1-5 登城(1)
翌朝目覚めると、おはようございます、と顔をのぞかせたやや幼さの残る面差しの少女に、あっ、と一気に目を開いて飛び起きた。
「おはよう、ジェシカ。よかった。謹慎は明けたのね」
はい、と微笑む彼女は、一週間前よりも少しやせただろうか。
謹慎中は日中黙々と反省文を書く事しか許されず、食事も制限されるというから、きっととても衰弱していることだろう。少しでも親しい乳兄弟を煩わせぬようにと、自力でベッドを降りようとする。
だがそうして体を起こしたところで、ぎゅうっ、と腰に抱き着いてきたぬくぬくほっかいろ……もといエドワードに、あぁそうだった、と傍らを見た。
「まぁ、エドワード様。どうしてこちらに?」
この一週間でのエドワードの変わり様を存じていないジェシカが目をパチパチと瞬かせるのも当然で、これにはエイネシアも困った顔で、「色々とあって」とだけ答えておいた。
説明は……むしろエイネシアの方がしてもらいたいくらいだ。
「エレノアを呼んできて。お父様に見つかる前にお部屋に帰さないと」
もう少しゆっくりと寝かせてあげたいが、生憎そうはいかない。若様がいない、とエドワード付きの侍女達が騒ぎ出す前に帰さねば。
かしこまりました、といってお嬢様の為の朝のハーブティーを一杯準備してから去ってゆくジェシカは、本当に侍女の鑑だと思う。
どうして今日の気分が紅茶じゃなくハーブティーだと分かったのだろうか。
それもスッキリと爽やかなレモングラスだと。
エイネシアが新入りの侍女に厳しいのは、侍女の基準が超人ジェシカさんだからに違いない。
こうして超絶可愛い寝起きエドくんをお部屋に帰すと、ネリーもやってきて、いつもより念入りに準備を整えてくれた。
いつもなら横着して、ブラシの途中で面倒になってさっさと立ち上がってしまうのだけれど、今日はきちんと鏡の間でうずうずするのを我慢する。
ドレスもいつもの身軽な型のものではなくて、流行りのレースを袖や裾に適度にあしらった仕立てたばかりのものを。首元のフリルがわっさわさで、ブローチがずっしりと重たかったけれど文句は言わない。
結わえた髪には大きなコサージュリボンを。普段はしまってある大切な“ご印章”の刻まれた指輪を、その小さな指に。少女のつやっつやの玉のお肌には、ほんのりと頬紅とあわいグロスだけをのせて。こんなことされたら朝食が食べれなくなるじゃないか、なんて言葉も、今日は胸の内にしまっておく。
そう。何しろ本日のお嬢様は、朝から登城して女王陛下に謁見。王子様に先日のお見舞いのお礼を述べに行くという一大イベントを抱えているのだ。
謁見はお昼前なのでもっとゆっくり仕度しても良いのだが、一人で登城させるのはまだ不安だという母の提案により、朝から仕事に向かう父と一緒に登城することになっている。それがせめてもの救いだ。
朝食は緊張で喉も通らなかったけれど、お城で無様にお腹を鳴らすわけにはいかないからと必死に詰め込んだ。
そうして最後に、ジェシカの淹れてくれた紅茶で一度寛いでから、玄関に向かった。
◇◇◇
広い屋敷の中で最も縁がないといって過言ではない玄関では、すでにいつもと変わらずピシッと身支度を整えた父が執事と書類を片手に小難しい話をしていて、気持ちばかり急いで階段を降りた。
いつも思うが、この無駄に格式高い立派な階段の手すりは、立派過ぎて小さな少女の手にはまったく意味をなさない。足のもつれるドレスでここを降りなければいけない少女のことも考えて設計してほしいものだ。
そんな苦言を胸の内に秘めながら降りたところで、「おはよう、エイネシア」と、相変わらず通りの良いバリトンボイスが声をかける。
