3-8 王都からの手紙(2)
それから間もなくして、王都に戻ったアレクシスからの手紙が届いた。
アンナマリアが心配で急いで帰ったのに、アンナマリアからは「もう帰ってきてしまったの? 甲斐性なし」と罵られたこと。でも国王陛下には「やっと帰ってきた」とげっそりした顔で歓迎され、さすがに罪悪感がつのったこと。
ヴィンセントはどうやら上王陛下にこってりと絞られたようで、国政を学ぶことに専念しているが、フレデリカはどうやら王国誕生祭の大茶会を盛大に催そうとの計画を練って、日々夫人達と国中の紅茶を取り寄せて茶会を開いているとのこと。
そこには度々アイラ嬢が呼ばれて、そしてついにはイリア離宮の周りの木が伐採されるに至り、これを聞いた国王陛下が異例の一時王宮の森の封鎖と、即刻の中断を申し渡したこと。
だが目につかない離宮の内部には最近こそこそと手が入っているようで……。
そう文字を綴りながらも、『こんなことを書いてはまた君が悲しまないか心配だ』と、話題を締めてあった。
確かに、イリア離宮の事を聞くのはとても胸が痛かった。
ヴィンセントは一体どんなつもりで、あの離宮を壊すことにしたのだろうか。
あのどこか可憐で、子供のためにとどこもかしこも低い誂えで作られた素敵な離宮。
外観はアーデルハイド風だが、内観は幼い王女様のためにと、可憐な花柄の壁紙や薔薇のようなピンクベージュのカーテンやらと、とても愛らしい作りをしていた。
その湖を臨むテラスで、椅子に深く腰掛けて本を捲っていたヴィンセントの姿は、今でも昨日のことのように思い出せる。
それに見惚れていた自分のことも。
その時の気持ちも。
全部、覚えている。
でもヴィンセントはそれを、自ら壊すことにしたのだ。
本当に、全部。
「あと気になるのはアルのことだわ」
そう息を吐いたエイネシアに、手紙の内容を聞いていたエドワードも首肯した。
「国王陛下の側近は近衛の務め。ただでさえ現陛下はシグノーラ大将軍を側近として重用していて近衛内での不満が高まっているというのに、その上、騎士長の子息であるアルフォンスが殿下の側を離れているというのは……」
かなりの懸念事項と言っていいはずだ。
アレクシスの手紙では、ザラトリア騎士長はいつも通りに陛下に近侍し、近衛の不満も抑えてくれているということだったが、しかし我が子アルフォンスを蔑ろにされている今、騎士長の心情も穏やかではないだろう。
そしてどうやらそのアルフォンスの登城の差し止めはフレデリカが手を回したもののようで、その発端は卒業パーティーでの行動が原因であること。その詳細は、アイラ嬢からフレデリカへと伝えられた内容であるらしいことなどが書かれていた。
となると、どんな風に曲解されているともわからない。
大体こんな状況になっていながら、ヴィンセントは何をしているのだろうか。
「姉上との婚約を破棄した以上、権門勢力の不満を諫めるためにも、権門の子弟との関係は必須のはず。その権門筆頭格である私が近侍を突き返している以上、強くは言えませんが……」
「えぇ。我が家と並んで殿下の後見を担っていた大権門、ザラトリア侯爵家を傍から外すだなんて……とんでもなく、よくない状況だわ」
そもそもの問題は、ヴィンセントが正妻の子でないことに端を発する。だが生母フレデリカは慎むどころか、むしろ周りを煽って、身分格差の是正という一見耳障りの良い歌い文句で非権門中小貴族を勢いづかせ、今や彼らの礼儀も知らない増長の態度は留まることを知らない現状となっている。その勢いを牽制し、従来の保守派貴族や権門貴族を諫める役割を担っていたのが、権門筆頭公爵家のエイネシアであった。
だがヴィンセントは、自らそのエイネシアを捨てて、非権門のアイラを選んだ。
結果、権門や保守派の貴族達がどう思うかなど火を見るよりも明らかであり、ヴィンセントはそんな彼らを諫めるための努力と誠意を見せねばならないのだ。
だが権門の筆頭であるジルフォードは所領に引きこもっていて、エドワードも近侍を離れている。宰相府にはアーウィンがいるはずだが、今なおラングフォード家が反フレデリカの態度を貫いているのを見ても、ヴィンセントが権門ラングフォード公爵家の子息に接触を図っている様子はない。
その上、伝統と格式ある近衛の筆頭権門ザラトリア侯爵家のアルフォンスさえ傍から離しているとなると、もはやヴィンセントが権門を悉く排斥しようとしているかのごとく見られかねない。
これは間違っても、良い傾向ではない。下手をすれば、国内を二分しかねない話だ。
「エドワード……」
