3-20 お茶会騒動(3)
「事情の説明をしていただきたいわ」
状況がひとまず落ち着いたところで、まずは日頃から近衛に護衛される側の立場であるアンナマリアが早速そう求める。
だがその問いに、「説明は私から」と進み出たのはエドワードだった。
「どういうこと? エド」
姉であるエイネシアがそう促したところで、エドワードの視線が、悲痛の顔で大人しく近衛に捉えられている少女をチラリと見やる。
「まずは勝手な判断を申し訳ありません。表に出たところで近衛に寮への踏込の許可を求められ、ザラトリア騎士長の正式な令状と学院長の許可証を携えていたため、“危急である”との事情をお聞きし、私が独断で入寮を許可いたしました」
「その件は構いませんわ。貴方に手抜かりが有るだなんて思っていないもの」
そう少し微笑んで見せたところで、エドワードの面差しも少しだけ緩んで、またすぐに引き締めなおした。
「それで、事情とは?」
レイジー嬢のことであるのは分かったが、だが何がどうなって、近衛がこんなところまで“危急”でレイジーを追ってくることになったのか。
「それは姉上。春の一件のこと……よもやお忘れではないかと思いますが」
「え? 春?」
突然思いがけないことを言われ、思わずエイネシアは首を傾げた。
勿論、忘れたわけではない。春の一件。それは要するに、王国誕生祭の大茶会の最中、町に向かっていたエイネシアを襲った賊がいたという、あの一件のことだろう。
「それがこの件と、何か関係が?」
「例の首班の一人と目される女性の身元が割れ、昨夕、その関係者が捕縛されたそうです」
「えっ?!」
それは近衛が総力を挙げて調べ続け、それでも中々つかめなかった情報であり、そしてあの一件を解き明かすための最大の鍵でもあった。
それが分かったというのか。
「“ベイクウェル子爵夫人”。それが、姉上を襲った侍女の仕えていた主だったと」
愕然とした視線が、一つ、二つと、ぐっと口を引き結んだ少女を見た。
ベイクウェル。それは彼女、レイジー・ベイクウェルの姓ではなかったか。
だがどうしてだ。
エイネシアは、レイジーのことがあるまでベイクウェル家なんて家名さえ知らなかった。
レイジーの怪我に対して、実家である子爵家が学院側に何の苦情も言って寄越さないことを変に思ったエイネシアは、念のためアルフォンスにベイクウェル子爵のことも調べてもらったが、どうやらカレンナが言うところのレイジーと良く似た、厳格で、正義感の強い人物との評判だった。
ましてや子爵は、宰相アーデルハイド公派が圧倒的に多いとされる官僚という職にあり、財務官僚として実に誠実に勤めているとのこと。まず間違っても、アーデルハイド家の公爵令嬢を誘拐する事件になんて関与しそうにない人物だ。
フレデリカの命があったにしても、ならず者を雇ったり、その彼らに協力者である侍女を殺させたのは、まず間違いなくその侍女の主人の命であり、それ故に、近衛も必死になって侍女の身元を調べた。
だがまさか、そんなベイクウェル子爵が、それを命じた黒幕の一角だったというのか。
「子爵家は昨夕より蟄居閉門し、近衛の監視下に置かれましたが、夜の間にそちらのレイジー嬢が屋敷を抜け出し逃亡したため、近衛が追跡を。マクレス卿の通報により、居場所が学院内と割れて、こちらに」
近衛が星雲寮にやって来た事情は分かった。
だが、エイネシアに何のかかわりも無い子爵家が、どうしてエイネシアの誘拐事件に加担するようなことになったのか。
「ベイクウェル子爵が……何故、私を?」
そう問うたところで、「違います!」と、レイジーが顔を跳ね上げた。
すぐにも近衛がレイジーを抑え込もうとしたが、「構わないわ」と促したエイネシアの言葉に、警戒心だけを残して手を緩める。
緩んだ拘束に、今度こそはっきりと顔をあげたレイジーは、初めて、エイネシアの顔を真っ直ぐと見据えた。
「父は……父は、関係ありません。何もしていません! 何一つッ。何一つ、知らなかったんです! それにっ……」
私も、と。そう呟いたか細い声に、「知らないで許されるわけないでしょう」「馬鹿な女」と、双子の嘲るような笑い声がしたことで、エイネシアもハッとして目を細めた。
あぁ、そうか。そういうことか。
この双子は、フレデリカのお気に入り。フレデリカの手足となるメイフィールド家の子女子息。
知っていたのだ。最初から。
