3-5 紫の薔薇(2)
さぁ出掛けよう、となったところで、「あら出掛けるの?」と声をかけた母が、突然エドワードの袖をがしりと引き止めた。
「……あの。何か? 母上」
「もう。野暮な子ねぇ」
そうため息を吐くエリザベートは、首を傾げるエイネシアにニコリと微笑んで見せる。
「ちょっとエドワードにお願いしたいことがあったの。借りてもいいかしら?」
「私は構いませんが……あの。エド?」
そう困惑気にするエイネシアに、エドワードはひとつ眉を顰める。
「しかし母上……いくら領都とはいえ……」
「殿下もリカルドもいるのだから大丈夫よ。無粋なことはおよしなさいな、エドワード。そんな気の利かない子に育てた覚えはなくってよ」
「母上……」
ハァ、と深いため息を吐くエドワードの様子は気になったけれど、仕方なさそうにエドワードが頷くのを見ると、要するに今日は弟はお留守番ということだろうか、と判断する。
それは少し不安だけれど、町中に慣れているアレクシスがいるから、何とかなるだろうか。
「すみません、姉上。くれぐれもお気をつけて」
「残念ね、エド。また今度は一緒に行きましょうね」
そう声をかけたところで、顰め面をしていたエドワードの顔がほころんだ。
「殿下。“くれぐれも”、姉を変な所へ連れて行ったり、一緒に行方不明になどならないでくださいよ」
「ははは。信用ないんだね、私は」
「ええ。色々な意味で」
そうきっぱりいう弟もどうかと思うけれど、自業自得だとも思う。
かくしてエイネシアは、アレクシスに監修してもらったちょっと良いところの商家のお嬢さん風の装いに、髪にはブラウンのウィッグもつけて、前回よりもはるかに見事な偽装を施され、教会の馬車から、すっかり慣れた様子で先日のくたびれたブラウンのコート姿になったアレクシスの手を借りて町に降り立った。
教会の前で降りたからそれなりに人目はあったけれど、以前のように一瞬で身分がばれる、という様子はなかった。
さすが……偽装のプロでいらっしゃる。
「あぁ……いつもこうやって私は殿下にまかれていたわけですね……」
そう嘆いているリカルドには、アレクシスが慌てて背を向けた。
「さぁ。まずは何処に行こうか。やっぱり春祭りの中心と。でも祭りの間は物価も変動しているだろうから、普通の店舗も見て回って、食品関係は聞き込みもした方がいいね」
仕事のあるヴィヴィとは教会で別れて、早速目的地が分かっているのかいないのか、迷いなく歩き出したアレクシスに手を引かれて、エイネシアは慌てて歩き出す。
何だか当たり前みたいにエスコートされて、ビックリしてしまった。
じんわりと掌に伝わる熱。
大きな、掌。
それをじっと見ていたら、「あ」と、気が付いたようにアレクシスもその手を見た。
「いけない。またつい……あぁ、でもはぐれたから困るし。もうヴィーに遠慮する必要はないのだから、いいよね?」
そう言われて、ふと、八歳のあの日、アレクシスに最初に会った時のことを思い出した。
そうだ。確かあの時も、ヴィンセントの所に案内をしてもらうことになって、手を差し伸べられたのだ。
でもその時はすぐにはっとした顔でその手はひっこめられた。
エイネシアがヴィンセントの許嫁であったからと、気を利かせてのことだった。
でももう、その手を取っても誰からも何も言われない。
言われないのだ。
「もしかして私、とても子供扱いをされています?」
「ふふっ。シアは昔も今も、可愛い妹のようなものだよ。それに危なっかしくて、捕まえていないとふらふらといなくなってしまいそうだし」
「それを言うならアレク様の方ですわ」
思わずそう呆れつつ、なんだか子供のように手を引かれて歩き出す。
そのアレクシスの歩みはとてもゆったりとしていて、エイネシアの歩みにあわせてくれていることにはすぐに気が付いた。
人通りが多ければさりげなく肩を引き寄せてくれて、石段があれば「気をつけて」と声をかけてくれるその様子は、紳士というよりも何だか本当に子供扱いされているといった様子で、でもそれが、これまでずっと気丈としないとと張りつめ続けてきたエイネシアには心地が良かった。
ヴィンセントにこんなに優しく手を引いてもらったことなんて……と少し切なくなってしまうのは、まだ未練があるからなのだろうか。
春祭りの様子はアゼッタの町とあまり変わらず、すでに祭りが三日目とあって教会での仰々しい儀式こそなかったが、相変わらず町中には精霊の格好をした子供達がいて、百合の花を配り歩いていた。
しかも遭遇する度に百合の花を差し出されるものだから、いつの間にやら花束が出来そうなくらいになってしまった。
