5-1
翌朝。店が開店する一時間前の午前十時。
「おはよう、おっかさん」
「おはよう、明日香。昨日の夜は、よく眠れた?」
「うん、まあ……」
明日香と紗代は、あらいぐまの店内で喧嘩後に初めて顔を合わせていた。
クールダウンの時間を挟んだとはいえ、ふたりの互いに対する態度は、まだぎこちない。
そんな親子の様子を、志希と荒熊さんはカウンターの中から見守っていた。
志希たちが見つめる中、まずは明日香が口を開く。
「おっかさん、ごめん。あたし、昨日の夜、おっかさんが荒熊の旦那に話してたこと……聞いてた」
明日香が盗み聞きしていたことを告白すると、紗代は「そう……」と短く応じた。
紗代の反応を受け止めながら、明日香は続ける。
「おっかさんが落語を遠ざけた理由はわかった。――でも、ごめん。あたしは、やっぱり落語を捨てられない。おっかさんにも捨ててほしくない。あたしは……おっかさんも落語も好きだから」
そう言って、明日香はニッと笑った。
「その顔、お父さんそっくりね」
明日香の笑顔に、紗代は肩の力が抜けた様子でフッと笑う。どうやら一晩の時間を置いたことは、一定の効果があったようだ。
そして、おそらく母が笑うところを久しぶりに見たのだろう。明日香の方もうれしそうに瞳を輝かせている。
「でも……ごめんなさい。私は、まだ心の整理をつけられないの……」
だが、笑顔がふたりをつないだ時間は、実に短いものだった。悲しげに目を伏せ、自分を抱くようにした紗代が、震える声で言う。
「昨晩、店長さんと話して、一晩ひとりで考えて、私も反省した。もう、あなたに落語をやめろとは言わない。けど、私の方は時間をちょうだい……」
「おっかさん……」
「ごめんなさいね、明日香。弱い母親で……。本当に、ごめんなさい……」
何度も「ごめんなさい」を繰り返す紗代。その姿は、まるで迷子になってしまった小さな子供のようにも見えた。
そんな母を前に、明日香はゆっくりと首を振る。
「ううん。おっかさんは悪くない。大丈夫だよ。きっと何かのきっかけさえあれば、心の整理がつけられるさ」
「ええ、そうね。ありがとう、明日香」
明るい笑顔と前向きな言葉で明日香が紗代を励まし、紗代も娘の励ましに心からの感謝で応える。
――と、その時だ。
「――だったら、そのきっかけを今から掴みに行きませんか?」
唐突にそんな声を掛けられ、明日香と紗代が声のした方を振り向く。
ふたりが振り返った先には、明日香の本を手にした志希が微笑んでいた。その足元では、荒熊さんが任せとけと言わんばかりにサムズアップしている。
「旦那? 姐さん?」
志希からの唐突な提案に、明日香は頭の上に“?”を浮かべて首を傾げる。
どういうことかわからない。明日香の顔にはそう書いてあった。いや、明日香だけでなく紗代も同じ顔をしている。
そんな親子に、志希は手に持っていた本を差し出した。
「口で説明するよりも、実際に体験してもらった方が早いです。おふたりとも、この本に手を置いてください」
志希が促すと、明日香と紗代はわけがわからないといった顔のまま、素直に本に手を置いてくれた。
同時に、志希が足元にいる荒熊さんを見た。
「荒熊さん、お願いします」
「ほいきた。任せといて!」
荒熊さんが志希の体をよじ登り、本を持つ彼女の手の上に、自分の手を重ねる。
その瞬間、志希は源内の時と同様、体の中から何かが荒熊さんの方へ流れ出ていく感覚を抱いた。
そして――世界が光に包まれ始める。
「姐さん、旦那! これは!」
明日香が驚きに声を上げ、紗代が息を呑んだのが気配で伝わってくる。
「大丈夫です! 私と荒熊さんを信じてください!」
だから志希は、ふたりを安心させるようにできる限り優しく、明るく言葉を紡いだ。
「聞きにいきましょう。おふたりが大切に思っている人が、何を思っていたのか――いえ、何を願っていたのかを」