エイネシアを襲ったその事件の犯人。フレデリカの命を受けたメイフィールド伯だかシンドリー侯だかが、その実行犯を“誰”に託したのか。
そしてこの学院に入学してからもずっと、彼らは知っていたのだ。
自分達に正論を振りかざして反発する、一人の正義感の強い少女が、重たい罪を犯したばかりであるベイクウェル家の令嬢であることを……。
何も知らず、悪は断罪されるべきと声高らかに叫ぶその少女……そんな彼女を、彼らはただ口を噤んで嘲笑っていた。
彼女が、その正義と真逆のことを行なった人物を見落とし、親しんでいるという事実を。
だがさて、どうしたことか。レイジーは、子爵は関係がないと言っている。
「エド……」
「レイジー嬢が言う通り。子爵は関係ないようです。指示を出したのは、夫人だと」
「子爵夫人?」
ということは、レイジーの母ということだろうか。
「母は脅されたのよッ。いう事を聞けと、命じられただけなのよ! “フレデリカ妃”に!」
誰もが慮って口にしないことを、さも堂々と口にしたレイジーに、ハッと皆が眉を顰めて少女を見やる。
分かっている。分かってはいるけれど、と、同じく眉を顰めたエイネシアは、チラリと傍らのアンナマリアを窺う。
その顔はとても気丈としていたが、しかし一度は手放したはずのアルフォンスの背中を、今再びぎゅっと握りしめている様子をみれば、それがやせ我慢であることなど一目瞭然だった。
たとえどんな人であろうとも、それはアンナマリアの母なのだ。
「あら、どうしてそこでお義母様のお名前を出すのよ。根拠は? 事の次第によっては、貴女、酷いことになるんだから!」
そこに聊か語彙の乏しい声を荒げたのはアイラで、アンナマリアよりよほどフレデリカを擁護するような物言いをしたアイラに、「そうだそうだー」と、実に無感情な双子の野次が続いた。
それもそのはず。双子は、その後にレイジーが明かす事実を、先んじて知っていたのだろう。
即ち、レイジーの母の、その出自について。
「母の姓は、シュミット。クレニー・ブラウン・シュミット!」
レイジーがそう言った瞬間、アンナマリアが、「え?」と、驚きの声をあげる。
名を聞いたところでエイネシアにはちっともピンと来なかったが、しかし見る見る顔を青くしていくアンナマリアを見ると、それはおそらくアンナマリアの知っている名前。
「シュミットって……シュミット、伯爵家? まさか」
そう問うアンナマリアに、レイジーが悔しそうに頷いた。
「アン王女?」
「シュミットは、メイフィールドの縁戚よ。あぁ、いえ、少し違うわね。外戚というのかしら? フレデリカの母……私の祖母が、シュミット家の出身だったはず。でも確か直系は絶えていて、縁戚から養女を取って女伯となっているとか……他に縁戚なんて」
聞いたことが無い、というアンナマリアに、「嘘じゃありません」と、再びレイジーが声をあげた。
「現女伯は母の姉で、フレデリカ妃の母テレーゼ・ブラウン・シュミットの末の妹のレイーザの孫です。レイーザは、一度は他家に嫁ぎましたが、当時の当主の子が皆病で早世したため、レイーザの娘が生んだ二人の娘の内の一人が養女として引き取られたんです。それが現女伯。私の母は、女伯が爵位を継いだ時に実の妹としてシュミットの家名を許されています。ですから遠縁ではありますが、紛れも無くシュミット家の縁戚です!」
「そういうこと……」
それなら私が知らなくても無理ないわ、とアンナマリアも納得したところで、同時に、どうしてそのレイジーの母がそのような凶行に及んだのかも察せられた。
直系が絶えたシュミット家。その跡は末の妹の子孫が継いだというが、長女はテレーゼ。即ち、メイフィールド家に嫁いだフレデリカの母なわけだ。
アンナマリアの様子から見ても、フレデリカはそのシュミット家とかなり疎遠だったことが見て取れたが、しかしシュミットの血に連なる者がフレデリカに頭が上がらないというのは、要するにそういった家の事情があるからに他ならない。
だからレイジーは、母はフレデリカに命じられて逆らえなかっただけだと主張するのだろう。
だが……果たしてどうなのだろうか。
母を思うレイジーや、そんなレイジーに同情の眼差しを向けているカレンナには悪いが、生憎とエイネシアには、そのクレニー夫人を擁護する気にはなれなかった。
