3-16 アイラとシシリア
「一体アレクシス殿下に何を吹き込まれたんです――」
突然部屋にやってきてそんなことを問うたエドワードには、「別に何も」と笑って答えたけれど、現状、エイネシアの頭からはその人の影がどうにも離れてくれなかった。
『子供扱いを、やめようか?』
あの日の言葉が忘れられない。
いつもと違う蠱惑的なその笑みが、目を離れない。
『シアが逃げたら困るから。折角子供扱いしてあげていたのに』
くすくすと微笑むその人に感じた、僅かな恐怖。
『やめていいなら、そうするよ?』
そう言って耳元に囁かれた、名を呼ぶ声。
思い出すたびに胸がざわめき、息が苦しくなる。
こんなことは初めてで、どうして、どうしよう、と戸惑うと、すっかりと周りが見えなくなってしまう。
自分でもこれは良くないと分かっているのだけれどどうしようもない。
夕暮れ時の外灯の灯り。少し苦いハーブの匂い。深い深い西の森。
そんなものを見るたびに思い出してはドキリとする。
あのままもしも……もしもエドワードとアルフォンスが来なかったら。
そしたら、どうなっていたのだろう。
◇◇◇
「まぁ、ごきげんよう! エイネシア様!」
誰かに声を掛けられて、ふと顔をあげる。
ピンクの髪にピンクのリボン。目の前にいるのに、何だかふわふわと遠く感じるアイラ嬢。
「ごきげんよう、アイラさん」
地に足のつかないその子が現実のものと思えなくて、ぼんやりと傍らを通り過ぎようとしたところで、「ちょっと!」と、強引に腕を掴まれた。
でも今頭の中に渦巻いているのは、その曲がった首元のリボンのことだ。
気になる。左右で微妙に長さが違うのが、とても気になる。
「無視するなんて、良い度胸を……」
アイラが何かを言っている。でもなんだかちっとも頭に入って来なくて、おもむろにリボンに手を伸ばしたら、びくんっ、と肩を跳ね上げたアイラが慌てて一歩引き下がった。
そのせいで、エイネシアが掴んでいたリボンがシュルリと解ける。
「なっ」
「動かないで。リボンがずれていらっしゃるわ」
そう言ってリボンを止めるブローチをアイラの手に乗せると、テキパキと形よくリボンを調えて、それにブローチを付け直す。
よし。これで綺麗だ。
そう納得して、「では」と傍らを通り過ぎるエイネシアに、「はぁぁ?!」と、間の抜けたアイラの声がかかる。
はて。余計な時間を食ったが、あとはこれから図書館に行って本を探して、それから薬室に書類を届けて。
そういえば少し前にアルフォンスが「図書館から動かないでください」とか言っていたけれど、どこに行ったのかしら。
そう薄ぼんやりと考えながら歩を進めたところで、「待ちなさいよ!」と腕を引っ張られた。
はて。まだ何か用があるのだろうか、と首を傾げて振り返ったところで、「突然お手を触れるなんて無礼よ」と、パンッとアイラの手を振り払うようにして、間に背の高い女性が割り込んだ。
その目の前を横切った長いポニーテールに、はたとエイネシアも目を瞬かせて我に返る。
「あら。シシー?」
どうしてここに? と首を傾げたところで、振り返ったシシリアが深い深いため息を吐く。
「どうしてもなにも……王女殿下が、どうやら最近姫の様子がおかしいと仰っていたのは本当だったのですね。どうして道すがら、アイラさんのリボンを直してあげるなんて状況になっているんです?」
「ん?」
そういえば今、そんなことをしただろうか。特に理由なんて考えず、何となく気になっただけだったのだが。
「痛いっ。何するの、離して! シシー!」
そう掴まれた腕を過剰に痛がって引こうとするアイラに、ふとシシリアが振り返って、掴み止めたアイラの腕を見やった。
いや、これは狂言ではない。本気の握力で握っているのか、しっかりと腕に指が食い込んでいる。
