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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第三章 幸せな結末を探して(下)
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3-14 畑と温室と夜の森(2)

「ハイン様。春蒔き小麦はどうですか?」

 道すがら、ちょうど先ほど見た青々と調子のよさそうな小麦の話題をふってみた。

「先日実験的に採取したものを挽いてみたが、想像以上にいいな。まだ実りは安定しないが、魔法陣の保護は最適に働いていて、次の収穫での生産性と品質の向上がすでに大幅に見込まれている。この陣はいい。君の許可さえあれば、薬園の方でも試したい」

 そこまでの高評価を頂いたのはこれまでにないことで、むしろエイネシアのほうが、「それは是非」とお願いしたいくらいだった。薬室の研究の助けになるのならば、ここまで完璧にエイネシアの構想を実現させ、かつ場所の提供と管理までしてくれている薬室への恩返しにもなる。

「汎用性に足る品質になるまで、どのくらいかかるでしょうか?」

「今の調子ならば……一年は見込んでもらいたい。品質はもう幾らもせず安定するだろうが、問題は種量の少なさだ。イースニック地方で実際に栽培を始めるにあたって、満足いく量の苗を確保するには、それ用の相応の土地と時間が必要だ」

 それについてはエイネシアも考えていたことで、土地については、はじめはアーデルハイド領で、と思っていた。だが何しろアーデルハイド領は遠い。少しだって時間を無駄にしたくない今、何日もかけて領地と王都、さらにイースニックとをうろうろ移動させるのは時間の無駄だ。

 本来なら北部穀倉地帯の中心であるイースニック領に持ち込んで、イースニックで苗の増殖に取り組みたいところだが、生憎とそこは未だにイースニック伯が国の介入を拒んでいる状態にあり、国に土地を貸したり、あれこれとうろつかれることを良しとはしないだろう。

 そのあたりはどちらかというと内政の話……アレクシスの担当分野ということになるのだが、貴族が自分の領地をどう治めるかは国とて簡単には口を挟んではならないのが不文律であるから、国としての介入はやはり難しい。

「イースニック伯爵の方はどうなっているのだ?」

 温室の戸に手をかけつつ軽い確認の意で問うたハインツリッヒに、アレクシスはたちまち、「どうもこうも」と首を振る。

「手こずっているよ。一度は招集に応じたが、病だ何だと、結局殆ど取り調べもできぬまま所領に戻ってしまった。領政については内偵を進めているけれど……とりあえず私は、伯爵を領主の地位から引きずり下ろすつもりで動いている」

 世間話でもするかのように、さらっと国の重大事項を口にしたアレクシスには、流石にハインツリッヒも言葉を失って硬直した。

 聞いてはならない事というより、“聞きたくない事”を聞いてしまった、という感じだ。

「アレク様……」

「イースニックの再編に関わろうという君達に隠す話でもないでしょう? 少なくとも私は陛下にそう要求しているし、イースニック伯の国庫補助横領の調査にはすでに宰相府の監察局も動いている。宰相府だけでなく、近衛の参謀部や監査局も動きつつある。なのに君達だけ知らないというのもおかしな話だ」

 むしろよく熟知して、君達もこの問題に巻き込まれるべきだ、なんてことをニコニコと微笑んで仰るアレクシス様は、中々の悪魔だった。

 聞いてしまった以上、これはもう、巻き込まれた……という事になるのだろうか。道理で、いつも以上にハインツリッヒの顔が不機嫌になるわけだ。

「私は、伯に土地を提供する意思があるのかどうか。お前がそれを説得できるのかどうかが聞きたかっただけなのだが……」

「うん。だから、“ない”んだよ」

 まぁ確かにそういうことなのだろうが。

 これは如何せん、聞き方を間違えたのだと、ハインツリッヒは深い深いため息を吐きながら頭を抱えた。

「と、とりあえずハイン様。イースニック地方の農地再編とはつまり、イースニック領だけではなくて、その周辺。北部穀倉地帯全体への再編事業なわけですし……いずれはイースニック領にも麦普及の目途が立つということで、まずはイースニック領と交通の便の良い周辺他領に当たりをつけて、新品種の増産への協力を願い出るという事で……」

 こういう時は話を変えてしまおうと極力軽やかな声色で告げたところで、「あぁ、そうだ。そういう話をしているんだ」と唸りながら、ハインツリッヒが顔をあげ、思い出したように、開けっ放しになってしまっていた温室への扉をくぐった。

