3-9 上王陛下の催し(2)
「さぁ、辛気臭い話が終わったなら会場に入りましょう。そろそろ上王陛下もいらっしゃると思うのだけれど」
そう場を取りまとめたアンナマリアが部屋へ誘ったところで、シシリアは気を利かせたのか、一礼しただけでついては来なかった。
それに申し訳ない思いはあったけれど、「今はこれが彼女のためよ」というアンナマリアの言葉に一つ頷いて、ガヤガヤと賑わう母の元へ向かう。
「やっと来たのね、シアちゃん。エド。あら、やっぱり今日のドレス、ちょっと地味だったかしら?」
「そんなことありませんわ、お母様。上王陛下は?」
「先ほど顔を出されたのよ。けれど宰相府からお使いがあって、今奥で少し小難しいお話をなさっているわ。皆寛いでいてちょうだいとのお言葉よ」
そう言う母は、義妹でもあるアデリーン王女と二人揃って、「さぁ、皆様、どのお紅茶をいただく?」と茶葉の並ぶ方へと皆を誘った。
それに皆がぞろぞろと連れて行かれるのを見送りつつ、一番後ろを着いて行こうとして。
「アーデルハイド公爵令嬢――」
エイネシアを呼びとめた声に、ふと足を止めて振り返った。
そこには王宮の侍従のお仕着せに身を包んだ二十歳ばかりの金のおかっぱ髪の青年がいて、丁寧に胸に手を当てて頭を下げたその様子に、なぜか妙な既視感を感じた。
はて。なぜだろうか。
「私に何か?」
「お楽しみのところを申し訳ありません。上王陛下がお呼びでございます」
そう言ってゆっくりと顔をあげたその顔に。
「あ!」
思わず、声が飛び出した。
それに気が付いたエドワードとアンナマリアが、チラ、とこちらを振り返ったが、心配していただかずとも大したことじゃない。
「貴方は……もしかして小さな頃に王宮で、私の荷物を持ってくれたことのある方ではありませんか?」
そう言うと、侍従の青年の顔がわずかに綻んだ。
やはりそうだ。もうずっと昔。二度目に大図書館へ向かった日、エイネシアに声をかけて、荷物を持ってくれた方だ。
あの時は迷子になったエイネシアが行方不明と騒がれる事態になりかけ、彼をすっかり慌てふためかせ、心配させてしまった。それが本当に申し訳なく、心配をかけてごめんなさい、と、沢山謝罪をしたのを覚えている。だからあの時の侍従の顔は何となく覚えていて、それからも時折王宮ですれ違うたびに、「あぁ、あの時の」と思っていた。
それがまさかこんなに立派になって、あの頃の見習い侍従ではなく、正式な侍従の装束で上王陛下にお仕えしていたとは知らなかった。
「シロンと申します。覚えていただいていたとは、光栄です」
「シロン。あの時は本当にごめんなさいね。見ない間にとても立派になられていたものだから、すぐに思い出せなかったわ」
「恐れ入ります」
そう丁寧に頭を下げる様子は、あの頃に感じたのと同じ。とても洗練されていて、お手本にしたいくらいの所作だった。流石は宮廷侍従である。
「あぁ、ごめんなさい。それで、陛下が私を?」
「はい。後ほど、エリザベート公爵夫人にもお声をおかけします。お一人が不安なようでしたら、エドワード卿にもお声をかけるようにと言付かっておりますが」
そうチラとエドワードを見やったシロンの視線に、エイネシアもそちらを見る。しかし上王陛下にお会いするのに、不安なんてものはない。
「エドはここにいて頂戴。大丈夫だから」
「かしこまりました。何かあったら呼んでください」
「そうするわね」
そう言って、「ではこちらへ」と誘導するシロンに続いて、奥の扉をくぐった。
◇◇◇
この離宮は、小さな頃には毎年のように訪れていた場所だから、どこもかしこも少し懐かしい。庭に面した吹き抜けの廊下もよく走り回って遊んだ場所で、その廊下沿いにあるシロンが手をかけた扉も、上王陛下や母たちが日中のんびりと寛いでいた部屋であることを知っていた。
そのためか、入室してすぐ、変わらない部屋の面影の中に上王陛下がいらっしゃるのを見ると、なんだか少し嬉しくなってしまった。
最後にお目にかかった時に比べてすっかりと髪が白くなり、少しふっくらともなさっただろうか。それでも変わりないお元気そうな上王陛下に、まずはとても丁寧な礼を尽くす。
