名も無き剣士
思いがけないことがきっかけで、状況が変わることは、よくあることだ。悪魔の王は魔法の森に結界を張り、結界の番をする魔物をつけた。その魔物にロットバルトはぎりぎり勝てない。王はこれで永遠に自分に逆らった悪魔が森に囚われ続けると思っていた。誰も結界は破れないと安心していた。その油断がいけなかった。結界にはわずかな綻びがあった。ある日、名も無き剣士が結界の綻びに落ちてきた。それが変化の始まりだった。
剣士は当てのない旅をして、とても遠い国からジークフリートが治める王国にやって来た。日が暮れかかった頃、森に入った。そのため、道がよく見えず、一向に森から抜ける道が見つからなくなった。焦った剣士は足元をちゃんと見ていなかった。次の一歩を踏み出した先は崖になっていた。夜になりかけていたのと、霧のようなものが薄くかかっていたので、崖になっていると分からなかったのだ。剣士は真っ逆さまに崖から落ちた。
助からない、そう思った矢先に剣士は、何かふわふわとしたものの上に落ちた。何がなんだか分からず、手探りで辺りに触れる。羽のようだ。羽の塊の中に落ちたのだ。そこは梟に変身したロットバルトのちょうど頭の上だった。
ロットバルトはほとんど魔力を使い果たし、ついこの前まで、ずっと眠っていたままだった。目が覚めると、魔力が回復していることに気付いた。彼は何とかここを出ようとした。結界の番をしている魔物を倒そうとした。だが、やはり、どうしても勝てなかった。
分かっていたことだ。二度とここを出ることはできないと。魔物は巨大な獣の姿をしていたので、ロットバルトは梟に変身して戦った。身体に傷をつくり、もう戦えなくなると休み、また戦った。勝てないと分かっていても、やめなかった。どうしても一目、娘に会いたかったのだ。何度も戦っていれば、もしかすると結界を抜け出す道が見つかるかもしれない。
そんなふうにロットバルトが戦い疲れて休んでいる時に、剣士が頭の上に落ちてきたのだった。頭の後ろの方の羽の中に落ちたので、ロットバルトは何がいるのか見えなかった。振り落とそうと、首を振ったり、羽ばたいたりした。
「待って! じっとしていて!」
耳元で急に人の声がしたので、ロットバルトは動くのをやめた。じっとしていると、頭の羽の中から人が立ち上がり、体の羽を伝って足元に降りてきた。それでやっと、人が落ちてきたのだと分かった。
一人の黒髪の女剣士が自分を見上げていた。その髪の色がオディールと同じだったため、ロットバルトは剣士が大人になったオディールのように見えた。ロットバルトは心臓が止まるかというぐらい驚いた。あわてて梟から元の姿に戻ると、じっと剣士の顔を覗き込んだ。よく見ると、娘とそんなに似ていない。髪の色だけだ。ロットバルトは、がっかりした。娘に会いたいと思いつめていたので、見間違えたのだ。
剣士は目の前で巨大な梟が、人に似た姿に変わったというのに、ほとんど動揺していなかった。だが、ロットバルトにまじまじと顔を見つめられた時、少しだけびっくりしたようだった。
「何かあったのか?」
ロットバルトが落胆しているのを見て、剣士は困ったように話しかけてきた。ロットバルトはどう答えるか迷った。だが、意を決して、全てを話そうと思った。何かを隠して、今までの経緯を伝えられるとは思えなかった。自分が悪魔であると伝えても、剣士は顔色一つ変えなかった。オディールとの出会い、娘を守るために悪魔の王に逆らって、この森の結界に閉じ込められたことを、どこも省かずに話した。とても長い話になった。それでも、剣士は黙って最後まで聞いていた。全ての話を聞き終えた剣士は一言、こう言った。
「わたしが、その魔物と戦ってみよう」
「何? 本気か?」
「どっちにしろ、魔物を倒さなければ、二人ともここから出られないんだろう。一人で無理なら、二人で戦ってみるんだ」
そう言われてみて、ロットバルトは意外そうに剣士を見つめた。悪魔である彼は誰かと共に戦うということを、やったことがなかった。そんな考えに至らなかった。
剣士は躊躇せず、魔物のいる場所へと進んで行く。魔物がいると聞いても、恐れていないようだった。
剣士はここから遠い国の姫に、侍女として仕えていた。姫の侍女たちはそれぞれの得意なことで仕えていた。ある者は美しい布を織ることができた。ある者は楽器をよく弾き、姫に音楽を贈った。ある者は装飾品を作り、姫の髪を飾った。
剣士には得意なことが見つからなかった。たまたま身を守るために習った剣術に向いていることに気付いた。そう分かると、剣術を練習するのに、ずっと専念し続けた。気が付けば、誰よりも強くなっていた。剣士は息をするように、戦うことができた。その力を常に姫を守るために使った。
