3-3 春祭り(3)
そうして長い議論をひとまず切り上げたところで、ちょうど、例の聖歌隊とやらの子供達の歌い声が聞こえてきた。
広間の真ん中、先程花配りの少女が花を配っていた舞台で、白いお仕着せに教会の赤いラインの入った帽子をかぶった十数人の少年少女が、この国で一番有名な聖歌を歌いはじめる。
以前その聖歌を耳にしたのは国王陛下の戴冠式の時で、あの時の厳かな雰囲気とはまるで違う可愛らしい歌声が、なんだかほっと顔をほころばせてくれた。
「さぁ。沢山お話為されてお疲れでしょう。暖かいミルクティーでもいただいて参りましょうか」
そう声をかけてくれたジェシカに、お願いするわ、と頼む。
ついでにいつの間にか馬車から厚手のストールを持ってきてくれたらしいネリーがそれを肩にかけてくれた。
そういえば随分と日が傾いて、なんだか肌寒くなってきていた。
「この様子だと、今夜はやっぱり別荘に泊りになるかしら。別荘地内の孤児院に使えそうな建物や設備があるかないか、様子も見ておきたいわ」
「すでに祭りに来る前に、そう城への伝言をお願いしてありますよ。どうせ今日中には帰れないだろうと思っていましたので」
そう言ったエドワードに、おっとっ、と、エイネシアは肩をすくめた。
すっかり見透かされていたようだ。
「ではゆっくりできるわね」
「ですが一応、日が落ちる前にはお戻りくださいませ。護衛は少ししか連れていないのですから」
そういうネリーに、分かっています、と頷く。
では最後に、聖歌隊の歌だけ、と、改めてそちらに耳を傾けた。
二曲、三曲、と歌が続き、その度に皆が拍手を送る。
時折町の子供達も交じって、声を揃え、そしてまた次の歌へ。
そうして何曲か続いた後に、今度は聖歌ではなくて、この辺の領でよく歌われる古い子守唄が始まった。
エイネシアの乳母であったジェシカの母もこのアーデルハイド領の出身だから、よくこの歌を歌ってくれたのを覚えている。
「この歌を聞くと、戻って来たんだな、という気がいたしますね」
そうジェシカが言うのを聞きながら、エイネシアも顔をほころばせた。
「私もジェシカのお母様に、よく歌っていただいたわ」
「私も。あぁ。一度姉上が歌ってくださったことも」
「えっ。あったかしら?!」
それは記憶になくて、ちょっと驚いてしまった。
そんな姉に、エドワードは少し笑って見せて。
「ええ。うっかりと姉上のお部屋でうとうととした昼下がりに、私の背を撫でながら口ずさんでおられましたよ。よく覚えています」
「あ……」
思い出した。あれは記憶が戻ってすぐの頃。八歳の時だ。
額の怪我のガーゼが取れて、『本当に良かったです』と安堵の顔を見せたエドワードが、そのままエイネシアの部屋でうとうととしてしまって、姉の膝の上でスヤスヤと眠りについたことがあった。
その時のエドワードが可愛すぎて、思わず子守唄を口にしたんだったか。
「ふふっ。今だから明かしますが……本当は、起きていたんです。ずっと聞いていたくて、寝たふりを」
「まぁ……」
あぁ……やっぱり。あの頃薄らと感じていた“この子計算でやっているんじゃあ”という思いは、あながち外れていなかったようだ……。
『サーサの丘の眠れる森よ、セイラの歌に微睡んで、エッタが目を閉じ眠りについた。エッタが眠るとお空は曇り、ちらちら、ちらちら、綿が降る』
『ミーサの山の綿降り森よ、エッタの花が眠りについて、ミンクは踊り花びら舞わす。ミンクが踊るとお花は散って、はらはら、はらはら、花が降る』
『ラーサの谷の花降り森よ、ミンクの踊りに春降る空に、ナーダは駆けて雨を集める。ナーダが走ると光が満ちて、きらきら、きらきら、星が降る』
『ローサの沖の星降り森よ、ナーダの光に天星仰ぎ、真綿を舞わすミンクを酔わす。ミンクが疲れて眠りにつくと、りんりん、りんりん、鈴が鳴る』
そんな記憶があるせいか。
この歌を聞くと、なんだか少し微睡んでしまう。
