3-21 真夏の太陽
その日の夕方、近衛のザラトリア騎士長からエイネシアへの招請状が届いた。
なので翌日は簡易なドレスを纏い、エドワードとアンナマリアに見送られて馬車に乗り込み、近衛の詰所に向かった。
そこで、騎士長から直々に事件の全貌についての説明を受けた。
ベイクウェル子爵が語った子爵夫人のことや、夫人が今なお黙秘を続けていること。子爵家の温室にスースラの眠り薬が栽培されていたこと。他にも複数種の麻薬となる薬があり、薬室員が派遣されて検分に当たっていること。
それからもう一つ。“護衛が邪魔なら殺して良い”と、そう指示したのが子爵夫人当人だったらしいこと。アーマンドは、心無い子爵夫人の一言のせいで亡くなったのだ。
事件の取り調べは今しばらく続くとの事だったが、ひとまずのそうした概要を聞いた後、今度は前日の子爵令嬢の犯した事件についてを尋ねられた。
すでに本人の証言に基づいて七星寮の面々にも聞き取りがなされているらしいが、何しろ七星寮は、内部が二分化しつつあるといってもアイラ達一派の影響の強い場所。あまり有益な証言は出ていないようだった。
そんな中、エイネシアはメアリスやカレンナ、グエンらの証言を包み隠さず伝え、その上で、今回の件は学院内での勢力争いに近い事件であって近衛の介入を望んではいない事。七星寮内部で起きた事件なども考慮し穏便に済ませたいことなどを伝えた。
ザラトリア卿も初めは神妙な顔をしていたが、首謀者であるレイジーが深く反省している点と、レイジーを突き動かしたであろうメアリスに関しては自分に処置を任せて欲しい、というエイネシアの申し出に最後は頷いてくれた。
エイネシアが政治的な駆け引きを理解できていて任せるに足る人物と判断されたことも一因だが、学院内の件に近衛が積極介入できないことも一因だろう。
くれぐれも気を付けるようにとの念は押されたが、つまるところ、これでこの一件は一応の決着を見たわけである。
なにやらぽっかりと清々しいようで、また新たな胸の支えが生まれたような心地の中、ふぅ、と、暑い夏の空を見上げてため息を吐く。
終りはしたが、どうにも後味の悪い事件だった。
「このような陽射しの中ぼうっとしていたら、融けてしまいますよ、お姫様」
ぼうと突き立っていたら、突然頭上に影が落ちた。
ほんのりと降ってきた古書と淡い薔薇の香りと。そして耳触りの良いおっとりとしたその声色に、顔を跳ね上げる。
「アレク様……」
どうしてこの人はいつもいつも、普通の現れ方をしないのだろうか。
「なんてね。やぁ、シア。今、近衛からの帰りかい?」
「あ、はい。あの、どうして……」
どうしてこんなところに、と尋ねようとしたが、すぐにもいつもと違うアレクシスの“きちんとした”格好に気が付いて、あぁ、そうか、と眉尻を下げた。
すっかりと忘れかけていたが、これでも一応大公殿下。彼が日中宮中にいることは別段ちっとも珍しいことではない。まぁ、そんな宮中の外れである近衛の詰所前にいるというのは充分に変かもしれないけれど。
「会議をさぼってジルの執務室でゴロゴロしていたら、騎士長宛ての書類を渡されてしまってね。ちょっとお使いに」
「……お父様」
あぁ、もう本当に。なんという怖いもの知らずの父なのだろうか。
仕事をさぼって居座る大公にイライラとしてきつく当たる、なんて光景は残念ながら容易に想像することができてしまい、だがだからといって、よりにもよって王弟殿下をこんなところまで使いっぱしりさせるというのは如何なものか。
そんなのは侍従なり書記見習いなりにやらせる仕事だ。
「はっ……もしかしてジルは、シアがいると知っていて私を……」
「お父様がそんな配慮をなさる御方だと?」
「……あぁ、うん。無いね。絶対に無い」
そう断言したアレクシスに、エイネシアもつい苦笑してしまった。
でもまぁ、お陰でこうして、思いがけないところでこの人に会えた――。
