1-6 大図書館
どっと疲れた登城に、それからしばらくはもう屋敷から一歩も出たくない! みたいな引き籠り体質が疼いていたが、くしくもそれから大きく間を開けるまでもなく、再び王宮に出向くことになってしまった。
というのも、拝読していた論文にでてきた参考文献が気になり、取り寄せて欲しいと出入りの商人にお願いしたところ、「出版技術の乏しかった時代の書物なので、写本が数点残されているのみです」というレア本だったことが判明し、手に入れるにはそれをさらに書き写すしかなく、ひと月以上かかるだろうと言われてしまったのだ。
だがこの論文を理解するには、どうしてもその本がいる。できれば早く欲しい。
どうしようかと王立図書館に使いを出してみたが、同じような返答をされた。しかも返事には、「王宮図書館に原本が有ります。宰相閣下でしたらお借りできるのではないでしょうか」とあった。
なるほど。あそこなのだ。
父に頼むというのも当然一つの手だが、先日見た父の仕事ぶり的に、宰相閣下にそんなお使いをお願いするなんてもってのほかだ。そもそもそんなことを頼もうものなら、さめざめとした顔で、お前は入館許可を貰っているだろう、と言われるに違いない。
そうだ。その通りなのだ。
せっかくもらった貴重な勉強の機会を逸するなんて、というのがお父様の言で、あれ以来未だに一度も図書館に行っていないと知られただけでも冷ややかな目をされそうだ。
まぁ、王子に会いに行くわけではない。本音を言えば王宮図書館の蔵書にはとても興味があったし、先日のような気疲れさえなければすぐにでも行きたかったのだ。
だから意を決して、夜遅くに帰宅した父に「明日図書館に参りたいのですが」と相談したら、案の定、「やっとか」とため息をつかれてた。
父にお使いとか頼まなくてよかったと、心から安堵した。
◇◇◇
翌日。午前は家庭教師の授業が詰まっていたので父と一緒には登城せず、午後に軽く食事をとってから、前回ほどではないが多少はキチンとしたドレスを纏い、勉強道具を携えて王宮へ向かった。今日は馬車も落ち着いた黒塗りで、金の装飾や公爵家の紋も控え目なものだ。
さらに父付の侍女のアネットが同道してくれていて、緊張もあまりない。
アネットは元々子爵令嬢として王宮の侍女見習いに出ていたこともあり、王宮に詳しい。エイネシアも赤ん坊の頃から世話になっている馴染みの侍女であるし、大人の女性だから安心感もある。
勿論一番馴染みのあるジェシカやネリーが付いて来てくれたら良かったのだが、ネリーは貴族の出身ではないため城には上がれず、ジェシカはまだ若すぎるということで、アネットが同行してくれたのだ。
馬車が止まったのは、前回とは違ってその奥、王宮大夜会などが催される一番大きな独立ホールがある門の方だった。アネットいわく、図書館ならこの舞踏館経由で内廷に入った方がずっと近いのだそうだ。
デビュタントを済ませていないエイネシアには舞踏会場なんてまだ縁のない場所だから、横目にみた大きな建物はまるで別世界のように感じた。
勿論今回の目的はそこではないので、そちらを横目に付随した建物の方へと入り、回廊沿いに真っ直ぐと行く。この辺りは少しも人気が無くて、勿論いたるところに近衛の衛士が立っているのだけれど、人目を気にしなくていいのが有難かった。
やがて左手に先日案内してもらった“女王の庭”という呼称であるらしい、女王陛下の管理している庭が見えてきた。白いレースカーテンのかかった丸い屋根のガゼボが特徴的で、それに何処からかさよさよと聞こえる噴水の水の音が心地よく、すぐにも好きになった。そんな庭だ。
アネット曰く、庭を突っ切ると図書館へももっと近くなるらしいが、ここは許可のある者しか入ってはならないため、「大変申し訳ありませんが……」と恐縮するアネットに従って、今日は遠回りした。エイネシアは先日女王陛下にここへ入る許可をもらったことになるが、当然アネットにはその許可はないので、突っ切ることはできないのだ。勿論エイネシアも、ここでアネットと別れたら絶対に迷子になる自信があったから、大人しくアネットについて遠回りした。
遠回りといってもそんなに長々とというわけではなく、一二度道なりに角を曲がりつつも廊下沿いに行けば、迷うことなく立派な石造りの建物の前へと到達した。
それはもう入る前からうずうずしてしまいそうな外観で、例えるなら縮小版ワシントン議会図書館。一歩中に踏み込めば、拡大版レロ・イ・イルマオン。本好きにはたまらない。
大衆向けではなく、王族と一部許可を得た人だけが使う図書館とあってか、天井は高く広々としているものの閲覧のための空間はあまり広くなく、この迫ってくる感じの圧迫感がなんとも堪らない。
