはためいているのと共に。
船上の数か所には、カンテラの代わりをする魔導灯の光が航行灯として淡く輝いており。
そして上甲板上の各所と、中央マスト上部の見張り台には、当直に付く複数の種族から成る船員たちの姿も見えている。
もちろんその船員たちも。誰一人として、足もその影も欠いてなどはいなかった。
「どうだ? 異常は無いか?」
そうやって各々立ち働いている当直の船員たちの下へ。明らかに上位者と判る服装の一人の鉱人の男性がやって来て、よく通る声でそう尋ねる。
「勿論ですよ、親方……じゃなかった、副長!」
副長と言い直した、同じ鉱人の船員が負けじと大きな声でそう返し。
様々な種族で成る他の船員たちからも、続々と元気のいい返答が返って来た。
「今のところ何処も、この航走でガタの来てる様子はありませんぜ!」
「攻撃を喰らって損傷もしているって言うのに、こんな速度で航走し続けていられるんだから。
まったくたいしたフネですよ、この〔ファルカン号〕は!」
などと言った具合に、誰からも気分は高揚している事を示す声が上がる。
「むしろ、我々が苦心して造り上げた〝魔導機関〟の。その秘めたポテンシャルってやつが。
今こうして発揮されている真っ最中だと思うと、ある意味胸のすく様な思いさえしますがね」
と、最初に応じた鉱人の船員が、魔導技士としての自身の実感を込めて返した言葉こそ。
帆も張らずにこのフネが飛ぶように海上を疾駆している、その理由でもあった。
〔ファルカン号〕と言う名を持つ彼女は。魔導機関と総称される、「魔素の力をエネルギーとする装置」をその主機に搭載しており。
それによって生み出される推進力を用いて、自然の風頼みでない動力航行を行う事が可能となったフネ――いわゆる「魔導船」なのだ。
それも、魔導機関で生み出した風を帆に当てて推進できるタイプの〝広義の「魔導船」〟――魔導帆船たちとは一線を画した、帆走用の装備はあくまで、魔導機関の不調や故障時に備えたバックアップでしかないと言う位置付けである。
さながら、中央世界に名を轟かせし列強国たち――雲の上の存在と同義である――が実現していると伝え聞く、帆を持たずに魔導機関だけで航行する〝真の「魔導船」〟たちに。
迫る段階へと到達するフネを、独力で造り上げたものであった。
それ故に、乗り組んでいる船員たちの多くも、ただの水夫たちではなく。
そのほとんどが、このフネの設計から建造に至るまでの一連の計画に加わり。
心血を注いで関わって来た、様々な関連分野の専門家たちでもあると言う、なかなか特殊な事情で構成されている事も相まって。
まさに「逆境」だと言うしかない現在の状況下においても変わらない、ある意味で家族の様に。
互いの気心も知れた、同志的連帯感の強いクルーたちは揃って意気軒昂。
充分に士気を保ち、熟知している〔ファルカン号〕の運航を連携の取れた動きで続けていた。
その事実に安堵して。ドノヴァン副長は彼らをねぎらい、何かあれば直ぐに知らせる様にと伝えて船内巡回を再開する。
そうして自身の目でも、肝心要たる魔導機関の定時状態チェックを行うのと共に。船体の各部と、当直の乗組員たちの様子の両方をくまなく見て回り。
とりあえず各部問題ナシと確認をして、上甲板最後部の控えめな造りの船橋へと戻ったが。
そこにはこんな夜更けには珍しい、〝客人〟の姿が在った。
「ご苦労様です、ドノヴァン副長」
右腕を左肩下に当てる様式の敬礼と共にそう声を掛けて来る、細身の長剣を佩いた騎士服姿の若い娘。
今回のこの〔ファルカン号〕の試験航海に、マズダ連合政府からの検分官(同時に、渡航先での外交使節役等も兼ねている)として任じられ、同行していたフィオナ候女だ。
〔ファルカン号〕の船籍邦であり、そもそも本計画自体の一貫した後援者でもある、有力構成邦のナージゥ。
