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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第三章 幸せな結末を探して(下)
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3-17 シシリアとエイネシア(1)

 その日から、アイラの標的は明らかに変わった。

 エイネシアの話題がすっかりと息をひそめたかと思うと、今度は、シシリアに『赤くなるほど手を掴まれた』だの、『道すがら恫喝された』だのといった噂が飛び交い、元々のシシリアの少しきつい面差しと相俟って、皆も少しシシリアを遠巻きにするようになった。

 シシリアもシシリアで、噂に対して少しも引いた様子を見せず、「私は言うべきことを言っただけです」という態度を弛めなかったため、益々遠巻きにされた。

 人というのはどうしても弱い方を味方したくなるもので、弱みを見せないシシリアの態度は逆にアイラへの同情を集めたのである。

 エイネシアも、当事者ではなく外からこの状況を見て初めてそのことに気が付いた。かつてエイネシアがちっとも周りに信頼されず、噂の如く思われていたのも、きっとエイネシアが少しも噂など歯牙にかけず、取り澄ましていたせいなのだ。

 ここで泣き事の一つでも言ってヴィンセントに縋っていれば、きっと状況は少しは違っていたのだろう。勿論、分かっていたってそんなことをしたかったとは微塵も思わないが。

 でもそう口にしたら、「私もそれと同じなのですわ」とシシリアに言われた。だからどうか、同情しないで欲しい。これは、私が私で選んだことです、と。

 その言葉には、エイネシアも何とも言えなくなってしまった。

 ただシシリアにとって幸いだったのは、反アイラ派の風潮が学院内に僅かでも存在していて、エイネシアの時程に大事にはならなかったこと。それから、シシリアの傍にはいつもセシリーが一緒にいてくれて、孤立しなかったこと。そしてなにより、エイネシアの時のヴィンセントのような、シシリアにとっての“弱み”がなかったことだった。

 エイネシアと違って、シシリアは誰かに慮ったりする必要が無く、堂々と己を主張することができた。

 しかしそれが、悪い方に働くこともある――。


 ◇◇◇



 きゃーーっ、と、劈くような生徒達の悲鳴が広がったのは、それからひと月とたたない頃の事だった。

 「休息も必要よ」と説くアンナマリアに引っ張られ、エドワードやアルフォンスとサロンに向かっていた、何の変哲もない穏やかな昼下がり。突如エイネシアの耳に飛び込んできたのは、生徒たちのざわめきと、“セイロン伯爵令嬢が”という言葉で、気が付いた時にはもう走り出し、校舎裏の人だかりに飛び込んでいた。

 あたりには校舎の二階から落ちてきたらしい窓ガラスが飛び散っていて、真ん中には座り込んだ見慣れた紺の髪と、目の前には割れた煉瓦造りの鉢植え。それからポツリポツリと制服のスカートに滴った血。

 一体何が、と見回したところで、二階の窓にチラリと過った少年少女の影に、気が付いた瞬間、「アル!」と叫んでいた。

 すぐに意を察したアルフォンスが窓から校舎に駆け込んで行き、逆にエイネシアはシシリアの方へと駆け寄る。

 見知らぬ誰かが、「近付いたら危ないです!」と声をかけてくれたけれど、そんなことは関係ない。一緒に追ってこようとしたアンナマリアの事だけは、仮にも王女殿下なのだからと、掴み止めておくようエドワードに目配せでお願いをして、自らはパシリパシリと割れた硝子を踏みつけながら駆け寄り、シシリアの目の前にしゃがみ込んでその手を取った。

「エイネシア……様」

「シシー、怪我を見せて。手と。他には?」

 すぐに手の甲の切傷に硝子片が刺さっていないのを確かめてから、引っ張り出したハンカチで手の甲の傷を覆う。

「大丈夫です。驚いて膝をついてしまいましたが、直接は硝子も植木鉢も当たっていません。ただ少し飛び散った硝子に触れてしまって」

「膝は? あ。まって、そのまま動かないで」

 顔をあげたシシリアの頬に飛び散った血を見て、拭うべく手を伸ばそうとして、それからすでにハンカチを使ってしまったことに気が付く。仕方がない。スカーフを代わりにして、と首元のブローチに手をかけたところで、「宜しければ」と、見知らぬ女子生徒がおずおずと歩み寄ってきてハンカチを差し出してくれた。

