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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第三章 幸せな結末を探して(下)
82/192

3-12 麦と魔法と実験と

「それで? 大学部が考案した魔法式の問題とは?」

 初日から早速、西の森へがさごそと踏み入ったエイネシアは、相変わらずの白衣で積み上がった本の中に腰を下ろしたハインツリッヒ先生に報告書の束を手渡した。

 件のイースニック地方での麦の生産性の向上に関するもので、氷魔法士であるエイネシアには理論は構築できても自らそれを実験することはできないため、こうして優秀な土魔法士であるハインツリッヒに協力を求めにやって来たのだ。

 勿論この関係はギブアンドテイク。

 王立第三薬学研究室の土魔法士ハインツリッヒを始め、木魔法士のユナン、風魔法士のシーズリースなど選りすぐられた人材の協力を得て実験を行い、一方でそれによって得られた成果を薬室の技術に還元する、という関係だ。

 実際にエイネシアが取りかかっている研究課題にはハインツリッヒの研究室が行なっている研究課題との共通点も多く、互いに利益がある。

 もっとも、元よりこの知的好奇心の塊みたいなハインツリッヒは、エイネシアの為すこと考えることを無碍になんてしないだろうけれど。

「ワードリー教授の提案を受けて、先ずは従来通り、単純に実りを豊かにするという方法を試作したんですが、やはり継続性に問題がありました」

「それはやる前からわかっている。魔法士がつきっきりで畑の管理をせねばならないような愚策をいの一番に挙げるとは、大学部も落ちたものだ」

 辛辣なことをおっしゃるハインツリッヒであったが、エイネシアもその点については同意するところであり、否定はできなかった。

 最初に行った実験というのは、単純に苗を植えた畑に直接魔法士が成長を促す、即ち木精霊の活動を活発にする魔法をかける、というものだった。

 勿論、かけた瞬間は精霊達の加護により、畑はぐんぐんと成長する。

 だが魔法というのはあくまでとても微弱な物であり、どんなに強い魔法士が強い魔法をかけたとしても、詠唱魔法の継続時間はせいぜい丸一日。

 余韻があったとしても、その影響は三日がいいところだ。

 地面に直接魔法陣を刻んでしまえば、魔法陣が傷ついたり欠けたりしない限りある程度長く魔法が持続することになるが、しかし畑という広大な土地で、土壌や実りを阻害することなく魔法陣を刻むのには、準備・管理ともに非常に手間がかかる。

 なので農業関連での魔法利用は、もっぱら詠唱型魔法を用いるのがセオリーだ。

 だがそこで問題なのは、その継続時間の短さ。

「従来は、(ひでり)が続く際に雨を降らせてもらったり、害虫が流行したら畑の周りに虫除けの魔法陣を書いた守り石を置いたり。前者は単発的な物。後者はすでに守り石が汎用性の高いものになっているからこそ可能な魔法助力ですよね」

「だが今回の実験は苗に直接働きかけるものだ。生態系を崩さぬよう、魔法士が逐一管理し、微調整する必要がある」

「そのために苗が充分な成長をするまで、ずっと魔法士が見守り続けて、しかも魔法をかけ続けなければいけない……これでは本来の目的を逸します」

 魔法士を雇うには、結構な大金が必要なのだ。

 国がイースニック地方の農地復興事業に関与している間は、国に所属している魔法士が派遣されているのでその点は考えずに済むが、しかし彼らが王都に戻った後、イースニック地方の農民たちが同じことを踏襲できるかと言えば、決してできないだろう。

 例え実りが良くなるという結果が出たとしても、根本的な解決にはならない。

 そもそも大学部の教授にとっては、新たな技術や新たな魔法陣を生み出すことこそ第一義であり、新しく考案した実りを促進する魔法の成功が、教授にとっての最終目的なのだ。

 だが、国と王が求めているのは、ただのイースニック地方の生産性の回復というより、“安定的な生産性の回復による離農民の農業への復帰”である。

 彼らが再び麦を育て国を富ませてくれるよう、彼らにとって魅力的な農業生活への価値を示さねばならない。

 莫大なお金を払って魔法士を雇ってください。そしたら生産性は回復しますよ、という話ではない。

「それに、そもそも強制的に成長を促進させたり実りの向上させるという考え方自体にも疑問があったんです。確かに収穫は爆発的に向上したかもしれませんが、そんな体のいい話はないはずだと」