三十の後半という年になっても、全く衰えぬ美貌と、はたまた老人のような重々しい威圧感。この年で一国の宰相を担っているのだから、その人の非常識ぶりは娘にだって良く分かる。
こんな父を見て育ったら、さぞかし男を見る目は厳しくなるに違いない。
「おはようございます、お父様。お待たせして申し訳ありません」
「いつもより早いくらいだ。問題ない」
そうレディへの気を利かせながらも早々と書類を執事に返した父は、せかせかと玄関ドアを目指した。
フットマンの開いた扉の向こうに待ち構えていていた馬車は、まるでお伽噺に出てくるような立派な金のオルモルと白の馬車で、白百合の紋章が入ったものだった。
白はアーデルハイド家のファミリーカラーであり、お屋敷には何かと白と淡いグリーンの装飾を基調としたものが多いが、その可憐な配色と瀟洒なデザインの馬車は、とりわけメルヘンチックだった。
父には超絶似合わない。
そんな馬車にネリーの手を借りて乗り込み、父の斜め前に腰を下ろすと、早速謁見マナーのおさらい、もといプレ試験が始まる。
「入室したらまずどうする?」
「立礼して、中ほどまで足を進めてから、跪礼します」
「跪礼をしたら次は?」
「陛下からお声がかかるまで頭を下げたまま待ちます」
「お言葉に答える時は?」
「最初に、“女王陛下にお答えします”と付けてから話します」
「退出する際はどちらの足から?」
「左足をひいて立ち上がり、二、三歩頭を引いたまま後ろ向きに下がってから、反転して退出します」
そんな幾つもの問答の後で、二十問目ほどになったところで、馬車は速度を緩めて最初の城門を潜った。
以前は教会から直行だったので分からなかったが、本当に公爵家は城から目と鼻の先にあるのだ。十分もかからなかった気がする。
最初の城門を潜ってすぐの所にも馬車寄せのアプローチがあったが、公爵家の馬車はそれを横目にさらに奥まで馬車を進める。
このあたりは外庁で、各所役人が国の運営のためにと日々働く役所が立ち並んでいると聞く。
二つ目の城門をくぐると、ここから先は外廷だ。国王が儀式典礼を行なう礼殿や賓客をもてなす客殿の他、正面には政治を担う貴族達が務める官庁や議場を収める政殿がそびえ建ち、そのトップに君臨する宰相の執務室もこの政殿の最奥部に所在している。
王宮はこの他、外廷の奥に内廷。更に奥に内宮と、およそ四段階で構成されており、貴族はその三つ目、内廷まで出入りすることが出来るわけだが、日々王家のサロンや茶会を催す女主がいない今の王宮では、せいぜい国政を担う貴族達が外廷に集うくらいだ。
外廷政殿はそうした王宮の“表の顔”ともいえる場所であるから、アプローチの正面に停まった馬車から宰相閣下が降りたつと、入り口を固めていた近衛達が一斉に剣を掲げて礼を尽くした。
その物々しさには思わずエイネシアも怖気づいたが、父がまったく構うことなく歩き出すものだから、あわてて後を追いかけた。
そうして立派な石造りの玄関口をくぐると、次の瞬間にはもう、何処からか年若い青年が父の元へ駆けつけてきて、挨拶もほどほどに一日のスケジュールの確認をはじめた。
父はそれを耳に入れつつ歩を進めるのだが、三歩歩くたびに誰かしらが声をかけ、何々の案件についてだの、何々の予定はどうかだのと、宰相閣下が執務室に閉じこもる前にと競うように今日の謁見の申し込みをしてゆく。
そして宰相の傍らの秘書官に時間と順番を割り当てられてほっと一息ついた彼らは、ようやく宰相閣下の後ろを着いて歩いている少女に気が付き、すぐに恭しい礼を尽くして、「おはようございます、姫君」と挨拶をした。