チラ、と、困った顔で弟を見るエイネシアに、すぐに視線の意味に気が付いたエドワードは、しかし優しい言葉などかけることはなく、ただ首を横に振った。
「姉上なしに王位を継ぐと決めたのはヴィンセント王子です。それを自覚して、私に協力を求める謝罪の手紙の一つでもあれば、私も意地などはらずに殿下に手を貸す気が起きないでもなかったでしょうが、よもや反省の色ひとつなく、呑気に茶会を開いて非権門派閥ばかりを集めていると聞いて、私が殿下の味方をしなければならない理由がどこにあります?」
「……えぇ」
そうよね、と、エイネシアも口を噤んだ。
下手に王位争いなんて起こさないためにも、ヴィンセントにはしっかりと王太子としての地位を守ってもらわねばならない。そのためには、権門の子弟とのパイプをきちんと繋いでおいてもらわねばならない。
そうとわかってはいるものの、ヴィンセントにその気がない以上、エイネシアだってどうしようもない。
くしくもヴィンセントは今、自ら自分の立場を追い詰めつつある。
そのことに、果たして彼は気が付いているのだろうか――。
「今年の王国誕生祭は大変なことになりそうだわ」
とにもかくにも、頭が痛い話だ……と、ため息をつきながら手紙を置いたところで、チラリと、その隣の綺麗な箔押しの分厚い封筒が目に入った。
アレクシスの手紙と一緒に届いたものだが、差出人の名前はない。その代わり、封蝋に押された豪華な薔薇の印章が差出人名の代わりであり、そしてその印章は上王陛下のものだった。
中身はもう見てある。
王国誕生祭の中日に行われる大茶会に出席する必要がないということ。ただ『個人的に可愛い姪の子供達には会いたいので、前の日にちょっとしたお茶会を催すことにしました。遊びにいらして』という、一風変わった“招待状”だ。
現王妃エルヴィアが王宮を離れて久しい今、王宮の女主として権勢を誇るフレデリカに対し、引退したはずの上王陛下が自ら茶会を催す。この手紙はそういう意味だ。
あくまでも“ちょっとした”茶会であることが強調されていたが、しかし王国誕生祭に合わせて上王陛下が茶会を催すというのは、きっと王国史上でも極めて異例の事態だろう。確実に、フレデリカと、またフレデリカの主催する茶会への参加する予定の者達を牽制する意図があるに違いない。
これまで上王陛下は息子の側妃に過度な接触をしてこなかったが、ここにきてついに真っ向からフレデリカと対立する姿勢を示したことにもなる。
これでは国王陛下も板挟みで、お悩ましいに決まっている。
「エドはどうする? 私にはお断りできないものだけれど……」
エイネシアは、上王陛下がエイネシアへのお詫びを兼ねているというニュアンスを漂わせていることからも、きっと出席することになるだろう。
しかしエドワードはどうだろう。いかに王太子の態度に不満を抱き、背を向けた状態とはいえ、権門でありながら中立でもあるアーデルハイド家の立場上、あからさまにフレデリカ派と反目するような行動を周知させるのも問題なのではないか。
「いえ。私も上王陛下のお招きには預かるつもりです。母上からもそうするようにと言われています」
「でも……」
母はここの所すっかり反フレデリカ派なので、むしろ当て付けのようにそう言ったのではないだろうかと思ったが、意外にもエドワードがしっかりとした顔をして「それでいいのです」というから言葉を続けられなくなった。
ちゃんと考えて、そうすると決めたという事だ。
「殿下を……見限ったりなんて、していないわよね?」
「分かりません。正直この一年の動向は、かつての聡明な殿下とは思えない出来事ばかりで、混乱もしています。それに最近の情報も、何処から何処までが本当に殿下の判断なのか、ここからでは分かりませんし」
「そうね。かなり勢いを増しているというメイフィールドやシンドリーの暴走という可能性もあるはずだわ」
「けれど背を向けているのは私だけではなく、殿下の方もです。殿下がもしご自分の意志で私を“いらない”というのであれば、私はそのように振舞います」
「エド……」
本音を言えば、それでもエドワードには中立を貫いてほしかった。
そんなことを言ったらまたアンナマリアあたりに『貴女ってほんとお人よしね!』と叱られそうだが、しかし個人的な感情や同情といったものばかりではなく、この国の現状を客観的に見た上で、上王と側妃という対立構造に板挟まれている国王陛下、ひいてはこの国の治世のために、そう思っていた。
そもそも権門にとって現国王は、エルヴィア王妃という権門をないがしろにした王であるから、国王も権門に対して引け目を感じ、厚く遇さねばならなくなっている。