そうニヤニヤしていると案の定すぐに傍らでアネットが、「お嬢様、お顔が」と小声で忠告してくれた。
いかんいかん。お嬢様。お嬢様。
取りあえず顔を引き締めて、しおらしく一歩踏み出したところで、入ってすぐのカウンターで作業をしていた青年が一人、ぱっと立ち上がる。
ここは図書館という性格もさることながら、日夜専門家による古書の修復や管理、解読と分析が行なわれる研究機関という性格も有しており、彼が立った瞬間にふわりと漂った古書の匂いは、この場所の性格を実によく表していた。
取りあえず、受付でもいるのだろうかと首を傾げたところで、「アーデルハイド公爵令嬢でいらっしゃいますね」と言われた。話は通っているらしい。続けて「図書館の説明をさせていただいてもかまいませんか?」と言う彼に、是非と頼んだ。
「当館の開館は朝八時から夜六時。図書館はこの表と奥、その奥の両脇と、四棟から成ります。一番奥は貴重書庫ですので、普段は施錠してあります。閲覧の際は司書にお声がけ下さい。表の両脇の扉のうち、左手にはサロンや学習室、談話室などもございますのでご自由にお使いください。右手は司書室です。司書棟では、図書館所属の研究員が日夜当図書館とその蔵書に関する研究を行なっていますので、本と内容に関するご質問は何でもお尋ね下さい」
壁面の見取り図を見ただけでも、結構な規模の建物であることが分かった。天井の高い三階建てに、地下室もある四棟に、さらに別館もある。さすがは“大図書館”の異名を取るだけある。
「本館所蔵の目録は一階、このカウンター横の書棚に陳列してありますが、何分この量ですので、お探しの際も気軽にお声掛けください。あぁ、それと……“閉館時間”にだけは、どうかくれぐれもお気を付けを……」
そう困った顔をする司書さんの言葉に、思わずふふっ、と笑ってしまった。
過去七度、王子様を閉じ込めたまま施錠してしまったというこの図書館。あるいは彼もその王子様行方不明事件の被害者の一人だろうか。
「それからおそれながらお家の侍女殿は……」
「はい、心得ております。お嬢様。私は左手の控え室にて待機しておりますので、御用の際はお呼び付け下さい。館内にも図書館付の侍女がおりますから、彼女達に声をかけていただいても、私の所に知らせに来てくれる手筈になっております」
「有難う、アネット。ゆっくりしていてね」
本を見ている間手持無沙汰にさせてしまうから、本当はここで先に帰宅してもらっても良かったのだけれど、娘が図書館に入るとてこでも動かなくなることを知っている父が“くれぐれも”と言い置いたらしい。待ってくれることになっている。
そうしてアネットと一度別れると、早速、何処から見て回ろう、とうずうずと足を進めた。勿論、目的の本があってやって来たことは忘れていなかったけれど、今はそれよりも散策が先だ。
まずはざっと目録の背表紙を追って、この図書館が所蔵している本の分類の名前や種類、傾向を確認する。
それから一番手前の書棚を見ると、ニュースペーパーの製本版が。王侯貴族が日頃読むものから庶民に出回る類のものもある。次は辞書類。百科事典や図鑑類に大型本。一階には実用的な物がズラリと並んでいるらしい。
書棚整理をしていた眼鏡の侍女さんがすぐに気が付き、「お探ししましょうか?」と声をかけてくれたが、自分で探す方がずっと楽しそうだったので、「平気よ」と言って散策を続けた。
レトロで少しきしむ階段と、華奢なオルモルの施された手すりはとても素敵で、何ならもう一日ここで過ごせそう……なんて素振りは見せないように気を付けながら、上の階へ。
くっ……人目さえなければ頬ずりするのにッ。
二階は経済学や社会学。法制集や過去の議会資料など、この辺りは政治に必要のありそうな実用的な資料ばかりだ。きっと父などが日頃閲覧しているのはこの辺りだろう。綺麗に並んだ同じ背表紙の分厚い法制集は、見ているだけで気持ち良くなる。
それから通路の内階段で三階に。下まで吹き抜けだから、三階に上がると解放感が有る。
この辺りは儀式典礼関係の資料。それに貴族の系譜や簡単な歴史書の類もあった。
そうしてぐるっと一回りしてから、一度二階に降りて、いかにも古めかしい古書の匂いのただよう奥の間へと入る。
するとすぐにも、わぁ、と、声を上げてしまった。
これはまさに、トリニティ・カレッジのオールドライブラリー。
正面の立派な馬蹄階段とピロティはいかにも王宮らしく、また立派な金の装飾や手すり、円形の天井に見事な彫刻と絵画が為されている雰囲気はプラハのストラホフ修道院図書館の雰囲気だが、この両脇にずらっとこれでもかというほど並んだ背の高い書棚の詰まり具合は、まさにファンタジー映画の世界だ。