エイネシアには彼らが一体どこの誰なのかなんてちっともわからなかったけれど、彼らは当然エイネシアが公爵家の娘だと分かっているわけだ。そこには、やがてこの王宮に住まうことになる者への期待の眼差しが含まれており、エイネシアはその期待にまったく恥じることなく、「ご機嫌よう」と微笑んでみせた。
笑う時は相手の目を見ず、控え目に。決して歯を見せず、おしとやかに。歩く時は軽く手を重ね指先を隠し、歩幅はドレスの裾から足先が飛び出さない程度に。でも意識し過ぎてカチカチになっては意味がないから、出来るだけ自然体で、俯かないように堂々と。
家で散々叩き込まれたことを思い出しながら、脳をフルに働かせて慎重な動作をとるエイネシアに、気が付いているのかいないのか、父の歩みはとてもゆっくりとしていて、テキパキと声をかけてくる彼らの用件をこなしながらも、じっくりと時間をかけて一番奥の一番立派な扉へと入って行った。
お陰で扉をくぐる頃には、宰相閣下が一日でこなせる謁見の予定はとっくに満杯になっていて、まだ始業時間前にも関わらず、「本日の受け付けは終了いたしました」と言う秘書官の手によって、扉はかたく閉ざされてしまった。
その容赦のない仕打ちに、あぁぁ、と、扉の向こうで沢山の人達が項垂れる気配がしたのは……見なかったことにしようと思う。
◇◇◇
執務室には、すでに宰相府付の書記官という、いわば高官見習に当たる職に就いている若者達が(と言っても父は宰相にしては若すぎるので、父より年上の人もいるが)集まっていた。
彼らは父が顔を見せると恭しく礼を尽くし、次いでここに至るまでの間に秘書官がまとめた一日の閣下のスケジュールを受け取ると、すぐにもそれに則した仕事の準備をはじめた。
一方で、王宮侍従のお仕着せを来た、エイネシアよりほんの少しお兄さんな少年達が、すかさず閣下の上着を受けとり、席に腰かければお茶を淹れ、書類と筆記具を整理してと、まるで流れる水のように少しの無駄も無く働く。
朝一番だからなのか。それとも父のせかせかが伝染してしまったのか。それは驚くほど慌ただしい光景だった。
手持無沙汰なエイネシアは暫くそんな中にポツンと立ちすくんでいたのだが、すぐにも有能そうな秘書官が「こちらへどうぞ、姫様」とソファを勧めてくれて、侍従の少年が暖かい紅茶とたっぷりのミルク、最高級品の蜂蜜を用意してくれた。
至れり尽くせりだ。
けれどそんな気楽な時間はそう続かなかった。
間もなく、色々な部署のお役人……おそらく貴族であろう紳士達が、入れ代わり立ち代わり執務室を訪ねてくるようになると、そんな彼らへのご挨拶に追われた。
来客は暇をつぶすには有難いが……これはこれで、苦痛なのだ。
なにしろ、一度会った人物を忘れるというのは、貴族社会における最大の無礼であるから、自己紹介されたら、即座にその顔と名前を覚えなければならない。なのに皆計ったように似たような恰好をしているのは、何故だろうか。皆もっと、個性を大事にした方がいいと思う。
さらに父が時折、「先ほどの侯爵は財務大臣」とか「先ほどの侯爵の夫人はうちの遠縁」とか色々な情報を付加してくるものだから、もはや頭はパンク寸前だった。
そんな状況が三時間足らず。もう限界、というところで、朝から何かとエイネシアの様子を見てお茶やお菓子、手慰みの本などを持ってきてくれていた気の利く少年侍従が、「女王陛下がお呼びです」との声を掛けに来てくれた。
謁見の予定時間よりは少し早かったけれど、少しも時間を無駄にすることなく席を立った父に、エイネシアも気持ちばかり頭のリボンを調えてからパッと立ち上がり、一緒に部屋を出た。
内廷に入ってさえしまえば、多少は気が抜ける。
ここから先にもまだ貴族達はいるが、数はずっと減るし、それに見慣れた顔も増える。