「それでシアはこんな炎天下の下で何をしていたんだい? 迎えの馬車は?」
「帰る前に宰相府に寄って、父にこの件の報告をするつもりなのです。騎士長が馬車を用意してくれようとはしたんですが、気晴らしに歩こうかと」
「私も外廷に戻る所だ。気が利かない殺風景な風景だけれど、デートといこうか」
そう手を差し出したアレクシスに、「またそのような言い方をなさるんですから」と頬を染めて俯いた。
思えば、彼に会うのは“あの日の夜”以来。
『子供扱いをやめようか?』
そう間近に囁き、この頬に触れたその体温が記憶に新しく、伸ばされた手を取るのがどうしようもなく躊躇われた。
だから、どうしよう、と佇んでいたら。
「あぁ、でも今日は手よりこっちだね。こんな陽射しの下にいたら、シアの綺麗なプラチナの髪が傷んでしまう」
そう言ってエイネシアの頭上を覆っていた影がほんのりと深くなる。
その日陰を見上げてすぐ、アレクシスが上着を引っかけた腕で影を作ってくれていたのに気が付いた。
「いえ、私なら大丈夫で……」
「そう? ではやはり手にする?」
クツ、と笑いながら口にされた提案には、かぁぁ、と頬が赤くなって再び硬直してしまう。
そんな様子をクスクスと可笑しそうに笑うその人に、からかわれたのだと気が付いたエイネシアは、むっとして見せて、大人しくアレクシスの上着の下に潜り込んだ。
まったく。この人はいつもいつも……。
そう頬を膨らませながら歩き出したところで……はっとした。
歩くたびにふわりと揺れる上着。その度に鼻腔をくすぐる、甘い香り。掲げてくれているアレクシスの腕が辛くないようにと自然と寄り添ってしまった先で、思わず触れた体。
その衣がいつもより薄くて。体温が近くて。とんでもなく、心臓に悪い。
早まったかもしれない、と、思わず距離を置こうとしたところで、掲げられている腕が俄かに狭められて、逆にもっと近くに促されてしまった。
今にも触れてしまいそうな体に、緊張で身を強張らせる。
いつもの香りに交じって、お日様と、少しの汗の匂いと。そのすべてがいつも以上にその人を近く感じる。
折角日陰を作ってもらっているのに、むしろ冷や汗がただただと背中を濡らし、その度に、汗臭くないかしらっ、なんて心配に不安が募り。一体今までどうやってこの人と接していたのかさえ分からなくなって。会話という存在さえも忘れたまま、ただおろおろとばかりしていた気がする。
そしてそんな時間はさほど長くは続かず。
気が付いた時にはもう外廷の脇道に入っていて、ふっと頭上から影が引いた瞬間、驚いて顔を跳ね上げてしまった。
なんというあっという間の時間だったのか。もう、屋根の下まで来てしまった……。
「ん? 物足りない?」
でもそんな表情を読まれたのか、クスリと笑ってそんなことを言ったアレクシスには、「違いますっ」と慌てて反論してしまった。
何でこういつもいつも、素直になれないのか。
「ではここからは此方にどうぞ、お姫様」
とんでもなく緊張して、近付きたくないなんて思っているのに。なのにそう微笑んで手を差し伸べた彼の手に、気が付けば自然と吸い込まれるようにして手を重ねていた。
昔から知っている、大きな手。華奢だけど長い指と、ごつごつと骨ばっているけれどやんわりと柔らかに握りしめてくれる。
そうやって手を引かれるのは、何度目だろうか。
それは不思議と安心して。
ずっとずっと握っていたくて。
離したくなくて。
離されたくなくて。
ドキドキと跳ね回る心臓が痛いくらいなのに、彼の手を握り返す自分の手だけは、逆にどんどんと強まってゆく。
言葉もなく、ただ手を引かれて歩くだけの歩きなれた宮中の景色は懐かしく。
その景色の中に見るアレクシスの姿に、ただただとても安堵する。
だからだろうか。
かつてそこを並んで歩いたはずの幼い頃の幼馴染の姿なんて、ちっとも脳裏には過らなかった。
周りの人の目なんて。
ちっとも、気付かなかった。
気付けなかった――。