3-11 新学期(2)
「ごきげんよう、エイネシア様」
「おはようございます、アーデルハイド嬢」
新たに始まった学院生活は、正直なところどうなるのだろうかと不安だった。
ほんのひと月半前、卒業パーティーで王太子と揉めた挙句に許嫁を返上するなどという大それたことをしでかしたばかりで、あの場ではエイネシアの有りもしない誹謗中傷も声高らかに宣言されたわけだから、もはや学院の皆の視線はこれまで以上に厳しいだろうと覚悟していた。
だがどうしたことか。
道を歩くと、少しおずおずと頼りない雰囲気ながらも、何人かの特に親しくもない、あるいは顔も知らない人達が、そう挨拶をしてくれたのだ。
これには驚いてしまった。
「アルフォンス効果……?」
そのことに思わずそうボソッと呟いたら、斜め後ろでアルフォンスがとても遺憾といった様子で、「何を仰っているんです」とため息を吐いた。
「だって。避けられこそすれ、声を掛けられる理由が少しも思いつかないのだもの」
そう首を傾げたエイネシアに、「そうですか?」と言ったのはエドワードだった。
「卒業パーティーの一件を見れば、多少良識のある人間には、真実がどうであるのかを見極めるくらい出来たと思いますよ」
それに、と、エドワードは少し呆れた顔をして。
「そもそもこのひと月、宮中では連日アイラ嬢やその取り巻きが、姉上に脅されただの脅迫状が届いただの騒ぎ続けていたそうですよ。これを聞いて“宰相閣下が一家全員引きつれて所領に戻って政務をボイコットしている”という事実を知っている馬鹿ではない人々が、アイラ嬢に呆れて見放すのも当然では?」
あぁ、それは……、と、エイネシアも呆れる。
王都からアーデルハイド領までは実に遠い。早馬だって六日はかかる。
エイネシアがそんな所領から、一体どうやってアイラに脅しをかけたり脅迫状を出したりできるというのだろうか。
いや、むしろどうしてわざわざアイラのためにそんなことをしてあげなければならないのだろうか。
実に馬鹿馬鹿しい。
「あとはまぁ、皆、春休みの間に実家に帰っていますから。そこで両親なりとこの件について話したはずですよ。“学院でのアーデルハイドの振る舞いはどうなのか”“噂は本当なのか”。中には、反フレデリカ派の貴族もいるはずです」
実際、フレデリカ派の貴族が増長傾向にあるとはいえ、皆が皆そうなわけではない。
一番多いのは中立派だが、それを挟んで、貴族院評議員達を中心としたフレデリカ派と、これを面白く思わない権門貴族や王統保守派を中心とした反フレデリカ派が睨み合っているのが現状だ。
前者には、これまでの常識を打ち破って伯爵家の妃から王太子を輩出したことを歓迎する反権門体制の下級貴族達の支持があり、一方後者には、派閥争いなどを嫌って一心不乱に国政に執心する宰相の人柄を尊敬して、反フレデリカ派に傾倒する官僚貴族達の支持がある。
これらを含めて、ちょうど半々。
中立派、フレデリカ派(反権門派)、反フレデリカ派(保守派)。この三つが、それぞれ同じくらいのバランスで存在しているわけである。
つまるところ、この学院に通う貴族の子女子弟にとっても、“家の方針”という意味では、反エイネシア派、即ちフレデリカ派は全体の三分の一に満たないのだ。
少なくとも反フレデリカ派や、宰相府の業績をきちんと理解している貴族にとって、エイネシアは敵ではない。
たとえエイネシアの人柄がどうであれ、この春休みの間、我が子に『うちは反フレデリカ派だ。エイネシア嬢と反目はするな』などと言った貴族もいたであろう。
あるいは今の国政に関わっている貴族達については、すでに噂が“噂”であることを理解している人もいるはずだ。
こうした“家の方針”を知らされた子供達がエイネシアへの態度を急変させることは起こり得ることであるし、エドワードの言うように、卒業パーティーでの出来事を実際に自分の目で見て、耳で聞いて、何がおかしいのかを理解した良識的な人物だって沢山いたであろう。
その結果が、今のこの状況なのだ。
「正直、少し驚いているわ。今まで周りは皆敵、みたいに思っていたのだけれど。もしかすると去年も、傍観である人の方がはるかに多かったのかもしれないわね」
「そうですね。ただ我々が気が付かなかっただけで」
そんな会話をしながらやがて校舎に差し掛かり、「また寮でね」とエドワードと別れ、三年の教室に向かう。
授業中ずっと外で律儀に立っているつもりであろうアルフォンスには、『お願いだから時間は有意義に使ってちょうだい』と念を押した。
相変わらずアルフォンスは『職務ですから』とか『訓練になります』とか言っていたが、それを聞いたアンナマリアが実に楽しそうに、『待機時間中にこの本をすべて読破しなさい!』と、寮の図書館から全十七冊の乙女のバイブル『白騎士物語』を持ってきた時には、『え、ちょ、待ってッ?!』とエイネシアも絶句した。