「有難う。お借りしますわね」

 そうほっと笑みを浮かべながら、頬の血を拭ってやる。やはり、少し傷がついている。

「シシー、歩けそう?」

「大丈夫です。あの、本当に。ご心配など……」

「良いから。少し立って。まずこの場所を離れましょう」

 手を貸しながらシシリアを立たせたところで、案の定、膝の擦り傷の他にも足元に切り傷が出来ていることに気がついた。

 ざわざわとざわめく生徒達の間を、シシリアの手を引いてゆっくりと歩かせ、まずは少し離れた木陰のベンチに座らせると、改めて手の甲のハンカチを解いて、指先を当てて詠唱魔法を囁く。

 傷口を凍らせたら、次は頬の傷を。それから足首などの傷を一つ一つ丁寧に凝結させたけれど、周りの目があるこの場所で、これ以上スカートをたくし上げさせて殿方の目に触れさせるわけにはいかなかった。

「姫様……これは何ですか? 血が止まりましたわ……」

 自分が大変な時だと言うのに、そんなことを言って手の甲を見ているシシリアの様子には、少しほっとした。よかった。精神的な傷は浅いようだ。

「去年考案した応急処置魔法なの。傷口の血液を直接凍らせているだけで、本当に血が止まっているわけではないわ。でも冷やすと血管が収縮して血も止まりやすくなるから。少し冷たいけれど、我慢して頂戴ね」

「いえ、大丈夫です。ひんやりとして、気持ちがいい」

 ただ如何せん、永続魔法ではないので、そこそこ蒸し暑くなり出したこの季節では魔法の持続時間が短い。一応念のためにすべての傷口に二度掛けして、それからもう一度手を差し伸べてシシリアに立ってもらった。