 夏の熱気がこもり出したこの季節では、温室といっても、魔法で完璧な空調管理が為されているこの場所の方が適度に涼しくて過ごしやすい。

「実のところ、何処から噂を聞きつけたのか、いくつかの所領から新品種に関する問い合わせが来ている」

 一体、何処からどう漏れて、この第三薬学研究室にまでたどり着いたのか。大学部の研究陣にならば分かるが、正式な本件の関係施設でもない薬室に直接というのは、少々気味が悪い。

 まぁ、同じ薬室関連の情報網から漏れたとか、どこかしらに情報の流出経路があったのだろうけれど。

「目ぼしいところはありましたか?」

「その判断は君がすべきだろうが。販路と領政の安定具合でなら、バーズレックだな」

 温室の一角を占拠する大きな机に向かうと、すぐにがさごそと机の上の書類の山を漁り、その中の沢山の封筒の束の中の一つをエイネシアに差し出す。

 封筒の中は中々に分厚い紙束で、それを机の上に開くと、早速パラパラと主要な箇所に当たりをつけて捲ってゆく。

「かなりの好条件ですね。勾配研究に実績のあるオイリン博士の研究室が協力するとありますし、土壌鑑定のできる魔法士も在中している。新品種を試すだけでなく、増産のための管理をする体制もあちらが準備してくれて、それにその後の販売ルートや商家との繋がりの資料など、行政面でのアピールもきちんとしていて、領政が滞りなく運営されていることがわかります。それに文面からはバーズレック伯が今回の実験にとても好意的な様子が見て取れます」

 雑にまとめるならば、許容しうるギリギリの好条件を積めるだけ積んできて、“うちでやるのが一番お得ですよ!”と猛アピールしてきている、という感じの書類だ。

「それだけ、新品種にかかる権益が欲しいということだろう」

 率直にエイネシアが敢えて言わなかったことを口にしたハインツリッヒには、一つ肩をすくめる。

 だがその通りだ。要するに、新品種がイースニックの独占権益となることを懸念している。あるいはいっそ自分達が開発協力することで、権益を優先的に獲得したいとの下心があるのだ。

 とりわけイースニック領での農業再興は、イースニックの荒廃のおかげで需要が高まっているバーズレックの麦産業にとっても打撃を与えることになるため、新品種開発とやらの進捗を目の届くところで把握、あるいは主導者側に参加することで、その権益を共有したい目的もあるのだろう。

「アレク様はバーズレック伯にお会いしたことはありますか?」

「あるよ。まぁ、私は旅の小麦研究者か何かだと思われていると思うけれど」

「……」

「……」

 うん。突っ込まない方がよさそうだ。

「利益利害には確かに貪欲だが、自分の利害というよりは、領地を豊かにすることに貪欲というべきかな。八年前の飢饉以来、いち早く領内の生産性を回復させたという意味でも見どころがあるし、領地のためならば商家に頭を下げることさえできる人柄だよ。新品種の権益については今後何かしらの条件を突きつけて来るだろうけれど、研究結果を独占するなどとは言い出さないと思う。彼は北部貴族同士の横の繋がりも大事にしていたように思うからね」

 なるほど。そう太鼓判を押されると安心する。

「ただ念には念を入れて。研究室から持ち出すのは陛下への報告の後。それまでは、畑の方も警備を徹底した方がいいな」

 そう忠告するアレクシスに、「ではイノシシ用の罠でも仕掛けておくか」などと言いながら、アルコールランプの上でビーカーを直火にかけてお湯を沸かし始めたハインツリッヒの言葉には、彼が無表情であるがゆえに本気なのか冗談なのか計りかねて、上手く反応を返せなかった。

 冗談……だと思うが。いや、本気だろうか?