「アイラさん。突然後ろから姫様の腕を掴むなんて失礼だわ。反省なさって」
シシリアのいつも通りの少しきつい声色に、きゃっ、とアイラが怯えた顔をして見せる。
その内周りにはざわざわとギャラリーが集まり始めるが、それでもシシリアはちっとも動じる様子などなく、アイラの腕を引っ張る。
「さぁ。突然手を触れたことのお詫びを」
「い、痛いっ。何をするの、シシーっ!」
そう弱者を装ってわめくアイラに、はて、これはどうしたことか、とエイネシアは目を瞬かせた。
「あの、待って、シシー。驚いたけれど。別にそこまで責めずとも……」
「そういうの、いい加減になさいませ、エイネシア様。悪いことは悪い。間違っていることは間違っている。そう言わないと駄目です。公爵家の“姫”に対して、後ろから突然腕を掴んで許可なく引き止める。それがどれほどの無礼なのかは、貴族……いえ、この国の国民なら子供だって知っています」
そうきっぱりと口にしたシシリアに、ざわざわっ、と周りの冷たい目がエイネシア……ではなく、“アイラ”を向いた。
その視線に、カッとしたアイラが乱暴にシシリアの手を振り払う。
「言いがかりはよして、シシー! 貴女、私に何の恨みがあってッ」
「恨み? いいえ。ただの親切心です。私はお優しいエイネシア様とは違いますから。言うべきことは言いますよ」
「貴女っ……わたっ、私はいずれヴィンセント王子と結婚するのよ!」
そう声高らかに言うアイラに、またもざわざわ、と周りがざわめく。
その声を、アイラは一体どう捉えているのか。自分の味方の声だと思っているのか。彼らの視線が剣呑としていて、非難の色が強いことに気が付いているのだろうか。
「あの……シシー。その辺にしておいては?」
取りあえず周りの視線を集めすぎていることを気にしたエイネシアがそう声をかけてみるが、「いいえ」と、シシリアはちっとも引き下がらない。
「姫様こそ。指導できることは、きちんと指導するべきではないですか?」
そう促されては、エイネシアもうーん、と困ってしまう。
何だかもう正直、アイラの事はどうでもよいのだ。ヴィンセントとのことは、もう終わった話。これからアイラがどうしようと、ヴィンセントとどうなろうとも。それはもう、エイネシアには何も関係がない。
けれどそれでもきちんと向き合おうとしているシシリアを見ると、公爵家の娘としての責任の一切すらも忘れかけていた自分が少々恥ずかしく思えてくる。ヴィンセントとの許嫁関係が解消されて以来、少し気を抜きすぎていただろうか。アーデルハイド家の娘、貴族の模範たるべき公爵家の娘として為すべきことを為すならば、シシリアの言う通りに、きちんとアイラを真っ向から指導するべきなのかもしれない。
「指導?! いずれ王太子妃になる私に文句を言おうと言うの? 私はこんなにもエイネシア様と親しくなりたいと思っているのに、まだ私のことを認めずに非難なさるつもりなの!?」
ひどい……、と涙ぐんでみせるいつもの様子に、うーん……、とエイネシアも俄かに唸ると、一つ、ため息を吐いた。
記憶が正しければ一年と少し前、エイネシアはアイラに、自分を王太子妃と呼ぶようにとアイラを脅した、みたいな虚言をいわれ、貶められたことがあった。ただの許嫁が王太子妃を名乗ることの非難を狙って彼女はそれを口にしたはずなのに、今の彼女ときたらどうだろうか。もはやすっかりとヴィンセントの威光を笠に着ての王族面だ。これは流石に痛々しい。
「アイラさん……“王太子の許嫁”は、身分や階級ではないわよ」
だから思わずそう口にしたところで、「はぁ?」という怪訝そうな声が返ってきた。
「何を仰ってるの? だって貴女も去年までは……」
「皆が私に礼を尽くして下さるのは、私が殿下の許嫁だったからではなくて、私がアンナベティ王女の孫で、四公アーデルハイド家の娘だからよ。殿下のことは関係ないわ」