「シア! まぁまぁ。よく来てくれたわね。突然呼び出してごめんなさい。顔をあげてこちらに来て頂戴」
「ごきげん麗しゅう、上王陛下。大変長らくお暇してしまいました」
「良いのよ、良いの。さぁ。早く」
そろそろと身を起こすと、テーブルでは上王陛下がすでに紅茶の準備を始めてくれていて、それを恐縮に思いながらも歩み寄り、シロンが下げてくれた椅子に腰かける。
「タイナーとレディグラムを半分ずつで淹れるわね。アンナマリアに教えてもらったのだけれど、これ、星雲寮で流行っているんですって?」
そう言いながら手ずから紅茶の葉をいれてお湯を注ぐ上王陛下に、思わずキョトンとしてしまう。
「ふふっ。陛下……」
なんだかおかしい。そういえばこの上王陛下も、かつてはあの学院の生徒で、そしてきっと白薔薇の部屋の住人だったのだ。世代は違っていても、星雲寮の話題を共有しているできることが、何やらくすぐったい。
「大貿易伯の令孫のレナリーに教えていただいたんです。すっかり気に入ってしまって、私とアン王女と二人でお茶会をする時にはよく」
「私も気に入ったわ。ただタイナーは輸入品で、中々手に入らないのが玉に瑕ね」
そう言いながらも最も上質なタイナーの茶葉で淹れられたオリジナルブレンドは、相も変わらず良い香りと少し癖のある味で、とても美味しかった。
「さぁ。まずはシア。私から直接謝罪を言わせて頂戴ね」
「そんな。陛下は何も!」
「幼い貴女達を許嫁にしたのは私だもの。それで仲睦まじくするようにと……少し、押しつけがましいところもあったと、反省したのよ」
「いいえ……」
でもそのおかげで、良い思い出も沢山あった。
ヴィンセントとエイネシア、それにエドワードとアルフォンスにアンナマリア。彼らが幼い頃、何の煩いも抱かずに付き合えるようにと、人目のないイリア離宮で穏やかな時間を過ごすことをご提案下さったのも、上王陛下だった。あの日々が無ければ、少なくともエドワードやアルフォンス、アンナマリアと今のような関係にはなれなかったかもしれない。
「それに私の所へも色々と学院での噂は入って来ていたけれど、“そんな馬鹿な話”と笑って、少しも本気にしていなかったのよ。でもそれが突然このようなことになって、驚いたの。私が、甘かったわって」
「それも陛下のせいではありません。私が至らなかったのです」
「至らなかったのはヴィンセントよ。それは間違っては駄目」
そうきっぱりと言う声色に、エイネシアも思わず口を噤んだ。
「よいこと、シア。貴女が無駄に罪をかぶることは無いの。そういう態度は男をつけあがらせるわよ」
「陛下……」
それでまさにつけあがらせた結果のヴィンセントだ。確かに、と思わなくもない。
「やっていないことはやっていないと言ってよいの。王太子だからとヴィンセントを庇うのはおよしなさい。もう貴女はヴィーの許嫁ではないのだから、遠慮なんてしなくて良いの。いいえ、むしろ今まで長い間そうやって、ヴィンセントを立て続けてくれたのよね。そのことには、本当に感謝しているわ」
「そのお言葉だけで、救われます」
上王陛下がそれを知っていてくれた。
エイネシアの努力を、認めていてくれた。
それだけでもう、すべてが報われた気がした。
ちゃんと分かっていて下さった。そういう方もいらしたのだと。
「まぁまぁ。心配していたけれど。すっかりと盛り上がっておいでですわね、陛下」
そこにゆったりと入ってきたエリザベートに、エイネシアが一度席を立とうとしたけれど、すぐにそれを制し、エリザベートはエイネシアの傍らに立って、上王陛下へ一つ礼を尽くした。
「呼び出してごめんなさいね、リジー。お客様のご様子は如何かしら?」
「ええ、お寛ぎですよ。久しぶりにアデリーン王女も顔を出されたからと、話も弾んでいます」
「誘ってよかったわ。本当は夫のラングフォード公が嫌がったのだけれど、“母が娘に会いたいと言っているのだから黙って寄越しなさい!”と脅してあげたの」
そう言う上王陛下に、「当然ですわ!」と笑う母。その男顔負けの豪胆さには、なるほど、これを見習えということか……と、エイネシアも肩をすくめてしまった。