 なので、と、ハインツリッヒに別の資料を手渡す。

「実験中、念入りに種の発育経過や収穫後の土壌の様子などを記録してもらっていたんです。冒頭のあたりが実際に所領で実験して得た結果ですが」

 パラパラと報告書を捲ったハインツリッヒが、すぐに理解したように、なるほど、と口にする。

「これは酷いな。収穫後の種の腐敗。土壌への悪影響。精霊密度の枯渇。ようは、一度きりの“ズル”だということか。それで? 君はまさかこの実りのない大学部のばかげた研究を延々手伝い続けるわけではないだろうな?」

 さらに辛辣になったお言葉にはエイネシアも苦笑いをして、「好ましくはありませんね」と、極力やわらかい言葉で返した。

 一応は、ワードリー教授もイースニックの生産性対策考案審議会の同じメンバーなわけで、これから数年がかりで付き合ってゆかねばならない可能性がある以上、意見すべきことはするが、無駄な波風は立たせたくないのだ。

 幸いにして、教授は聞く耳を持たないような人物ではない。

 エイネシアが行なった今回の実験後の土壌への悪影響に関する報告にも、眉こそ顰めていたが、指摘をきちんと受け入れてくださった。


「そこで、一つハイン様とユナンに試してもらいたい魔法式があるんです」

 そう報告書の最後を促したエイネシアに、「呼びましたか?」と薬草園の間からユナンが顔を出した。それを「こっちにこい」とハインツリッヒが促す。

 無論、「慌てず。こけるな。薬草を踏むな。絶対にだ!」と念を押すことを忘れずに。

 そうしないと本当に階段を転がり落ちたり、薬草を踏みつぶしたりと、この人のうっかりぶりは凄まじいのだ。

「ははは。嫌だなぁ、室長。ここに勤めてもう一年ですよ。そんなことをしたら室長が怖いことくらい、もう分かっていますよ」

 そう笑いながら慎重に階段降りてきたユナンは、しかしながら降り切ったところで案の定、床に置かれていたジョウロに足を引っ掛けてバタンッと盛大に前のめりに倒れた。

「いったっっ……い、けど、セーフ! セーフです、室長! 薬草に被害はありませんでした!」

 そうガバッと赤くなった額を持ち上げて言う憐れなユナン青年。

 これでも、木精霊魔法士としては凄まじい才能を持っているのだが、天は彼にそれ以外のものは人並みにすら与えてくれなかったらしい。

 ハァとため息を吐くハインツリッヒはそんなユナンに突っ込むのも煩わしいといった様子で無視すると、さっそくガサゴソと机の上を漁って魔法式を書くための特殊なチョークを手に、部屋隅の黒板に指示された通りの文言を図式化してゆく。

 駆けつけてきたユナンが、後ろからそれを覗き込む。

「えっと……最初は室長が以前考案した土壌安定系の魔法陣ですね。それと……何だか見慣れない式ですが」

「一段目が土壌に直接働きかける基礎文言。二段目はワードリーの成長促進魔法の改変版だな。木魔法ではなく土魔法にすることで、成長促進ではなく、土壌に包まれた苗を保護することに重点を置いているように見える」

 寝る間も惜しんで何日もかけて考案したのに、一瞬で読み解かれては立つ瀬がなく、「その通りです……」と肩をすくめてしまった。

「三段目は……ほう。古式魔法か。ダーラス・アイ・ザラット・ネブリージュ・グリュー・オッテ……」

 理系みたいな顔をして古式魔法に用いられる古代語学にも造詣の深いハインツリッヒが、一つ一つの文言を正確に読みあげながら記してゆく。

「室長。どういう意味です?」

「自分で調べろ」

「えー……」

 ばっさりと切られたユナンが、眉尻を下げる。

「古式魔法は現代魔法より脆くて安定性が悪く、命令の文言も簡潔で、複雑なことは命令できないの。ただうまく扱うことができれば現代魔法などよりはるかに効果的なんですよ」