レイジーは、あの亡くなった侍女のことを見知っていないのだろうか。
服の下に隠されていた沢山の折檻の跡。口に沁みついた謝罪の言葉。おそらくは主の命で口封じされたであろう、彼女の冷たく息絶えた骸。涙を流し、すみません、すみません、と何度も口にしながら眠り薬を爆ぜさせた最後の姿。
そして何より、指示を出したその人物のせいで、罪も無い一人の若き近衛が命を落としたのだ。
アーマンド・イースリー。忘れもしない。ただ、エイネシアを守ろうとしてくれただけの、上王陛下の騎士。
そのことを知っているからこそ、周りの近衛たちも皆誰一人として同情のかけらもない厳しい面差しで、レイジーを捕らえているのだろう。
これは、彼らの同僚でもあったアーマンドヘの、弔い合戦でもある。
「そうよ……レイジーはとても純粋で、正義感が強くて……そのお母様が、好んでそのようなことをするはずが……」
レイジーを慰めるかのようにカレンナがそう口を開く。
だが、「それはどうでしょうかね」と言った冷ややかな一人の近衛の声色に、その口を噤まされた。
「バートン・マーチェスと申します。発言をお許しいただけますでしょうか、殿下。姫様」
そう律儀に許しを請うた騎士に、コクリと頷いて見せたエイネシアの視線を受け、「許可します」と、アンナマリアが許しを出す。
「姫様は御覧になったかと思いますが……姫様の誘拐に加担した件の侍女の体には、恒常的な虐待の痕跡がありました」
早速の厳しい指摘に、ビクリとレイジーが体を震わせる。
「夫人がひどい癇癪持ちであったこと。姉が女伯であることを笠に着て、使用人に辛く当たるばかりか、夫である子爵のことも大層無碍に扱い、罵りは日々絶えなかったと聞いております」
「酷いことを言わないでください! 母はそんなッ」
レイジーは反論をしようとしたが、それを冷ややかに見たバートンは、容赦のかけらも無く、「これらはすべて、捜査に懇親的に協力をしてくださっているベイクウェル子爵の証言です」と言ったものだから、レイジーも顔を真っ青にして口を噤んだ。
ましてやその面差しは、恐ろしい物でも見るかのごとく、双子やメアリスらのいる方向を向く。
「レイジー。言いたいことがあるのであれば、聞くわ。仰って」
その視線を見て取ったエイネシアが、極力声を和らげて言い出しやすいようにと声をかけると、恐る恐る、その視線がエイネシアを向いた。
それから次いで、チラリとバートンを向き。
「父は……父は、近衛に捕まったのでは、ないのですか?」
そう言ったものだから、はて、と、バートンも首を傾げる。
「我々が昨夕捕らえたのは、子爵夫人のみです。その他複数の屋敷の者達には同行を強要しましたが、子爵家に対しては蟄居閉門のみ。屋敷内の捜索を終えるまで、子爵には近衛の監視を付け行動の制限をお願いはしましたが、今のところ罪に問われるような罪状は何も出ておりません。それは昨夕、貴女にもご説明したはずですが」
「でもそのすぐ後に父は出て行って……近衛に捕まって、これから重たい罪に問われるだろうって……。何かとんでもないことをしてしまったからって……そう」
そう、“彼らが”、と。レイジーの見やった先で、クスリと、双子が口を緩める。
あぁ、やっぱり。彼らが裏にいる。
でも彼らは首班ではない。レイジーを直接突き動かしたのは、そこで今にもレイジーの口を塞いでやろうかという怖い顔をしたメアリスだろう。
双子はただ、見ていただけだ。
何もかも。
そう……ここで、本来ならば何の罪も犯していなかったはずの、ただクレニー夫人の娘であったというだけのレイジー嬢が、罪を犯す所を。
「では私は、何の為にこんな危険なことをッ」
「それは、貴女が罪を犯そうとしたことと何か関係があるの?」
クスクスッ、と、嘲るような笑い声と共にこぼされた、フリージアの声。
声のトーンこそ不愉快だったものの、その言葉はまったくそのまま、エイネシアが胸中で呟いた言葉と同じだった。
「その通りです」
フリージアの言葉に頷いたバートンは、青い顔のレイジーを、厳しい顔色で睨む。
「子爵は、黙秘している夫人に変わって、知り得ることを話してほしいと要求した我々に対し、『ここでは何も知らない娘が話を聞いてしまうかもしれない』と、自ら近衛の詰所に場を移してほしいことを申し出たんですよ。夫人の行いを、母を慕っている貴女に聞かせないために」
「ッ……」