「ここからなら、学校の救護室より薬室の方が近いわね。少し森の中を歩くけれど、平気? 無理なようなら私が薬室に行って、人を呼んでくるけれど……」

 ただ人目があることを考えると、出来ればシシリアに移動してもらいたい。

 それが分かっているのか、「大丈夫です」と立ち上がったシシリアが頷くので、「ゆっくり歩くわね」と言って、シシリアをその裏手の森の方へと誘った。

「シア様。午後の授業はご欠席なさる?」

「そうですね。殿下には申し訳ないのですが……」

「大丈夫。私が三年の先生にお伝えするわ」

 そう言ってくれたアンナマリアにほっとしつつ、それから、と傍らのエドワードを見やる。

「二階の人影、アルに追ってもらったけれど……様子を見るに、逃げられたようね」

 見上げた窓辺に人影はなく、すぐに駆けて行ったアルフォンスが戻る様子も無い。多分捕まえられず、代わりに何か証拠となる物でも探しているのだろう。

「エド。学院長への説明は貴方が。アーデルハイドは、王女殿下もいらっしゃる学院内でこのような不祥事が続くことを遺憾と思っている、と、念を押して頂戴」

「お任せください。寮の方にも連絡を入れておきます」

 コクリと頷いて後のことを任せると、すぐにシシリアの方に向き直って、「こちらについてきて」と、森の中に踏み込んだ。



 学院内の喧騒とは裏腹に、いつも静かでサワサワと心地の良い森の中。

 いつぞや聞いたルリバタキの声がする。

 あぁ。そういえば最初にエイネシアがこの森に足を踏み込んだ時も、シシリアの時のように怪我をしていたのだったか。

 あの時は一人。どうしようもなく苦しくて蹲っていたら、ハインツリッヒが見つけてくれたんだった。

「すごい森……まさか学校のすぐ傍の森が、こんなに深い森だったなんて」

 そうぼんやりと、その生き物の声にざわめく青々とした森を見上げたシシリアの声に、エイネシアも視線を向ける。

 声にはいつものような覇気がないけれど、それでも思いのほか落ち着いていることに安心する。

「実際にはそんなに広くはないのよ。でも外界から隔絶された雰囲気があって、落ち着くでしょう?」

「もしかしていつも行方不明になる時は、この森に?」

 そう言われてはいささか申し訳がなく、ちょっぴり肩をすくめるだけで答えておいた。

 それに、この森に、というよりは、“この薬室に”が正しい。

 すぐにも森の一角に硝子張りの丸屋根が見えて来て、そのキラキラと光を反射した見慣れない建物には、シシリアも感嘆の吐息を溢した。

「温室ですか?」

「ええ。第三薬学研究室の温室よ」

 そう答えたところで「あぁれー?!」と“上”から声が降って来たから、はたっ、とエイネシアは顔をあげる。

 すぐ傍らの大きな木。その上から、キラキラと降り注ぐ木漏れ日の中にガサガサッと顔を出した、淡い薄茶色の髪の青年。

「姫様、いらっしゃぁい」

 そう手を振る、とても呑気な間延びした声。

 あら、と気が付いたエイネシアが、それに答えようとしたところで。

「え? ユナン……ボードレール?」

 ポツリ、と。隣で声を漏らしたシシリアに、驚嘆の顔を向けた。

 今。もしかして、ユナンの名前を呼んだだろうか。

 シシリアが。何故?

「シシー?」

「え? あっ、いえ。何でもありません。どなたですか?」

 どなたって……、と、首を傾げる。

 だって今、シシリアは彼の名前を呼んだではないか。顔見知りではないのだろうか。

「お客様ですか?」

 その内、よいしょ、よいしょ、と危なっかしい様子でユナンが木を降りて来るから、思わずハラハラとして手を差し伸べそうになった。

 だが手を貸す前に、案の定一番下の幹まで到達したところで、ズベッとユナンは落っこちて来て、更にその上にバコンッ、と、鳥の巣箱のようなものまで降ってきたものだから、あーっ、と、目を閉じて身をすくめた。

「だ、大丈夫ですか?!」

 そう慌てて駆け寄ったシシリアが、巣箱を拾い上げて、転げ落ちた青年を見やる。

「ったたたたたっ。ははっ。また落ちた」

「また?」

 えっと、と困ったようなシシリアの視線がエイネシアを見る。

 だがまぁ如何せん、エイネシアにもフォローはできない。木の上から落ちるくらい、彼にとっては日常茶飯事なのだ。

「大丈夫。ユナンはとっても打たれ強いから」

「ええ。日々室長に小突かれどつかれ……っと。あ、そうだ。姫様。室長なら留守ですよ? 王宮の本研究室に行っています」

 パッと身を起こしながら思い出したように言ったユナンに、あら、とエイネシアも困った顔をする。

 研究成果を見に来るだけならば必ずしもハインツリッヒがいなくても良いのだが、今日は怪我人を連れてきたのだ。どうしよう。

「ユナン、傷の手当は出来る? こちらのシシリア嬢の怪我を診てもらいに来たの」

「え? 怪我人だったんですか!? すみませんっ」

 そう慌ててシシリアの手から鳥の巣箱を奪い取ったユナンは、その手に確かに傷口があるのを見て、「いけないいけないっ」と慌てて温室に飛び込んで行った。

 あぁ……白衣に一杯の葉っぱを付けたまま入って行ってしまった。ばれたら、またハインツリッヒに叱られるのに、と笑ってしまう。

 でも今はそれよりも、と、シシリアを中に促すと、その“温室”と呼ぶには少し雰囲気の変わった広々とした空間に、シシリアも目を丸くしてその部屋を見回した。

「すごい……」

 一面硝子張りの屋根と、沢山の薬草の段々畑。チロチロと循環する水の音と、立ち込めるような苦い匂いと、適度に肌に絡みつく心地よい湿度。いくつもの魔法陣が散らばった実験畑と、図書館ばりの壁一面の本棚に、本の積み上がった大きなテーブル。なにやらとても雑多で、でも不思議と居心地のいい、まさに魔法使いの住処は壮観である。

「座って下さい。えーっと。切傷と……他には?」

「擦り傷ね」

「はぁい。では止血と炎症止ですね。すぐに薬草の準備をします」

 そう裏手に駆けて行くのを見送りつつ、「ここに座って」と、日頃エイネシアが腰掛けることの多いソファーにシシリアを座らせた。

 怪我人に気が付いたシーズリースが、すぐに水とタオルを用意してくれたのんで、まずは傷口をきちんと水で洗って、スカートも捲って膝も洗い、タオルで血を拭う。膝の方はあまり大きな傷にはなっておらず、捻挫などの類もなくてほっとした。