 哀れなユナンに、エイネシアが少し基礎的な説明を加えてあげると、「へぇ、そうなんですか。物知りですね!」と大層関心された。

 はて、この程度の基礎知識は学院の一年生の一番最初に習うはずだ。彼も一応はこの学院の卒業生なはずなのだが……。

「こいつは人間の身勝手な命令文言の塊である現代魔法と違い、精霊に自由に文言を解釈してもらうことで、自然を阻害することなく大きな効果が見込めるという利点がある。だが的確に精霊にやってほしいことの指示を出すことは不可能といってよく、ましてや古式魔法の文言の組み合わせ方は非常に複雑で難しい。これを正しく用いることのできる魔法士は少ない」

 流石は我が弟子だ、とわずかに口元をほころばせて見せたハインツリッヒには、エイネシアもほっとして息を吐いた。

 何しろ幼い頃、エイネシアに問答無用に古式魔法の基礎を叩き込んだのは他でもない、このハインツリッヒ先生なのだ。

 彼はもはや単なる古式魔法マニア。趣味の領域だ。

「いくつか強い文言を使っているが、基本は精霊の活性化と、あとは全部精霊を宥めたり囃し立てたりする類の“会話文”だな。だが畑に固定的にかけるとしても、範囲規模が非常に小さいのが気になる」

 そうあっという間に解析したハインツリッヒには胸中で大いに関心しつつ、すぐに一緒に持参していた手のひら大の白い石を並べ置いた。

「魔晶石か?」

「はい」

 魔晶石。端的に言うならば、この国の地中奥深くに脈々と流れているという精霊の通り道からあふれ出した魔法の力を強く受けた石が、稀に地上に噴出すことで産出される石である。

 魔法の吸収率が高く、それを放出する力も強い、魔法への事象干渉力がとりわけ強い石とでもいうべきか。

 中々に高価な品ではあるが、幸いにしてシルヴェスト公爵領がこの一大産地となっており、その縁戚というご縁のおかげで、魔法学研究の盛んなアーデルハイド領にも良質なものが直輸入されている。

 その伝手(つて)で手に入れたものだ。

「ということは、土壌に刻むための魔法陣ではなく、“魔法陣結界”だな」

 即ち、陣を描いた石を適切な配置で畑の四隅ないし各所に配置して結ぶことで、陣の中にのみその魔法の影響範囲を固定する方法だ。

「だが虫除け程度ならまだしも、複雑な魔法式を実現させるような素材はかなり高価で、魔法陣結界は金がかかるぞ。それは君が言うところの“低コスパ優先”という目的に反するのでは?」

「はい。ですから、この式で育てるのはイースニック地方の畑ではありません」

 石に続いて、いそいそと今度は一つの小袋を取り出す。

「この陣で行いたいのは、イースニックどうこうよりもっと前の段階。麦の品種改良なんです」

 結局のところ、お金のかけどころという問題なのだ。

 イースニック地方の農民が農地を捨てて浮浪するのは、麦が全滅した経験により生活手段を失ったからだけではなく、もう一度同じ事が起こるのではと恐れているからだ。

 そんな彼らに対し、いくら低コストパフォーマンスで新たな魔法式を開発したところで、魔法士を雇う余裕なんてそもそも微塵も有りはしない。

 彼らに与えるべきは魔法ではない。ただ単純に、“この麦なら大丈夫”という、前と同じ(わだち)を踏まない、丈夫な麦品種なのだ。

「なるほど。確か、アーデルハイド領では何代も前から寒冷地帯でも丈夫な麦の品種改良実験を続けているんだったか。その功績もあって、今回の件を任されたのだとか……そう誰かが言っていたな」