「えーっと……野菜畑の方は、あの様子。どう思われますか? 成長の著しい箇所は、やはり“精霊の通り道”なのでしょうか?」

「ユナンに確認させて、毎日通り道を図式化させている」

 ただそのユナンは、書き留めさせているスケッチブックごと、昼過ぎから行方不明だがね、と、ハインツリッヒの眉根が寄った。どうりで、今日は温室の中が静かだと思った。

「普通は魔法を使っても、こんな影響は出ませんよね?」

「それだけ、精霊を集める力が強い陣だということだ。今の麦の収穫が済んだら、一度見直して微調整を加える。発案者は君だ。速やかに調整済みの新しい陣を提出するように」

「はい……」

 それは勿論そうなのだが、ハインツリッヒ先生に言われるとプレッシャーがかかる。

「調整を加えてなお精霊の流路を作るほどのものとなると、周辺生態系への影響も懸念される。もう少し経過を見て、長期的活用による周囲への悪影響がないかは念入りに確認した方がいいだろう」

「模倣され、悪用されては困りますからね」

「まぁ陣形が転用されたところで、あの陣を扱える魔法士はそうそういないと思うがな」

 そういうハインツリッヒには、確かに、とエイネシアも苦笑してしまった。

 何しろ王立研究所の選りすぐりの魔法士が二人がかりで、しかもユナンという特異な魔法士の監督のもとにかろうじて成功したような陣だ。誰もが真似できるものでないのは、まず間違いない。

「作物の生育保護と品種改良に対する効果はすでに高い実験結果が得られている。周囲への影響の確認が問題ないと判断されれば、その時は発案者である君の許可があり次第、速やかに魔法士学会のライブラに提出するとしよう」

「わかりました。それで、その品種改良の麦ですが、他領に委託する時、私が取らねばならない手続きはどれとどれになるんですか?」

 そうエイネシアがハインツリッヒの意識を引きつけている間に、アレクシスが机の傍らでコソコソと箱に入った薬草やら何やらをえり分ける。それをチラと見やったエイネシアに、コクリと頷くアレクシス。それに気が付くことも無く、本と本の間から引っ張り出した書類を数枚めくって、「まずはこの件の許可印が必要だから、ここと、ここと」などと指示するハインツリッヒは、コポコポとお湯が沸く音を耳にして、ふっと机に意識を戻した。

 ハインツリッヒの長い指先が、適当に机の上に並ぶ葉っぱを摘み取ってはビーカーの中に入れてゆく。すぐにもキョロキョロと何か探すような仕草をしたが、間もなく諦めたようにランプの火を消して、じんわりとにじみ出た即席薬草ハーブティーをマグカップに注ぎ、客人に差し出した。

「おかしいな……ニワとトクサリの服飲実験をしてもらいたかったのだが……」

 机の上に置いていたはずが、とがさごそ机をまさぐるハインツリッヒに、アレクシスは避けた木箱をこそこそと机の下に隠した。そんなアレクシスに、ぐっじょぶっ、とエイネシアは思わず拳を握る。

 本日の薬草ハーブティーも中々の苦みを発しているが、○露丸みたいな強烈な匂いを放つニワの根や、毒々しい青紫をしたトクサリを飲まずに済んだことは実に有難い。

 薬室にはお世話になっているが、ハインツリッヒの薬草茶研究には辟易しているのだ。

「それよりハイン様。麦畑での実験にもう一つ加えてもらいたい実験があるのですが」

 そう急いで話を変えたところで、「聞こう」とすぐに興味を移してハインツリッヒが椅子に腰を据える。

 こうやって一つ二つと色々な話をしている内に、エイネシアとハインツリッヒの二人だけならば適度なところでキリもつく話が、そこにもう一人アレクシスが加わるだけで、瞬く間に話の規模は大きく、深くなってゆく。

 気が付けばどんどんとヒートアップし、畑の話から麦の話。魔法陣の話から複合式について。古式魔法の話にその応用の話。はてはイースニック領の内政や土地の有効活用について。王国における麦の需要と供給地の推移などを好き勝手に議論した。

 相も変わらず突拍子もない発想ながらも堅実なアレクシスの見解にはうんうんと顔を緩ませて大いに納得し、時折飛ぶハインツリッヒの容赦のない指摘にきらきらと目を瞬かせる。