「それがよもや子爵が粛々と夫人の罪を償うべく捜査に協力下さっている間に、ご令嬢がアーデルハイド公爵令嬢に対し再び害を加えるような行動を取ろうとは……」
お父上がお聞きになれば、一体どれほど落胆しお嘆きになることか、と続けたバートンに、レイジーはようやく自分の重たい罪を自覚したかのように、声にならない声を溢し、涙を溢れかえらせた。
そんなレイジーに、いてもたってもいられず駆け寄ったカレンナが、その肩に手を添え、涙を指先で拭う。
留めなく溢れる涙を何度も何度も拭うカレンナに、レイジーもたまらず、嗚咽を溢して縋りついた。
「ごめ、んなさい。ごめんな、さい。カレンナ様。私っ……厳しいけれど、公正な父が好きで。そんな父のようになりたいと、そう思っていたはずなのにッ」
「……ええ。だから寮にいた時、貴女は勇敢に正義を貫いたわ。私には、眩しすぎるくらいに」
「私、嬉しかったのにっ……カレンナ様に、私の正義が羨ましいと言われて。とっても、嬉しかったはずなのにッ。なのにこんなことっ。公爵家の姫の印章を……盗んで。それで、それで……」
「レイジー……ごめんなさい。私は結局、貴女を助けてあげられなかった。今度も、私が気が付いて助けてあげるべきだったのに。ずっと、見ていたはずなのに。なのにまた、何もできなかった」
そうポロポロと泣くカレンナに、そっとグエンがその背を撫でて宥める。
厳しい顔で彼らを取り囲む近衛への配慮であり、それに気が付いているカレンナも、もう少し。もう少しだけ、と、ぎゅっとレイジーを抱きすくめてから、ゆっくりと、その手を解いた。
「レイジー……どうか、ちゃんと罪を償って」
「……はい」
「もしかしたら、その……簡単では、ないかもしれないけれど……」
言い辛そうにするカレンナに、一度ぎゅっと口を引き結んだレイジーは、それにもコクリと頷いた。
もしかしたら、貴女のお母様は重たい罪に問われることになるかもしれない。それを乗り越えるのは、簡単ではないかもしれないけれど、と。そんな秘められた言葉も諸共に。
「カレン……」
もうそろそろ、と、声に出して促したグエンに、カレンナも一つ頷いて、ゆっくりとレイジーの傍を離れる。
すぐにも一時レイジーを解放した近衛が再び彼女を拘束しようとしたけれど、咄嗟に「手荒にしなくて良いわ」と口にしたエイネシアに、彼らはふと視線を寄越して手を止めた。
「エイネシア様……」
つい口を出してしまったことに、エイネシアは、しまった、と己の口を呪ったのだが、カレンナの不安そうな声色を聞けば、やはりこれで良かったのだとそう思う。
「ここは学院です。手荒な連行をなさって、過度に学生達の不安を煽るようなことは避けていただきたいのです。本人も反省の色が濃厚のようですし、出来ることならば、穏やかに。自分の足で連れていって差し上げて下さいませんか?」
なので改めてそう理由付けをしながら申し出たところで、一糸の乱れも無く、ドンと胸に拳を打ちつけた近衛達が、「ご指示のままに」と了承の意を告げた。
公的な身分は公爵令嬢であるものの、一応は王族の血縁、三世以内の血筋だ。近衛の面々が自分の言葉に従ってくれたことは幸いだった。
だがそれ以上に、何やらようやく、ずっと胸につかえていたものが解けて行ったような解放感があり、エイネシアは一つ大きく息を吸うと、ゆったりとそれを吐き出した。
思えばあっという間のようで、そして長い数ヶ月だった。
訳も分からない誘拐事件と、意味も分からぬ誰かの死。
それから何一つ動きが見えなかったことで、胸のつかえだけが残って、ただ延々と無為に毎日が過ぎていた。
事件の事なんて半ば忘れかけていて、でもそれでもつかえて離れなかったもやもやとした感情。
でもようやく、それが終わったのだ。
ようやく……アーマンドを本当の意味で、弔えた気がする。
「バートン卿。一つ、お伺いしても?」
今にもレイジーを連れて出て行きそうな様子の近衛に、今一度、エイネシアが声をかける。
「お答えできることでしたら、何なりと」
「アーマンドを……アーマンドを害した者達も、皆捕まったのかしら?」
不安そうに問うたエイネシアの言葉に、一度パチリと目を瞬かせたバートンは、すぐにもその顔をほころばせると、騎士が取る敬礼ともまた違って、ただただ深く、深く、謝意を示すかのようにエイネシアに頭を下げた。