それに困っていたら、「貸してもらえるかな?」と花を一本抜き取ったアレクシスが、クルリと輪を編んで。それから一本、また一本と手から百合を抜き取っていって、あっという間に百合の花冠を編み上げてしまった。
「まぁ……何処で覚えたんですか? アレク様」
「小さな頃、アンによくせがまれてね。上王陛下に教えていただいたんだ。あぁ見えて陛下の指導は中々厳しくて……私はもはや花冠編みのプロだよ」
そんなことを言うアレクシスが本気なのか冗談なのかは分からなかったが、しかし大きさの違う百合をとてもバランスよく仕上げた腕前は、確かにすばらしい物だった。
「はい、出来たよ」
そうして編み上げたものが、ふわり、とエイネシアの頭に被かれて、はた、とエイネシアは自らの髪に触れる。
「私に頂けるのですか?」
「嫌なら……仕方ない。リックに……」
そうチラと護衛に徹しているお目付け役を向いて言ったアレクシスには、リカルドが目くじらを立てた。
流石にエイネシアもそんなことは望んでいないから、クスクスと笑いながら、「喜んで私がいただきます」としっかりと花冠を髪になじませる。
途端にふわりと体が百合の香りに包まれる。
なんて心地よいのか。
「あぁ。春の女神エッタのようだね」
そんなエイネシアに、当たり前のようにそんなことを言ったアレクシスには、途端にかっと頬が赤くなって、俯いてしまった。
ただの百合の花でしかないはずなのに、一つ一つ器用にそれを編んでいったアレクシスの指先の気配がむずむずと感じられてしまって、くすぐったい。
なぜこうもこの人は当たり前のように私を甘やかすのだろうか。
「さぁ。女神さま、お手をどうぞ。次は店舗の方へ行こうか」
そう差し出された手に、おずおずと再び手を重ねて、それから少しずつ祭りの中心を離れて、店舗街へ向かった。
広々としたマーケットではジャガイモやリンゴの値段。油の値段などを確認してゆく。
エイネシアも勿論、書類上はそういった物価の変動にも目を通しているが、実際に歩いてみれば、「まとめ買いなら安くするよ」とか「もうちょっとまけておくれ」なんて言葉が飛び交っていて、どのくらいまで値段を落とせるのか、という参考になった。
なるほど、これは実際に歩いてみないと分からないことだ。
「アレク様はいつも、こんな光景を見て歩いておられたんですね」
「領地によって雰囲気も違うけれど。今まで歩いて一番賑やかだったのはラングフォード領だね。あそこの領都は本当に賑やかで活気があって、むしろ喧噪というに近かったな」
「ラングフォードの領都は国内でも有数の一大貿易港ですものね。領主の居城が領都ではなく郊外にあるというのもあそこならではです」
「私もあそこは嫌いではないけれど。町並みという意味では、アーデルハイドが一番好きかもしれないな」
「あら。お世辞ですか?」
「いや、本心でだよ」
そう言うアレクシスは、例えば、と左右に並ぶ同じデザインの町並みを見やる。
「やはりこうした統一感のある作りは歩いていて気持ちがいいよね。それに店舗もどこもかしこもアンティークで、歴史のある所領にしかない独特の雰囲気を築いている感じがする。住人達がそれを誇りに思って維持してきたというのも、魅力の一つだろうね。そこかしこに職人のこだわりがあるところもいい」
「アレク様は職人好きですものね。でも私も、この古風な雰囲気は気に入っています」
どこか少しおっとりとして、例えるなら暖炉のような町。
石畳の道はどこか寒々しいけれど、けれど一歩中に入れば暖かい。
そんな町だ。
「アン王女へのお土産はやっぱり細工物ですか?」
「そうだね。アンが好きそうなものって何かな?」
一通り店舗も見終わったところで、自然と足は職人街へと向く。
エイネシアもアレクシスが(正確にはリカルドが)届けてくれたアンナマリアからの手紙と贈り物を受け取って、お返しも兼ねて何かお土産を買って帰ろうとは思っていた。
「綺麗な物や可愛い物。案外、伝統工芸的な物もお好きですよ。あぁ。アーデルハイド領の名産なら、やはりガラス細工でしょうか」
そう言っている内にも、「あぁ、ココとかいいね」と、アレクシスが早速一つの店に近付いてゆく。
領都の店舗は基本的にどれも同じ形をしている。表は防寒対策のためにしっかりと壁が覆っていて、小ぶりな出窓のショーウィンドウが一つ。床は積雪対策のために高床になっており、二、三段の階段と、それに雪景色の中でも目立つ青や茶に塗られた扉がある。
だがアレクシスが近づいたのは、珍しく大きなショーウィンドウのある店舗で、大きなガラスには幾つもの色ガラスがはめ込まれ、中にも沢山のキラキラとしたガラス細工が置かれてる店だった。