 その誰かは、多分エイネシアに実質的にこの件への助力を申し出たアレクシスだと思う。

「麦の品種改良を本格化させたのは父ですが、最近は私が引き継いでいました。それで、今我が領で最も新らしい品種の内の一つが、これです」

 それは、シルヴェスト領近郊の北方穀倉地帯で一般的に用いられる寒冷に強い品種と、王都近郊で最も見かける、今国内で一番雨や湿度に強いであろうとされる品種とを交配したものに、さらに、アーデルハイド領で近年流行し、着実に生産高を伸ばしている特別な麦とを交配したもの。

「春蒔き小麦なんです」

「春蒔き?」

 通常この国では、秋に麦を蒔き、次の年の夏に刈り入れる。

 約一年をかけて生産するわけだから、これが何か害にあうと、一年の苦労がすべて水の泡となるわけだ。

「これは、春に植えたら夏には収穫できるんです。通常のものより実りは少なくなりますが、品質が良く、農閑期には畑を休めたり、裏作を行うこともできます」

「ふむ。アーデルハイド領は元々、春、夏の雨が少ない。それは適しているな」

「ただ北方では夏の終わりに強い雨が降ることがあるので、以前輸出した時は好まれず、もう少し早く収穫できるものの研究を繰り返していたんです。これはその中でも一番実りがよく、領官が自信を持って提出してきた品種です」

 小袋から出した種は少し色が浅く綺麗な形をしていたが、通常の物と比べると非常に華奢で小さく、幾つかは本当にまだ生きている種であろうかと見まごうほどに衰弱した色をしていた。

 本来植物の交配実験は十年以上もの年月をかけて行うもの。

 なんとか成功したこの新品種も、何度も田に植え、実りの中から特に良質なものばかりを再び交配させ、また植えてと、何度も何度も繰り返し、品種を丈夫で良質で、かつ安定したものへとして行き、それと同等の品質のものが十分な量確保された時、初めて新たな品種として認められるのだ。

 これはまだ、そのごく初期の段階の、新品種の“種”ともいうべきものでしかない。

「そうか……本来、長い年月がかかるであろう品種改良を、魔法で品質と実りの安定性を助けることで、実験を加速……いや、短縮させようということだな」

 言っていることは単純だが、やろうとすると難しい。

 だが幸いにしてこの第三薬室ではすでにハインツリッヒがいくつもの薬草の交配や掛け合わせた新たな品種の生産と、魔法補助による大幅な品質向上実験に成功した実績があり、エイネシアもその辺は論文や手紙を介してハインツリッヒから教えを乞うていた。

 アーデルハイド領でやっていた新品種開発でも、基本的にハインツリッヒの考案した魔法陣を補助魔法として用いていた。

 ただしこれらは基本的に詠唱魔法で行われ、品種や成長の状況に合わせて、ほぼ毎日数時間おきに魔法士が精霊の量を微調整し続けねばならないというものであり、とにかく時間と手間がかかる。

 どのみち逐一状態をチェックしなければならない研究所の人間ならそれでいいのだが、生憎と未だ学生という身分のエイネシアにはそれは困難である。

 だからエイネシアはそれを、古式魔法。即ち、人の手による微調整ではなく、精霊の自由性にかけて、魔法力のみで新品種を守らせて、品質の向上と、品種としての実りの安定をさせようとしているわけである。

 即ちハインツリッヒの考案した非常に複雑で微調整の難しい現代魔法を、より複雑性の高い古式魔法に転用しようというわけだから、その難しさは言わずと知れている。


「面白い。これは試したことが無かったな」

 正直あまり自信はなかったのだが、ふくく、と少し怖い顔で笑っているハインツリッヒを見ると、どうやら興味を持っていただけたようで安心した。

 もっとも、「室長のこんな怖い笑顔は初めて見ました」とユナンがいらぬ一言を言ったせいで、ハインツリッヒの顔はみるみる顰め面になり、額にチョークを投げつけられることになってしまったが。