「賊はすべて、一人残らず、捕縛、ないし討ち取ってございます。あの事件に関与した者はすべて、近衛の手中。当事者である姫様にご報告が遅くなりましたことをお詫びします」
ほぅ……、と、思わずエイネシアは吐息を溢す。
「あぁ……良かったわ。本当に、良かった……お手間を取らせてごめんなさい」
どうかもう行ってください、と促したエイネシアに、それでもバートンは今しばらく頭をあげずに、じっとして肩を震わせた。
「姫様……」
「はい?」
「アーマンドを覚えていて下さったこと……有難うございます」
近衛と雖も、アーデルハイド公爵家の姫君に私的に話しかけることは無礼ともなり得る。
だがそれでもなお、声を震わせてそう言ったバートンの言葉からは、彼がアーマンドと親しい人間であったことを察させた。
職務と言うばかりでなく、亡き彼の為にと事件を追い続けてくれた人がいたことが、まるで自分のことのように嬉しい。
そしてこの事件解決が、ただただ嬉しかった。
今一度エイネシアとアンナマリアに深い礼を尽くした近衛が、レイジーを引きつれてぞろぞろと部屋を退出してゆく。
エイネシアの視線に促されたエドワードが、すかさず彼らを門の外まで送り出す役を買って出て、彼らと共に部屋を出て行った。
締め切られたカーテンのせいで、どこか物々しい威圧感に包まれていた部屋も、彼らが去っただけで随分と空気が軽くなる。
だがそれでも今なお、暗雲の立ちこめた気配があるのは、カーテンのせいではない。
そこにいるエイネシア達と、マクレス、それに双子やメアリス達。その両方の間に、探り合うような緊張感が残っているせいだ。
とりわけカレンナとマクレスの鋭い視線が、その緊張感をピリピリと高めていく。
そんな張りつめた空気の中で。
「ちょっとっ。あの人達、何?! 何だったの?!」
そう空気を微塵も読まないむすっとした声色に、ポカン、と皆の視線が集まった。
「な、何よっ。私じゃないわよ?! 私はレイジーに、何も盗めなんて言っていないし、そもそも、えーっ、何?! 何なの?! 結局レイジーは何をしたの? 誰かを殺したの?!」
酷く軽々しい声色でそんなことを言ったアイラ嬢には、「なっっ」と、カレンナが顔を引きつらせた。
それはそうだろう。今のところのレイジーの罪は、近衛監視下にあった屋敷からの逃亡と、学院並びに星雲寮への不法侵入に窃盗未遂。あとは、窃盗を働こうとした相手がくしくも王家に連なる公爵令嬢であったことから、不敬罪が適応される可能性があるが、間違っても殺人罪などありはしない。
あまりにも軽率な言葉だった。
「違う違う。ただの不法侵入」
そう正したのはフレイゼンで、かといって彼らがレイジーを擁護する側なわけではない。
「貴方達、あの子に何かしたの? 何かすっごく睨んでいたわよ?」
そう微妙なところにだけ鋭いアイラに、「おっ。良く気がついたねー」なんて、馬鹿にしたようなことを何気なく口にする。
「でも、別に何もしてないよ? 突然訪ねてきて、両親が近衛に連れて行かれた。何か知っているのか、みたいなことを聞かれたから、『何かしちゃったんじゃない?』って答えただけ」
「そうそう。でも近衛が動くなんてよほどの事だから、心配ね、って、そう言っただけよ」
ねー、と顔を見合わせる双子に、「ふぅん、そう」と、最早あまり関心もなさそうに、アイラが首を傾げる。
そのあまりにも軽い様子には、カレンナが拳を握って何か言おうと口を震えさせたけれど、それはグエンが俄かに肩を掴んで制した。
この混乱しきった様々な立場の者達が介する場所で、一件を再びこねくり回すのは望ましくないという、冷静な判断だ。
正直エイネシアには、今はその判断がとても有難かった。
とてもじゃないが、アイラにメアリス、それに双子とカレンナ。そのバラバラな思考と思惑に、一つ一つ対処をする余裕はなかった。
今とにかく一番最初に片付けるべきは……余分なものの排除から。
「突然のことで、驚いてしまいましたわね、皆様。これではもう、お茶会どころではないわ」
そうではありませんこと? とアンナマリアをみたエイネシアの突然の申し出に、「え、あ、えっ」と一瞬たじろいだアンナマリアも、すぐに意を悟ったのか、「それもそうね」と賛同する。
「こんな空気では、楽しくお茶会なんて続けていられないものね」
「お客様にもご不快な思いをさせてしまいましたわ」
