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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第一章 定められた配役
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1-5 登城(2)

「じゃあ、私達も行こうか」

 そう微笑んだアレクシスは、エスコートの手を伸ばしかけて、すぐに、おっと、と引っ込めた。

 小さな少女への気遣いのつもりだったのだろうが、小さくともヴィンセントの許嫁であったことを思い出して気を利かせたのだろう。

「ごめんね。昔はよくこうしてアンの手を引いていたものだから、つい」

 アン……というのは、ヴィンセント王子の二つ年下の妹、アンナマリア王女だろうか。

 当たり前だがアンナマリア王女とも面識があるわけだ。

「さて。まずはヴィーのところだね。内廷は入り組んでいて難しいから、私はよく迷子になるんだ。はぐれないようにね」

 そう歩き出す呑気な声色のその人に、いや、それって大丈夫なのか、という不安はあったが、しかしなるほど、彼の言う通り、内廷というのは大変に小難しい所だった。

 何がかというと、取りあえず道が全部同じに見える。

 左右に幾つもの廊下がかよっていて、全てに同じ色の絨毯、同じ色の照明、同じ色のドアが並んでおり、しかも廊下かと思ったら途中がサロンになっていたり、一度も階段なんて上り下りしていないはずなのにいつの間にか二階になっていたり。まさに複雑怪奇だった。

 迷子になりそうだ。

 しかしそんな外向きの空間を抜け出て、近衛の固める一つの扉をくぐると、たちまち庭に面した吹き抜け廊下の涼やかさに感嘆の吐息が零れ落ちた。

 なんと解放感に満ちた、優美な空間か。

 ここからが、内廷の中でも特に王家の私的空間がある奥向きになる。

 庭には丁寧に整えられた垣根に沢山の色とりどりの花々が咲き、薔薇のアーチにドーム屋根のガゼボなど、この王宮に似合いの、上品だがとても愛らしい装いが施されていた。

 それにわぁと目を瞬かせていると、「庭の方を突っ切って行こうか」と気を利かせたアレクシスが、そちらへと足を向けた。

 それをうきうきと追いながら、道々の花を愛でる。

 楽しいには楽しいけれど、とんでもなく広いお庭で、ここでもなんだか迷子になりそうだった。

 途中幾つかエイネシアが興味を示した花は、すぐに隣でアレクシスがその花の名前を教えてくれた。

 彼は、もしかしてこの庭のすべての花の名前を知っているのだろうかというくらいに博識で、毒性の有無や食べられるか食べられないか。どんな特徴か。いつ咲く花か。そんなものまで全部答えてくれた。


 そうしている内に、いつの間にか青い屋根の建物に突き当たった。

 はて。そういえば目的を忘れかけていたが、今は確かヴィンセント王子への謁見に向かっていたはずだ。

 しかしどうした事か。アレクシスが足を止めたのは、内廷の、王子が日中を過ごす執務室もとい勉強部屋などがあるはずの建物とはまったく雰囲気の違う、もはや“離宮”と呼ぶにふさわしい建物で、しかも何故か建物の正面ではなく、その側面だった。

 その上彼は、バルコニーが付随した二階の窓を指差すと、「あそこがヴィーの部屋だよ」と仰ったものだから、ポカンとしてしまった。

 部屋……とは。まさか、“私室”だろうか。

 だとしたらここはもう、内廷ではない。王家の居住区である“内宮”だ。

 そのことにぎょっ、と驚きつつ、思わず二階を仰ぎ見る。

 いや……自分はお礼を言いに参ったのであって、王子の私室を覗きに来たわけではなく。しかもよりにもよって庭からよじ登りに来たわけでもない。

 これは一体、どうしたらいいのか。

 そう困惑している内にも、アレクシスは躊躇いも無くその二階に向かって、「ヴィー、いるかい?」と声をかけた。

 まぁ流石にここをよじ登れと言われるとは思っていなかったが、しかし窓から呼び出すというのもどうなのだろうか。いいのだろうか。

 そんなエイネシアのハラハラとした気持ちなんてお構いなしに、二度三度と呼びかけると、間もなくカチャリと窓が開いて、相変わらず生真面目そうなお顔をしたヴィンセントが、大変嫌そうに顔を出した。