 昔は二人の議論を聞いていることしかできなかったエイネシアも、今では時折得意分野での見解を述べることができるまでに成長し、活発に議論に交じってゆく。

 その時間はやはりとても有意義で、とても懐かしい物だった。



 だが三人集まれば時間を忘れるというのもまた昔からの事で――。


「あのー……」

 とても困った顔のシーズリース研究員のかけた声を五回無視したところで。

「室長。姫様はそろそろお返しにならないと……“エニー殿”が乗り込んできますよ」

 そう名前を出した瞬間、ハッッと、ハインツリッヒが立ち上がって温室の外を見た。

 その真っ暗な外に、同じく振り返ったエイネシアとアレクシスも、すぐに、あっっ、と顔色を濁す。

「今何時だ」

「十九時です」

「寮の門限!」

 しまった。ついに門限破りをしでかしてしまった……。

 そう慌てふためくエイネシアに、「落ち着いてください」とシーズリースが苦笑する。

「寮には三十分前に風手紙を飛ばしてありますから」

 そう言われて少しはほっとしたけれど、でもシーズリースへのお礼もそこそこに、「もう戻ります」と告げて、慌てて荷物をまとめる。

「まったく……面倒だな。さっさと学院を出てうちに就職しなさい」

 そうブツブツというハインツリッヒには、「シアを魔の道に引きずり込んだら、シアの母上に呪われるよ?」とアレクシスが忠告していた。

「それでは失礼します。ハイン様。すぐにまた書類、持ってまいりますね」

 そう挨拶もそこそこに急いで温室を飛び出そうとしたところで、「まぁ待ちなさい」と、アレクシスに肩を掴まれて、ぐっ、と足を踏みだし損ねる。

「アレク様っ」

「いいから、落ち着いて。そんなに急いだら危険だよ。ましてや一人でなんて帰せない」

 ハインがエニーに刺されるからね、と言う実に真剣な声色には、エイネシアも思わず大人しく動きを止めた。

 憮然とした顔でため息を吐いているハインツリッヒを見ると、確かに、これは得策ではない……と冷静になる。

「私が送ってゆく」

 そう言って返事をするよりも早く荷物を取り上げられて、はた、と顔をあげる。

 でも、と振り返った先で、すでにハインツリッヒは散らかしまくった本の整理を始めていて、アレクシスとの議論を続けるつもりがない様子を見せていた。

 その現状に、どうしよう……、と、思わず立ちすくむ。

「シア?」

 どうしたの? とこちらを見やるあどけない顔。

「帰りたくなくなった?」

 そうクスリと微笑むアレクシス。

 いや。そういうわけではなく。

 ただ今エイネシアが躊躇っているのは、その人の存在のせいなのだ。

「あの……。私、一人で帰れます」

 躊躇いがちに。けれどかろうじてそう口を開いたところで、「送ってもらいなさい」と口を挟んだのはハインツリッヒだった。

「でも……」

「私がエニーに刺される」

 そう言われてしまえばエイネシアも二の句を告げないわけで、「分かりました」と温室の扉に向かった。

「お手をどうぞ」

 目の前に立って、そっと差しのべられた手。

 ジッとそれを見つめて躊躇していたら、クスクスと小さな笑い声と共に、「暗くて危ないから」と、促された。

 そう言われてしまえばその通りで、でもなんだか気恥ずかしくて。

 けれどいつまでもそうしているわけにはいかず、恐る恐ると手を伸ばしたところで、きゅっと手を握られた。

「あのっ。アレク、さま」

 困惑したように手を引くけれど、掴まれた手はびくともしない。それを困ったように見上げたところで、ニコと微笑んだアレクシスの顔に、言葉を噤まされた。

 まったく。ズルい。いつもそうやって笑顔一つで丸め込んでくるのだから。


 そのまま温室を連れ出されて、暗い夜道に歩み出した瞬間、ポウ、と足元から蛍のような光がポツポツと浮かび上がり、足元を照らす。

「明るい……」

 思わず呟いたエイネシアに、「そうでしょう?」とアレクシスが光に沿って足を進める。

 重なった手が少し熱い。

 それは彼が現在進行形で光魔法を使っているからなのか。それとも緊張して体が火照ってしまっているからなのか。そう思うとなんだか恥ずかしくて、エイネシアは思わず手を引きそうになる。