所謂“ガラスペン”の店舗で、大きな窓から見えるアンティークな鉄柵のランプなど、雰囲気も抜群によい。
立ち入れば奥には新聞を広げたおじいさんが一人いて、チラと客に目をやると、「おや、女神エッタのお出ましだ」と少し顔をほころばせた。
それにはエイネシアがちょっと恥ずかしそうに肩をすくめたけれど、「見せていただきますね」と気にすることも無くアレクシスが戸棚に吸い込まれてゆくのに流されて、すぐにエイネシアもそちらに気を移した。
途端に、ほぅ、と、思わず嘆息が零れ落ちる。
古い古色の棚にきらきらと並べ置かれた沢山のガラスペンやインク瓶。
氷菓子のようにキラキラと素敵な小さなピアスや髪飾りなども机には並んでいて、もはや宝石のようだった。
エイネシアも領地の特産とあってガラスペンやガラス細工は沢山持っていたけれど、しかし店舗に来たのは初めてで、ここまでガラスに囲まれるともはや感嘆してしまう。
透明のガラスに色を混ぜてグラデーションにしたものや、星の砂を閉じ込めたもの。持ち手に銀細工をあしらったものや、繊細な模様を描くもの。
どれもまさに職人技というやつだ。
そんな視線がふと一つの小さなピンクのガラスの薔薇が絡んだペンを目に留めて。
思わず手を伸ばしたところで、動きを止めた。
これは、エイネシアが失ったものの最たるものだ。
とても可憐で可愛らしく。
もう二度とエイネシアが身に飾ることのない色の薔薇。
そうため息を吐きながらゆっくりと手を下ろしたところで、ふと隣から延びてきた手が、その傍らの薄紫のペンを取ったから、はたと顔をあげた。
「気に入ったのかい?」
そう問うたのはアレクシスで、エイネシアはそれに思わず口ごもり、上手く答えられなかった。
だってもう……自分は、“薔薇の人”ではない。
「とても繊細で華奢で。でも全体的に凛としている。シアにぴったりだ」
でもそう言って差し出されたそのペンに、思わず手を伸ばす。
小ぶりなペン先と華奢な持ち手。一体どうやって作ったのだろうかというような見事な淡い紫の花芯の薔薇が絡む、美しいガラスペン。
「素敵……」
思わずそう口にしたけれど、その声にはどことなく切な気な声色が混じってしまった。
「店主。この薄紫と白を一つずつもらおうかな」
途端、アレクシスがそんなことを言って手にした箱を持って行くから、ぎょっとする。
「アレク様!?」
「それとももう、薔薇を身に着けるのはこりごりかい?」
ふっと顔をほころばせて少し微笑んだその人に、一瞬ドキリとして。
でもなぜだか否定の言葉は出てこない。
「あぁ。ピンクの方が良かった? 私は君には薄紫のほうが似合うと思っているのだけれど」
こちらの方が気高くて、切なくて。素敵じゃないかい? というその言葉が、なんだかちょっと泣きそうになってしまう。
この人は分かっていて、そんなことを言っているのだろうか。
ピンクの……アイラという少女の面影を過らせる愛らしいその色よりも、エイネシアの瞳の色のその薔薇の方が素敵だと。
何を思ってそんなことを言ってくれるのだろうか。
「薔薇は……本当は、一番好きな花です」
「ふふっ。知っているよ。君がいつも大図書館へ行く時、必ず女王の庭の薔薇園を通って来ていたことも」
「……っ、どうしてっ」
「いつも薔薇の香りがしていたから」
カァ、と思わず頬を赤くしたところで、アレクシスが手にしてたペンを二つ、待ち構えていた店主に手渡した。
その様子に、あっ、と慌てて目を瞬かせる。
「ですが……私は……もう」
「もしもヴィーに遠慮しているのであれば、その必要はない。その必要があるなら、陛下はお詫びの品にと、君に薔薇を届けたりはしないよ」
その言葉の通り。国王陛下からのお詫びの贈り物は、とても美しい沢山の薔薇だった。
王子との許嫁関係が白紙になってなお、エイネシアに薔薇を贈ってくれた……それは一体どういう意味なのかと、むしろ皮肉的な意味で受け取ってしまったのは、エイネシアが自分が薔薇の人間ではなくなったことに未練や後悔といった悲観的な思いばかりを抱いていたからだろうか。
アレクシスの言葉の感覚で言うなら、むしろ、それでもなおエイネシアを薔薇の人に相応しいと言ってくれていたという、いわゆる肯定的な意味で受け取るべきだったのだろうかという気がする。
「それとも気に入らない? 他のが良いかな?」
「……いいえ。とても気に入りました」
そう答えてから。
ん? と、首を傾げる。
「あの、待って、アレク様。アン王女へのお土産を買いに来たはずなのに、どうして私の物まで?」
