3-22 舞踏会(2)
「勇気を出して、行ってくるわ」
そう言ったアンナマリアが舞踏会場の控室を出て行ったところで、残されたエイネシアは、一つ息を吐きながら窓の外を眺めた。
思えば去年の今頃、この部屋ではアイラが大層な芝居を打ってくれて、散々な目にあったのだったか。
その記憶がまだ新しいせいか、部屋にはエニーが。隣の続き間にはシシリアやセシリーを始め、寮の女性陣がいてくれて、廊下や来客をピリピリと警戒してくれている。
控室について早々、アンナマリアが出て行った時には、皆心配そうな顔をしていたけれど、それはエイネシアが皆を引き止めておいた。
エドワードが一緒なら心配はないし、それに今は二人だけにしておいてあげたい。
でも……『貴女も、ちゃんと幸せになっていいんだからね』と、そう言ったアンナマリアの言葉が耳から離れず、どうにも調子が狂った。
言葉自体は単純で、何を言っているのかもはっきりと理解している。
アンナマリアが何を想定してそう言ったのかも、もう分かっている。
それでも言いようのない不安がずっとわだかまっていて、アンナマリアのように真っ直ぐにそれを受け入れることができなかった。
この不安はどうしてなのか。
何故こうも焦燥に駆られるのか。
そのもやもやとした感情に深いため息を吐いたところで、ふとドレスのポケットに押し込めていた指輪の存在を思い出して、ポケットをまさぐってそれを引っ張り出した。
忘れていたけれど、そういえば持ってきてしまったのだった。
俄かに傷つき、所々黒ずんでしまった金の指輪。
窓際の光の下で見て見ても、やはり盤面に刻まれている絵柄ははっきりとは見えなかった。けれどやはり、薔薇を象ったものであることは間違いなさそうだ。
一体誰の忘れものなのだろうか。
「あら、お嬢様。持ってきてしまわれたんですか?」
そう声をかけたのはエニーで、そもそもこれを持ってきてしまったのはエニーが強引に引っ張って部屋から連れ出してくれたおかげなのだけれど、と思いつつも、肩をすくめて見せた。
「これ、綺麗にできるかしら?」
「そうですね。やってみましょうか?」
お願い、と渡した時には、いつか手隙の時に、くらいのつもりだったのだが、どうしたことか、控室隅の水回りスペースに向かったエニーは、腕まくりをしてその場で何やら作業を始めたものだから、驚いてエイネシアもそちらに足を向けた。
「薔薇の装飾が為された“薔薇の部屋”のどなたかの忘れ物ですから、きっと高価な物ですね。元は金でしょうか。汚れは枯れた薔薇の水分や、しみこませてあった精油なんかが付着したせいだと思いますが。水では……ちょっと落ちないですね」
そう言ったエニーは、化粧机横の棚をガサゴソと漁ると、いくつかの瓶を取り出して、その粉を溶いた水に指輪を沈めた。
「それは?」
「重曹です。この部屋は舞踏会中の姫様方のトラブルに対処できるよう、色々と準備してあるんですよ」
飲み物がかかってしまったドレスの染み抜きのための諸々や、咄嗟の対処に応じるための替えのドレスやグローブ、靴から髪飾りまで。中にはこうした、アクセサリー類を手入れするための洗剤や特別なふき取り布まで。
重曹もその一つで、金属。特にシルバーなんかは、これに浸すととても綺麗になるし、使用後のお手入れにも使われる。
そんな説明をするエニーの言葉の通り、暫く浸して、化粧用のブラシでそっと撫でてあげただけで、指輪は見る見る黒染みを落とし、元の輝きを取り戻していった。
深い傷に沁み込んだしつこい油汚れは簡単には落ちず、少しアンティークな風合いは残ったけれど、それでもすっかりと綺麗になった指輪は、エニーの言う通り、どうやら元は、とても高価な物のようでもあった。
「如何ですか?」
「盤面は傷ついてしまっていて。やっぱり良く分からないわね。でも……」
何が刻まれているのかまではわからないが、多分そこには薔薇と何かが。そしてそれはやはり、誰かの“印章”なのではないだろうか。
だとしたら大変な物を見つけてしまったことになるが……。