これは全部見ていたら絶対に時間が足りない。諦めて侍女に手伝ってもらうべきだろうか。
でもな、でもな、とうずうず身を乗り出していたら。
「おや。エイネシア姫」
どこからかかけられた声に、はたっ、と目を瞬かせて辺りを見回す。
どこだろう。誰だろう。きょろきょろ、と右を、左を。
それから、「こっちこっち」という声に誘われて下を見たところで、随分とラフな格好で手を振るアレクシスを見つけて、しまったっ、と顔を濁した。
いや、知り合いがいたことには安堵した。だがあまり関わるなと言われた相手であり、ここに来れば彼に遭遇する可能性があることを失念していた。かといって、失礼にも背を向けて逃げ出すという選択肢はないし、出て行ってくださいと言う選択肢はもっとない。
取りあえずこんな所では失礼だからと、きょろきょろと階段を探して、サイドの細身の階段に目をとめると、そこから急いで下へと降りた。
「ごきげんよう、アレクシス殿下」
「ごきげんよう、シア。本を探しに?」
「はい。でもとっても広くて。たどり着く前に散策だけで日が暮れそうです」
そう言いながらも楽しそうな顔色をしているエイネシアに、「それは同感だけれど、閉じ込められたら大変だから、案内をするよ」と言われた。
うん、間違いない。多分この人も散策して閉じ込められた経験があるのだ。それは勘弁してほしかったから、仕方なく、「お願いします」と肩をすくめた。
「探し物はどんな本?」
「経済学か流通学……いえ、農学でしょうか? ブラット・ホドレイの麦の品種改良に関する古い論文集で……」
タイトル的には農学だが、エイネシアがその本を目に留めたのは、経済学論文だ。だからどれに分類したらよいのか分からず首を傾げたら、「ホドレイならこっちだね」と、アレクシスが少しも迷わず歩き出したものだから驚いた。印刷技術もない頃の古い時代の人の本だ。名前を言ったところで通じるとは思っていなかったのに。
「殿下もお読みに?」
「ちょうど貴女と同じ年の頃に。文体が古いから、難しいんだ。あと印刷ではないから読みにくい。読むなら辞書を片手に読んだ方がいい」
そう言いながら奥の一角に入って行くのを追う。
とりわけ古い背表紙がずらりと並ぶ中で、どこだったかな、と指で辿りながら、間もなく一冊の青い背表紙の本を抜いた。
手渡された本は表紙に印字で目的の著者の名前と表題が刻まれていたが、中を一枚開くと、なるほど、手書きの原稿だった。傷まないよう、外観だけ新しく綺麗に製本されているのだ。
「有難うございます」
「もしかしてマクラン・ホーディーズの論文からこの本にたどり着いた?」
「えっ?!」
どうして分かったの?! と驚いたのは一瞬で、すぐに気が付いた。きっとこの人も同じ論文からこの本にたどり着いたのだろう。なるほど、王侯貴族の子弟たるもの、学ぶ教材は似たり寄ったりということだ。
クツクツと笑うアレクシスは、似たような場所からもう二三冊の本を取り出して、通路を出たところの机にそれを置いた。
「ホドレイの本は難解だから、この辺りの本も参考にするといい。あとは……」
きょろきょろと見回したアレクシスの視線に、扉の辺りで作業をしていた先ほどの眼鏡の侍女がはたと振り向き、「御用ですか?」と歩み寄ってくる。
「ニカ、表からララの経済事典とシグノーの古語辞典を」
「ララとシグノーですね」
何から何まで揃えてもらってなんだか申し訳なくなる。
「ララやシグノーは小ぶりで引きやすいからオススメだけど、使いにくかったら、さっきのニカに聞くと言い。彼女は司書の資格も持っているから」
なるほど。それは頼りになる。
「私も日中はいつも大体この辺りに入るから、分からないことは何でも聞いておくれ。まだまだ勉強中の身だから、解決しない時は是非一緒に解決しよう」
勉強はやはり議論する相手がいないとね、と、そう言い置いてふらふらと本棚の向こうへ吸い込まれていく様子は、相変わらず自由気儘だった。
あるいはエイネシアが読書に専念できるよう、気を利かせてくれたのだろうか。
では早速、と本を開いたところで、一行目から“難解”の意味を理解した。
古い時代の人が良く用いた精霊文字といわれる小難しい書体と、古めかしい単語の数々に、すぐにでもニカが持ってきてくれた辞書の意味を知った。
「お嬢様。お紅茶でもお淹れしましょうか?」
「いえ、今はいいわ。後でお願い」
「はい。では御用の際はお声掛けください」
そう丁寧に礼をしたニカは、ついでにテーブルに暖かい色合いのランプを置いてくれた。
とっても気の利く侍女だ。
◇◇◇
そうやって読み進めて、一体どのくらいの時間が立ったのか。