「叔父上……何度言えば窓から呼び出すのを止めて……」

 だが文句を言いかけたヴィンセントは、その傍らを見るなり重たいため息を吐き出しながら、言葉を噤んだ。

「ヴィーにお客様だよ」

「……叔父上……」

 えーっと。さて、何処から突っ込んだらいいのだろうか。

 この状況で、まずは失礼を詫びるべきか。いや、その前にご挨拶。いや、詫びる方が先だろうか。

 いやいや、まて。それよりも取りあえず“叔父上”というのが気になる。

「……まったく。取りあえずそこを動かないでくれますか。すぐに降りるので……」

 そう言って荒々しく窓を閉じたヴィンセントの姿が見えなくなると、たちまち挨拶やお詫びをするという選択肢が無くなり、残る一つの思考を解消すべく、「叔父、ですか?」と、傍らを見上げた。

 そんなエイネシアに、ん? と端正な面差しが向いて、「私の事だよ」とアレクシスが自分を指差した。

 その様子に、思わず驚嘆の声をあげる。

 叔父。いや、だってどう見たって十代前半。ヴィンセントとだって、二つ三つしか違わないように見える。なのに叔父とはどういうことなのか。


 ヴィンセントの叔父ということは、彼の両親のどちらかの兄弟。母フレデリカの兄弟が“殿下”と呼ばれるはずがないから、父ウィルフレッド王子の兄弟……年齢的には、弟ということになる。

 はて。とういうことは、女王陛下の御子ということか。

 だがそれはおかしい。

 女王陛下の夫、王太子ウィルフレッド王子の父君は、もう二十年近く前に若くして亡くなられたと聞いている。だから少なくともこの少年は、ウィルフレッド王子とは父親が違う事になるが、しかし女王陛下は夫の死後再婚はなさっていない。それどころか夫を亡くして以来明るい色のドレスを着ることさえ慎んでいるという、操堅い御方だ。

 しかし女王陛下の御子と言われれば、色々と納得もいく。

 父はこの方を“殿下”と呼んだし、ヴィンセントも彼を叔父と呼ぶ。道すがら近衛や貴族達はこぞって丁寧に頭を下げたし、それに何より彼はこの王宮に暮らしている。

 まさか女王陛下の隠し子とか……、と。

 そんなことを考えていたら、「多分シアの予想は少し間違っているよ」と苦笑された。

「昔自己紹介したことはあるんだけど。ふふ、やはり覚えていないよね。私はね、シアとは二度ほど会ったことがあるんだよ」

 そこでようやく、彼が先ほどからずっとエイネシアのことを、“シア”という愛称で呼んでいることに気が付いた。

 いかに相手が王族。片や公爵令嬢とはいえ、初対面でいきなり愛称で呼ぶなんてことはありえない。何かしらにそうなったきかっけがあったわけだ。

「そう……なのですか? 申し訳ありません……私」

「いや、とても小さかったから当然だよ。一度目はまだ赤ん坊の頃。一歳にはなってたかな。夏の離宮で、バカンスを楽しむ大人を傍目に揺り籠に放っておかれているのが心配で、あたふたとあやしたものだよ」

 クツクツとお笑いになっているが、いやはや。それは一体、彼が何歳の時の話なのだろうか。随分としっかりした子供だったのだと思う。

「二度目も離宮で、シアが四歳くらいかな? この時はエドも一緒だった。陛下とベティ王女が二人の並んだ姿が人形のように可愛いとはしゃいで、絵師やら何やら沢山呼び寄せてしまってね。一日中ソファーの上に縛り付けられて、動けないのを我慢し続けて泣きそうな顔をしていたのが可愛かった」

 何を思い出しているのか、クツクツと実におかしそうに笑うその人に、カァと頬が染まった。

 ちっとも覚えていないけれど、多分その時に描かれたであろう一枚は今もアーデルハイド家の一室に飾られている。

 あの場所に、この方もいたのだ。

「あの……では殿下は……」

「シアは私の従姉子(いとこご)だよ」

「従姉子?」

 という事は、彼はエイネシアの両親のどちらかの従弟。今までの話から察すれば、彼は王家にも連なる母エリザベートの従弟。アンナベティ王女の兄弟か姉妹の子ということだろう。