「そうだ。お嬢様。少しその指輪をお貸しいただけますか?」
エニーがふと思いついたように、再び奥の棚をガサゴソと漁った。
はて。リングケースか何か常備してあるのだろうか。だとしたらそこに納めて、舞踏会が終わるまでエニーに保管してもらっておくのが得策だろうか、と、言われたとおりに指輪を渡す。
だがエニーはそれをしまうのではなく、輪に細身の金のリボンを通して、エイネシアの腕に付け始めたものだから驚いた。
あっという間に指輪を装飾具にしてしまったことにも驚いたが、まさかエイネシアの身に着けるとは。
でも確かにこうすると違和感なく腕飾りのようにも見え、落ち着いた金の装飾と手の甲に垂れるリボンが可愛らしくもなった。
流石は星雲寮の侍女だ。
「素敵……」
「チョーカーにしても宜しいですが、首回りは目立ってしまいますからね。でもこれならそんなに目にはつきませんし、今宵のドレスの色にもピッタリです」
まるで意図して仕立てたみたいですよ、と鏡の前に引きずって行くエニーに背中を押された。
確かに。ちっとも違和感がない。
「でもエニー。これ、誰のものとも分からないのに……」
「大丈夫です。落とさないよう、片結びにしてありますから」
そうグッと手を握って見せたエニーには……いや、解けないのは困るのだけれど、と思ったのだが……まぁ。エニーがいいというのであれば、いいのだろう。
持ち主の事については後で考えるとして、取りあえずはお借りしておこうと思う。
そう腕を下ろしたところで、折よくコンコンと扉を叩く音がして、パッとエニーが扉の方へと飛んでいく。
同じく音を耳に入れたらしいシシリアが、チラリと続き間の扉を開けて中を窺う。
そんなに警戒しなくてもと思うのだが。
案の定、エニーが開いた扉から顔を見せたのはエドワードで、「ほら」と安心した顔でエイネシアは弟を出迎える。
「そろそろ時間ですよ。私にエスコートさせていただけますか? 姉上」
そうニコリと微笑んで手を差し出す相変わらずよく出来た弟には、うっかり見惚れてしまいそうになったが、「宜しく」と頷き掛けたところで、はたっ、と、浮かせた手を宙に留め、顔を跳ね上げさせた。
その顔に、キョトリと首を傾げた弟。
その周りを、パッ、パッと見回して。
でもどこにも“アンナマリア”の姿は無くて。
「姉上?」
「……え……? あ、れ?」
ポカン、と見上げたエドワードの顔に、おかしなところは何一つなく。
ただただエイネシアの行動に不思議そうな顔をしているだけで。
「エド……? あの。アン王女、は?」
そう問うたところで、エドワードはコクリと首を傾けた。
「私はご一緒ではありませんが。姉上こそ、ご一緒ではなかったのですか?」
まさか何かあったのでしょうか、と警戒するエドワードに、「え、いや、違うわ!」と慌ててその腕を引っ掴んで思考を途絶えさせた。
「姉上?」
不審なエイネシアの行動に、益々エドワードが首を傾げる。
その腕を掴みながら。
どくどく、と、いやなくらいにエイネシアの心臓が鼓を打つ。
なんだ。なんだこれは。どういうことだ。
いや。というかこれは間違いなく……。
「ッ……勘違い……」
かっ、と頬に火が灯り。それ以上に、ぞわわ、と不安が渦巻いた。
なんてことだ。まさかのまさかの勘違い。
アンナマリアの想い人は、エドワードではなかった? それともやっぱり、アンナマリアは申し出ることができなかっただけ? いや。でもアンナマリアは戻って来ていない。
今どこかで確かに誰かと居るはずで。
でもそれはエドワードではなくて。
でも。いや、だとしたら誰だ。
学院にいて、でもエドワード以外で、エイネシアとも関係があって。
そんな人物、もう他に思い当たらない。
ただ自分が勘違いしていたことだけは確かで。
それは要するにもしかして……エイネシアが考えている以上に、困難な相手を想っている可能性もあるわけで。
「ッ……早まったかもっ……」