難解な本を読むのは実に時間がかかったけれど、なるほど、実に簡潔で引きやすい二つの辞書と、それにアレクシスの選んでくれた二つの本が、見事な参考書替わりになった。これを紹介してもらわなかったら、到底一日では読み終わらなかったと思う。
そうホゥと息を吐いたところで、手を伸ばしてカップを引き寄せ口をつけ……つけてから、はっ、とした。一体いつの間に紅茶が置かれていたのだろうか。ちっとも気が付かなかった。それにまだ温かい。きっとエイネシアが読み終わる頃を見計らって持ってきてくれたのだ。
淡く融け込んだレモンのクエン酸が疲れた頭を癒してくれる。
ほっこりと息を吐いたところで、どこからか、「ンの馬鹿王子!」という、聞き間違えだろうかと疑うような罵声が耳に飛び込んできて、ぎょっとした。
「お前は興味が向くとすぐにふらふらふらふら。なんでいろと言った場所にいないんだ! それから脚立の上に座って本を読むのは止めろ! 何度落っこちたと思ってる!」
「ご、ごめん。ちょっと中身を見ようとしただけなんだけど、面白くなって……」
「一緒にいたと知られて叱られるのは私なのだよ! 分かっているよな?!」
「皆過保護だよね。本の山に押しつぶされて遭難しかけるだなんて、日常茶飯事じゃないか」
「お前は一応王子という自覚はあるのか?」
「え。そういう君は、一応大公息という自覚はあるの?」
「……」
「……」
「今のは愚問だった」
どこかで交わされるその会話のうち一人は間違いなくアレクシスだ。
だがもう一人は誰だろうか。
大公息というと、もしかして、件の薬学と医学に造詣の深いというグレンワイス大公家のご令息だろうか。
グレンワイス大公は二世王。即ち、王孫。その子供ということは王曾孫の三世王。三世王以内は立派な王族だが、四公爵家当主は二世王と同等の扱いを受けるから、公爵令嬢のエイネシアにとってその大公息は同格だ。過度に礼を尽くさねばならないほどの相手ではないが、居合わせたのだから挨拶くらいはしておくべきだ。
そう考えたところで、腰を浮かせるよりも前に隣の続き間の開口部からアレクシスの姿が現れ、次いで後ろから伸びがちな髪を無造作に束ねた背の高い片眼鏡の青年が、どっさりと本を抱えてやってくる。
声色は確かに大人びたものだったが、会話を聞く限り、てっきりアレクシスの同世代だと思っていた。しかし現れたのは二十歳前後の青年で、想像よりずっと年上の青年だ。
ついまじまじ見ていたせいか、間もなくパチリと目があって、おや? と小首を傾げられた。
「珍しい。こんなところに若いお嬢様とは。アン王女もここには近づかないのに」
そう言う男性に、あぁ、と思い出したようにアレクシスも顔をあげる。
「アーデルハイド公のご息女だよ。ほら、ニコルの葉を見てニメイスの匂いに似ていると言った」
「エイネシア嬢か」
ドサリと机に本を降ろした男性はパンパンと古書の埃をかぶった白衣をはたくと、片手を胸元にそえてエイネシアへ丁寧な一礼をしたから、エイネシアもはっとして席を立ち、ドレスの裾を摘まんで礼を取った。
「不躾に名前を呼んでしまい失礼をした、レディ。ハインツリッヒ・ゼム・グレンワイスだ。爵位を継ぐつもりもない身なので、気遣いなく振る舞っていただけたら幸いである」
「エイネシア・フィオレ・アーデルハイドです。先日は薬草を選んでいただいたそうで、有難うございました」
そう応じたところで、ところで、と小首を傾げる。
「ニコル、というのですか? あの恐ろしく苦かった葉は」
その子供らしい感想に、ふっ、と、僅かにハインツリッヒの顔が緩んだ。
一見怖そうな面差しだけれど、笑うとそうでもない。
「あぁ。ニメイスの香りに似ていたと?」
「甘い香りが少し。あの……素人意見です」
「いや、良い嗅覚をしている。ニコルはニメイスとリコという植物を交配させて生み出された薬草で、ニメイスの鎮痛作用とリコの炎症鎮静作用の両方を併せ持つ優秀な薬草だ。ただ、まだ改良段階で、生育状況によって薬効に偏りが大きい。今はその安定と、相対的な効能の向上のための研究としてカイランとカダイスの理論を応用したカライダス理論というものを試しているのだが、この一般的な手法が見事にはまらないという非常に珍しい植生で……」
「ハイン、ハイン。楽しそうなところ悪いんだけど、その話、多分長くなるよね?」
ニコニコと青年の背中をつつくアレクシスに、ハッ、と、ハインツリッヒは俄かに眉を跳ね上げ口を噤んだ。
エイネシアとしては非常に興味が有ったので長くなっても構わなかったのだけれど、いかんいかん、と背中を向けるハインツリッヒの様子に、ふふ、と笑って同じく口を噤んでおいた。わざわざアレクシスが言うという事は、多分、尋常でなく長くなるのであろう。