 けれどそれを少しも手放、むしろ少し強く握りしめてこちらを見たその人の瞳に、言葉を飲み込んだ。

 危ないから駄目だよ、と、そう窘められているようでもあり。でもどこか少し……逃がさないよ、と。そう言われているかのようでもあり。

 薄明りの中に浮かぶその面差しに、ドキリとする。

「あの……アレクシス様。そろそろ、手……」

「迷子になったらいけないから。離してはいけないよ」

 そう言われた途端、急にそれが“子供扱い”されているような気になり、俯いてしまう。

 あぁ、馬鹿な。ほっとすべきところなのに。何をがっかりしているのか。


「また……子供扱い」


 気が付いた時にはそう呟いてしまっていて。

 その言葉にピタリと足を止めたアレクシスに、エイネシアもはっとして慌てて顔をあげた。

「あっ。いや……ちがっ」

「シアは、子供扱いは嫌だった?」

 クス、と、木々の合間から差し込む月の光がその人の面差しを淡く照らす。

 その様子が幻想的で、心臓を弾ませて口を噤んだ。

 嫌だ。何か妙に心がざわついて、落ち着かない。

 子供扱いは……嫌。

 でも嫌じゃない。

 でもやっぱり嫌。

 はっきりとしない感情に、困惑したように視線を彷徨わせる。

 子供扱いされることはとても安心して。なのにとても悔しくて。

 答えきれずに俯いたら、そうっと温かな指先が頬を包み込み、顔をあげるよう促された。

 淡い金の髪が、月明かりにキラキラと輝いていて。

 ブルーグリーンの瞳が、この暗闇の中では深い深い森のように綺麗で。

 俄かに微笑むその唇に、カァと頬に熱が灯る。

「子供扱いを、やめようか?」

 それはまるで悪魔の囁きのよう。

 蠱惑的に笑うその人に、胸がとくんとくんと波を打つ。

 頬にやんわりと添えられただけのはずの手が、肯定も否定もさせてくれない。

「シアが逃げたら困るから。折角、子供扱いしてあげていたのに」

 くすくすと笑みを孕んだ、森に融ける耳触りの良い声が、じんわりと脳髄にしみこんでくる。

「やめてもいいなら、そうするよ?」

 ねぇ。


「エイネシア――」


 うっとりと耳元に囁かれた声色が甘やかで。

 ぞくりと背を震えさせた感覚に、恐れを抱いて足を引く。

 けれど一歩、二歩と下がったところで少しもアレクシスとの距離は開きはせず、そのままむしろドンと木の幹を背にぶつけるほどに追い詰められた。


 月の光も届かぬ木陰。

 いつの間にかすっかりと消えてしまった光魔法。

 その暗い暗い森の中で、頬を滑り落ちた長い指先が、ツツと下唇をなぞる。

 少し怖くて。

 でもどこか期待している自分がいる。

 そんなはずはないと思っているのに、一方でその人の瞳を見据えたまま少しも動く事が出来なくて。

 ツイと持ち上げられた顎に、あぁ――キスをされる、と、そう思った瞬間。思わず、瞼を下ろした。

 とくりとくりと鼓打つ心臓と。

 すぐ間近に感じる他人の体温と。

 求めるように、薄く唇を開いて。

 浅く浅く、吐息を飲み込んで――。



「姉上? どこです?」

「姫様。そこにいらっしゃいますか?」

 途端にガサガサと何処からか聞こえてきた音に、ハッと目を見開いて我に返る。

 あっ! と、咄嗟に目の前の影を作る温もりを押し返そうとしたところで、その必要も無く呆気なく離れたアレクシスに顔を跳ね上げた。

 チラリと背後を伺うその人が、僅かに振り返って苦笑をこぼす。

 それはもう、いつものその人の顔で。

 この暗闇に、カァと羞恥に染まった頬の赤らみを隠しながら、ぎゅっと自分の手を握りしめて俯いた。

 なんて浅ましい。こんなところで、流れに任せてキスを強請るようなことをして。まるで期待していたようなことをして。恥ずかしい、と。

 逃げ出しそうになるエイネシアの頭に、フワリ、と、いつもの大きな掌が乗せられた。

「ごめんね、シア。君が随分と無防備なことを言うものだから。怖がらせてしまったかな」

 え? と顔を跳ね上げる。

 アレクシスはエイネシアを怖がらせたかっただけ? 苛めただけ? 無防備なことを言うから。子供を窘めるかのように?