その代表参事の一人として、連合政府の軍務委員会へ出仕している関係で。今回打診された検分官の任を彼女は快諾し、お付きの騎士達と共に船上の人となっていた。
「眠れませんか? 姫様」
ドノヴァンはそんな彼女へ、礼儀は保ちつつも特別にかしこまる風でもない、それなりにフランクな調子で応じる。
その父ラハミ候とは、旧くからの親交を持っているドノヴァンにしてみれば。
そちらの絡みで幼少の頃から見知っている彼女も、ほとんど親戚の娘の様な感覚の相手であったからだ。
附役の娘たちと共に、少女の頃から。身を飾るドレスではなく、凜々しい男装姿を常とし。
研鑽を積んだれっきとした実力でもって、お飾りではない正規の騎士の座をも勝ち得ていたフィオナは。
肩口で切り揃えた銀色の髪とその美貌から。長ずるに従っていつしか「銀月姫」の異称で呼ばれる、連合構成諸邦の令息たちの間――のみならず令嬢たちからも、熱い視線を集める存在となっていたのだったが。
そんな出来た彼女であっても、流石に現在の状況は。不安を覚えてもむべなるかなだろうと。
そう思って気遣うつもりで呼びかけたドノヴァンであったが、その予想は良い意味で裏切られる。
「いえ、船室もとても快適で。毎晩よく休めています」
朗らかな笑顔でそう返すフィオナの表情は明るく、気負って言っている様な風は全く無かった。
「私は本格的な船旅こそ初めてですが、この〔ファルカン号〕がその性能だけでなく、それ以外の面でも。
他のフネたちとは比べものにならないと言う事は、ずっと実感させられ続けておりますよ」
そう素直に賞賛してみせる辺りも。このフネの〝先進性〟を、明らかな俯瞰的に理解している人間の物言いだった。
「様々に聞いていた大海原を行く船での生活とは、まったくかけ離れていて。
こんなに〝贅沢な船旅〟を過ごしていていいのでしょうか? と、そう思ってしまうくらいです」
苦笑交じりにそう言う、フィオナの言葉通り。準完全魔導船と呼べる領域にまで到達したフネである、この〔ファルカン号〕は。
その航行能力のみならず、様々な船内の環境面においても。従来の帆船とは別次元の居住性を獲得していた。
例えば、魔導灯が全面採用された、明るく火事の心配も無い船内。
真水を生み出す、長期の航海には必須の魔導具も。副機となるそちら用の魔導機関からの魔力供給による豊富な生産量のおかげで、かなり潤沢に配分が与えられる。
更には、食料や各種の積み荷を納める船倉区画の収蔵性を強化するべくあつらえられた、低温保存と除湿のサイクルの余録で。
食事の面でも、船内空間の居住性についても。客観的に見ても間違いなく、従来とは雲泥の差であるのは事実だと言えた。
故に、慣れない環境で参っていると言う様な事はありませんと。そう言外に示すフィオナに。
ドノヴァンは複雑な苦笑で応える。
確かに、それもあるのは事実だったが。
彼がフィオナを気遣ったのはその辺りについてでなく、〔ファルカン号〕が強いられる事となった〝今のこの状況〟の方であったからだ。
しかし、続くフィオナの言葉に。ドノヴァンは思わず目を見張らされることになる――それは彼にとっては予想外と言うべき、意外なものであった為に。
「マリオが……。ドノヴァン副長は、私達を乗せてこうなった事をとても気にされていると。教えてくれましたので」
「あいつめ……!」
不意に出て来た友人の名に、ドノヴァンは思わず呻きを漏らす様に呟く。
彼とは不思議と互いにウマが合い、親しい友人としての付き合いも長い騎士マリオ。
フィオナ候女の幼少の頃より、その傅役として務め。
長じて彼女が、自邦からの代表の一人として連合政府に出仕するに当たっては、その護衛長兼補佐役として。
彼女とは幼い頃から姉妹の様に共に育ち、そのまま護衛を兼ねる副官役の騎士として近侍する様になったシルヴィアとターニャの二人を監督する立場でもある、ベテランの正騎士だ。
気負わぬ友人同士の間の話だからと、思わず吐露していた事を。