この歌に出てくる名前と地名は少しも誰も知らないもので、ある者は古い古い時代にこの場所にあった伝承なのだと言い、またある者は原初の精霊魔法に由来するのだと言う。
だが未だにその歌の謎は分からぬままで、ただきっとそれは精霊達が、歌い、踊り、眠る歌だ。
そして最後は、フィオレの城で、鈴を鳴らしたフロウという精霊がエッタを呼ぶ。でもエッタは目覚めず、フィオレは綿の国になるのだ。
綿……と言っているが、要するにそれは雪のことで、その歌はこの国、あるいはこの土地のことを歌っているのだと思う。
雪を呼んだセイラの歌にエッタは眠り、ミンクが雪を降らせ、星が瞬くまで続く。やがて星に酔ったミンクが寝ると、今度はフロウが朝の鐘を鳴らし、春の精霊エッタを起こす。
でもこの土地はエッタが目覚めることが無く、そうして雪深い、氷の土地になったのだ、と。
それが後世、子守唄になるに当たって少しずつそれらしく変わったのだろう。
「子守唄ですから……最後にエッタが起きては困るのは分かるのですが、しかし私は最後の歌詞は、あまり好きではありません」
そうおもむろに言ったエドワードには、「実は私も」とエイネシアも頷く。
「やっぱり最後は……エッタが目覚めて、春を告げて欲しいわよね。氷のフロイス・フィオーレハイド城も素敵だけれど、春も白い花が一斉に咲き乱れて、とても素敵だもの」
「春ではうきうきわくわくして、眠ってなんていられませんわ」
そんなことをいうジェシカには、「それもそうね」と肩を揺らして笑う。
かつての地球には、『春眠暁を覚えず』という言葉があったけれど、どうやら雪深いこの領では、春は暖かさを喜んで浮かれるもの、という認識なようだ。
でも確かに。少年少女の楽しげな声色を聞いていると、眠気もさることながら、楽しい気持ちになってくる。
少年少女だけじゃない。彼らの前で指揮を振るなにやらくたびれたブラウンのコートの指揮者も、なんだかとても楽しそうに身を揺らしながら少年少女を誘導している。
ふわふわ、ふわふわと揺れる指揮者の髪が、なんだかとっても柔らかそうで、彼自身が春を告げるエッタのよう。
それにその優しいクリーミーブロンドには、どこかちょっぴり既視感があって。
「……」
既視感が、あって。
「…………ん?」
『フィオレのお城の凍れる森よ、フロウの鈴にエッタは目覚め、ミンクの真綿は花びらに変わる。みんなが歌って拍手をすると、りんらん、れんらん、春が来る』
聞き知らないまったく違った最後の歌に、「あら」「まぁ!」と、色々なところで大人たちが目を瞬かせ、次々と顔をほころばせてゆく。
終わった瞬間、わーっ! と歓声と共に大きな拍手が鳴って、聖歌隊の子供達が投げ放った白い花びらが一斉に広間を舞った。
沢山の歓声に包まれながら、ちょっとはにかむ子供たちが、笑顔でペコリと挨拶をする。
そんな彼らの前に立ち。式を振っていた青年が。クルリとコートを翻す。
ポカン、と目を瞬かせるエイネシアの視線の先で。
ふわふわ、ふわふわとあちこちにはねてしまったブロンドの髪と。
ニコリと微笑んだブルーグリーンの瞳と。
胸に手を当てとても完璧な貴族の紳士の礼をしたその人に。
「ッ、何をしているんですか、貴方は!」
エイネシアが突っ込むよりも早く、勢いよくその隣で立ち上がったエドワードが、そう衝撃の声をあげた。
お坊ちゃまが投げ出しそうなティーカップを、ジェシカが慌てて救出する。
こちらの驚きとは裏腹で、「おやっ?」と呑気に視線を寄越した彼に、エドワードはツカツカツカツカと歩み寄ったかと思うと、問答無用にその胸ぐらをつかみ上げた。
「あはははははっ。流石にこの反応は想定してなかったなぁー」
「でしょうねッ! 私もです!」
うん、私もだよ、エドワード。だ、大丈夫かな? 一応“殿下”なんだけど。
「で、どうして貴方がここにいるんですか?! いつから聖歌隊の指揮者に転職を?!」