 本当に? と。思わずくしゃりと歪んだ顔を、慌てて俯くようにして隠す。

「姉上?」

 そこにぼんやりと掲げられたランプの灯りが差し込んで、まるで眩しいとでもいうように掌で顔を隠す。

「……アレクシス、殿下」

 むっとするようにして溢された、エドワードの声色。

「やぁ、エド。シアのお迎えかい? さっき、アルの声もしていたけれど」

 そう何事も無かったかのように言うアレクシスに、「ここにいます」と、後ろから同じくランプを手にしたアルフォンスが顔を出す。二人とも、エイネシアの帰りが遅いからと迎えに来てくれたのだ。

 そう思った瞬間、パッと顔色を取り繕ったエイネシアは、アレクシスの傍らを過ぎ抜けてエドワードのもとに駆け寄った。

「エド。迎えに来てくれたの?」

「姉上。遅いから心配しました。こんな暗い中で、殿下と何を?」

 そう少しばかりピリッとした声色が問うたけれど、エイネシアは何事も無かったかのように笑って見せて、「送っていただいていただけよ」と答える。

「なのにアレク様ったら、私を怖がらせようと明かりを消してしまわれるから」

 そう誤魔化してみせたなら、「そんなつもりじゃなかったんだけど」と苦笑するアレクシスが、再びフワリと足元から光の粒を生み出した。その明るい光に、ほぅ、と、思わずエドワードもアルフォンスも足元を見やる。

「移動しながら発動するのは結構難しいんだよ。意識がそれるとつい消えちゃって」

 そう言うアレクシスは一歩二歩と慎重に足を進めると、ハイ、と、エイネシアの荷物をエドワードに差し出した。それを思わず受け取ったエドワードに、あぁ、と、エイネシアは思わず視線を落とす。

 その後のアレクシスの言葉はもう……想像がついている。

「お迎えが来たことだし。私はここで失礼するよ」

 ほら。やっぱり。

 まだドキドキと、俄かに体が熱い。触れられていた頬が、火照ったように熱い。なのに呆気なく背を向けるその人に、切なさが募る。嫌だ、まだ行かないで、と。そんな甘えが過る。

「あまり姉上を遅くまで連れ回さないでください、殿下」

「ごめんごめん。これからは気を付けるから。君達も気を付けて帰るんだよ」

 そう軽く手を振って薬室への方向に戻ろうとしたその人に。

 気が付いた時にはもう足が勝手に動いていて、その背中をぎゅっ、と掴んでいた。

 それに驚いたように、パッと振り返った視線。

「シア?」

 どうしたの? と、子供に問いかけるような昔と変わらぬ声色。

 それにほっとするような。むっとするような。

 言葉も無くしばらくそうぎゅうっ、と握っていたら、やがてふっと顔をほころばせたアレクシスが、ぽん、ぽん、と、エイネシアを宥めるかのようにその頭を撫でた。

 あぁ、ほら。また。子供扱い――。

 そう、思わず俯いた途端、ちゅっ……と、額を掠めていった柔らかい温もりに、たちまち顔を跳ね上げた。

 淡い明かりの中で、どこか艶やかに微笑むその人の面差しに、再びどうしようもなく頬に血が昇って行く。

「おやすみ、シア。良い夢を」

 子供扱い?

 いや。言葉も動作も全部子供扱いなはずなのに。なぜかそんな感じがしなくて。

 どうしようもなく心臓が暴れる。

「姉上! 早く帰りますよ!」

 ぐいっ、とエドワードに腕を引っ張られたことで我には返ったけれど、顔の火照りは納まらなかった。

 ちらり、ちらりと、何度もその人を振り返る。

 淡い光の中で、そっと手を振るその人。

 歩を進めるごとに、段々と遠ざかってゆくその人。

 その光を何度も何度も見やりながら。

 傍らでエドワードが不安そうに見ていることにも気が付きもせず。

 まるで熱に浮かされたかのようにぼんやりと浮き足立ちながら、寮への道を歩んだ。


 何度も何度も振り返って。

 もう見えないと分かっているのに振り返って。

 寮の門をくぐる手前でもまた振り返ってしまって。

 いないと分かっているはずなのに、その光を探してしまって。


「姉上……」

 ただそう静かに声をかけながら手を引くエドワードに連れられて、寮の扉をくぐる。


 手も、頬も、顎も、唇も、そしてこの額も。

 すべてがぼんやりと熱くて。

 その夜は何度も何度も、薄暗闇の中で見たその人の艶めいた面差しを思い出し、その度に火照る身を小さく丸めて、己を制するかのように自分の肩を抱いた。






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