「酷いッ、室長っ」

「うるさい。次はお前の番だ」

「ぇ?」

 どういう事です? と、頭にぶつかったチョークを拾いながらユナンがハインツリッヒの差し出したエイネシアの報告書を手に取る。

「え? あ。え?!」

 それを見た瞬間、パッとユナンが目を瞬かせてエイネシアを見やった。

「これは、複合式? もしかして姫様、古式魔法を試すだけでなくて、土と木の複合術式に挑戦なさるんですか!?」

 そうも目を輝かされると、なんだか少し恥ずかしいのだが……。

「試してみたいのだけれど。力を貸していただけるかしら? ユナン」

「勿論ですよ! うわぁ。すごいなぁ。本物の複合式ですよ、これ! えーっと。どうなってるんだ?」

 目をキラキラとさせながら黒板にはりついたユナンに、フゥと一つハインツリッヒが息を吐いて、指先の石灰をペシペシと払う。

「どう思います? ハイン様」

「上手くバランスは取れていると思うが、古式魔法はこちらの意図では微調整できず、複合式自体も非常に複雑だ。やってみなければ何とも言えない」

 そうハインツリッヒは言うが、文句どころか質問さえせずにすぐにもエイネシアの案の通りの式を展開してくれたということは、可能性を期待しているということだ。

 それに何より、この薬室にはユナンがいる。

「んんー? 何かな? えーっと。うんうん……うーん?」

 ハインツリッヒの書いた式の上に重ねるようにして木属性魔法の式を書き加えながら、時折宙を仰いではブツブツと呟く。

 そうゆっくりと時間をかけながら一文字一文字を記してゆき、途中でふとエイネシアを振り返る。

「姫様。この四つ目のグネグネした文字のところ、精霊達が饗宴乱舞しそうなんですが」

 饗宴乱舞? と言葉の選択に首を傾げつつ、書きかけ途中のユナンの文字を見やる。

「式は?」

「アッテ・イオテ・フロースラー……土魔法で保護してもらった種への保護膜を、地表に出て実りになったところで木魔法に転換させて、包んだ実の成長を補助してもらおうという主要文言箇所です」

 へぇへぇ、そんな意味があるんですか? とユナンはそのクネクネとした文字を見てから、うーん、ともう一度唸る。

「文言自体は弱い箇所なはずだが……土魔法のアッテと木魔法のイオテは相性が悪いのか? ユナン。饗宴乱舞とは具体的にどういう状況だ。“論理的に”説明しろ」

「ははは。室長曰く非論理的な物体である僕にそれを言うんですか?」

 呑気な顔で笑うユナンには、いいから、とハインツリッヒがその背中を小突く。

「えーっと……そうですね。酔っ払いが酒瓶振りかざして、奇声を発しながら大盛り上がりしてる感じでしょうか」

 ものすごく納得しがたいが、理解はできた。

 眉間に皺を寄せて頭を抱えるハインツリッヒの反応にも同情するが、しかし要するに、組み合わせた文言について、相性が悪いどころか“良すぎる”のだということは分かった。

 そして宙を見ながら、ハハハ! と笑い声をあげるという奇妙なことをしているユナンに、「やっぱりすごいわ……」と、エイネシアは思わず嘆息する。


 このユナン・ボードレールという男は、実に非論理的でおっちょこちょいで、決して頭も良い方ではないが、それでいて幼い頃より“神童”とも呼ばれた天才なのだ。

 何が天才なのかというと、彼は通常七歳で精霊と(まみ)えて契約を結ぶという昨今の常識とは違い、わずか三歳にして自ずから精霊達の声を聴き、その姿を見たという。

 いわゆる、精霊魔法が体系化される以前のタイプの精霊魔法士。この世界に満ち満ちているといわれている精霊をその目で直接見て、その耳で直接聞いて、そして直接意思疎通を取ってその力を借りるというその力は、もはや王国にも絶えて久しい、先祖返りの才というべきものである。