「さぁ、リジーも座って頂戴。今シアに、星雲寮で流行っているという紅茶を振舞っていたところなのよ。貴女も飲むでしょう?」
「まぁ。そんな紅茶があるの? シアちゃんったら、学院のことは何も話してくれないのだもの」
「ごめんなさい、お母様。なかなかお話しする機会が無くて」
そう言ったところで、再び上王陛下が手ずから紅茶を用意しながら、エリザベートを席に促した。
「それで、陛下。夫からの使いは何と?」
「ジルからというより、国王陛下からだったわ。読んで構わないわよ」
そうカップに注いだ紅茶をエリザベートに差し出しつつ、机の上の便箋を見やる。
拝見いたします、と言って手を取った母は、なるほど、と言ってそれをエイネシアにも差し出した。
それを同じように目を通し、エイネシアもまた母と全く同じ、なるほど、との言葉を溢す。
「要約すると、上王陛下にも王国誕生祭の大茶会に、お出でいただきたい、ということですね?」
そう小難しい言い回しを端的に解釈したエイネシアに、「そのようだわ」と上王陛下は眉を顰める。
「まったく、なんという恥知らずなのかしら。先日の茶会で私がお客様方の前であえて叱責をしたというのに、おくびれもせず陛下に頼んで私を引っ張り出そうだなんて、浅ましくて仕方がないわ」
「仰る通りですわ。そもそも側妃ごときが上王陛下をお招きしようなど……呆れてものも言えませんわ。しかも茶会の前日なってご招待するだなんて、何という非常識!」
そう言う母の言葉は中々に辛辣で、まったく歯に物着せない二人の会話には、エイネシアも言葉を失ってしまった。
いつも王宮では慎重に、慎重に、と息をひそめてきたエイネシアには、なんだかちょっと毒が強すぎる空間だ。
「何尻込みしているの、シア。こういうところに食いついていけるくらい逞しくならなければ駄目よ。舐められたらおしまいの世界なのだから」
更には母にそう叱責されて、「え。えぇ」と苦笑いする。
いやはや……王家の姫君方は、本当に皆様お強い(アンナマリアも含めて)。
「それで、シアをここに呼んだのは、その恥知らずなシンドリーの養女のことですよ」
自らの紅茶に少しのミルクを注いでかき混ぜるという優雅な仕草をしながらも、ピリリと厳しい声色で言う上王陛下に、エイネシアも少し顔色を引き締めた。
シンドリーの養女……元、アイラ・キャロライン嬢のことだ。
「陛下も、アイラ嬢にお会いになられたのですか?」
「ええ。先日、茶会を開いていらした場に乗り込んで行った時にね。私とヴィンセントの会話に割り込んできた上に意見までして、しかも私のことを“ヴィンセント様のお祖母様”ですって」
ふっ、と上王陛下は笑ったけれど、その言葉にはエイネシアも凍り付いてしまった。
あぁ……馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが。まさかついにそんなことまでしでかしてしまったのか。
というかアイラのことだから、“だってゲームでは王様だったよね?”とかいって、つい数年前までこの国を女王が治めていたことさえ記憶していないに違いない。国王陛下の戴冠の祝典にも来ていたはずだが、きっと何のパーティーかも理解せずに出席していたのだろう。
「申し訳ありません……陛下。私も学院では、気が付く限りは指導してきましたが……」
「貴女のせいではないわよ、シア。あの後アンナマリアから色々とお話を聞いたけれど、随分と礼を失したお嬢さんのようね。アンも、いつまでたっても勝手に“アン”と呼び続けられている、と眉を顰めていたわ」
言われてみればそうだった。なんだかもうそれを咎めるのも忘れるほどに、それが普通になってしまったけれど、良く考えたらとんでもないことだ。
「困ったことに、ヴィンセントはそんなお嬢さんを許嫁にしようとしているのよ。これには流石に私もあの子を怒鳴りつけたのだけれど……」
そう頭を抱えて重たいため息を吐いた上王陛下に、エイネシアも困った顔をした。