 ならばやはり彼はアンナベティの姉である女王陛下の子では? と思ったのだが、アレクシスはそれを見透かしたように、再び、「陛下の子ではないよ」と言った。

「シアは、陛下が三姉妹でいらっしゃったのを知っているかな? 一番上が女王陛下。二番目がシアのお祖母様のアンナベティ王女」

 そこまでは知っている。

「三番目のアンナセイア王女が、私の母なんだ。だから女王陛下やベティ王女は私の伯母で、ベティ王女の子であるシアの母君は、私の従姉ということになる」

「あ……」

 ようやく思い出した。年の離れた三番目の王女様は、家族で離宮に滞在していた際、不始末火が原因の火事に遭い一家揃ってお亡くなりになった。まだエイネシアが生れて程ない頃のことだという。

 彼はその大公ご一家の、生き残りなのだ。

「両親と兄が亡くなった時、私はまだ四つか五つで、父の爵位を継ぐにも幼すぎてね。それで女王陛下が、私を養子として引き取って下さったんだ。だからヴィーにとって私は父の義理の弟。つまり叔父という事になるね」

 なるほど。合点がいった。

 女王陛下とのやり取りは親子とは少し違って感じたし、けれどとても気さくで親しみあっている様子でもあった。それは彼がほんの幼いころから陛下に引き取られて、実の子として育てられたからなのだろう。

「でも叔父上はないよね。三つしか違わないのに。その点アンナマリアは可愛いんだ。お兄様と呼んでくれるから」

 そう言ったところで、「窓越しにしか訪ねてこない礼儀知らずを兄だなどと呼びたくはない」というきつい声色がして、二人揃ってそちらを見やった。

 いつの間にか話し込んでしまっていたが、そういえば、ヴィンセントを待っているんだった。

 少し急いだのか、やや乱れたサラサラの金色の髪を手櫛で整えたヴィンセントは、すぐにも、「取りあえず椅子に」と気を利かせてくれた。

 そういえば先ほども今もだが、ずっと立ち話ばかりしている気がする。それなのにちっとも足の疲れを感じなかったのは、アレクシスが話し上手だったからだろうか。ガゼボの椅子に腰かけて初めて、疲れていることに気が付いたくらいだった。

 三人がそれぞれ腰を下ろすと、すぐにも侍女達がお茶を用意してくれて、さらにはお昼が近いからか、サンドイッチやスコーンなど、簡単な食事も整えてくれた。

 王子様方を前に呑気に昼食などおこがましいのだが、まったく気取らないアレクシスが一緒なおかげか、なんだか少し気楽にそれらに手を付けることができた。


「そういえばヴィー、アンを見なかった? いつもいる庭にいなかったんだよね」

「さぁ。部屋では?」

「最近どうにもアンに避けられている気がする。何かしたかな?」

「貴方の事だから、色々とやっているだろうな」

「え……」

 どうしよう、と眉尻を落とす兄の貫録のない王子様に、ハァ、とヴィンセントが一つため息をつく。

 これではどっちが年上だかわからない。

「それより、どうして叔父上がエイネシア姫と一緒に? 姫が今日が登城する件については聞いていたが」

「陛下の御前で一緒になって、ヴィーの所への案内を仰せつかったんだ。それと陛下のお庭と薬園と。それから図書館と……」

「また陛下と長々と立ち話を? それでよくアーデルハイド公に睨まれないものだ」

「いや、睨まれたとも。どうしてジルはああも目力が強いんだろうね。あと顔も怖い。シアは(リジー)に似て良かったね」

 えーっと。はいと言うべきか。そんなことありませんと言うべきか。

「でも髪や瞳はジルと同じ。シルヴェスト家の色だね。あの家の者は皆プラチナの髪と淡い紫の瞳をしていて、とても綺麗だ」

 エイネシアは、父方の祖母から引き継いだこの色を褒められるのが好きだった。

 この色素の薄い髪や瞳は、祖母から父へ。父から子へと受け継がれていて、取分け氷の宰相と称される父をより一層冴え冴えしくしているとの評判だが、よく母が『お父様から受け継いだ一番素敵な物ね』と褒めてくれたから、取分けお気に入りなのだ。