 ただ絶えて久しいがゆえに、精霊を見ることも、その声を聞くこともできない他の人達には、彼が精霊達と話したり、突如笑ったりする様子が酷く奇妙に映ってしまう。

 おかげで随分と迫害されたようで、実家では使用人以下の扱いを受け、間もなく研究機関に才能を見出されて七歳で大学の研究室に連れていかれてからも、人間とはまともに意思疎通が取れず、浮いていたそうだ。

 そんな中、彼はハインツリッヒと出会った。

 天才だ、神の子だ、と遠巻きに崇められてきたユナン少年に、『こんな基礎式の意味も分からないのか。馬鹿者め』と冷たい顔をして研究室から蹴り出したというハインツリッヒは、ユナンにとって目から鱗が落ちるような衝撃的な人物だったのだ。

 それからハインツリッヒの後ろを着いて回るようになり、度々『邪魔だ』『使えない』と追い立てられ罵られてもめげず、昨年、薬室の正式な研究員になった。

 おそらくハインツリッヒにはなんら意図も無かったのだと思うが、しかし少なくともユナンを人並みの人間として矯正したのはハインツリッヒで、ユナンにとってハインツリッヒは、彼が初めて尊敬し、この人の傍にいたいという“欲”を与えた人物なのだ。

 そのユナンがエイネシアに対して、『貴女は室長と同じで尊敬できる人だ』と目を輝かせたのは、去年の夏。薬室に手伝ってもらって、布製品への移動式方陣の定着を成功させた時だっただろうか。

 ユナンは特異な力こそ持っているが、こうした頭を使って式を読んだり構築したりといったことに関しては人並み以下で、いわば日頃の精霊との意思疎通が“何となく”でこなせてしまうせいで、きちんとした命令式を用いることができないのだ。

 する必要が無かったから覚えなかったといってもいい。

 しかし定型化され名言化された式の有用性には薬室に勤め出してすぐに気が付いたようで、ハインツリッヒやエイネシアが次々と新しい命令式を生み出してゆくたびに、こうやって目をキラキラさせて実験に参加してくれた。

 今では汎用性の高い式くらいならきちんと理解できるくらいに成長している。

 だが結局のところハインツリッヒがユナンを重宝するのは、彼のこの精霊達の感情の起伏を何となく読み取ることのできる特異能力の方で、こうやって繊細な魔法式の構築などをしている際にも、それが“良い感じ”なのか“悪い感じ”なのかを、実験する前からぼんやりと感じ取って調節をしてくれる。