そうエイネシアがため息を吐いて見せたところで、“ご不快な思いをさせた”という言葉がお気に召したのか、ピクリと耳を動かしたアイラが、嬉々として目を輝かせてくらいついた。
「えぇ、本当に。こんなに恐ろしいお茶会、初めてですわ! あぁ、でもエイネシア様のせいというわけではないのだけれど」
そう言って震えてみせるアイラに、「近衛がアイラ様を傷つけるわけないじゃん」「だってヴィンセント兄様の許嫁なのよ?」だなんて、双子がアイラを囃し立てる。
「そうなんだけれど……でもおかげですっかりと場が白けてしまったわ。近衛の皆さんも、時間と場所を選んでくれないと困るわ」
さも近衛を己の私兵の如く言うその物言いには、一応は近衛に属しているアルフォンスがピクリと小さく身じろぎしたが、今は誰もそれに文句など言わなかった。
目下の目的は、取りあえずこの面倒なアイラさんを追い出すことだからだ。
「ヴィンセント兄様に苦情を言ったらいいんじゃない?」
「そうそう。大体あの人達、次期王太子妃のアイラ様に少しの謝罪もなさらずに帰ってしまわれるだなんて。あんなの、全員クビよ、クビ」
「そういえばそうね! フリージアって、本当によく色々なことに気が付くわよね」
そう微笑んでみせるアイラさんは相変わらず頭の中がお花畑で、聞いているこっちまでお花畑になりそうだった。
「すぐにお手紙にしなくちゃ」
「手紙でいいの?」
「てっきり会いに飛んでゆくのかと思ったわ」
そう笑う双子に、「もうっ!」なんて頬を赤くして見せたアイラが、そういうことだから! と、満面の笑みで、粗雑な礼を問ってみせた。
「では今日はお招き有難うございました、アン王女。エイネシア様。気分を害したので、私はこれで失礼いたしますわね!」
一体どこが気分を害した態度なのだろうかと疑うような弾んだ声。
だがどうやら、すでにアイラの頭の中には“ヴィンセントに手紙”ということしか無いようで、エイネシア達が何かを言う間も無く、「便箋は何色にしようかしら!」なんてフリージアに語りかけながら、ぱっぱと部屋を飛び出して行ってしまった。
それはもう、え、帰るの?! と突っ込みたくなるほどに、ものすごい速さで。
ただそれについて行こうとしていた双子だけが、出て行き様にチラリと振り返って、エイネシアを見やる。
そのかちあった視線と、クスリとしてやったり顔で笑った二人と。
「また遊んで下さいね、お義姉様」
「今度はもうちょっと、楽しいネタでね」
そう去ってゆく二人に、エイネシアは一つ、重たいため息を吐いてやった。
分かったような気がしたけれど、やっぱりあの二人は良く分からない。
善とか悪とかでは量りかねる連中だった。
取りあえず、もう今日は大人しく退散してくれるようではあるが、しかしそれで油断して痛い目を見るのは御免なので、一応すぐにもアルフォンスに、「寮の外までお送りして」とお願いした。
アルフォンスは、未だこの部屋に残って何やら睨み合っているメアリスとマクレスの様子をチラリと気にしたけれど、「行ってちょうだい」とアンナマリアも頷いて見せたものだから、「分かりました」と彼らを追う。
ただそこは流石はアルフォンス様。
出て行きざま、マクレスの肩に手を置き、「しばらく、殿下と姫様のことを任せる」と囁いて行った姿には、「あれはズルいわ」とアンナマリアが呟いた。
これまでさほど仲が良い方には見えなかったマクレスとアルフォンスだ。なのに突然アルフォンスにそんなことを任されたものだから、マクレスも大層驚いたようで、ポカンとその出て行った先を見つめていた。
その無条件で無慈悲な信頼が、途端にマクレスの口を引き結ばせる。
本当に……アルフォンスさんは、そういうところがズルい。
彼は、天然人タラシなのだ。
そんなアルフォンスと入れ違いで部屋に入って来たのは、シシリアだった。
彼女はチラリとアルフォンスを目で追ったかと思うと、すぐにアンナマリアとエイネシアの傍に歩み寄ってきて、他のお客様に関する情報を伝えてくれた。
「近衛のご指示があって、お客様方は皆近衛の先導でお帰りになったわ。数人の近衛がまだ寮内で取られたものがないかなどを巡検なさって下さっているので、エドワード卿がお相手を。ジュスタスやセシリーは、他の皆とお客様方へのお詫びを手配してくれているわ。あと残っているお客様は……」