 だからその言葉はとても嬉しかったけれど。


「それは私への宛てつけですか? 叔父上」

 ピリリと続いたヴィンセントの冷たい声色には、緩みそうになった顔を一瞬にして引き締めた。


 シルヴェスト公爵家の名前は、ここではとても扱いが難しい――。

 ヴィンセント王子は側室の子。正妻であるエルヴィア・クリス・シルヴェスト王太子妃の白金の髪と紫の瞳は当然ながら引き継いではいらっしゃらず、王家の色であるくっきりとしたさらさらブロンドに、それから母親譲りの青い瞳だ。

 いかにも“王子様”といったテンプレートな色彩は端正な面差しの彼にはとても良く似合っていて、うっかり見惚れてしまいそうなくらいだが、しかしそれも周囲にはため息をつかれてしまう色でしかない。

 女王陛下も、もともと身内思いな方であるから、孫のことも当然可愛がっていらっしゃると聞くが、しかし昨今夏の離宮で顔を合わせるのが姪一家であるように、我が子ウィルフレッドが正妻のシルヴェスト公爵令嬢を蔑ろにしたことには大層腹をお立てになっており、今なお親子の間に少なからぬ溝を作っているのだという。

 無論、そうすることによって陛下がシルヴェスト公に義を示しているという一面もある。

 そしてその不誠実を挽回すべく、シルヴェスト公爵家の血を引くエイネシアをヴィンセントの許嫁にと定めたのも、女王陛下だ。

 そのくらいこの問題は繊細な問題であり、冷ややかなヴィンセントの物言いにエイネシアが身を堅くする理由である。

 だというのに平然とそれを口にしたアレクシス様ときたら、「え、どうして?」だなんて言って呑気にブドウを頬張っているから気が抜ける。

 案の定、ハァと重たいため息をついたヴィンセントは、「もういい」と、さっさとその話を切り上げた。

 多分……というか間違いなく、アレクシスには嫌味を言ったつもりなんて微塵も無くて、単純にエイネシアを褒めてくれただけなのだ。

 そういう裏表のない物言いが他人の警戒心を解きほぐしてしまう。

 なんと、穏やかな方なのか。

 だがどうやら、ヴィンセントにとってはそうではないらしい。

「貴方がいると落ち着かない。食べたらもう行ってくれ。彼女は先日の見舞いの礼という義務を果たしに来たのであって、仲良く食事をしに来たわけではないのだから」

 そうため息を吐いたヴィンセントに。

「何を言ってるの?」

 一瞬ピリッと鋭くなった声色。

 しまった。言葉を間違えたか、と、ヴィンセントが一瞬眉を寄せたけれど。


「目の前に今が旬のメイソン料理長特性ブラックチェリーパイがつやつや香ばしい香りを漂わせているというのに、これを無視して私をはぶろうだなんて……なんて恐ろしい」


「アマリア! 今すぐパイを包んで叔父上の部屋にお届けしろ!」

 いらっとして叫んだヴィンセントに、ガゼボの外に控えていた十一、二歳ほどの幼い侍女が、かしこまりました、と、テキパキと机の上からチェリーパイを回収した。

 それを、あぁっ、と、嘆くように見やるアレクシスを余所(よそ)に、侍女はチラリとエイネシアを気にした様子を見せる。

 もしお客様がチェリーパイをご所望だったらどうしよう、と思ったのだろう。すぐにエイネシアは、「私のことならお構いなさらないで」と言った。

 こう言ったらアレクシスを追い出す意味になってしまわないかと気になったけれど、どうやら咎める気はないらしいアレクシスは、代わりにブドウをプチプチとちぎりながら、一つため息を吐いた。

 この様子だとブドウも下げられかねない。

 だがそれはいらぬ心配だったようで、ひと房を空にしたアレクシスは、「仕方がないね」としずしずと席を立った。

「そんなに許嫁殿と二人になりたいのならば邪魔者は退散するよ。あぁ、でも陛下に庭の案内を頼まれていたんだ。代わりに君が案内を」

「貴方に言われずとも心得ている」

「良かった。それではエイネシア。図書館への出入りの許可は仕事の早いジルがすでに手続きしてくれていることだろうから、またいつでも訪ねると良い。薬園も。あそこの匂いの苦手なヴィーはどうせ頼んだって案内なんてしてくれないだろうから、見たくなったらいつでも声をかけてね」