「シアは休憩中かな?」
「はい。ホドレイの本は読み終えたのですが、疑問ばかりが増えてしまって。おすすめしていただいた二冊をもう少しじっくり読んでみようかと……」
「えっ?!」
「読み終えた? ホドレイの本を、その年齢で?」
目を瞬かせたアレクシスと、興味深そうに考えこむハインツリッヒをみるに、どうやら思ったより早く読み終えたという事だろうか。確かに難しい本だったけれど。
「驚いた。そんなにも早く。私は丸三日はかかったよ」
「それはお前が気になることが出てくるたびにふらふらと別の本、別の本と寄り道ばかりするからだろう。お前は出した課題を三倍の課題に変換して提出してくる困ったやつだからな」
そうため息をつくハインツリッヒに、ん? とあどけなく首を傾げていらっしゃるアレクシスは、もしかして、ハインツリッヒの教え子的な立場でもあるのだろうか。年齢的には無くもないかもしれない。
「常々言っているが、お前は課題を整理するということを覚えろ。この本の山もそうだ。経済倫理学の課題を出したはずが、どうして私は古い地図という地図を持ってこさせられているんだ」
「いや。マッサカナ街道の話が出てきて、おかしな名前だなと調べていたら面白くなってしまって」
「なんですか? それ」
おもしろそうっ、と、わくわくと目を輝かせるエイネシアが身を乗り出した瞬間、すこぶる面倒くさそうなハインツリッヒの視線が向けられて、はっ、とエイネシアは身を留めた。
「珍しく聡明そうなお嬢さんがいたかと思いきや……コレと同じ人種だとは」
「同じ……?」
「レディ。好奇心は大事だが、広く浅くならぬ範囲に留めるよう気を付けることを忠告しておく」
「ようは広く深くなればいいのだろう?」
すかさず答えたアレクシスに、あー、と、眉根を抑えたハインツリッヒは唸り声をあげた。
「まったく……お前はそれで本当に深くしてくるのだから、始末に負えない」
「君が私を褒めるだなんて珍しい。今日は空から本でも降ってくるのかな」
「お前はいつも降らせてるだろう」
それについては否定できない……という王子様に、いや、そこは否定しないといけないところではと思う。でも今はそれよりも。
「あの……。街道の話は……ダメ、ですか?」
そこの埃の積もった黄ばんだ書物達がうずうずとエイネシアの興味関心を引いてやまない。私を開いてと訴えて仕方がない。だからそうそわそわと言ったならば、またも眉根を抑えたハインツリッヒが、何やら唸りながら俯いた。
やはり駄目だっただろうか。
「ほらね、ハイン。可愛いだろう? このおねだりに答えられない人間なんて私は思いつかない。知っていたかい、シア。マッサカナ街道の名前の由来は、新鮮な魚を運搬するために築かれた街道だったからなんだそうだよ」
「えっ。えっと。あ、真魚街道?!」
「そう! 面白いよね」
「ちょっと待て、アレクシス! そのくだらない話の出典は何処だ!」
更に眉間の谷間を深くしたハインツリッヒに「コレです」とアレクシスが掲げたのは、『エーデルワイス俗語辞典』なる本だった。そのタイトルに、「違うんですか?」と残念そうな顔をしたエイネシアをよそに、再び唸り声をあげたハインツリッヒが今度は天を仰ぐ。
「一体どこの誰だ。この栄えある大図書館に、こんな俗世のゴシップ本を並べたのは。大体アレク、良く見なさい。下に副題でちゃんと“だったらいいな編”と書いてあるだろう」
「うん。だから、“だったらいいな”と思って」
「いいだろう。いいだろうとも! 二人とも、そこに座れ! 街道整備と交通網の整理の歴史だな。何でも聞くがいい。そのバカみたいな俗説をきれいさっぱり頭からかなぐり捨てるまで講説してやる!」
ドンッ、と机に手をついてそう唸るハインツリッヒに、「やったー」と席に着く欲望に忠実なアレクシス。そのアレクシスにおいでおいでと手招きされて、エイネシアも躊躇いがちに近寄った。あまり関わるなと言われた人だけれど。これはアレクシスに、ではなく、ハインツリッヒに、ということでいいんだよな。というか、いいことにする。
そう自分の中で結論付けて、さっそくそわそわと一番上の古い大きな巻物を覗き込むと、「これの前に今の地図からだ!」と、ハインツリッヒ先生が別の本を持ってきた。
まだ新しい紙面だが、今のというよりは少し前の時代のもの。先王時代に書かれた地図だ。そのビシッと指差された箇所に、小さくマッサカナ街道という字が打ってある。結構大きな街道で、王都の南から東方までを突き抜ける大街道のうちの一角のようだ。
「良く見ろ。街道はここからここまで。海に面していないのに、新鮮な魚を運ぶための街道なわけがないだろう」
「本当だわ……」