そもそもエイネシアは登城に慣れていないというだけで、女王陛下とはかなりの面識があるのだ。
陛下の姪である母はそれこそ陛下に実の娘のように可愛がられており、母はしょっちゅう陛下によばれて登城しているし、土産話も聞かされている。
また陛下は夏になると郊外の離宮で避暑をなさるが、昔からこの避暑には陛下の妹……エイネシアの祖母もご一緒するのが慣例で、エイネシアも母と共に毎年この離宮を訪れた。
そこで過ごす数日間は、女王と臣下の娘ではなく、祖母の姉と妹の孫という関係にほかならず、なにより祖母も母も女王陛下と本当に親しげに家族のように話すので、エイネシアもすっかりとそれに慣れているのだ。
当然礼儀は忘れないが、女王陛下にお会いするという事自体には緊張はない。
だから奥へ進めば進むほどに緊張は解け、謁見の間の前にたどり着くころにはすっかりと肩の力も抜けていた。
謁見の間の扉が開いても、そんなに緊張はしていなくって、今朝父とおさらいしたばかりの儀礼通りに足を運ぶことができた。
しかし案の定、中ほどまで足を進めて跪礼しようとしたところで、「まぁまぁ、良く来たわね、シア」という陛下のほがらかなお声に、儀礼通りの手順は阻まれてしまった。
これには思わずはたと顔を上げてしまったが、それを誰かが咎めるよりも早く、「さぁもっと此方へ来て」と促される。
宰相という地位にある父は早々と跪礼だけ済ませて上座の方へ向かい立っていたから、そちらを窺って指示を仰いだところ、父は一つ頷いて仰せの通りにするようにとの合図を送ってきた。なのでドレスの裾を摘まんで一度丁寧な礼だけしてから、上座のすぐ手前の階下まで歩み寄った。
そこで今度こそ跪礼をしようとしたけれど、席を立った陛下が「もっと顔を良くお見せ」とエイネシアの手を取って顔をあげさせたので、またも礼をしそこなってしまった。
どうしよう。困った。
「陛下。娘に礼を失する行いを取らせないでいただきたい」
しかめ面をした父がすぐにもピリッとした声をかけたけれど、ただ少女のように口をとがらせた陛下は、「まったく貴方ときたら、本当に融通が利かないのだから」と逆に父を窘めた。
父の女王陛下にすら物怖じしない態度は想像通りだったが、陛下の砕けた仰り用にはエイネシアもいささか驚いた。
そういえば、陛下と母が話しているところは何度も見たことがあるが、陛下と父が話しているところを見たことはほとんど見たことがない。もっと堅苦しい関係を想像していたから、まるで母親のように父を諭す陛下の口調がなんとも不思議だったのだ。
まぁ、国王と宰相。王とその右腕なわけだから、このくらいの関係であるのも当然なのかもしれないが。
「もう十年もすれば、シアは私の孫になるのですもの。構わないじゃない。ねぇ」
そう言う陛下はおもむろにエイネシアの頭を見やって、少し眉尻を下げながら、本日の本題である「怪我はもう良いの?」とのお言葉を仰った。
「はい。ご心配をおかけいたしました。もうすっかり良くなりました」
本題を口にできたことに安堵しながら、そうして僅かに前髪を掻き分けて見せたら、「良く見せて頂戴」と、陛下が自ら前髪を掻き分けた。
「よかったわ。傷は塞がっているようだし、火傷もないわね。可愛いお顔に傷が残ったら可哀想だもの。ちゃんと治療をしないと……。あぁ、やっぱりあの侍女。もっと重たい罪にしてあげればよかったわ」
そう舌を打った陛下には、「陛下……」と、父が厳しい声をかけた。
これにはエイネシアも失笑するしかない。
そんなことをされたら目覚めが悪くて仕方がない。一応エイネシアの物言いにも非があったわけだから。
「あぁ、こんなところで立ち話も何だわ。少し早いけれど一緒に昼食に致しましょう。それから午後にはお庭を案内してあげるわね。シアはまだ登城は二度目だったわよね。私が手ずからお世話しているお庭が有るのよ」