そう青い顔をしたエイネシアに、「エニー、取りあえず水と毛布を! 姉上、取りあえず座って下さい!」と世話を焼くエドワードのことも目に留まらず、しばし呆然としてしまった。
だって。だってアンナマリアさん。
あぁ、いや、まぁ……アンナマリアさん。
コレじゃないよね。うん。ごめんね。
コレは、ないよね……と。
クールなイケメンの顔で、だが過保護すぎるほどにてきぱきとエイネシアの世話を焼く弟に、エイネシアは呆然と目を瞬かせる。
「姉上っ。まさかご気分が優れないのでは……」
そう自らの額を姉の額にくっつけて熱を測ろうとするこの子は……うん。やはり育て方を間違えたのだ。
おおいに、間違えたのだ。
こんなのでは確かに、アンナマリア様には相手にはされないだろう。
いやだが。だったら誰なのだ。一体誰なのだ、アンナマリアさん。
その思いがけない爆弾の投下に。
なにやら二重、三重の意味で、重たいため息を吐いてしまった。
「本当に大丈夫ですか?」なんて何度も問うてくる心配性な弟に、一体何度「大丈夫」と答えたことか。
真夏だというのに毛布をかぶせられ蜂蜜湯を飲まされそうになったエイネシアは、そんな弟を宥めて、取りあえずエドワードにエスコートしてもらって控室を出た。
すぐにも隣の部屋から顔を出したシシリアが、「一体何の騒ぎでしたの?」と呆れた顔をしていたが、それは見て見ぬふりをしておいた。
これは別に、エイネシアがそう教育したとかではなく、放っておいたらいつの間にかこうなっていただけで……とか言い訳したかったが、そのタイミングは失してしまった。
結局アンナマリアがどこに行ったのかはわからなくて、ただ会場に顔を出し、星雲寮の面々と挨拶を交わしたところで、レナルドの姿がないのを見てひとまずは安心した。
レナルドもだが、アンナマリアには常日頃から影と呼ばれる護衛が付いているはず。危険なことには巻き込まれていないだろう。
あるいは、その想い人と一緒にいるのかもしれない。
「え。いや、まさかレナルドなんてことは……」
ないわよね、と呟いたところで、「姉上?」と再びエドワードの不審気な視線が向けられたので、慌てて意識を引き戻して取り繕っておいた。
まったく。エドワードは過保護すぎるのだ。
「貴方、少しは気になる異性の一人もいないの? いつも私の傍に居てくれるのは心強いけれど……」
あるいはまだ、アンナマリアの想い人がエドワードである可能性がなくなったわけではない。探るつもりではないが、あまりにもエイネシアの事ばかり気にかけてくれるものだから、ついそう問うて見た。
「珍しいことをお伺いになりますね」
するとどうした事か。年頃の青少年として如何なものかというくらいに淡泊な面差しで、動じた様子の一つも見せないではないか。
「心配なさらずとも、私には姉上の他に想う相手などいませんよ」
ましてやニコリと口元を緩めてそんなことを仰った弟には、うーん、と、むしろ頭を抱えてしまった。
その様子に、エイネシアが本当に自分の将来を心配していると気が付いたのか、エドワードは少しばかり眉尻を下げると、急に真面目な顔を見せる。
「私のエスコートすべき相手は、いずれ父上がお決めになるでしょう。シルヴェストやダグリアに適齢の姫はいませんから、アンジェリカか。あるいはまったく別の家か。それがどうかなさいましたか?」
サラサラとまるで他人の話をするかのように口にする物言いには、エイネシアも困ってしまった。
確かにエイネシアも、エドワードは多分ラングフォード公爵家のアンジェリカと結婚するのだろう、なんてことを考えたことはあって、とりわけ母が強くそれを望んでいることを知っている。
だがそれは所謂、政略結婚だ。
四公爵家の紐帯は強く有るべし、という公爵家の伝統に基づいた近親婚であり、昨今ラングフォード公爵夫人アデリーン王女が反フレデリカ派に傾倒していることを考えれば、中立であるアーデルハイドを通してラングフォード家を王国に繋ぎ留めておきたい国王陛下としても、これを認可することは間違いない。
でも……エドワードはそれでいいのだろうか?