「うん。だからこの街道の途中にあるマリー湖というところで取れる淡水魚の事なのかと思って、淡水魚の食用に関して調べようと思っていたところだったんだけれど」
アレクシスの返答に、エイネシアはハッとした。そういえばこの図書館には料理本まであると言っていたか。最初に聞いた時は何故と思ったが、こうやって聞くと料理本も馬鹿にはできない大切な文化と歴史の実態なのだ。
それをさも平然と言うこの人に、すごい……、と、感心してしまった。が。
「馬鹿か、貴様は。そんな無駄なことにまで知識を広げなくていい!」
生憎先生には一喝されてしまい、おっとっ、と、エイネシアも肩をすくめた。
どうしよう。すごく興味あるのだが。
「まぁ……だが、マリー湖に目を付けたのは良い着眼点だ。実際、湖を中心としたこの地域では淡水魚の養殖を行なっており、一時は飢饉に見舞われた領内の食糧難を支えたと言われている」
「あっ。マリー・デュア・シンプレイ伯爵夫人!」
思い当たった名前を口にしたエイネシアに、「その通り」と、ハインツリッヒの表情が少しばかり和らいだ。
「シンプレイ? 知らない名前だ」
首を傾げるアレクシスには、「だろうな」と、ハインツリッヒが次の地図を開いた。そしてマッサカナ街道のある地点と同じ場所を指差す。これは四代前の王の時代。シンプレイ伯爵夫人がこの地の領主だった頃の地図だ。
「マリー街道?」
そこに書かれた名前に、おやっ、と、二人そろって地図を覗き込んだ。
「シンプレイ伯爵夫人は自分の居城内の湖で、その景観を投げ打って養殖業を始めた人物だ。そして大飢饉の際に湖中の魚という魚を領地の隅々に配って回った。その時配達を行なった伯爵家の荷馬車の轍の跡が、マリー街道の始まりだと言われている」
「マリー湖もマリー街道も、シンプレイ伯爵夫人の功績を称えてつけられた名なのですね」
「そうだ。だが夫人には子がなく、シンプレイ伯爵家はマリー夫人の時に途絶えてしまう。次にこの地の領主となったのは誰だ?」
「マックス・サン・ジュロー伯爵です」
すぐに答えたエイネシアに、「よろしい」と先生が良い顔で頷く。一方キョトンと首を傾げたアレクシスには、ため息が与えられた。
「アレクシス。君の興味関心の広さと深さには私も敬服するが、たまには関心のない分野も勉強しなさい。君は有能と言われる貴族の所領運営の内容には恐ろしいほど詳しが、圧倒的に貴族の家自体に関する知識と興味が足りていない」
「……あーうん……自覚はある」
褒められたようでちょっと嬉しいけれど、でもエイネシアとて、別に好きで覚えたわけじゃない。ただありとあらゆる国内の伯爵家以上の家についてはおおよその生立ちを強制的に学ばされているだけだ。こういう知識は将来、あらゆる貴族と関わりを持たねばならなくなる立場上、必ず必要になるからと、小さな頃から徹底的に叩き込まれてきたのだ。とはいえ膨大な量だから、まだすべてを網羅しているわけではない。元シンプレイ伯爵領だって、最近習ったからたまたま覚えていただけだ。
「さて、そのジュロー伯爵が所領で行なった一番の改革が何かは、知っているか? エイネシア嬢」
「えっと……関所の……整備、ですか? 確かとんでもない関税をかけた人だったと……」
「近い。関所というより、もはや城塞というべきだろうな。国境沿いに長々と塀を立てさせ関を設け、そこにべらぼうな関税をかけた。整備といえば聞こえはいいが、実際は領内に人を招きよせておいて外へ出さない、巨大な牢獄のようなものだ」
「あぁ、分かった。サカネイアの教訓の領主か」
そこでピンと来たらしいアレクシスに、今度はエイネシアの方が首を傾げた。
「その領は、入るのは簡単だけれど出る時には規格外な通行税を払わなければいけない仕掛けになっていて、払えずに逃げようとする者を打ち首にする悪法があったんだ。そのせいで沢山の人々が悲劇に見舞われた。しかもこの領主はその死刑を観覧するのが好きだったという。そこで民たちは一計を講じた。税を払わず関を潜れば“何者でも”打ち首にせよというのが領主の命令。だから彼らは領主を誘拐して関所破りをして領外に出た。当然領主は、自分は“領主だから”と主張するが、領主の作った法に“領主は除外する”という文言はないと言って、領主の首をはねた、という事件だ。治世を誤ればいつでも民たちはこれを正す、という意味での教訓話としてもよく引き合いに出される話でね。この関のあった町の名前が、サカネイア」
「なんだ、知っているではないか」
そう言ったハインツリッヒに、ん? と、二人が首を傾ける。
「この横暴な伯爵を討ち取って歓喜に沸いた民衆は、かつての良き領主マリー夫人の築いた街道を、マックス・サン・ジュロー伯爵の首を掲げて駆けまわり、領中にこの朗報を伝えたのだ。“マックスは死んだ。サカネイアで死んだ”と」