それがいいわ、そうしましょう、と、女王陛下はエイネシアの背を押して謁見の間を出ようとしたが、それには再び、「陛下」と呼ぶ父の恐ろしい声が背中に響いた。
「今日は隣国アスタリット皇国の使者との昼餐会。午後からは謁見が七件。それと先日ご報告した灌漑設備の施工順序に関する意見書のご返答がまだだったはずです」
そう聞くや否や、ぎくり、陛下の指先がエイネシアの肩の上で跳ね上がった。
「昼餐会は……そうよ。貴方がやればいいじゃない。謁見だって、皆貴方に自分を売り込むために来ているのだから、貴方が……」
「陛下」
三度目の厳しい声色には、陛下もついに、ハァ、と重々しいため息を吐いた。
「いやだわ。もうさっさと息子に王位を譲ってしまおうかしら」
「六十歳までやると仰ったのは陛下です。その予定で四年後までびっしり予定を組んでありますので、くれぐれも前触れなく譲位や大病などなさらぬように」
「待って、ジル。病気は仕方がないのでは?」
そう言った陛下にも、父の冷徹マスクはちっとも揺るがなかった。
うむ。父は子供の躾に厳しい人という印象だったが、これからはその印象を改めようと思う。単純に、すべてにおいて厳しい人だった。
そんな父に今一度ため息を吐いた女王陛下は、仕方なくエイネシアから手を離すと、かわりによしよしと頭を撫でる。
「仕方がないわね。怖い怖い宰相さんが見張っているから、私は今日も馬車馬のように働かないと」
そんな物言いでチラリと恨めしそうに父を見た陛下だったが、やはり父は微塵も揺るがなかった。
「シアはこれからヴィンセントに会って行くのでしょう?」
「はい。先日お見舞いいただいたお礼を言いに」
「仲良くしてくれて嬉しいわ。どうぞゆっくりしていってちょうだいね」
そう声をかけて貰ったところで、コンコンと扉を叩く音が鳴り響く。
重たく重厚な、謁見の間を彩る大扉からは想像もできないような、軽やかなノック音。
その音に、扉脇の侍従が、僅かに扉を開けて外を伺う。
はて。陛下への謁見は陛下の秘書官が、その時間と取次を管理しているはずなのに、謁見の最中に来客とは何事であろうか。それも不思議だが、取次に出ていた侍従がすぐに退いて深く一礼するのを見てエイネシアはさらに首を傾げた。
陛下の許しも待たずに扉が開かれたということは、王太子殿下でもいらしたのか。
だが間もなく視界に飛び込んできたのは王太子ウィルフレッドよりはるかに小柄で年若い少年で、その予想外の風貌に、思わず目を瞬かせてしまった。
ゆるりと着込んだ上等の服。
ふわっとしたお日様色のクリーミーブロンドに、うっとりと優しげな面差しをした男の子。
陛下の許可を得ずに入室したということは王族だ。
しかしウィルフレッドでもなければ、ヴィンセントでもない。
年の頃は十一、二歳。ヴィンセントよりは年上のようだが、エイネシアの記憶にはない人物だった。
ただわっと目を奪われるようなとても綺麗な顔立ちをしていて、エイネシアにニコリと微笑みかけた微睡むような面差しは、なんだかチカチカと眩しいくらいだった。
だがそれよりなにより気になるのは、そんな王子様みたいな装いの少年が、何故かその手にごっそりと“野草”を握っていること。
似合わな過ぎる……。
「まぁアレク。採ってきてくれたの?」
「ええ。ハインが薬園にいたので、すぐに見つかりました」
そう言って歩み寄ってきた少年は、どうやら薬園で摘み取って来たらしいというその野草を、ハイ、と、陛下……ではなくエイネシアに差し出した。
エイネシアもつい反射で受け取ってしまったが……なぜに野草なのか?