もしかしてそんなところから誤解されていたのだろうかと呆れてしまう。
「だからアイラさん。貴女が殿下とどのようなご関係であろうとも、貴女の身分はシンドリー侯爵家の孫娘。それ以上でもそれ以下でもないわ。だから今後は突然、私の腕をお掴みになるような真似はおやめになって。不敬を問われかねないわ」
「エイネシア様は、私のような下賎な生まれの者には触られたくないと仰るのね!」
言質を取ったとばかりに生き生きとアイラは叫んだけれど、それにはエイネシアばかりでなく、周りのギャラリーの方から、ハァというため息が漏れ出た。
去年までならこのアイラの被害者面に皆の同情心が集まっていたのだろうが、それはアイラが、男爵令嬢などという低い身分の“憐れな少女”だったからである。でも今の彼女は違う。シンドリー侯爵家というフレデリカ妃の縁戚に連なる家の名を冠しており、しかも王太子の許嫁という立場を豪語している娘だ。その一挙手一投足はすべて、“王家の妃に相応しいか否か”という目で見られる。
エイネシアにとっては幼少時から常に意識してきたことでも、アイラにとってはそうではない。可哀想だから。憐れだから。そうやって甘やかされて、例え何度礼を損なおうが、全部をエイネシアのせいに出来た昔とは違うのだと、彼女は未だに気が付いていない。
周りも王太子の許嫁であるエイネシアに過敏になっていたから、アイラを憐れむと同時にエイネシアを厳しい視線で見た。でも今やその立場は逆なのだ。
皆に見定められているのはアイラの方。アイラというぽっと出の少女が、本当に自分達がいずれ仕えるに値する、礼節を重んじる王家の妃に成り得るのかどうか――。
あぁ……ヒロインというのは、なんと難しい役回りなのだろうか。アイラに少し同情してしまう。
「王太子殿下の許嫁としての矜持がおありなら、もう二度と自分を下賎などと言ってはいけませんわ。それは、殿下をも貶めますから」
ひとまずアイラにその自覚を持ってもらうべく、ピリリとエイネシアも言葉を厳しくする。だが案の定、意味は通じなかったようだ。
「まぁ! 私、殿下をお悪く言うなんてそんなつもり少しもないのに! どうしてエイネシア様はすぐに私のことをそうやってっ」
「もういい加減になさったら?」
ああいえばこういう。まったく勝ち目のない問答をするアイラに、イライラがピークに達したらしいシシリアが再び苛立たしげな声色でそう言葉を噤ませる。そのシシリアを、取り繕うことも忘れたアイラの忌々しそうな視線が睨みつけた。
「貴女って、他人の言葉のすべてにおいて自分を被害者にしないと気が済まないの? そんなに自分が“可哀想な少女”じゃないと満足できないの? だったら王太子殿下の許嫁なんかやめておしまいになったら? きっと皆様、同情なさってくれるわ」
「シシー!」
それは言い過ぎよ、と、エイネシアも慌ててシシリアの背中を引っ張った。
でも少しとして間違ったことなど言っていない、という真剣なシシリアの眼差しに、エイネシアもそれ以上の言葉を噤む。
「私を……私を、侮辱するのね。シシリア・ノー・セイロン」
「侮辱? 貴女がエイネシア様になさってきたことに比べたら可愛いものよ」
「覚えていなさい、シシリア。私、貴女に言ったはずよ。ソイツの味方をしたら、貴女、絶対破滅するんだからっ」
「ええ。言われたわ。去年の春。貴女に味方しないと、“エイネシア様と一緒に罰される”のでしたかしら? 良く覚えてますわ」
ざわざわっ、と広がった声色に、アイラもチラリと周りを見る。
『一緒に居たら罰される? それって、逆じゃなかったの?』
『確かエイネシア姫の方が、自分を悪く言ったら宰相府を動かすとかなんだとかいう話じゃあ……』
そのざわめきに、ハッとエイネシアも辺りを見回した。