「マックスは……サカネイアで、死んだ」
「あぁ」
「マッサカナ……?」
「そう。それが語源だ」
そうなの?! と地図にくらいつく。そんな二人の前に、ふぁさり、と置かれたのはまた別の、もう少し後の地図。
「アレク。サカネイアの断罪があった年は?」
「新王国暦一四六六年だね」
「これがその二年後の地図だ」
指差された箇所には、マリー街道。それに斜線が引かれて、マッサカナ街道へと改められていた。
「この図書館の司書が調べた結果、地図のマッサカナ街道の記述は、この地図が出来た翌年ミゼッタ商会が発売した新作のブルーインキで記されていることが判明している。だから、それ以降だ。そしてこの年は、新しい領主、今のウォレック伯爵家の祖である初代伯爵が統治を始めた年でもある。この新伯爵が、“ジュロ―伯爵の教訓を忘れるな”という意味合いで、民の間での俗称を採用して正式名称にしたのだろうと、ウォレック家には伝わっているそうだ。もっとも民の間では忘れ去られているようだがな」
なるほど……はて。しかし真魚説は何処から生まれたのだろうか。
「マリー湖では今も魚がとれるのですか?」
「あぁ。今でもウォレック領の民たちは日常的に食している。くしくも、マッサカナ街道を通って領地中へ運ばれる」
「なんだ。では真魚街道も民俗学的にはあながち間違いではないね」
そう言うアレクシアには、ハァ、と、ハインツリッヒもため息を吐いた。まぁ確かに、そう言えなくもないが……。
「ところでその魚はどうして領地内でしか食されないのだろう?」
「あぁ。それは単に、ものすごく“不味い”からだ」
あー……と、思わず沈黙が下りた。
「さぁ、そんなことより、本題に戻るぞ。マッサカナ街道ことマリー街道の整備は、その後の街道整備事業の模範の一つとなった、とても先進的な物だった」
あぁそうだ。それが本題だった、と思い出したところで、魚の味は……まだちょっと気になっていたけれど、気が付いた時にはもう、博識なハインツリッヒの講義に夢中になっていた。
エイネシアにはそれをふむふむと楽しく聞く事しかできなかったけれど、アレクシアは話の都度、とても鋭い質問や疑問を口にして、議論を大いに盛り上げた。それは机の上でただひたすら本を読むだけの時間よりはるかに有意義で、面白く、そして奥深いものだった。
気が付けば机の周りには何十冊という本が積み上がり、新たな疑問が生まれるたびに侍女のニカが図書館中を走り回る。
そうして話が飛ぶに飛んだ挙句、法律と倫理の境界線は何か、という、多分一番最初のアレクシスに出されていた課題とやらにかなり近づいてきたところで。
「君達。そろそろうちの娘を解放してくれるかね」
そんな聞き覚えのある低音ボイスに、どきーっっ、と、エイネシアが肩を跳ね上げた。
本の隙間から顔を出せば、そこには呆れた顔の父がいて、え、あれ、何故?! と周りを見回したところで、窓の外が真っ暗になっていることに気が付いて驚いた。
「アーデルハイド公。わざわざお迎えですか?」
「ああ。娘と。それから君たちの」
ん? と首を傾げた二人に、おろおろ、おろおろ、と公爵の後ろから顔を出す青年の姿がチラついて、あっ、と、二人がそろって手を打った。
見やった時計の針が差しているのは午後六時半。退館時間を三十分すぎている。
初日からやらかしたことに気が付いたエイネシアは、わーっ、と、慌てて積み上がった本をしまうべく手に取ろうとしたが、「大丈夫ですよ」と、ニカが止めてくれた。
「ごめんなさい、お父様。私ったら」
「有意義な時間を過ごせたようで良かった。だが気をつけなさい。ハインツは一見しっかりして見えるが、図書館内無断外泊記録は過去最多。この一年だけでもすでに三十回は閉じ込められている常習犯だ」
「えっ」
「誤解を招く言い方はしないでいただきたい、アーデルハイド公。この天然王子の“閉じ込められる”は言葉の通り、うっかり奥深くに潜り込んで忘れ去られるという意味。私の場合は“計画的犯行”です」
いや、それは余計に性質が悪い……という言葉は飲み込んでおいた。
「ええ。もう常習化しすぎて、我々はハインツリッヒ卿の図書館泊まりを管理黙認することを決議いたしました……」
そう涙ながらに言う司書さんがちょっと憐れになった。
だがしかし、そうして身についた二人の知識が、この講義を有意義にしたのであろうとも思う。それでさすがにエイネシアが、では私も泊まります! なんてことは言い出せなかったが、ハインツリッヒの講義はまた是非拝聴したいところだった。