「こっちの丸い葉は、乾燥させて粉にしたものを水で溶いて朝晩二回傷口に塗ったら、傷口を綺麗にしてくれるからね。こっちの小さな葉は炎症止めの効果のある葉っぱだよ。蒸してお茶にして服用するんだけど、とっても苦いから、蜂蜜や甘く煮たミカンの皮なんかと一緒に淹れると良い」
その言葉に、エイネシアは今一度目をしばしばと瞬かせ、それからようやく、はっとして顔をあげた。
なるほど。これは要するに薬草で、陛下のお計らいでこの少年がわざわざ王宮の薬園から取ってきて下さったのだ。
この国で最も豊富な薬草が揃っているという、この国最高峰の薬園から。
だからすぐにドレスの裾を摘ま……もうとして、手がふさがっているのに気が付いたので、薬草を胸元に持ったまま、「お心遣い有難うございます」と会釈した。
するとその下げた頭が、ポンポン、と優しい掌に撫でられたものだから、驚いて顔を跳ね上げた。
公爵家の令嬢にこんなことをするとは……何者なのだろうか。
「綺麗に治るといいね」
そう微笑む、うっとりしそうな穏やかな声色が、何やら心地よい。
この声を聴いていると、なんだかふわふわとしてしまう。
「アレクシス様。娘を甘やかされては困ります」
「あぁ、また。ジルは子供にまで厳しいのだから。女の子はもっと可愛がって甘やかしてあげなくては」
「うちの子には不要です」
相変わらず手厳しい父の物言いに、やれやれと肩をすくめた少年……アレクシスというらしいその人は、こそっとエイネシアの耳元に口を寄せると、「城にいる時の君のお父さんは女王様より怖いんだ」と茶化すように言った。
その言い草がおかしくて、エイネシアも思わず、ふふっと顔を緩めてしまう。
その様子に安堵したのか、ニコリと一つ微笑んだ少年は、少女の手に握らせたむき出しの薬草を見ると、「あぁ、気が利かなかったね」と侍従を呼び寄せ、「包んで公爵家の馬車に」との指示を出した。
なので促されるままにそれを侍従に手渡したが、すぐにも手に残るほんのりと甘い匂いに気が付いて、こそこそと鼻を引くつかせた。
「ごめんね。匂いが付いてしまったかな?」
そうすぐにアレクシスが謝罪を口にしたけれど、え? と一度首を傾げたエイネシアは、間もなく、「あ、いえ、違います」と慌てた素振りで首を横に振った。
いかんいかん。好奇心が先んじて、思わず令嬢らしからぬ行動をとってしまった。
「ただ、苦いとおっしゃったのに、甘い香りがするので、気になって。ニメイスの葉っぱも似たような匂いがしますが、あれはもう少し大きな葉っぱですし……」
うーん、と考え込んだ少女に、今度はアレクシスの方が、おや、と目を瞬かせた。
「シアは薬草に興味が?」
「あっ」
その指摘に、しまった、と口を噤む。
勉強の合間に自宅の庭の一角にある薬園に通うのはエイネシアの日課で、家お抱えの薬師からは色々と教えてもらっている。
だがよもや陛下の御前で、徹底的な令嬢教育を受けているはずの娘が、家の薬園で土いじりにはまっています、なんて失言しようものなら、父の整った眉がピクリと山のように吊り上がることは間違いない。
だからあわあわと口を噤んだのだけれど、ちょっぴり頬を赤くして俯いてしまった少女に、なるほどなるほど、と苦笑した少年は、どうやらそれだけで察してくれたらしい。
「今日はハインが……グレンワイス大公家のハインツリッヒ卿が登城しているから、何なら案内をしよう。彼は医学にも薬学にも詳しいから、その疑問にも答えてくれるはずだ」
「まぁ、アレク! 私の可愛いシアに、ハインツの小難しい葉っぱの講説を聞かせるつもり? どうせなら私のお庭の可愛いお花を見せてあげて頂戴」
そう腰に手を当てて仰った女王陛下に、「あ、そっか!」と言う彼は……要するに、何者なのだろうか。
グレンワイス大公の名は知っている。
大公というのは王族に与えられる位で、王家直系から三世限りの爵位である。今は二世王族グレンワイス大公家と、同じく二世王族のロッドワイス大公家がある。
そんな王族の子が、何故に薬園で、薬学やら医学やらに造詣深くなるのだろうか。