ある時、姫は自分の代わりに世界を見てきてほしいと剣士に言った。他の侍女たちは時折、休みをもらっては好きな所へ出かけていた。でも、剣士は行きたい所が思いつかず、ずっと姫の傍にいたのだ。それを見兼ねて、そう頼んだのだった。
「わたしはなかなか、お城を離れられない。だから、わたしの代わりに、世界のいろいろな所を見てきてほしいの」
姫からそう頼まれた剣士は旅に出た。世界は広かった。
「あなたなら、きっと、どこまでも行けるわ」
そう姫に言われたことを思い出す。事実、剣士は自分の足でどこまでも歩いて行けた。そして、この森にやって来たのだ。道中もずっと、剣士は自分の剣の腕を、誰かを助けるために使ってきた。だからこそ、剣士はロットバルトに共に戦おうと言ったのだった。
剣士が魔物の前に立つと、魔物は戦士のような人型の姿になった。ロットバルトと戦う時とは違う姿。相手によって姿を変えるようだ。それは、二人で挑んで初めて分かったことだった。剣士は腰につけた剣を抜き、構えた。魔物が闇のように黒い剣を振りかぶった。その瞬間、剣士は相手の剣を払いのけた。しっかりした太刀筋に魔物はよろける。お互いにそのまま打ち込み合う。魔物は素早く剣を繰り出すが、剣士はその速さに難なく対応している。魔物が剣を大きく振り下ろしたのを、剣士は後ろに飛びすさって回避した。その間合いを魔物が一気に詰めてきたので、魔物の剣戟を即座に手にした剣で弾く。だが、魔物の動きの方が少しだけ速い。剣士の持つ剣を弾き飛ばそうとした時、魔物の目の端にロットバルトが映った。
魔物は瞬く間に巨大な獣の姿に変身する。ロットバルトは梟に姿を変えると、獣に飛びかかった。鋭い鍵爪で獣に掴みかかり、羽ばたいて上空から抑え込む。だが、やはり魔物のほうが強い。少しずつ、力が逆転していく。悪魔の王の魔物には、一介の悪魔は敵わないのだ。それでも諦めるつもりはなかった。
ロットバルトが襲われていると見るや否や、魔物の腕を剣士は斬りつけた。魔物の腕の力が抜けていく。魔物は、ロットバルトの翼に喰いつこうとする。それにひるまず、魔物を鍵爪で抑えつけていると、ロットバルトの羽の上を剣士が登っている気配がした。剣士は頭の上まで登ると、頭上から魔物に狙いをつける。
「行くぞ」
タイミングを計り、魔物の動きが完全に抑え込まれた瞬間、剣士は魔物の眉間に剣を突き刺した。剣が刺さると、魔物は悲鳴をあげ、体の端から塵になっていった。そのまま、魔物は消えてしまった。剣は魔物からどうしても抜けず、魔物と一緒に塵になってしまった。
魔物が消えたので、魔法の森の結界もなくなった。これで、ロットバルトは外へ出ていくことができる。二度と出ることができないと思っていた森の外へと。
「助かった。ありがとう」
そうロットバルトが言うと、剣士は答える代わりに微笑んだ。
「ここを出よう。お前は私の羽の中に隠れていろ。上空は突風が吹いている」
魔法の森は悪魔の王の作った特別な空間だったらしい。結界を守る魔物とともに、魔法の森そのものも消滅しようとしていた。一刻も早く、二人で立ち去らなければならない。
剣士はロットバルトの羽の奥に身を隠した。ロットバルトは翼を広げると、力強く羽ばたいて森の外へと飛び立った。剣士は羽の中でロットバルトの身体にしがみついていた。空から見てみると、ここはロットバルトとオディールが住んでいた森と近いことが分かった。ロットバルトは、はやる気持ちを抑えて、娘を預けた精霊たちの森の領域へと向かった。やっと娘に会えるのだと思うと、嬉しかった。
ロットバルトが降り立つと、あの時と同じように精霊たちが集まってきた。その中に精霊の長もいて、目を丸くしていた。
「オディールは、どこに?」
ロットバルトは息せき切って精霊の長に尋ねた。精霊の長は困ったように答える。
「さっき城へ出かけたところだ。王に招待されたのでな」
「そんな」
「すぐに城へ行ってみよう。途中の道で会えるかもしれない」
剣士がそう声をかけると、ロットバルトは頷いた。入れ違いを嘆くよりも追いかけた方が早い。二人がまた、空の旅へ出ようとした時、精霊の長が剣士を呼び止めた。
「剣士だと言っておったな。剣を持っておらんようじゃが」
「さっきの戦いでなくなったんだ」
剣士は手短に、どうやってロットバルトと魔法の森を抜けだしたかを話した。彼は剣士に感謝し、代わりに一振りの剣をくれた。
「我々は方々、彼を探したのだ。だが、ずっと見つからなかった。彼を探し出してくれたことに、礼を言いたい。その剣は何かの役に立ててほしい。我ら精霊が鍛えた剣だ」