そう言ってチラリと部屋の中を見やったシシリアが、一つ眉を顰めて、未だお帰りになっていないお客様……メアリスを睨んだ。
「心配なさらずとも、私もすぐに帰るわよ」
そう鼻を鳴らして出て行こうとしたメアリスだったが、しかしそれは、「待て」と低い声を唸らせたマクレスに寄って引き止められた。
すぐにもメアリスが忌々しそうに目を吊り上げたけれど、元よりきつい面差しをしたマクレスに睨み下されれば、メアリスも思わず口を噤んでたじろいでしまう。
「何よっ。もう用は済んだでしょう! 貴方も早くっ」
「レイジーの件。お前も関わっているのか?」
この場においてそれを率直に問うた厳しい声色には、誰もがドキリと緊張を孕んだ面差しでメアリスを窺った。
「ばっ、馬鹿言わないで! 私が何をしたというのよ!」
「嘘! 私は確かに聞いたわ! フリージア様達とメアリス様が、またエイネシア様の印章を盗もうと話していたのを!」
そこに口を挟んだカレンナに、グッとマクレスの眉間がさらに深くなった。
「聞き間違えでしょう? 私達はただ、アイラ様がヴィンセント王子へ手紙を出す際、自分の名前だといつも検閲に時間がかかってすぐに届いてくれない、と不満を仰っていたから、『だったらエイネシア姫様のご印章でも押して出せばいいんじゃない』という話を、“冗談”でしていただけよ!」
「そんな話ではなく、はっきりと聞いたわっ。確かに、“お茶会の時は手薄になるから”とか、“エイネシア様のお部屋は三階の右奥”だとかっ」
部屋の場所も? と、エイネシアは目を瞬かせた。
一体どこ情報だろうか。去年はアイラ方にいたシシリアだとか、グエンだとかの情報なのだろうか。
まさか部屋の場所まで知られているとは。
「だからそんなの、ただの冗談じゃない! 印章を盗むならお茶会の時ね、なんて、茶化して笑っていただけよ。本当にするわけないでしょう?」
「だったらどうしてレイジーが七星寮にいた」
次いでメアリスをと追い詰めたのはマクレスで、「だから!」と、メアリスが再び声を張り上げる。
「それも私とは関係ないじゃない! 私は何もッ」
「近衛を舐めるなよ」
彼らは必ず、すべてを明らかにする。そう、低く地を這うような鋭いマクレスの声色が、ドキン、とメアリスの口を噤ませた。
ギリリと噛み続けていた唇に血が滲み、忌々しそうにギラギラとマクレスを睨む。
二人の間に何があったかは知らないが、こうした睨み合いはきっと初めてではないのだろう。
怯えながらも、普通なら忽ち萎縮してしまいそうなマクレスの視線に真っ向からはむかう力強さが有り、一歩として譲らない。
「あんたが近衛を良く言うなんて……珍しいじゃない……」
「話をすり替える気か?」
「違うわよ。でもあんたがそんなこと言うから。近衛なんて、家柄だけで就けるお坊ちゃん連中なんじゃなかったの?」
論点のずれた話に一つ息を吐いたマクレスだったが、間もなく、「あぁ、そう思っている」と、メアリスの疑問に答えた。
「だが、だからといって軽んじてなどいない。入隊後の厳しさは軍以上だと知っている。軍と近衛との格差については言いたいことも是正すべきと思うことも多く有るが、それはお前にも関係ない話だ」
「何よ、それ。昔はもっとコンプレックスの塊みたいだったのに、今更、そんな真っ当なことを言うなんてっ」
「俺はザラトリア騎士長を尊敬している」
むっ、と、メアリスが一度口を噤む。
「その教えを一番近くで当たり前のように学んだアルフォンス卿を羨んでいるのは事実だ。家柄だけで王太子の近侍になったことも含めて。今でもあの人は苦手だ。お前の言う“コンプレックス”とやらでな」
「何でそんなに簡単に認められるのよッ」
「苦手だが、尊敬もしているからだ」
「何よ。何よそれ! 貴方、そんな性格じゃっ」
「俺に自分を重ねるな」
ピリリとした声色に、メアリスが目を見開いて拳を握る。
「俺はお前じゃない。お前みたいに、“何が何でも勝たねばならない”などと思っていない」
勝たねばならない? と、エイネシアが首を傾げる。
メアリスは、何かに勝ちたいのだろうか。勝たねばならないと。一体何に対して。誰に対して思っているのだろうか。
エイネシアに対してなのか。それとも……アイラに対してなのか。それともまたまったく別の……。
「うるさいッ! 何も知らないくせにッ。分かったように説教ばかりしないで!」
「汚い方法で得た勝利など勝利ではない」