「あの、エイネシア姫。ここは一体何なのですか? 王立薬学研究室というのは、王宮の外庁にある研究機関のことでは?」

「ええ。正式な研究室はそちらにあるそうだけれど。でもここの室長はこの温室に居る事の方が多いから、第三に限ってはもうこっちが本研究室ね」

 そう笑うエイネシアの背後の沢山の本棚に、あぁ、なるほど、とシシリアも納得したようだ。確かに、ここは温室というよりも研究室と呼ぶに相応しい様相である。

「学院の傍にこんな場所があったなんて……」

「敷地的には大学部になるそうよ。薬室は王立大学の付属でもあるから」

「とてもすごい温室」

 ただ……とわずかに眉をしかめるシシリアには、エイネシアも言葉の意味を察して苦笑する。

「すごい……匂いですね」

 うんうん。慣れないとこれは中々強烈だろう。エイネシアはもうすっかりと慣れてしまったけれど、苦い物全般が苦手なシシリアにはきついかもしれない。

「姫様ー。リコとノコラ、蒸し上がりましたよ。冷やしてもらえますか?」

 そこに折よく器を手にしたユナンが戻って来たので、ハインツリッヒの実験器具を借りてたらいに氷を張り、その上で熱々の薬草を軽く冷ました。

 冷ましたノコラをゴリゴリとユナンが自らすり潰し出した音を聞きながら、まずはリコの葉を丁寧に伸ばして傷口に貼ってゆく。

「あ。ガーゼ」

 忘れた、と顔を跳ね上げた相変わらずうっかりさんなユナンには、「私が」とエイネシアが席を立って、奥の大きな薬棚に向かった。

 何度もお世話になったから、何処に何が入っているのかはもう大方覚えている。一番端の棚からガーゼと。それから多めの包帯を。そうやって準備をしながらチラリと振り返ったところで、ユナンがポンポン、と慣れた様子でノコラをリコの葉の上に乗せてゆくのを見た。

 去年はまだちょっとたどたどしい様子だったけれど、今ではもうすっかりと慣れた様子で、なんだか頼もしい。薬室は研究機関であると同時に王立関係施設の救護院も兼任しているから、きっと去年、色々と医療の知識も身に着けたのだろう。

「うわー。痛そうですね。こんなに沢山、怪我してしまって」

「……大丈夫です」

「我慢強いんですね」

「いえ……」

 会話が成立しているのかしていないのか。少したどたどしい返事をしているシシリアの視線は、あらぬ方向を向いていて落ち着かない。

「あ。これ、姫様の凝結魔法がかかってますね。相変わらず姫様の魔法は暖かいなぁ」

「暖かい? 氷魔法なのに?」

 興味を持ったように向いた視線に、ユナンは肩をすくめて笑う。

「えーっと、説明は難しいんですが。姫様の魔法はいつも、精霊に語りかけてある感じなんです」

「魔法って、そういうものなのではないのですか?」

「そうなんですが。ニュアンスで言うなら、“あれして、これして”という式ではなくて、どれも“あぁしてくれないかな? こうしたらどうかな?”といった感じなんですよね。精霊たちの雰囲気がとてもポカポカと優しげで、雑味が無いすべすべとした形をしているんです。本当に綺麗な魔法です」

「へぇ。知らなかったわ」

 そう会話に割り込んだエイネシアには、「え。無意識ですか?」とユナンが目を瞬かせた。

 だがお生憎様。ユナンのように精霊の姿を見たり声を聞いたりできないエイネシアには、残念ながらそれを感じ取ることはできないのだ。とっても羨ましいけれど。

「魔法は人柄を現すんですよ。うちの室長の魔法は少しの狂いも無く正確無比なので、まるで難しい専門書の文字の羅列のようです。綺麗なんですけど、規律正しすぎて息苦しくなります」

「……」

 まだいまいちピンときていないのか、首を傾げるシシリアに、「変なこと言っていますよね、僕」とユナンも肩をすくめた。

「あ、いえ。珍しいお話だったので。へぇ。魔法って、使う人によって違うんですね」

 そう答えたシシリアには、「そう、そうなんです!」と、興味を持ってもらえたのが嬉しいかのようにユナンが顔を瞬かせた。

「ユナン……さんの魔法はどんな魔法なんですか?」

「え。僕ですか?」

 そうころころと表情の変わるユナンは、これまでで一番ばつの悪そうな顔をして、チラリとエイネシアを見る。その視線には、エイネシアもふふっ、と、思わず笑ってしまった。

 なにしろ、日々ハインツリッヒ先生に「字が下手」と罵られ、何故かその先生の書いた大変美しい式に重ね掛けた複合式で、精霊達を饗宴乱舞させた張本人だ。でも精霊達の声を聞くことのできる彼の魔法陣は、きっと他の誰よりも綺麗なのだと思う。