当の本人から投げられて渋い顔になったドノヴァンだったが、それも続くフィオナの言葉を聞くまでの間の事であった。
「お気遣い感謝します、副長。ですがあの状況で、他に取り得る選択があったとは思えません。
そして、少なくともそのおかげで今、私たちはこうして生きています……」
フィオナは穏やかな表情で、そう断言する。
遡る事、数日前に。
〔ファルカン号〕は洋上で予期せず遭遇した、謎の魔導軍船団から。問答無用で一方的な攻撃を仕掛けられる羽目にと陥った。
それが今こうして、当てすらも定められぬままひたすらに。
大洋の真っ只中をただ驀進し続ける遁走を強いられる事となっている、その他ならぬ「原因」だった……。
明らかに意図的なものであろう、所属を示す紋章や旗旒の類は一切掲げていないその艦隊は。
左右の両舷側には巨大な複数の櫂棒を並べ、規則正しく動くそれらが生み出す推進力で高速航行するガレアス軍船たちと言う。
〔ファルカン号〕とは〝また異なる推進方式の魔導軍船〟(以外にはありえまい)たちで構成されていた。
流石に、個のフネとしての速さでは〔ファルカン号〕が上回ってはいたのだが。
とは言え、相手方もまた相応の高速を発揮して来るフネ揃いであった点と。
彼我の数の差に加えて、相互の陣形的な格好上での著しい不利――こちらが自ら虎口に飛び込む様な形でもって邂逅をしてしまっていたと言う、不運が相まって。
流石の〔ファルカン号〕であっても、出力全開で航走していながら追撃を振り切れないと言う状況に陥っていた。
単なるスピード競争ではなく、針路反転させて逃げようとするその前方にも。既に回り込みつつある敵船が複数、順次にその姿を現して来て。
そして数を増す一方のそれら敵船群が、接近しつつの斜め同航戦の形で魔導火砲の攻撃を。雨あられと撃ち込んで来ると言う状態だったのだから。
そんな絶体絶命の窮地の中、ドノヴァン副長が苦肉の策として示した「最後の手段」が。
魔導機関の意図的な〝過負荷暴走運転〟と言う、リスクも大きな賭けだった。
広義の「暴走」には違いないのだが、魔導機関を自壊させないギリギリを見計らっての過負荷状態で回すと――〝不思議な事象〟が生じる領域が有ると言う事実が、試作機での実証研究の課程において偶然に発見されていた。
その領域では、魔導機関が〝一定の高出力のままで〟何故だか安定する状態となるのだ。
偶然からのそんな奇妙な事象の発見後に、急遽行われた実験で。
試験用の老朽船に積まれた実用魔導機関の試作機を、意図的にそう言う状態へと持って行ってみた処。
それによって生み出される高出力によって、フネは通常では有り得ないレベルの超高速航行が可能になると言う結果が明らかになった――機関か船体、あるいはその両方が保つ限りにおいては……だけれども。
ただしその代償として、船体の方にもそれに耐えうるだけの強度が無ければ自滅の一途であったし。
また一度そうなった魔導機関は、停止させたらもう再起動できなくなってしまうのだったが。
その様な理由が故に、それを選択するのは諸刃の剣である事は言うまでも無かった。
だがその間にも、まだかすり傷レベルの範疇内でこそはあるものの、既に数発の被弾を喫し出し始めており。
もちろんその確率論的前提となる、無数の至近弾にも囲まれ続けている状況で。
ドノヴァンからの進言を受けた〔ファルカン号〕の船長、エンヤ女史は躊躇なくそれを決断し。
そして包囲が唯一閉じられていなかった北方――母大陸からは遠ざかる、「果ての大洋」として知られし茫漠たる大海原が広がるのみな方向への逃走を敢行する。
そしてそんなイチかバチかの賭けにと、ひとまず成功する事が出来たその結果として。
今に至る、と言うわけだった……。
自らも目の当たりにしていた〝状況〟からは。
そうする以外には無かっただろうと言う事は、フィオナにも十二分に理解の出来る話でもあった。
そんな、文字通りの「起死回生の一手」があればこそ。