「良かろうが悪かろうが、勝った方が善よ! 勝ちさえすればそっちが正義ッ。そうでしょう!?」
「勝った方に人心が集まれば善であるかのように言われるが、そうでなければ勝っても負けても悪は悪だ。人と人との関わりを政治や戦争と一緒にするな」
「手段なんて選んでられないのよ!」
ドンッ、と、握った拳で後ろの壁を叩きつけたその震動に、思わずビクリとカレンナが肩を跳ね上げた。
離れていても分かる。感染してしまいそうなほどに強い“焦燥”。
焦って、追い詰められて、必死にもがいて。
ギラギラと瞳孔を開かせたメアリスの姿は、まるで野生の獣のようで、何かとても危うく見えた。
一体彼女は、何をそんなに怯えているのか。
「メアリー……」
何かを恐れるようにしてつっぱって、威嚇して。ただただ孤独に、たった一人で。
「分かってる。分かってるわよ……でもしょうがないじゃない。ただでさえ私が一番、“負け”に近いんだから。“勝つ”のに手段なんて、選んでられやしないわよ……」
ブツブツ、ブツブツ、と呟く声色が少し聞き取りづらくて、「え?」と聞き返してしまった。
だがそれに答えることも無く、「どうにかしないと。自分でどうにかしないと」と呟く姿が益々の不安を掻きたてる。
「メアリス様? 負け、って?」
呟きを耳に入れたらしいカレンナが、困ったように首を傾げる。
恐る恐ると言った風に問うたその言葉には、すぐにもギロリとしたメアリスの視線が鳴けかけられて、もれなくカレンナは驚いたように引き下がったけれど、それを見やったメアリスは、次いでエイネシアの方を睨み据えた。
「貴女じゃないなら、アイラよ。あの子しかいない」
「え?」
「勝つためなら、何だって利用する」
「利用って……アイラさんを? 貴女はアイラさんの、味方ではないの?」
自分で聞きながら、でも確かに、そうは思えない節がいくつもあった、と、エイネシアは目を細めた。
最初におかしいと思ったのは、去年の夏の舞踏会の日。酷く常識破りな、社交界を追われかねないようなドレス姿で現れたアイラに、『とっても素敵でしょう』なんてアイラを調子づかせたメアリスの言葉。本当にアイラの味方なら、あんなドレス止めさせるべきだったのに、そうしないどころか、あるいはアイラにそれを勧めた可能性さえあった。
先ほどの言葉の応酬もそう。料理なんて庶民的なことをエイネシア様がなさるなんて、とアイラが嘲笑った次の瞬間、アイラ様も手作りの菓子を差し上げたことがありますよね、だなんて言って。
印章を盗もうとさせた件だって、七星寮にはすでにグエンという前科があるのだ。なのにまたエイネシアの印章が盗まれ悪用されたなら、真っ先に疑われるのは七星寮と七星寮を取り仕切っているアイラだ。それなのにどうしてわざわざ、“前回と同じもの”を盗ませようとしたのか。
メアリスはいつもどこか、アイラの味方であるような顔をしながら、アイラを貶めているようにさえ感じられた。
だからまさか、と思って訝しんだ視線に、メアリスが深く眉を顰める。
「本気で言ってるの? あんな“頭のおかしい馬鹿”に、本気で従うわけないじゃない」
何やらゾクリと嫌な予感と、嫌な気配がする。
あたかも平然と、躊躇いも無く。それはどこかとても、“人を利用し慣れている人”の言葉のようで。
「勝たなきゃいけないの。そのためなら、その馬鹿だって利用するしおもねりもする。何なら捨てもするっ。だって……だって、仕方がないじゃない」
鋭い気迫を孕んでいたメアリスの顔に、一瞬、恐怖のような、怯えようなものが過る。
「そうしないと……絶対に“不幸”になる――」
ぞくりと、震える自分の肩を抱いたその姿に、あっっ、と、あからさまに“勘付いた”幾つもの視線が、驚いたようにメアリスを見入った瞬間。
おもむろに背を向けたメアリスが、唐突に部屋を飛び出して走り去ってゆく。
その余りにも俊敏な動きと、驚きに硬直した体が思わず追いかけるタイミングを失してしまった。
「シア様……」
ポツリ、と、傍らでエイネシアを見上げたアンナマリアの声色に、エイネシアもはっとしてそちらを見ると、俄かに頷く。
やはりそうだ――。
勝たなければ、絶対に“不幸”になる――。
『でも一人だけ“バッドエンド”必至だから! そうならないように、皆頑張ってね!』
不幸……バッドエンドになる。
そういうことか……。