剣士は精霊の長に礼を言って、その場を立ち去った。梟の背に剣士は身を隠して、次は王の城を目指して飛んでいく。ある程度、梟の姿で飛んでから城下町の手前で元の姿に戻った。城下町は人が多い。そんな所を飛んで行ったら、何事かと大騒ぎになる。人々は巨大な梟を恐れ、混乱するだろう。そうなれば、城へ向かうオディールに迷惑がかかるだろうと思ったのだ。
城下町でまず、オディールを探した。城へ向かう人は皆、城下町を通るからだ。ここで会えるかもしれない。
ロットバルトはふと、黒い髪の少女が自分の傍を通り過ぎようとしたのに気づいた。その少女の横顔を見て、ロットバルトは息を呑んだ。今度こそ見間違うはずがない。そこにいたのはオディールだった。成長してはいたが、幼い頃の面影があった。
「オディール」
彼は娘の名を呼んだ。少女は名を呼ばれて、振り向いた。オディールはきょとんとした様子でロットバルトを見つめた。その目には困惑の色が浮かんでいた。
「おじさん、どうして、わたしの名前を知ってるの?」
ロットバルトは何も言えなかった。オディールは自分のことを忘れてしまったのだ。自分が娘と別れてから、長い年月が経ってしまったのだろう。オディールと離れ離れになった時、娘は幼かった。自分の顔をよく覚えていなくても無理はないのかもしれない。自分の心から何かが抜け落ちてしまったように感じた。目の前の娘は自分のことを忘れ、悪魔の王の恐ろしさを忘れ、穏やかに暮らしているように見えた。
「人違いだった。すまない」
彼は苦しい嘘をついた。そして、オディールの元を離れた。娘には一目、会えた。幸せそうだった。それで、いいではないか。
「どうだった?」
剣士は、ロットバルトが急にいなくなったので辺りを探してくれていた。やっと彼を見つけた時、黒髪の少女と話しているところだった。オディールに会えたのだと思って、剣士は声をかけずに待っていたのだ。
「娘には会えた。もうこれ以上、ここにいる必要はない」
「どういうことだ。ずっと会いたかったんじゃなかったのか」
「私のことを忘れてしまったんだ」
絞り出すように、そう呟いた。これから、どうすればいいか分からなかった。
「もう一度、話してみたら、どうだ」
「だけど、もう……」
「話してみれば、思い出すかもしれない。精霊の長は皆でずっと、あなたのことを探していたと言っていた。そんな人のことを、完全に忘れてしまうはずがない」
ロットバルトは、やっと頷いた。オディールに会えるとしたら、城だ。そこまでは行ってみようと思った。
一方、オディールはロットバルトが立ち去った後、彼のことが気にかかっていた。急に自分の名前を呼んだその人は、初めて会ったと思ったのに、どこかで会ったことがあるような懐かしい感じがした。ずっと昔から、知っている気がした。彼が立っていた所に、なぜか梟の羽が落ちていることに気付いた。羽を拾って持ってみると、オディールの心に浮かんだことがあった。
「パパ?」
幼い頃、一緒にいた父のことを思い出した。顔は、はっきりと思い出せない。思い出せることも、あまり多くない。だけど、一緒に過ごした時間は、とても温かったことは覚えている。きっと穏やかな日常を過ごしたんだと思う。あまりに穏やかな日常は、細かいことは思い出せなくなる。特徴が少ないからだろう。だからこそ、よく思い出せないのは平穏な日常を過ごせた証だと思う。
こんな街中に梟がいるはずがない。だとしたら、さっきの人が落としたのだ。ロットバルトは大きな梟に姿を変えることができた。悪魔の王から自分を守って、精霊たちの所へ連れて行ってくれた時も梟の姿に変身していた。自分の宝物の小箱にも梟の羽がしまってある。この羽はそれと同じだ。
オディールは居ても立っても居られなくなって、ロットバルトを追いかけた。どうしてあの時、分からなかったんだろう。どうしてすぐ、呼び止めなかったんだろう。ずっと会いたいと思っていた父のことが、分からなかったのが悲しかった。また会いたいと泣いていた自分との約束を守って、帰って来てくれたというのに。
オディールは必死に人波をかき分け、ロットバルトを探した。だが、どうしても見つけられなかった。城下町は人が多い。さっきまでここにいた彼は、人混みに紛れ、見失ってしまった。
人違いなんかじゃなかった。それなのに、そう言ってどこかへ行ってしまった。また、どこか遠くへ行ってしまうような気がした。オディールの目から涙が一つ、零れ落ちた。
オディールは、それからまた、歩き出した。今は王に呼ばれている。城へ行くしかない。その途中で、会えるかもしれないと願った。