そしてそんな大公家の子を呼び捨てるこの人は、何者なのだろうか。
「お花も見たいですが、薬草にも興味が有ります」
無礼は承知ながらも好奇心には勝てやしない。
意を決してそうこそっと呟いたら、まぁまぁ、と、女王陛下がおかしそうに笑った。
「好奇心旺盛なところはベティにそっくりだわ。もっともあの子は昔からなんにでも駆けていって、こんなに可愛らしく慎ましやかな反応はしなかったけれど」
ベティというのは陛下の妹のアンナベティ王女殿下。エイネシアの祖母の事だ。
今では足を悪くしているせいか、庭先でのんびりと編み物などしている姿が印象的な落ち着いた方だから、すぐに駆けてゆく好奇心旺盛な王女様というのは不思議な感じだった。
「広い知識に関心があるというのは素敵なことだわ。アレク、許可を出しますから、あとで王宮の図書館にも連れていっておあげなさい。ハインが来ているということは、どうせあの子も図書館に引き籠っているのでしょう?」
「それはいいですね。シア、ここの図書館はすごいんだよ。最新の学術論文から料理まで学べるんだから」
「お料理?」
いやまぁ。悪いとは言わないが。
王宮の図書館ということは、許可ある者と王族しか立ち入れない大図書館のことだろう。そんな絶対に料理の必要性のない人達が通う図書館に、料理本というのは……はて。誰が収蔵したのかがものすごく気になる。
そうニコニコと賑わう女王陛下とおっとりと会話を楽しむ不思議な少年に、一体その雑談がどのくらい続いたのか。まもなく、ハァァ、という父の重たいため息が、あっ! と、二人の口を一瞬で噤ませた。
なんという重たい溜息か……。
「陛下。それから殿下。お二人が揃うといつもこうなのですから……」
「まぁ、やぁね。この場の雰囲気に流されて、もう一度“立ち話なんてなんですから”の流れになることを期待してなんて……いないわよ?」
絶対に期待していたであろう女王の物言いに、ピキ、と父の眉間にしわが寄ったのを見て、陛下は慌ててエイネシアから距離を取って居住まいを正した。
なるほど。“女王様より怖い”、か。
「王宮図書館への出入りの件は、有難うございます。幼少よりあそこで学べることは、娘にとって必ずや良い経験となるでしょう。ただアレクシス様……」
うーむ、と、一つ父は眉間を指先で揉みほぐして。
「お恥ずかしながら我が娘は、一度本を読みだすと寝食を忘れる始末……。くれぐれも日が暮れる前にはつまみ出していただかねば、閉門時間も忘れて図書館に泊まりかねません。司書にはくれぐれも留意するようにと……」
「あぁ、ジル。駄目よ、駄目。アレクはすでに過去七度、時間を忘れて図書館に閉じ込められた前科があるから」
「……」
二つの不審気な瞳に晒されて、え、あっ、とアレクシスが困った顔できょどきょどとする。
「嫌だなぁ、陛下。昔の話ですよ。大丈夫。その七度の行方不明事件のお蔭で、今いる司書は閉館チェックがとても厳しいんです」
というその人には、陛下も呆れたため息を吐いた。
「まぁいいわ。アレク。まずはシアをヴィーの所へ連れていってあげて。折角だから、内廷の案内もお願いするわ。あぁ、いえ、これは許嫁であるヴィーに頼むべきね」
「承知しています。ヴィーにはよくよく伝えますので、私に任せてください」
というかそろそろ退出しないと、先程から後ろで宰相が時計を鳴らして痺れを切らしていますから、という。
せっかちな父で申し訳ない。
「ではシア、また是非遊びに来て頂戴ね。あぁ、今度はお茶をしにいらして。とっておきのお菓子を用意しますからね」
「有難うございます、陛下。それでは御前を失礼いたします」
そうちょこんと丁寧な一礼をしたところで、ホウ、と、僅かに父の面差しに安堵の顔が浮かんだ。
そんなに時間がおしていただろうか。
「まったくもう、貴方って本当にせっかちね」と父の肩を叩きながら謁見室の奥へ下がる陛下を見送る間、エイネシアはついハラハラしてしまったけれど、隣の“殿下”とやらは、ハハハとおかしそうに笑っていらっしゃった。
あれはいつもの光景なのだろうか。
ちょっと父の印象が変わった。