「私にはユナンのように精霊の姿は見えないけれど。でもきっと、とても素敵なのだと思うわ」

「ひ、姫様ぁ」

「シシー。ユナンはね、精霊の姿を見て、声を聞くことができるの。だから彼の魔法はいつも精霊達と語り合いながら、その時の空気や気候、精霊達の機嫌なんかに合わせて毎回違うのよ。いつも、精霊達に一番心地の良い魔法を描くの」

「や、やめてください、恥ずかしい……。それに、目で見えているのに上手く描けないから、いつも大失敗するんですよ……」

 ハァ、とため息を吐くユナンには、再びエイネシアがカラカラと笑った。

 最近、この温室にあるユナンの仕事机には、子供が使うような基礎魔法学の本と、学習帳が積み上げられている。あまりの斑の多さと字の下手さに、室長が自ら何処からか持ってきて、「学習帳三冊みっちり精霊文字の練習をしろ。ついでに普通の文字も練習しろ」と押し付けた課題なのだ。

「やっぱり……貴方……」

 そんな二人を余所に、ポツリと思案するように呟いたシシリアの声色と、ジッとユナンを見た真剣な眼差しと。その目に、あぁ、また、とエイネシアは首を傾げた。

 何処からどう見ても二人は初対面で、ユナンとシシリアが知り合う機会もなかったはず。ユナンもシシリアを見知っている様子はない。なのにシシリアがユナン・ボードレールを知っているとしたならば……もしかして、という、一つの可能性にたどり着いてしまう。

 そう。ユナン・ボードレールは、あのゲームの中でも途中追加される攻略対象の一人なのだ。

 エイネシアがそれに気が付いたのは随分と経ってからのことで、アンナマリアとの会話で何気なく出したユナンの名前に、アンナマリアが先に気が付いた。まさか彼がそうだとはちっとも思っていなかったのだけれど、その特徴や人柄を一通り話したところで、アンナマリアに“間違いない”と言われた。

 だがそんなアンナマリアでさえも一度も会ったことは無く、「そういえば、王宮で遭遇イベントがあったような」と言っていたが、やはり面識はないらしい。学院のすぐ傍の薬室にいたことさえ気が付いていなかった。

 実際、ユナンはボードレール子爵という爵位を持ってはいるものの、小さな頃から研究所に閉じ込められて来たような生立ちだから、社交界にも一度も出たことが無い。それにもかかわらず一方的にユナンを見知っているということは、即ち、アンナマリアと同じ……シシリアもまた、“ゲーム”でのユナンを見知っているという事。

 転移者の七人のうちの一人ではないのか……と。そういう可能性が思い浮かんだ。

 そうだとしたら、色々と辻褄も合う。普通に進めばエイネシアの取り巻きになっていたはずのシシリアが、一年の段階で少しずつエイネシアと距離を取っていたこと。二年になってすぐ、エイネシアはいずれ没落するとアイラに聞かされ、シシリアがそれを少しの疑いも無くすぐに信じたこと。そして卒業パーティーを機に、“アイラの言った通りにはならなかった”ことに目を覚ましたというのだって、要するに、ここが“ゲームとは違う”ことを知ったという意味にも取れる。

 そもそもシシリア・ノー・セイロンの性格という点からしたって、ゲームとはかなり違う。気が強いところは同じかもしれないが、正義感があっていささか男勝りで、慎重で個人主義。なのに案外世話焼き。ゲームとはまるでちがう。