 その意義は重大で、エイネシアも何度もこの力に助けてもらった。

 そして何よりも恐ろしいのは、彼のその“感覚的”という才能だ。


「らーららりー、りーらららー……まるっとー。でもふにゅっとー」

 ふんふんと鼻歌を歌いながら、“どう訂正すべきか”を考えふけるハインツリッヒとエイネシアの傍らで、ユナンが指示も受けずにカッカッとチョークを走らせる。

 その様子に、ハッと二人してそちらを覗き込んで、たちまち目を瞬かせた。

「ユナン。その文字は何だ」

「えーっと。何でしょう? なんかこーんな感じでふにゅっとさせると、いい感じに精霊達が和む感じですよ。あ、こっちの文字もこんな感じで。もうちょっと長くしてー」

 くいっ、くねっ、と、所謂辞書に載っているような活字ではない、生きた文字を描いてゆく。

 これが、ユナン・ボードレールの神髄。

 彼は精霊達の様子を見ながら、そのとても繊細で緻密な指示のための文言を、“草創”することができるのだ。

 その価値は、古代魔法に精通している二人には心臓が飛び出しそうなくらいに理解できる。

「すごい。すごいわ、ユナン。あ、そっちの式は可能なら少し強めにして頂戴。でも土魔法を阻害しないように、補助的にかけて欲しいの」

「はいはーい。相変わらず室長の書く陣は綺麗だなぁ。精霊達のお行儀がものすごく良くて。あっ。だから僕が重ねがけると木精霊達が酒盛り饗宴状態になるのかな?」

「なるほど。お前の字が汚いせいか」

「えっ、ちょっ……え? そういうことですか?!」

 いいからさっさと書いてしまえ、と促されたユナンが、ぶつぶつといいながらも最後の式を書き終えたところで、「うんっ」と、とても良い顔をあげた。

「姫様、姫様。これはすごいですよ。きらきらふかふかして……なんて美しい……あぁ。古式魔法って、こんなに綺麗なんですね」

 そうぼうっと式に目を細めて嘆息した彼の目には、一体どんな光景が映っているのだろうか。

 それを同じ目で見て、同じ耳で聞けないことがとても悔しい。

「ユナン、上手くいきそうかしら?」

「ええ。あ、でもこれ、結構強い魔法ですよ。綺麗な式ですから、きっと精霊達の集まりがすごく良いです。実験用の結界があるとはいえ、温室内では薬園にまで影響が出るかもしれません」

「魔晶石に転写したら、あとの実験は外の菜園でやろう。シズに菜園の環境隔離と、陣の固定をさせる。ユナンは畑仕事の準備をして、第二菜園場で実験準備をしろ」

「はぁい」

 そうふわふわっと温室の外を目指そうとしたユナンに。

「白衣で野良仕事するなと何度言えば覚えるッ、この馬鹿者!」

 すかさずとんだ叱責に、ふきゃっ、という可愛い声を出して肩を跳ね上げたユナン青年が、慌てて温室の奥の準備室の方にかけて行った。

 その途中でバタンッ、ガラ、ガッシャーンッ、と、こけてものすごい二次被害を出した音は……うん。聞かなかったことにしよう。


「姫様。すごい音がしましたが……大丈夫ですか?」

 ただ、音を聞いて心配したらしいアルフォンスが、温室の外から顔を出して中を伺ったものだから、はた、と唐突にその存在を思いだした。

 すっかりと忘れて熱中してしまっていた。

「平気。お待たせしてごめんなさいね、アル」

「いえ、構いませんが。ただそろそろ日が暮れます。暗くなる前に寮にお戻りを」

 そういえばそうだ、と、温室の壁にかかる時計に目をやる。

 もう六時を前にしていて、そういえば今夜は七時から、星雲寮恒例の週末晩餐会の日だ。

 折角いいところなのに……。

「君はもう戻りなさい。式は上手く組めたのであとは問題ない。魔晶石に陣を馴染ませるのには時間がかかるし、実験場の準備にも半日もらう」

 いやいや。いくら手慣れているからとはいえ、結構な広さの畑の土壌を調え、四つの小さな石にそれぞれ二人がかりで陣を刻んで、これを土に馴染ませて陣を張り、さらにそこに最適な気候を再現する魔法のハウスを張って……と、実験準備にはかなりの手間と暇がかかるはずなのだが。

 まさか“半日”などと言われるとは思わなかった。

 二、三日。あるいはもう少し覚悟していたのだが……。

「畑に余分なスペースができるようなら、ついでに他の野菜類も植えてみて、今回の魔法陣が周囲に与える影響というのもちょっと実験してみたかったのですが……」

 思いのほか準備期間が短く設定されたせいで、あわよくばともくろんでいた予定が間に合っておらず、おまけで植えてみたかった種の調達が間に合っていない。

 だがそこはそれ。あるいはエイネシア以上に実験が待ち遠しいらしいハインツリッヒが、早速ガサゴソと木箱をあさりながら、「果菜、葉菜、根菜、茎菜……何がいい?」などと種を広げたから、いささか驚いた。

 何故“薬室”にそんなものがあるのか。

 だが用意がいいことは有難いことで、とりあえず汎用性の高そうなものを、遠慮なくいくつか選んでおいた。

「後の経過はユナンに報告させる」

「ご協力有難うございます、ハイン様」

「いや。こっちもいいサンプルが得られそうだ。複合式に、さらに現代魔法と古式魔法の重ね掛け……これはいい。これはいいぞ……」

 そうニヤニヤと楽しそうに机にかじりついたハインツリッヒは、早速エイネシアが苦労して作り上げた魔法陣を読み解き、次々と思い浮かんでいるであろう応用術式をあっという間に何十と組み立ててゆくのであろう。