少なくとも今はまだこうして、自分たちは海の藻屑と化さずに済んでいる。
だから、気にして頂く必要などないのですよと言う、それを伝えたくて。
彼女はドノヴァン副長を待っていたのだ。
「明日の心配をする事が出来るのは、今日をひとまず乗り切る事が出来た者だけの特権だと。私はそう思います」
フィオナは、静かな意志を秘めた水色の瞳をドノヴァン副長に向けて。
だから副長船長の決断は間違ってなどいませんと、率直なその考えを伝えようとしていた。
そして改まった表情のままに、フィオナはドノヴァンに向かって問い掛ける。
「お互いに立場と言うものがありますから、本当に〝ここだけの話〟としてお伺いしたいのですが……。
副長は、彼の『船団』のフネたちを、どうご覧になりました?」
「…………成程」
得心が行ったと言う表情を浮かべて、ドノヴァンは小さく一つ頷きを返す。
魔導技師としての自身の見解を訊ねられているわけだが、同時にこちらはフネの副長と言う立場でもある。
一方のフィオナ姫たちの側も。連合政府より派遣の検分官一行と言う立場を担っている以上、互いの公的なやり取りは全て航海日誌上に記録されるものとなる。
なればこそ、微妙な話題については。こうして記録に残らない、あくまで「私的な雑談」の範疇内だと言う体で収めると言う事だ。
そしてその意図を理解したが故に、彼もこの場限りとして躊躇無く。
見て取ったままで感じた事を、その通りで口に出す。
「そうですな……。あるいは本船にも匹敵しうるかもしれない程の、高性能な魔導軍船の艦隊――
我が連合の近傍で、そんな代物を持ち得る様な勢力が有るとすれば……。やはり真っ先に、〝王国〟が思い浮かびますが」
「副長も、そう思われましたか?」
自身でも、考えてはいた〝その可能性〟を。
己とは比較にならない程の経験と知見を有している、専門家の見解もまた同様に。それを示唆していると言う事実に、フィオナの表情が曇る。
「無論、断定は出来ませんし、予断を持つべきではないでしょうが……。
あくまでも一個人としての勘ですな、どこがとは言えないながら〝王国〟の匂いを感じたのは、事実です」
そう述べたドノヴァンは。
しかし、だとしたら逆に不可解な部分もあると言う点も付け足す。
「とは言えあんな無法な行動に出るのは、かの国の印象からは程遠い。と言うのもまた、ありますからな」
全く、不可解な話です……。
肩をすくめてそう締めるドノヴァンに、フィオナは相好を崩して応えると。〝微妙な話題〟に付き合ってくれた事への感謝を込めて一礼し、返した。
「そうですね。私たちの連合の近海に、遭遇した相手へ問答無用で襲い掛かってくる様な。正体不明にして強大無比な艦隊が遊弋していると言う事実がある以上は。
たとえ誰か一人だけでも生還して、そんな重大な情報を伝えねばなりません。その為にも……」
「まずは何よりも、生き延びる事だと?」
「ええ」
フィオナは頷いて、続ける。
「諦めてしまったら、そこでお終いです。ですが、どうにか生き延びてさえいれば、取り戻すきっかけも掴めるかも知れない――
少なくとも、その可能性は残るのですから」
そう言って微笑んだフィオナに。
「ははは、確かにそうですな!」
と、ドノヴァンは豪快に笑って応じながら。
(流石に〝姫様〟もラハミ候の一族。やはり、血は争えないと言うものか……)
さながら、親戚の子供の成長ぶりを目にした大人の様な気分にさせられて。
同時に胸のつかえも、綺麗に消え失せていた。
「それを、お伝えしておきたく思いまして。当直中に、お邪魔しました」
微笑んだままそう言って再び敬礼し、船室へと降りて行くフィオナ姫を。
やはり笑顔で見送って。ドノヴァンは、今夜は気持ちよく眠れそうだなと思うのだった。
――もっとも、そんなすっきりした気分での非直入りしての彼の寝入りは、早々に破られてしまう事となるのであったが……。
(後編に続く)