そんなうずうずと期待に満ちた目に気が付いたのか、顔を緩めたハインツリッヒは、「意欲的な教え子ならいつでも歓迎だ」と言ってくれた。
「ハインは王立大学の学生なんだ。去年中にほとんど単位は取ってしまって、今は研究室にばかり通っているけれど。十日に一度は図書館に引きこもりに来るから、また会える」
そう付け足したアレクシスの言葉には驚いた。
大学といえばこの国でも数少ない最高学府で、貴族の子弟が通うことは珍しい。所謂前世の記憶にある大学とはやや趣が違っていて、本当に学者を目指したり専門技術を身に着けるような人しか通っておらず、貴族は十八で学院を卒業したら、所領の経営を学ぶために実家で、即ち“現場”で、治領を手伝いながら勉強するのだ。
そもそも貴族なんて努力せずに就職先が転がってくるような連中ばかりだから、大学に入れるほどの頭がないというのも一因なのだが、しかしコネでは決して入れないほどに難関な機関でもある。そこに入ってすでにほとんど単位を取っているというのは、やはり非凡だろう。
「それではアレク様、ハイン様。お先に失礼いたします。今日は貴重なお時間を有難うございました。宜しければまた経済倫理の課題の結論もお聞かせくださいね」
「あぁ、そうだった。本題を忘れていた」
そう言うアレクシスには、「私がどれだけ努力して課題に寄せて行っていたと思っている」とのハインツリッヒの怒声が飛んだ。
「アレク様。次はホドレイについての方も色々とお聞かせくださいませ。ちっとも納得がいかないんです」
「あぁ、そうだ。先にそっちを議論すべきだったね。次までにニカに私のお勧めを出させておくよ」
それはとっても有難い。ほくほくと顔をほころばせながら、一度きちんとした礼を尽くし、先んじて踵を返した父の後を追った。
図書館の入り口では心配そうな顔のアネットが待っていて、エイネシアの元気な姿を見るとほっと安堵した顔をした。
あぁそうだった。アネットのこともちっとも構わず、実に六時間近くも延々と籠り続けていたのだった。きっと父が迎えに来てくれたのも、アネットが父に知らせてくれたからなのだろう。許可のないアネットは図書館内を自由に出歩けないから、直接呼びにはこれなかったわけだ。
申し訳ないことをしてしまった。
「こんの詰め過ぎはよくありませんわ、お嬢様」
「ごめんなさい、アネット。とても楽しくて」
「目的の本は御覧になれましたか?」
「ええ。アレク様が……殿下が色々と教えてくださって、良い辞書などもおすすめ下さったから」
「ララとシグノーか?」
口を挟んだ父に、えっ! と驚いて顔をあげる。まったくもってその通りで、こくこくっ、と頷く。
「では次は、トーランスとモリン博士の本だな」
「あっ。それもお薦め下さいました。目は通したのですが、納得のいかないところが沢山あって……」
そう答えたところで、ふっ、と父が珍しく顔をほころばせるものだから、何事だろうかとぎょっとした。
「そうか。おまえも小麦迷路に陥る年になったのか」
「こ、小麦迷路?」
「ホーディーズとホドレイの小麦問題は複雑だ。その件は私がハインツにみっちりとしこんだので、おそらく彼からアレクシス様も叩き込まれていることだろう。殿下は発想が斬新で鋭く、だがああ見えて実に堅実とした結論を導き出される方だ。きっと私の頃より有意義な結論になっているだろうから、よくよく学ぶと良い」
「……」
うん? えっと。要するに。
「えっ? あ。つまり、ハイン様はお父様の教え子なのですか?」
「教え子というほどのものではない。私が宮廷の官職に就くようになってすぐ、図書館に通い詰めていた頃、ちょうどお前の年頃だった彼が入り浸っていたので、少々世話をした」
なるほど……父が、“深窓の令嬢”として育てている娘の図書館への外出をあっさりと認めて、ましてや勧めさえしたのには、そうした父自身の過去の有意義な図書館生活があったからなのだろう。
「だが時間には気をつけなさい。こんなに遅くまで留守にしては、エリザベートが心配で卒倒する」
そうだった、と肩をすくめたエイネシアは、鬼の形相の母を思い出すと身震いをして、チラ、チラ、と父を伺った。
どうしよう。ここは思い切って父に取り成しを頼むべきか。
そう見ていたのに気が付いたのか、「今日だけだ」というお言葉をいただいてほっとした。
父が味方になってくれるなら大丈夫。
そう安堵しながらガタゴトと馬車はお屋敷へと戻り、「あーなーたーたーちー?」と鬼の形相で出迎えた母を父があっさりと言いくるめてくれたことに安心しきっていたら、「お帰りが遅くて心配いたしました!」とタックルを決めた弟に、KOされてしまった。
油断大敵――この小さな爆弾は、そういえば最近、母よりも厄介なのだった。