何しろ、長年許嫁であり幼馴染でもあったエイネシアを悪と信じきるほどに、あのアイラに心酔している王子様だ。怒鳴るなどと明確な反対をされたら、逆に何が何でもという気にさせられるのではなかろうか。
「こんなことは言いたくはないけれど……」
重たい重たいため息と。それからゆっくりと持ち上がった、老いてなお凜として澱みのない上王の瞳が、エイネシアを見据える。
「私は、あの子の廃太子も、あると思っているわ――」
そして告げられた衝撃の言葉にエイネシアは一瞬にして息を呑んだ。
「ッ、陛下っ。そんな滅多なことを!」
「私は本気ですよ。エイネシア」
そう言われて、エイネシアもぐっと言葉を飲み込む。
廃太子……確かに、ゲームでもそういうルートはある。だがそれはヴィンセントがアイラとの仲を認められず、駆け落ちをするからだ。そしてそのルートは、エイネシアがアレクシスに牢に放り込まれる未来をも引き起こす。これは今のエイネシアが一番避けたいルートであって、即ち、ヴィンセントに王太子を止められては困るのだ。
「陛下……殿下は少し意固地になっておられるだけです。アイラ嬢とのことを認められさえすれば、殿下が元のように聡明になられるのではと。そうは、お思いにはなりませんか?」
だから一縷の望みをかけてそう言ったところで、「ありえないわ」と、上王陛下はきっぱりとそれを否定した。
「あの令嬢の言うがままに始めたイリア離宮の解体の件は知っているわね?」
「……聞いて、います」
「それ自体も大変なことをしでかしてくれたものだと頭を抱えたいことだけれど、もっと深刻なのは“国家財政”なのよ」
「財政?」
思いがけない言葉が出てきて、一度首を傾げた。
いや。だがいつだったか……多分大図書館の議論か何かで、少しそんな話が出たことがあったはずだ。
「確か……先のオズワルド陛下の御世にあった東方での大戦乱が原因……でしたか?」
「流石はシアね。良く勉強しているわ」
そう少し顔をほころばせた上王陛下は、そのとおり、と頷く。
「歴戦の猛将だった先のダグリア公が思いがけない戦死をなさったのが引き金となり、隣国の大軍が東方のかなめである公爵領の半分にまで攻め込んだ、大変な時代だったわ。それに私の父、先の国王オズワルド陛下は自ら軍を出し、爵位を継いだばかりの、まだとても若かった現ダグリア公と共に十数年にわたる戦の日々を送られた。その間に費やした国庫は甚大で、東の国境を取り戻した後も、大きな痛手を負ったダグリア公と東方諸領に対し、王は惜しみない褒賞と数多の国境を固めるための散財をなさったわ」
この国は膨大な西大陸をほぼ一手に治めているため、外国との諍いはほとんどない。ただ東には海に通じる大きな大河を隔てて、虎視眈々とこの肥沃な土地を狙う大国が横たわっている。ダグリア公爵領は、そんな東との国境にある領地だ。
ひとたび戦となれば、たとえ戦勝しても被害はゼロでは済まない。土地の被害もさることながら、人の被害。そしていつも東からの戦ののろしに怯えて過ごさねばならない領土。だがしかしそれでも一千年以上にわたり、ダグリア家は一手にその東の国境を守り続けてきた。ダグリアがいるからこそ、この国は戦のない平和な国であれるのである。
その教えは代々エーデルワイス王家にもとくと言い聞かせられており、その時も甚大な被害を被ったダグリア公爵家とその領地領民に、王は深い深い感謝と謝罪の気持ちをあらわに、惜しみなく国庫を費やした。
その他にも、戦いに用いた武器道具などの軍事費に、遠征費用、軍の食糧、亡くなった数多の兵の家族への見舞金。戦争とはとにかくお金がかかる。
それでいてエーデルワイスは、“国境を守り、外国を侵略してはならない”という明確な法を持っており、たとえ最後が勝ち戦で、相手国から多大な賠償金や利権を獲得することができたとしても、それで版図を広げて更なる褒賞を得るということはできないのだ。
結果的にこの勝ち戦は、多大な赤字を残して終結したのである。
そんな最中、王宮の威厳を保ちつつも無駄な贅沢の一切を厳しく禁止し、少ない予算で戦以外の国政を一手に引き受け、遠征に出ている国王の代わりに王国を支えたのが、賢女といわれるエリーシアス・フィオレ・アーデルハイド王妃陛下であった。