「葉っぱを見て何が楽しいんだ?」

「これだから」

 そう苦笑するアレクシスの親切は嬉しかったけれど、しかしどうしよう、と、エイネシアは躊躇(ちゅうちょ)した。

 無論、興味はある。薬園は、この国の最先端技術が詰まった温室の中にあると聞く。是非見てみたい。

 だが少なくとも許嫁の殿下のおられる目と鼻の先で、殿下がお嫌いだという場所へ異性とのこのこと出向くのは、間違っても褒められたことではないだろう。

 だから少し戸惑った後、ニコリと微笑んで見せてから。

「お気持ちだけいただいておきます。アレクシス殿下」

 そう口にすると、おや、と、彼は一つ驚いた顔で目を瞬かせて見せてから、すぐにふんわりとした優しげな顔を見せた。

「あぁ……君はとても思慮深い子だね、エイネシア姫。きっと素晴らしい王妃になるであろうことを、頼もしく思うよ」

 ぽふっ、と、思わず頬を赤くした年相応の様子に、クスと少しばかり笑みを残したアレクシスは、眩しそうにその目を柔和に細めて見せた。

 しかし程なく、いいから早く、とせかすヴィンセントの言葉に背中を押され、一つ肩をすくめると、はいはい、と手を振ってガゼボを出て行ってしまった。



 なんだか、嵐のような人だった。

 朝から色々なものに緊張して、食べ物も喉を通らないくらいだったはずなのに、いつの間にか目の前のお皿にはサンドイッチやスコーンを消費した形跡があって、すっかりと寛いでいたことに気が付いた。

 もしかしたらエイネシアがヴィンセントに会いにゆくことを緊張しているのが分かっていて、あんなに賑やかにしてくださっていたのだろうか。

 ちょっと不思議な空気の人だったけれど。

 とても優しい人だった。

 だからつい口をついて、『良い方ですね』と言おうとしたところで、「まったくあの人はいつもいつも……」と、ヴィンセントが苦々しい声色を発して眉を顰めたものだから、慌てて口を噤んだ。

「仲が……よろしく、ないのですか?」

「根本的にそりがあわない。無神経でつかみどころがなくて、身勝手で。王家の者とは思えない」

 まぁ、王家の者ではないのだが……、と付け足したその言葉の冷たさには、エイネシアもぞっと背筋を伸ばした。

 下手なことを言わないで良かった。

 うっかりヴィンセントの不興を買うところだった。

「貴女も。あまりあの人とは関わらないでくれ」

「は、はいっ」

 こくこくと頷いて。

 それからちらっと、その人の去った方向を見やった。

 悪い人ではなかったのに……。

 だが今はそれよりも、ヴィンセントとの関係をこじらせない方がずっと大事だった。

 この先の未来がどうであれ、エイネシアはヴィンセントの許嫁なのだ。

 ゆくゆくは王妃として、その人の治世を助け、支えなければならない。

 それに……本音を言えば、少しだけ。怖いのだ。


 “この方に嫌われたくない――”


 きゅっ、と、膝の上で硬く拳を握りしめて、硬く唇を引き結ぶ。

 気を抜いてはいけない。

 エイネシア・フィオレ・アーデルハイドは、王妃になる女。

 ヴィンセント王子が求めているのは、それに相応しい女。

 そうでなければ、エイネシアは――。


「それで。“女王の庭”だったか。食事がもういいなら、行こう。案内する」

 冷たいのか優しいのかわからないその人の差し出した手とに、それが優しさなのか、義務なのか考えることも忘れ、疼いたときめきに、きゅっと涙をこらえながらその手に触れた。

「何を遠慮している。もう誰も見ていない」

 クス、と……少しばかり笑んでみせるその顔に、頬が染まった。


 あぁ、馬鹿なエイネシア。

 理屈であれやこれやと考えるよりも早く。

 ただこの人に好かれたい。嫌われたくない、と、差しのべられた手に緊張をするのは。


 それはもう……ただの“恋”ではないか――。






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