「なんとなく?」
そう言うその人の何ともあっさりとした物言いに一度キョトンとして。
それから思わず、ふふっ、と笑い出してしまった。
あれこれとくどくど考え過ぎている自分が馬鹿らしくなる。
綺麗だ。美しい。気に入った。エイネシアによく似合う。
アレクシスにとって必要なのは、たったのそれだけなのだ。
「白い薔薇の方はアン王女のですか?」
「そう。お揃いだよ」
「嬉しい」
そう答えたところで、「それならよかった」とアレクシスが顔をほころばせた。
「揃いのインク瓶なんかもありますよ」
二人の会話に無駄に口を挟んだりもしない店主が、そうチラリと別の棚の方を指差しながらポソリと言う。
その先にチラリと視線をやったエイネシアは、すぐに目についた揃いの薔薇の絡んだ小瓶を手に取った。
先ほどまではその綺麗な薔薇を切なく見ていたはずなのに、今ではなんだかとても愛おしく思える。
なんて素敵な細工。
なんて綺麗なインク瓶。
「では私からアン王女へのお土産はこれにします」
そう店主の所へ持っていくと、老人がニコリとわずかに口元を緩めてそれを受け取った。
その微笑みの意味が分からないから、はて、何だろう? と首を傾げたら。
「当店はご領主様にもご贔屓にしていただいているんですよ、姫様。お気に召していただけたのであれば幸いです」
そう言われたからびっくりして肩を跳ね上げてしまった。
変装しているのに、と慌てて髪を抑えたところで、クツツ、と、店主が俄かに笑った。
まぁこの狭い店内で、“シア”と呼ばれて、王女やら陛下やらの話を平然とする客といったらエイネシアお嬢様しかいない。
ばれるのも当然か。
「もう……なんだか私はずっと、アレク様に振り回されっぱなしですわ」
「おや。嫌かい?」
「いいえ。でもいただいてばかりで、何も返せていないのが悔しいのです。私にも何か贈らせてくれませんか?」
そうガラスペンを見やったところで、「だったら」と手を引かれて顔をあげる。
「フィオーレハイド城での夜祭では、私にシアをエスコートさせておくれ」
え? と、エイネシアは小首を傾ける。
「そんなことで良いのですか? というか、それでは私がお返しをするという話にならないのですが」
「ではワルツも踊っておくれ」
えーっと、と益々首を傾けた。
やはり、ちっともお礼になっていない。
「本当に、そんなことで宜しいのですか?」
「私にとっては、それが“そんなこと”ではないのだよ」
どういう意味だろう、と思う。
「昔からね。いつもヴィーと君を見ながら、思っていたんだ。私ならもっとシアを甘やかしてあげるのに。もっと楽しませてあげるのに。もっと優しくしてあげるのに」
「……アレク様?」
「そんな“私なら”が、今では出来る。その事がね。結構、嬉しいんだよ」
それは要するに、どういうことなのだろうか。
エイネシアを妹のように思っていると言ってくれたから。もしかしたらそれは、兄心というやつなのだろうか。
いつもいつも城の隅で一人泣いていたエイネシアの、頭を撫でてくれていた人。
彼はいつもどんな気持ちで、そうしてくれていたのだろうか。
一言としてエイネシアに言葉をかけることも無く、ただただそこにいてくれたこの人は、もしかしたらこうやって普通にエイネシアと会話し、普通に手を引いて、普通に笑えることを望んでくれていたのだろうか。
これまではずっと、ヴィンセントに慮ってしなかったことが、今ではできる。
そのことを、喜んでくれているのだろうか。
だがそれは要するに……どういう事なのだろうか。
「うーん……でもやっぱり。何かを返すという話にはならないような……」
「だったら明日にでも、ケーキを焼いておくれ。あれもね。ずっと羨ましかったんだ。いつも君たちが庭でお茶をしているのを見ていたから」
それなら意味が解る。
意味が解ることに、なんだかほっと安堵した。
「ええ。リンゴのケーキでも良いですか?」
「ああ。うんと甘くしておくれ」
ふふっ、と肩を揺らして笑って。
コクリと一つ、頷いた。
やがて、おまたせしました、と店主が持ってきた包みを受け取って。
エイネシアがどうこうする前にインク瓶の方までアレクシスが払ってくれた時には、「私が」と言いそうになったけれど、でもなんだか思わず口を噤んだ。
今必要な言葉は、多分それではない。
だから差し出された紫の薔薇のガラスペンとインク瓶を受け取りながら、「大切にします」とそう言ったなら、彼はとても柔らかな微笑みをくしゃりと浮かべてくれた。
その少しの“甘え”が、きっと、彼の望んでいたもので。
ずっとずっと、やりたくても出来なかったことなのだ。