今この舞踏会場で、そわそわとエドワードを盗み見ては頬を染めているお嬢様方は。それで、いいのだろうか?
「……そう。例えば、シシーなんてどう?」
ふと視線の先でセシリーやジュスタス達と話しているシシリアが目に留まり、名をあげてみる。
思えばシシリアは幼い頃、アーデルハイド家に来るたびにエドワードを目で追い、頬を赤くしていた。学院に入って以来そんなそぶりが一切なかったから忘れていたが、シシリアがエドワードを気にかけていた時期は確かにあったのではあるまいか。
今後、シシリアがエドワードに恋をする可能性だってあるのではないか。
「シシリア嬢? それは、どんな政治的な意図があってですか?」
生憎すぐには思いつかないのですが……と真剣な顔で顎に手を当てたエドワードには、一瞬言葉を失い、次いで重々しくため息を吐いてしまった。
あぁ、どうしたことか。
この弟……やはり、育て方を間違えたのだ。すさまじく。
「そうではないわ。貴方の意思は、どうなのかと思って」
「おかしなことを言いますね。一体、どうなさったのです? 姉上。アーデルハイドの結婚に、政略以外の価値や意味が何か必要ですか?」
そのあまりにも冴え冴えとした物言いは、俄かにエイネシアの胸を突いた。
間違っていない。エドワードの言う通りだ。
この国の、特に一族の伝統と存続を重んじる貴族達にとっては、王国と一族の利益になる結婚こそが義務であり幸福なのだ。
それがアーデルハイド家などという大家になればなおさらのこと。エイネシアだって、永い間ずっとそう教えられ、育てられてきた。
エドワードの返答も当たり前と言えば当たり前で、だがそのあまりにも心無い真っ直ぐな言葉は、どうしようもなくエイネシアを責め立てた。
だって。もしそうならば、この“心”はどうしたらいいのだろうか?
エドワードを見て頬を赤らめはにかむアンジェリカの、その心は?
どこかで誰かを思い、必死にその想いを伝えているであろうアンナマリアの、その心は?
今……エイネシアが“個人的感情”で揺れている……その人へ抱く、その心は? どうしたらいいのだろうか。
その不安が顔に出たのか、「姉上」と呼びかける少し柔らかい声色が、エイネシアの顔をあげさせた。
「ご心配なさらずとも、姉上を政略の道具になど、もう二度とさせませんよ。姉上はもう充分に、その勤めを果されたのですから」
掴まれた手は優しくて、その言葉はとても心強い。
でもどうしてだろう。心強いはずのその言葉が、とても怖い。
政略の道具にはしない。それは同時に、政略になり得る結婚は認めない。そう言っているようにも聞こえる……。
「そんな心配を……しているわけでは、ないわ」
「それなら良かった。らしくないことを言い出したので、一体どうしたのかと心配しました」
らしくない。そうだろうか。あぁ、そうかもしれない。
もうずっと長い間、エドワードにとってエイネシアとは、ヴィンセントのためだけにあり、ヴィンセントのためだけに尽くしてきた姉なのだろう。
そうではない姉を、エドワードは知らない。
アンナマリアは、今どこで、何をしているのだろうか。
アンナマリアが不安そうな顔で口にした想い人は、彼女にとってどんな相手なのだろうか。
エドワードは……それを、どう思うのだろうか。
「もしや、姉上がお気になさっているのは、アン王女のことですか?」
思いふけっていると、唐突にそう言われたものだか、驚いて顔を跳ね上げた。
はて。もしかして。やはりエドワードは、アンナマリアに会ったのだろうか、と。
「何か仰っておられた? エスコートをお願いされなかった?」
もしもそうなら、と焦燥にかられながら問うたところで、エドワードがキョトンと首を傾げたものだから、俄かに肩を落とした。
いや……アンナマリアがエドワードを誘ったが、エドワードに断られた、なんてシナリオでなかったことについては安堵するのだが、しかしおかげでアンナマリアの“意中の人”がさっぱり分からなくなってしまった。
「今朝廊下でお会いした他に、今日はお見かけしていませんが。そういえばお姿が見えませんが、アン王女はどちらに?」
「それは……その」
どう答えるべきだろうか。
誰かに想いを伝えに行っている、なんて真実を口にしたら、このエドワードはきっと眉を顰めるに違いない。
その気持ちも分からないではなく、でもだからこそアンナマリアを応援したいのだが、それはアーデルハイドの娘としては無責任が過ぎるだろうか。
「少し……探し人のようで、席を外したの。大丈夫よ。護衛が一緒なはずだから」
「探し人……」
ふと思いふけるエドワードに、何故か無性にドキドキと不安で胸が高鳴った。
もしかしたら、エドワードには思い当たる人物がいるのではないだろうか。いや、だがそれは思い当たるべきなのか。思い当たらないべきなのか……。
「あぁ。そういえば今日は殿下がいらっしゃるんでしたね。そちらでしょうか」
「…………」
殿下……。
「ん?」
んんん?