「私の母でもあるエリーシアス王妃は倹約に倹約を重ねて国を支え続け、私にもくれぐれも勤勉に国の回復に努めるようにと教えたわ。私には政治的な才覚はあまりなかったけれど、幸いにしてこの教えを真摯に支えてくれた夫に出会え、先代のブラットワイス大公……これは私の夫の弟ね。彼にも助けてもらった。残念ながら彼らは皆若くして死んでしまって、私の改革はちっとも上手くいかなくなったけれど。でも治世の晩年には、天からジルフォードというとんでもなく優秀な宰相が降って来てくれたわ」
そう少し茶目っ気を見せて言う上王には、まぁ、と、母と二人そろって笑みを浮かべた。
「ジルには本当に感謝をしているのよ。彼はたったの十年やそこらで、それまで少しずつしか回復していなかった国庫を、三割も回復させたのだから。最近はようやく財政も安定をし始めていたのだけれど、またいつ飢饉や戦があるともわからないわ。倹約に倹約を続けるべき、と、今も宰相府にへばりついて一心不乱に色々な策を考えてくれている」
実際ジルフォードは王都に戻って来るなり宰相府に泊まり込みが続いていて、エイネシア達が王都に戻ってきてこの方、まだ一度も顔を見ていない。
一ヶ月もバカンスを楽しんだわけだが、結局のところジルフォードというのは生まれながらの政治家気質なようで、机の上の溜まりに溜まった書類を消費するのが楽しくて仕方がないのだ。
その“楽しい時の顔”が一番怖いから、皆誤解しているけれど。
「だというのにこの情勢下で、離宮を建てなおすですって? 金銀装飾に天井壁画。ずらりと並んだシャンデリア? 一体何を言っているのかと愕然としたわ」
そうため息を吐く上王陛下は、退位後、『新しい離宮を建てます』と言った国王に対して、『それは私の治世に対する冒涜よ』と断り、昔からある王都郊外のこの夏の離宮へと居を移した。
さらにこの離宮の広大な庭の一部を畑に変えてしまって、極力国庫に負担を掛けずに生活ができるようにと心掛け、質素に暮らしておられる。
ようやく好きに出歩けるようになったのだからと、時折遠方まで旅行をされることはあるそうだが、それは上王陛下の生活のためにと割り当てられている予算から捻出される、年に一度の楽しみであり、贅沢の部類には入らないだろう。
「イリア離宮の件だけではないわ。学院にとんでもない額の寄付をして、なんでも、新しい寮を作るつもりのようね。もうヴィンセントも卒業して、アンナマリアは星雲寮で過ごしているというのに。あの、アイラという娘のためによ。まったく、なんてことなの!」
まさかそれも国庫から負担させたのだろうか。そう言われるとエイネシアも笑ってはいられなくなった。
これは思っていたよりも、かなり悪い状況になっている。
「分かるでしょう? シア。私だって、母親がどうであれ、ヴィンセントは可愛い孫だと思っているのよ。けれどこのまま今の状態が続くのであれば……」
「廃太子も、やむない……」
そういうことだ。
「それに、ヴィンセントの後見は元々とんでもなく弱いの。王家には他にも良い血縁の王子はいるのだもの。大公達は勿論のこと、余所に嫁いでしまったアンナベティやアデリーンだって、その気になれば王位を継げるのよ。何なら、エリザベートやエイネシア。貴女達でさえ、ヴィンセントよりも高い正統性を持っているの。だからヴィンセントがそんな彼らを抑えて王位につくには、どうしても“アーデルハイド”が必要だった。それをあの子はどう思っているのかしら……」
九年前なら、誰でも知っていたこと――。
ヴィンセントがエイネシアと婚約したのは、ヴィンセントに公爵家の後ろ盾を与えるためだった。
そうすることで他の王位継承者達を牽制し、王位争いを起こさぬようにとの配慮をしたのだ。
だが今やそれは崩れてしまった。
ヴィンセントの王座は、とても不安定になっている。
その上国を裏切るような散財が続けば、心ある貴族達や、あるいは国民たちの心さえ離れてしまいかねない。
そうなった先の王座など、考えただけでも恐ろしい。