「いやー、はは。聖歌隊は、なんだか昨日知り合って」
「昨日!?」
ギョッとした顔をするエドワードに、しまった、と青年は粗放を向く。
「うちの領官は優秀なはずなんですがね。“殿下”が入領したなんて報告は入っていませんがッ!?」
「一体私が何年旅をしていると? ふっ。見て見なさい。この完璧な変装を」
「……」
「ッ、あ、ごめんっ。ごめん! 冗談だから。怒らないで、エドッ」
そう慌てふためく……“殿下”。
あぁ……ほんと。何なんだ。この人は。
「シアっ。座って見ていないで助けてくれないかなっ。君の弟、なんだかものすごくジルにそっくりで怖いんだけどっ」
そうバタバタともがくその人に。
何だか唐突に気が抜けて。
「ふっ……ふふっ、ははっ……あははっ」
零れ落ちた笑い声に、はた、とエドワードが振り返った。
「ふふっ、ふふふっ。エドっ。ふふっ。いいから。放して差し上げて。一応、“元王子様”だから」
そう笑うエイネシアに、「うんうん、そうそう。元王子様」と頷く元王子。
その近くでヴィヴィ司祭が、「え、王子殿下?!」と驚嘆した顔で風来坊の風体の青年と、アーデルハイド家の信頼の持てる姉弟と見やった。
あぁ、そうだ。聖歌隊は教会の孤児達。この元王子様を指揮者に仕立てたのは、司祭様という事になる。その事実に、ヴィヴィが顔を真っ青にしているのが実に憐れでならなかった。
だが心配はいらない。全部、この“元王子”の、この格好のせいだから。
ひとまずそんな周りの目も気にしたエドワードは、「逃げてはいけませんよ」と重々念を押しながら、仕方なさそうに掴んでいた胸倉から手を離した。
するとあからさまに安堵の顔をした王子様が「いやぁ、怖かった」と息を吐く。
「まったく。驚きのあまり寿命が縮みましたよ。どう責任を取ってくれるんです?」
「おや、それはいけない。未来の宰相殿には長生きしてもらわないといけないのに」
そんなことを言っている実に呑気なその人に、エイネシアも呆れた顔をしながらゆっくりと席を立った。
「それで? 一体“何日前”から、うちの領に?」
「え? えっと……ふつ……」
「……」
「五日、くらい前だったかな……」
「ハァァ……」
身分詐称入領は一応犯罪なのだが。
「それで、殿下。リカルドや護衛の姿が見えないようですが……」
「ッ」
ぎくっ、と肩を跳ね上げる殿下に、「でんか?」「おうじさまー?」と、聖歌隊の子達が首を傾げた。
そんな彼らに歩み寄ったエイネシアは、クスクスとかがんで子供達に視線を合わせる。
「こちらの指揮者は、ナーダの星降らせの国の王子様なんですよ」
ん? と一度首を傾げた星降らせの王子様は、あ! と気が付いた顔をするとエイネシアの隣で身を屈め、「証拠を見せてあげよう」と、手のひらを上に向けて、ポツリポツリと精霊魔法の言葉を紡いだ。
途端に、ふわりとあたりに灯った蛍のような光に、わあっっ! と子供たちが声を上げて手を伸ばす。
それはこの様子を見ていた皆もそうで、薄暗くなってきた広間に広がった幻想的な光景に、まぁ、と頬に手を当てて、ゆっくりとのぼって行く光の粒を見送った。
「あっ。間違えた……。星降らせ、ではなくて、星上り、になっちゃったね」
そう頬を掻いた元王子に、ふふっ、とエイネシアも肩を揺らした。
でもそんなこと気にもせず、子供達はすっかりと夢中になって走り回っている。
「では改めまして。ごきげんよう、星降りの王子様。アーデルハイド領へようこそ」
そうワンピースの裾を摘まんで丁寧な礼を取ったところで、ニコリと微笑んだ王子様も、胸に手を当てて姫君への丁寧な礼を取った。
「ごきげんよう、フィオレのお城の銀の姫君。ご所領にお邪魔しております」
「その言葉、五日前に聞きたかったですね」
思わずそうため息を吐いたエドワードに、「あれ? いえ、待って?」とエイネシアが首を傾げた。