殿下? 殿下がいらっしゃる、とはどういう意味だろうか。
王女殿下が? いやいや。アンナマリアがいない話をしているのに、“今日は王女殿下がいらっしゃるんでしたね”は絶対に文脈としておかしい。
では他には? 他に今、殿下と呼ばれる人物は?
「……え?」
「姉上? まさか、お聞きになっておられませんでしたか?」
驚いたようにエイネシアを見やったエドワードの面差しが、すぐにもふっと陰りを落とす。
その思案にふける険しい面差しを見ると、嫌な予感しかしない。
「まさか……でも。どうして」
「申し訳ありません。てっきり姉上のお耳にも入っているものかと。アルから、何も聞いていませんか?」
「アル? アルフォンスなら、先日近衛の詰所まで送っていただいたのを期に、護衛の任も解かれたから。それ以来お会いしていないわ。お礼の手紙をやり取りをしたくらいで」
元々アルフォンスがエイネシアに付き従い星雲寮に滞在を続けていたのは、先だっての誘拐事件の犯人が捕まっていなかったからだ。再度狙われる可能性も無くはなかったため、捜査の一環として、護衛を付けて下さっていた。
その事件が片付き、悉く犯人が捕らえられた今、本来王族のために存在する近衛をいつまでも公爵令嬢が護衛にお借りしているわけにはいかず、当然、すぐにその任は解かれ、アルフォンスも星雲寮を去って本職に復帰した。
それからまだ何日も経ってはいないけれど、少なくともアルフォンスとはそれきりだ。
「名目は王族による王立学院の巡検と、先日近衛が学院内を乱した騒動に対するお詫びだそうです。しかし実際は、アイラ嬢のエスコートが第一の目的でしょう。大衆の前で彼女が許嫁となったことを明確に示そうという意図かと。アルは近衛に御幸警備の任がきたと、私に報せてくれました」
近衛が動くほどの殿下となれば、もう間違いない。
「まさか……本当に、殿下が? 卒業したはずの、“王太子殿下”が、いらっしゃるというの?」
そうすっかりと顔を青くして息をひっ詰めたエイネシアに、エドワードが心配そうに肩に手を添える。
エドワードも、エイネシアはもう完全に吹っ切れているからこそ、何の心配もない様子でここにいるのだと思っていた。だがこんな様子を見れば、前もってその話をしておくことができなかった自分が歯がゆい。
何ならもう早々と退席してしまうべきか。
そう上座を窺ったところで、奥から学院長と共に白と青の純正装を纏ったヴィンセントの姿がチラついたものだから、はっとしてエドワードがエイネシアの前を庇った。
それに気が付いたエイネシアも、上座を窺ってすぐに身を小さく潜める。
変わらない。
何ら変わることのない、その人。
学院長と話をしながら、ゆったりと上座横の戸をくぐり、それに従い音楽隊が王太子殿下入場の音楽を奏でるべく、流していたワルツを鳴り止ませる。
途絶えた音楽に、ザワリと座がざわめいて、何事かしら、と人々の目が彷徨う。
やがてその視線が上座を向こうとした瞬間。
バーーンッッ、と下座で鳴り響いた音が、場内に一歩を踏み出そうとしたはずの王太子の足を止め、近衛がその行く手を遮った。