 そういうところは本当に非凡で、エイネシアにだって真似できない。

「という事だから、アル。そろそろ帰るわね」

「アルフォンス卿。そこの入り口にぶら下がっている明かりを持って行け。先日アレクシスが置いて行った置き土産だ」

 使い方はそこの姫に聞け、というハインツリッヒに、まぁ、とエイネシアは目を瞬かせた。

 随分と素敵な古めいたランプがかかっているな、とは思っていたのだ。だがまさかアレクシスの置き土産だったとは。

 という事はまず間違いない。光魔法の魔法陣が仕込まれた、魔法のランプなはずだ。

「お借りします。あ……これ。また新しい術式ですね」

 そうランプの底に刻まれた魔法陣を見やりながら、慎重に手を触れる。

 カチリとつまみをずらして欠けていた魔法陣の円を繋いで、その陣の底に触れて精霊を呼ぶ。こうするだけで起動する時限式の光魔法は、アレクシスの得意とする類のもので、昨今の学会でも賑わいを見せている新理論だ。

 魔法士さえいれば、属性に関係なく起動手順を踏むだけで、内側に刻まれた別の魔法陣が連結起動するという、これまでの魔法の使い方を覆す無属性魔法が複合されている。

 但し仕掛ける魔法は今のところ光魔法、もといアレクシスの試作でしか成功しておらず、この“時限式魔法”は、大学部を中心に熱心な応用研究がなされているものだ。

 その無属性魔法のスイッチを入れるのにもコツがいるが、古薔薇の部屋を始め色々なところでアレクシスの魔法に触れたことのあるエイネシアには慣れたもので、すぐにも内側で光魔法が起動し、火を用いるランプよりも淡く、けれどほんのりと明るく、蛍が舞うようにふわふわと光が揺らめきだした。

 相変わらず、とても綺麗な魔法だ。

 エイネシアの部屋にあるランプよりも少し光の粒が大きく、明るさが強いだろうか。

 こうも誰にも真似できない実用的かつ美しい魔法を見せられると、なにやら少し腹が立ってしまう。

 その魔法が嫌だからじゃない。

 むしろ、うらやましかったから――。

 どんなにか頭をひねって、どんなにか新しいことを思いついて。

 でも未だに、この人には遠く及ばない。

 それが悔しいのだ。

 悔しくて。

 でも少し、うらやましい。

 だからだろうか。ランプを持ちますというアルフォンスに、何となく意固地に「私が持つわ」と言って譲らず、先導して薬室を出た。


 外の少し冷たい空気は、凝り固まっていた体を適度にほぐしてくれる。

 その解放感に、うーんっ、と思い切り伸びをする。

「よく働いた、っていう気分だわ」

 今日はもう充分。そんな風に口にはしたものの、本当はまだ、今すぐにでもランプの陣を模写して読み解きたいと心が急いている。

 それで今度その人と会った時には、存分にこの式について話したいと思う。

 それでもし。もしも彼が、『良く分かったね』と称賛してくれたなら。

 そしたらきっと幸せで……。


「ん?」

 幸せ? と。

 自分で自分の思考に疑問を抱き、思わず足を止める。

 それを心配そうにアルフォンスの視線が見やったものだから、「あぁ、何でもないわ。ただの考え事」と、すぐにもひっかかりを取り去って再び歩き出した。

 幸せ……。あぁ、そうだ。

 分析。魔法式の研究。新しい未知なる物の開発。

 きっと自分はそんな好奇心に、心躍らせているのだ。

「帰ったら早速、このランプの魔法陣の分析をしないと」

 やはり、自分にはこっちの方が性に合っている。

 なんならもうずっと、こういう生活をしたいくらい。

 そう声を弾ませて呟いたなら。


「もし姫様が薬室の研究員になるなどと言い出したら……私にも責任があるのでしょうか」


 そう不安そうな顔で返されたアルフォンスの言葉がおかしくて。

 その時は一緒にお母様に叱られましょう、と笑った。






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