いけない。このままことを大きくしては不味い。こういう時、どうやって場を治めたらいいのだろうか。あぁ、そうだ。アンナマリアは、どうやって卒業パーティーの時のあの剣呑な空気を収めたのだったか。
それを思い出しながら、今にもヒートアップしそうな二人の間に割り込んで、パンッ!! と、両の掌を叩いた。
その音に、びくりっ、と、皆が静まり返る。
「はい。もうおしまいよ、アイラさん。シシー。こんなところで立ち話だなんて、はしたないわ。皆様の通行の邪魔でもありますし。ね」
そうニコリと微笑んで見せたところで、むっとアイラは怪訝な顔をしたけれど、対するシシリアは大人しく引き下がって、「そうですね、すみません」と謝罪した。
ひとまず片方でも折れてくれたことにほっとする。
「でもエイネシア様。アイラ嬢が貴女を失礼な方法で呼びとめたことについてだけは、ちゃんと謝罪させるべきです。それだけは、譲れません」
そうきっぱりというシシリアに、エイネシアも困ったようにアイラを見やった。
どう考えてもこの子が素直に謝罪するはずなんてない。そう思ったのだけれど。
「私、エイネシア様に失礼なことをするつもりなんてなかったんです! ごめんなさい、エイネシア様!」
そうキュルンと目をきらめかせて真っ直ぐと謝罪をしたアイラに、「えっ?!」と、逆に驚きの声を上げてしまった。
これは一体どういう心境の変化なのか。
「私、エイネシア様とお話ししたかっただけなの。でもシシリアは、私がエイネシア様とお話するのも許してくれないのね。私なんかがエイネシア様にお声をおかけするのも失礼だと思われているのだわ」
そうぐすっと涙ぐんで見せたアイラに、あぁ、そうか、と理解した。
アイラはたった今この瞬間から、標的をエイネシアではなくシシリアに移したのだ。より一層自分の敵と成り得て、また自分を“被害者”に仕立て上げてくれる恰好の標的として。
そう分かった瞬間、「待ってッ」と口を挟みそうになったけれど、それはさりげなくすっと差し出されたシシリアの手に遮られた。
何も言わないでいい、とでもいうようなその視線が、エイネシアの口を噤ませる。
「貴女のそういう茶番。いつまでもは続かないわよ」
聞いたこともないピリリとした低い声色が、本気を孕んでいる。まさかシシリアがこんなに怖い子だったなんて。
「さぁ、お早く参りましょう、エイネシア様。アルフォンス卿が図書館でお待ちなのでしょう?」
「え、ええ……」
そう。確かにそうなのだけれど。でも、と見やった先でニコニコとしたアイラが、「またお話してくださいね、エイネシア様」だなんて満面の笑みを浮かべるものだから、逆に寒気がした。
あの変わり身の早さは何なのだろうか。
ツカツカと先を行くシシリアに、少し後ろを気にしつつもエイネシアもそれを追って。そのシシリアの後姿に、言いようもない不安を感じた。
『もう、自分の行いに毎日後悔して腹を立てるのは嫌です。慎重に慎重にと周りの様子ばかり窺って自分を見失うのは嫌です。だからこれからは、自分が正しいと思えることをしたいのです』
かつて上王陛下のサロンで謝罪と共にそう口にしたシシリアの面差しが、今もはっきりと思い出せる。
悔いて、悩んで、苛立って。これからは正しいことをしたい、と言ったその決意の言葉が、頼もしいようで……でも今は少しだけ不安だった。
どんなにか正しくても、それが敵を作る――。それはかつてエイネシアがヴィンセントに教え叱られたことでもあり、人生は必ずしも正義ばかりではいられないことを知っていて。
でも。
「シシー……」
「何も仰らないでください。私は、私の好きなようにしただけです」
背中を向けたままにそう言うその人が、少し成長したような。
でも少し孤独になったような。
そんな気がした。