3-1
荒熊さんと一緒にカフェへと降りてきた志希は、荒熊さんに促されるままカウンター席へと座った。
一度泣き叫んだ所為か、今は心が妙にフラットだ。おかげで、子供のように荒熊さんへ当たってしまったことが、恥ずかしくて仕方ない。
志希がそんなことを思いながら、カウンターテーブルをじっと見つめていると、温かで甘い湯気が鼻腔をくすぐった。
「はい、どうぞ。特製ココア。甘くて温かくて、飲んだら心が落ち着くよ」
「あ……ええと、ありがとう……ございます」
ぺこりとお辞儀をし、おずおずとココアが入ったカップを受け取る。
温かなココアを一口啜ると柔らかな甘さが口いっぱいに広がって、確かに心が少し落ち着いた。
すると、志希の表情が和らいだのを見て取ったのか、荒熊さんが口を開いた。
「さっきは言いそびれていたけど、満男さんが来てくれて本当によかったね。まだ君には家族がいたんだ。おめでとう、志希ちゃん」
「……はい。両親は駆け落ちして結婚したと聞いていたので、お祖父さんが来てくれたのは本当にうれしかったです。しかも、『うちに来なさい』とまで言ってもらえて……。私は本当に幸せ者です」
カップの中のココアを眺めながら、志希は荒熊さんに答える。この気持ちには、嘘はない。
「でも志希ちゃんは、その申し出を素直に喜べないんだよね。原因は、前に言っていた『お母さんについていた嘘』かな」
荒熊さんの問いに、志希は無言で頷く。
「もしよければ、君の過去に何があったのか、話してくれないか?」
荒熊さんからそう言われ、志希はようやく源内や紗代が素直に身の上話をした気持ちがわかった。これも神様としての特性なのか、荒熊さんには話を聞いてもらいたいという思いがこみ上げてくる。
ただ、志希はそんな無粋な考え方はよそうと思った。確かに荒熊さんにはそういった力があるのかもしれないが、話をするのは自分の意思でありたい。だから志希は、これは自分の意思だ、と自分に対して告げた上で荒熊さんへ向かって話し始めた。
「荒熊さんも知っての通り、私はずっとお母さんとふたり暮らしで生活してきました。お父さんが亡くなったのが五歳の時ですから、ちょうど十三年くらいですね。母子家庭ですので裕福ではありませんでしたが、豪快で明るいお母さんのおかげで家の中はいつも笑いが絶えませんでした」
志希は、部屋から抱きかかえたままだった絵本をカウンターテーブルに置く。
「小さい頃は、よくこの絵本をお母さんに読んでもらっていました。これ、まだお父さんが生きていた頃に、ふたりが買ってきてくれた誕生日プレゼントなんです。私、本当にうれしくて……もらってからしばらくは、これを読んでもらわないと寝られないくらいだったんですよ」
そう言って、志希は少し恥ずかしそうに頬を染めながら微笑んだ。
そんな志希に、荒熊さんも優しく笑い返す。
「私は、明るくて強いお母さんのことが大好きでした。私も、大人になったらお母さんのような女性になりたい。ずっとそんな風に思っていたんです」
瞳を輝かせ、志希は幼い頃から抱いていた憧れを語る。
しかし、その表情が不意に曇った。
「でも、私はそんなお母さんに対して、とても許されないことをしていたんです」
そして志希の告白は、核心へと至る。
ただ、志希はそこで一度口を噤んだ。話すことを躊躇ったのだ。
カフェの店内に沈黙が下りる。壁時計の秒針が時を刻むコチ……コチ……という音が、やたらと大きく聞こえる。
荒熊さんは、何も言わない。話すかどうかを、志希自身に委ねている。
だから志希は、このまま何も言わずに逃げようとする感情と戦いながら、勇気を奮い立たせてその言葉を口にした。
「私は心の片隅で――お母さんがいつか私を捨てるんじゃないかって、ずっと疑っていたんです」
志希が紡いだ最低最悪の言葉が、カフェの中に木霊する。音として響いた自身の醜悪な感情に、志希は思わず吐き気を覚えた。
「きっかけは、お父さんの葬式の後のことでした……」
ただ、一度口が回り出せば、そこから先は難なく言葉が滑り出てくる。
志希は、まるで自分ではない誰かが語るのを聞くような感覚で、自らの過去を明かしていく。
「あの日……、葬式が終わって夜になっても、お母さんはお父さんの遺影を見ながら泣いていて……。それで私、お母さんを励ましたくて、『お母さん、元気出して』って、肩に手を置きながら言ったんです。でも、そしたらお母さんは『ひとりにして』って無関心な目で私の手を払いのけて……」
今でも鮮明に思い出すことができる。
払いのけられた時の母の手の冷たさ。自分に向けられた空洞のような眼差し。
いつも優しく明るかった母が初めて見せた一面に、当時の志希は恐れ戦いた。
「それは……辛かったね」
荒熊さんは労わるようにそう言ってくれたが、志希は首を横に振った。
「あの時のお母さんは、お父さんを亡くして心がボロボロでした。一人にしてほしいと思うのだって、当然だったと思います。子供だったとはいえ、私にデリカシーがなかったんです」
そう。悪いのは、母の心情を思いやることができなかった自分だ。
それはわかっている。でも……。
「でも、お母さんに拒絶されたという事実だけは、頭に残って……。あの時のお母さんの顔と言葉が頭から離れなくなってしまって……。私は、お父さんだけでなくお母さんまでいなくなってしまうのでは、と考えてしまったのです」
母の泣く姿を見ていたら、幼心にも父はもう戻ってこないということはわかった。
そして、このまま母までいなくなってしまったら――。そう考えると、体の震えが止まらなくなった。怖くて悲しくて、泣き叫びたい衝動に駆られた。
「だから私は、その日からお母さんに一つの嘘をつき始めました。お母さんに捨てられたくなくて、お母さんを困らせない“いい子”の自分を演じ始めたんです」
父が亡くなるまでの志希は、どちらかといえばやんちゃな子供だった。あまり女の子らしくなく、男の子たちに交じって泥だらけになって遊ぶような性格だった。
服は汚すし、片付けもしない。本当に、どうしようもないダメな子だった。
けれど、それではいけないと思ったのだ。そんな“悪い子”では、母にまたあの空洞のような目を向けられてしまうと――。
だからやんちゃだった性格を直し、お行儀よくすることを覚えた。少しでも“いい子”に見えるように、保育園の先生に丁寧な言葉遣いを教えてもらった。母が褒めてくれるように、進んでお手伝いをするようになった。さらに母の負担を減らそうと、自分が家事を担当するようになっていった。
全部全部、母に捨てられたくない一心だった。