「私、学院の寮を出る時にアレク様にお見送りしてもらった気がするのだけれど」
「ん? あぁ。そうだったね。ハインから預かった道中の常備薬を届けに……」
「私達、三日前に所領についたばかりなのに……」
「うん。まぁ、色々と“まく”為にすごく飛ばしたからね。追い抜いちゃったのかな?」
「ハァァ」
深い深いエドワードのため息に、あぁ、なるほど、とエイネシアも呆れた顔をした。
ついこの間アーウィンに首根っこを引っ掴まれて国王陛下の元へ連行されたはずなのに。まさかほんの数日で、またも護衛をまいてくるとは。
「うーん。本当はもう二、三日、もっと北の方とか見に行こうと思っていたんだけど」
「今すぐうちの居城に来ていただきます。精々うちの父にこってりとしぼられて下さい」
「あ、あれ……。待って。なんでジルがこっちにいるの?」
そう青い顔をしたアレクシスに、ふっ、と、エドワードがうすら寒くなるような満面の微笑みを浮かべた。
その言葉なき微笑みがすべてを物語っており、「しまった」とアレクシスは真っ青に顔色を濁した。
「あぁ。しまった……しまった……。道理で陛下の側にいなかったわけだ……いや。でもどうしてこんな時期にジルが所領にッ?!」
本当にしまった、と何度もその言葉を呟くアレクシスに、エドワードが問答無用にその上着を引っ掴んだ。
「ほら、行きますよ。姉上、申し訳ありませんが、やはり領都まで戻っても宜しいですか?」
「ええ。思いがけない大変な拾い物をしてしまったものね。持って帰らないと」
「シアっ。なんだか先ほどからエドがとても冷たいんだけれどっ」
「自業自得ですよ、“殿下”。ほら。歩いてください」
「……えっと。もしかして、姉とのデートを邪魔されて……怒ってるのかい?」
ニコリ、と。またも満面の笑みを浮かべたエドワードに、アレクシスは思わず口を噤んだ。
あ、なるほど……うん。そういうことか。
「でも待って待って。ほら、もう日も落ちることだし。そんなに慌てて領都に戻ることは無いんじゃないかな。道中も危険だよ?」
「ですが……」
「あぁ。私は昨日から教会に滞在しているのだけれど、一緒にどうだい? とても良い教会だよ。ステンドグラスって言うんだったかな? 領都でも見かけたけれど、やっぱりこっちはガラス細工がとても有名なんだね。街中の宿なんかにも普通に色ガラスの物があって……」
「……」
冷たい顔をしているエドワードに気が付いたのか、ハッと王子様は口を噤む。
うん。そうだよね。元王子様は、普通は町中の宿になんて滞在しないし、教会にも泊まらない。
ハァァ、と、深い深いため息を吐いたエドワードには、王子様も頬を掻いた。
「えっと……まぁ。何だ。ごめんね、エド」
そう謝罪する素直な王子様。
なんだかこの状況が、かつて見た父と女王陛下の姿を思い起こさせて、ついエイネシアに笑い声をあげさせてしまった。
「ふふっ。エド。もう一日だけ、良いではありませんか。お父様には使いをやりましょう。それから“アレク様”。宜しければ今宵は教会ではなく、アーデルハイド家の別荘にお出でになりませんか? その……護衛も。うちなら安心ですから」
「いいのかい? 本当は教会から見える湖畔の白と青の屋敷がずっとすごく気になっていて、ヴィヴィ司祭にアーデルハイド家の別荘があると聞いた時は、どうにかして立ち入れないかとうずうずしたんだ」
ハァ、と再びため息を吐いたエドワードも、しかしこのびっくり人間のびっくりな行動にも慣れて来たのか、「仕方ありませんね」と口にした。
途端に、ほっ、とアレクシスも安堵の顔をする。
こうしてちょっとした遠駆けは、なんだか思いにも寄らない拾い物をして。
そして教会から荷物を持ってやって来た元王子様の、“沢山の姫リンゴ”には、全員で揃って、あぁ……とため息を吐いた。
馬車に三籠も積まれていたリンゴは、こうして四籠になったのである。