いくらなんでもアルフォンスには似合わな過ぎる。
無論アルフォンスも、その乙女向けの可憐な表紙に眉をひそめていたが、『王女命令よ! これで少しは女心の勉強をなさい』と真面目な顔で言ったアンナマリアには、『分かりました』と素直に頷いていた。
本当に真面目というのか何というのか。いや、アンナマリアに振り回されているだけのような気がしないではないが。
かくしてアルフォンスは取りあえず持ってきたらしい『白騎士物語 第一巻』を手に、教室に入るエイネシアとひとまず別れて、廊下の壁に背を預けた。
その姿は実に様になっていて、覗き見る女子の気持ちも分かる……のだが、アルフォンスのイメージのためにも、人目に付く所では絶対にその本を開かないでほしい。切実に。
「ごきげんよう、エイネシア様。アルフォンス卿と婚約したという噂は本当だったのですか?」
教室に入って席に座るなりそう言って声をかけてきたシシリアには、早々にエイネシアも顔を歪めて頭を抱えた。
あぁ、ほらもう。皆の視線が痛い。
まぁ、卒業したはずのアルフォンスが堂々エイネシアの送迎などしている上に廊下に待機しているなど、変に思われて当然だ。
「違うわ、シシー。昨日、寮の歓迎会でも言ったでしょう? 先日、死傷者の出るような誘拐事件に巻き込まれたの。でも犯人がまだ捕まっていないからと、陛下が“近衛”を護衛に付けてくださっただけよ」
「お聞きしましたけれど。でも婚約の噂も本当なのでしょう?」
そう首を傾げたシシリアには、うーんっ、と唸り声をあげる。
それはただの目くらましで、と口にしてしまいたいが、しかしそれを言っては、“十七人もの求婚デモンストレーションによる情報操作”という本来の目的を反故にすることになってしまう。
まったく。父も実に厄介なことをしてくれたものだ。
「婚約はしていませんわ。ただその……」
「ご縁談はあった、と?」
「ザラトリア候の政治的なご判断でしょう。当家からは何ら正式な返答はしていませんし、私とアルも、今も昔も変わらずただの幼馴染ですわ。互いに、そう思っています」
そう必死に口にしたところで、ふっ、とシシリアが僅かに顔をほころばせた。
その顔を見る限り、シシリアも分かっていてからかったのだろうか、という気がする。
そんな会話ができるくらいに打ち解けられたことは嬉しいけれど、やはりまだ互いに少し距離感は掴み切れていない。
けれど昨日今日とこうやってシシリアとセシリーが少しでもエイネシアと言葉を交わしてくれたおかげで、クラスメイト達も、『あのアイラ派だったはずの二人が……』と驚いた顔をし、またエイネシアへの視線も随分と和らいだ。
クラスにいてもほとんど誰とも話さず社交的な会話や業務連絡ばかりだったエイネシアが、一年の初めの頃のように話しやすい人物に見えたのかもしれない。
それにエイネシアが公爵令嬢であることには違いないものの、いずれは孤高な存在となる“王太子の許嫁”という立場でなくなったことで、エイネシアをより身近な存在にしたのだろう。
皆少しずつではあるが、エイネシアともさりげない会話を交わしてくれるようになった。
だが如何せん、今のエイネシアには、もはや“学院生活を満喫する”だなんていう考えはない。
今目指すのは、早期単位満了だ。
なにしろ現実問題、今のエイネシアは授業に気を取られている余裕がなく、所領での街道整備の件や薬学研究所への医療施設並びに学問機関の設立の件に続いて、孤児院設立の件なども抱えており、その上、国王陛下には直々に、精霊魔法による生産性向上の可能性と有用性に関する見解と方策案を出すように言われていて、そのための大学研究者との会議やら検討会なども次々とスケジュールを侵食中である。
すでに学生でありながら、それを超越した公的な仕事を抱えているのだ。
なのでこれらに専念するためにも、すぐに何とかなりそうな科目の単位は早々と満了して、出来るだけ身軽になりたい。
この事をアレクシスに相談したところ、『シアならこれまでの成果と研究レポートの一つ、二つで半分は単位が取れるはずだよ』とアドバイスしてもらった。
そのため今のエイネシアにとって学校とは即ち、さっさと単位を取って離れるべき場所なのであり、授業中もひたすら論文の読破に時間を費やし、レポートの草稿を練った。
これでは学院生活を謳歌する、なんて夢のまた夢。
アレクシスからも次から次へと早期単位取得に有効な論文が星雲寮宛てに送りつけられてきており、昨夜エニーには『これ以上増えたら白線を出ますよ!』と怖い顔をされた。
うむ。でもそれは出来ればアレクシスさんに言ってほしい。
こうしてエイネシアのとても多忙な学院生活は再び始まったのである。