だがフレデリカやヴィンセントがその苦悩を知ることなく、非権門ばかりを厚遇し増長させ続けたならば、国王は辛い決断を下さねばならなくなる。
四公爵家を重んじ秩序を守ろうとする母、上王陛下か。
伝統を棄却し権門を排斥する我が子、ヴィンセントか。
ただでさえ心労の多い陛下にそのような重荷は与えたくなかったし、これによって政局が混乱するのも望ましくない。
そんな中、権門筆頭家格の一つであるアーデルハイド公爵家の当主ジルフォードは、権門の権勢を秩序として重んじながらも、従来の権勢にとらわれない積極的な優秀な人材の登用を促進してきた、中立派筆頭の人物でもある。権門でありながら中立であるジルフォードの存在が、悩ましい国王の御代をかろうじて保たせてきたといっても過言ではない。
だからエドワードにも極力その立場を継いでほしいと思っているのだが、しかし今現在、娘の婚約を破棄されたアーデルハイドはいささか微妙な立ち位置になりつつあり、一方のフレデリカ派も貴族院議員の買収を推し進め、政治への侵略……ひいては権門排斥を推し進めているという。
そんな情勢下、治世を安定させるためには、まず何より不安定になりつつあるアーデルハイドが今一度、断固たる中立を誇示せねばならない。
「そうは思わないかしら?」
その見解を端的にエドワードに述べたところで、「仰っている意味は分かります」とエドワードは首肯した。
「しかしそうして公爵家が静観を貫いた結果が、今のこの状況です。国王陛下には酷ですが、もし次期国王となる殿下が今の秩序さえ良しとしない方針であるのであれば、我々もこれまで通りでいるわけにはいきません」
「……ええ」
「私は、ウィルフレッド国王陛下が嫌いじゃありませんよ。その御代をお助けしたいと、心からそう思っています」
「私もよ。陛下は昔からちょっと頼りないけれど、とても朗らかで、まるでお日様のような方だわ」
「私たちが登城すると、いつも暖かく出迎えてくださいました。姉上は、膝の上によく乗せられていましたよね」
クスクス、と笑うエドワードに、エイネシアも顔をほころばせた。
懐かしい――小さな頃、ウィルフレッド王がまだ王太子と呼ばれていた頃は、宮廷内をチマチマと歩き回るアーデルハイド家の子供たちを、それはもう嬉しそうに出迎えてくださった。
時折子供たちに交じって遊ぶこともあって、よく側近に叱られたりもしていた。
つれないアンナマリアがちっとも抱っこさせてくれない、と憂えて、代わりにエイネシアを膝の上にのせてホクホク笑っていらっしゃることもあった。
そのあまり国王らしくない温厚な人柄は大きな仁徳であり、でもなんだかちょっと頼りなくて、『この人をお支えしたい』と思わせるようなものだった。
そんな王への忠心は今も変わらず、当然悩ませたいわけじゃない。
「ですが、上王陛下のサロンに招かれたことは、政局に慮って遠慮しないといけないようなことでしょうか? 我々はフレデリカ派に慮るために存在するのではなく、あくまで“中立”なんですよ? 我々の祖母の姉君でもあらせられる上王陛下のお招きを受けるのに、何の問題があります」
そう言われてみればその通りで、だがそう単純な話ではないことは勿論エドワードも分かっているのだろう。それでも、ことを単純化すればそういうことだ。
上王陛下はすでに、中立であるアーデルハイドを繋ぎとめようとの誠意をお見せになった。フレデリカ派は、それを求めてすらいない。ただただ、そういうこと。
「大丈夫です。もう私も、浅慮で行動したりなど致しませんから」
そう微笑んでみせるエドワードの面差しはとても頼もしかったけれど、だからこそ不安だった。
こんなにも気持ちが躊躇うのは……やっぱり、おかしいのだろうか。
楽しかったはずの小さな頃の思い出に引きずられて、不条理なことがあっても無償でヴィンセントを助けてあげてほしい、なんて。馬鹿な話だろうか。
でも関係がこじれたからといって簡単に背を向けられるほど、人間とは単純ではないのだ。
許嫁という立場を失ってなお、まだ楽しかったはずの幼い頃の情が残っている。
あの頃のように、と、そう一縷の望みを抱いてしまうのは、仕方がないではないか。
「どうか……殿下を見捨てたり、しないでね」
「ええ。姉上がそう仰るのであれば」
私だって、かつて友であった人が堕落してゆくところなど見たくありませんから、と。
そういったエドワードの瞳は、確かに少し悲しげだった。
でもその悲しみは、今のこの現状を憂えてのことだったのか。
それとも、すでに見据えている別の未来に対するものだったのか。
それを推し量ることは、この時のエイネシアにはできなかった。