 だからもしかしたら。

 シシリアが、“四人目”――。


「はい、完成です。うーんっ。包帯、ちゃんと巻けてます?」

 そう不安そうに口にするユナンに、はた、とエイネシアも視線を寄越す。

 確かに、薬はちゃんと塗れたようだが、包帯はかなりいびつだ。普通に考えてそうはならないだろう、というほどに不器用な巻き方をしてある。

「……えっと。ユナン。膝は……それだと、駄目かしら」

 申し訳ないながらもそう口にしたところで、「ですよね」とがっかりと肩を落とす。

 それからもう一度結び直そうと結び目に手を伸ばしたけれど、「あ、いえ!」と、それを留めたのはシシリアだった。

「大丈夫です。折角巻いて頂いたのに」

「でも、すごくいびつで。足、ちゃんと曲がりますか?」

 そう不安そうにするユナンに、くいくいと足を動かして、「ほら、大丈夫」と示して見せたシシリアに、ほっ、とユナンが顔をほころばせた。

 そんな様子にエイネシアも安堵しつつ、でも取りあえず、とシシリアに足を見せてもらって、包帯のずれは直しておいた。薬が包帯からはみ出てずれてしまったら意味がない。

「あとはー。あ。ニコルも煎じますか?」

 そう薬器をかちゃかちゃとまとめながら言ったユナンには、うーん、とエイネシアも困った顔をする。

 その効き目は抜群で、副作用もない良薬ではあるのだが……あの凄まじく苦いニコルは、できれば他人には勧めたくない。

「シシー。とっても怪我に良い薬草があるのだけれど……」

「いえ。もう充分に色々と」

「とんでもなく苦いのだけれど。でも本当に綺麗に傷口が無くなって」

「いいえ。本当にもういいです」

 そうきっぱりと言うシシリアが、実はかなりの偏食家であることを、エイネシアは知っている。

 これでも付き合いだけは長いのだ。野菜の類は全般苦手であるし、果物だってかなり好き嫌いが多い。雉や羊のような癖のある肉も好まないし、固いものも好きじゃない。辛いものは平気なようだが、渋いものは受け付けず、紅茶だって絶対にミルクか蜂蜜を入れる。

 なのでわかる。とんでもなく苦いニコルなんて絶対に飲んではくれないだろう。

「でもお顔に傷が残ったら大変ですよ。折角綺麗なのに」

 そうコテンと首を傾げていったユナンに、その瞬間、ぶわっっ、と、シシリアの顔が真っ赤に染めあがった。

 その思いがけない面差しには、ええっ?! とエイネシアも声を上げてしまう。

 驚いた……シシリアも、そんな顔をするのだ。

「ば、馬鹿言わないで! このくらいの傷、舐めてればすぐに治っっ……」

「駄目ですよ! 唾液には雑菌が多いんです! そんなものより絶対にうちの室長の作った薬の方が効き目が!」

「ユナン、ユナン。言葉のあやだから」

 そう力説するユナンを苦笑交じりに諌める。

 顔を真っ赤に俯いているシシリアには今少し目を瞬かせ、すっかり俯いた様子には、思わず苦笑を浮かべた。

 なんだか……今初めて、この勝気なレディが、ただの一人の可愛い少女に見えた。

「ユナン、塗り薬を三日分、用意してあげて。それからシシー。やっぱり顔に傷が残ったら大変だもの。また診察に来て、傷口が良くなっていないようだったら、その時はニコルの葉を煎じてもらってね」

「……はぁ」

「大丈夫。超甘党のユナンが、シシーのためにきっととてもいいアイデアを思いついてくれるわ」

「え、僕がですかっ?! 責任重大だなぁ」

 そう戦々恐々とするユナンには、「ほら、例の丸薬化の話はどうなったの?」と話題を振ってみる。

 かつてハインツリッヒに改良型ニコル薬の服飲実験をさせられたユナンが、絶対に嫌だと駄々をこねた結果、なんとかその状況を打破すべく作り上げたのが、ニコルの丸薬だ。

 だがその時は、蜂蜜やらハーブやらを大量に混ぜたその丸薬に、「薬効が落ちる」と眉を吊り上げたハインツリッヒに却下され、なくなく苦い薬を流し込まれた。

 それ以来、あの研究はどうなったのだろうか。

「あ! それがありましたね。分かりました! 今度こそ形にして見せます」

 そうぐっと拳を握るユナンに期待をしつつ、さて、とエイネシアも使った道具をしまうべく席を立つ。

 そこにちょうど、森の入り口まで迎えに出てくれていたシーズリースが、星雲寮の二階担当の侍女であるマーシャを連れて来てくれた。

 マーシャも学院であった窓硝子が降ってきた事件を存じていたようで、「心配いたしました」と、きちんと手当てが為されているのを確認しながら、代わりの服を差し出した。

 これでもう一安心だ。

 あとは衝立の向こうでシシリアが着替える間にテキパキと片付けをして。

 それからふと、折角だから少し畑の様子を見ていこうと思いつくと、マーシャに「すぐに戻るわ」と声をかけ、温室の外の実験畑へ向かった。




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