3-2 領地
「ッッ……って。どうしてこちらにいらっしゃるのッ?! お父様! お母様!」
愕然と。
思わず手にしていた鞄をドンッッ、と落としてしまうほどのこの衝撃を、どう形容したらよいのだろうか。
フロイス・フィオーレハイド城――。
エーデルワイス王国の最も西のやや北寄りに存在する広大なアーデルハイド公爵領で、更にその北寄りの高地に岩肌を削り立つようにして作られた、この国で最も美しい城の一つと言われるその城は、アーデルハイド家の本城である。
卒業のパーティーが済んでから、どうしたらよいのかも思いつかずにぼんやりと過ごしていたエイネシアに、所領へ行きませんか、と持ちかけたのはエドワードだった。
まぁ、冬の終わりは領政の季節。特におかしく思うことも無く、エドワードが一緒なら安心でもあって、何ともなくそれを了承した。
仕度に二日ほどかけ、そこから早駈けの風魔法がかかった馬車を用いたとして、領地までは十日以上がかかった。馬ならもっと早いが、特に急ぐ旅でもない。エドワードがエイネシアに配慮したのか、いつも以上の時間をかけながら、のんびりと馬車で向かってくれた。
その長い長い城へと昇る石畳の美しい道を行き、大きく開いた立派な城門をくぐって、まだ氷の張る真っ白なその城に降り立った時には、ようやくついたと安堵したものだ。
だがそれがどうした事か。
所領の運営を任せてある家司長ラグラス・レイトン子爵が出迎えてくれたまでは良かったが、何故か一歩踏み込んだ途端、「お帰りなさい、シアちゃーんっ!」と、母の抱擁に出迎えられ、更には「シアが息ができずに困っている。離してあげなさい」などという父の声までしたところで、先の叫び声になったわけである。
大理石の張られたホールでは実に良く響き、どういうことだ!? と傍らを見たところで、弟はただニコニコとしかしていない。まず間違いなく、エドワードは知っていたということだ。
確かに……三月は、貴族達が皆所領に戻り、一年の領の運営を見聞する領政の季節。
だがそれは“領政に時間が割ける貴族”の話であって、数多くの政務を代行しうる陪臣を持ち、かつ夏のバカンス以外に一時として休まることのない国そのものの政治に関わっているはずの“宰相閣下”が、この時期に領地にいるなんてとんでもない。
ましてや、いつもなら王都に残って、同じく残っている奥様方とお茶会をしたり、王家の一員として四月の茶会の準備をしたりと忙しくしているはずの母までもがこんなところにいる。
これは恐ろしいことに、エドワードが語った“アーデルハイドは所領に帰って国から離反します”の状況にすさまじく酷似しており、更には城の奥から続々と縁戚が顔を出した上に、王都のタウンハウスの侍女であるはずのネリーとジェシカまでもが「お嬢様!」と飛んできた時には、本気で真っ青になった。
「お父様ッ。まさか本当に爵位をお返しになったわけではありませんよねッ」
「安心しなさい。そこまではしていない。“今のところ”」
「大丈夫よ。ただのバカンスだから。“今のところ”」
ニコリと微笑む母の言葉もそれはそれで恐ろしく、ちょっとちょっとちょっとっ! と皆を見回した。
なのに誰一人として焦る素振りも無く、ただニコニコと馬車からエイネシアとエドワードの荷物をおろして、テキパキと滞在の準備を整えているものだから困惑した。
こんな状況はエイネシア史上初の事で、ちゃんと国王の裁可の元に四年に一度催されるダグリア領での四公会議や、親族の慶事・喪事ならいざしらず、これはもはや完全なる離反状態だ。
何故こんなにも一族全員平然としているのか、信じられない。
「お父様ッ。もしも私のことが原因なら、今すぐ謝罪いたしますッ。こんなつもりではなくッ」
「まぁ、今回の事はお前の不祥事でもあるわけだが。しかし散々娘をコケにされた挙句、王子が公爵家を離反に追い込みかけたという不始末に、私が国を見限らない保証がどこにある」
「ですがそれはきちんと話も納まっていてッ」
「当人同士で納まったならそれでいいというものではない。王子は我ら家門、ひいては全公爵家の信頼を裏切った」
「お父様!」
「まぁまぁ、シア。宜しいじゃない、そんなこと、どうでも。折角お父様のお仕事がお休みなんだもの。皆でのんびり過ごしましょう」
「お母様までっ!」
いやいやいやっ。貴女、一応上王陛下の姪で、国王陛下の従妹ですよね? なんかすっごい王位継承権とか色々持っていますよね?
「そういえばそろそろ雪融けを祝う春祭りの季節ですね。姉上、二人で行きませんか?」
「エドも!!」
ちょっと。この家、どうなってるの!? と驚嘆に驚嘆を重ねて愕然としたところで、ふっ、と、父が顔をほころぼしたのを見て我に返った。
いや……そうだよな。あぁ、そうだ。この超が付くほど有能な父が、まさか本気で宰相職をボイコットして所領でのんびりとか……しないよな。
しないはずだ。
「お父様……教えて下さいませ。これは一体、どういうことなのですか?」
「陛下のおぼしめしだ」
「国王陛下の?」
いや。でも。何が何で、どうなって? と、未だ混乱した顔で首を傾げるエイネシア。
「愚息がとんでもないことをしでかしたことの詫びと、その愚息に、四公爵家が離反することの意味を知らしめるための罰だそうだ。陛下の方から、何でも望むままの詫びをすると言われたので、一ヶ月限定で仕事を放棄することを勅していただいた」
「陛下……」
その豪胆すぎるおぼしめしには、呆れるような感心するような、何とも言えないため息が零れ落ちた。
「お前が何ともないといっても、他の公爵家や保守派の貴族達がそれを受け入れられるかは別だ。私が怒りを示し、陛下がそれに謝罪をする。目に見えて分かるそういう体裁が必要なのだ」
父の言わんとしていることは分かった。
だが、この国は君主制とはいえ、議会制でもある。国の重大なことはすべて国王を首班に、貴族院評議員と各政務局の長達が集まって議論を重ねて、話し合いで方向性を決めてゆく。その議会の長が宰相という地位であり、要するに宰相が不在というのは、この一ヶ月、国の重事はまったく、一つとして決議されない、という事を意味している。
それは、例え民が飢えて苦しんでいるから救済措置を取ろう、という案件があったとしてもだ。
はたまた細やかな些事であっても、宰相の決定が必要な物は凄まじく広範囲にわたって存在しているのであり、そのすべてが滞るとなると、最早国の政治そのものがすべて成り立たなくなる。
政務に手をこまねくことになれば、それは当然国王の評判をも貶める。その重要性が分からない程馬鹿じゃない。
「案じずとも、火急の案件はすべて片付けてある。よほどのことがあれば風手紙で知らせるよう秘書官にも言ってある。今のところ、陛下もまだ“やはり取り消す”とは泣きついて来ておられないから、平気なのだろう」
「……お父様ったら……」
ハァァ、と、一つため息を吐く。
なんだか……もう、流石はお父様、としか言えない。
今頃陛下はとんでもなく大忙しで、城の中で何度も何度も、ジル! ジル! と父の名を呼んでいるはずだ……。
「このようなこと……私は、望んでいません」
「お前が望もうが望むまいが、これが、王子のしでかしたことの始末だ」
「……はい」
そう言われては、エイネシアもこれ以上は言えなくなる。
実際、あの場が何か少しでも狂っていれば、今この場所はエーデルワイス王国アーデルハイド公爵領ではなく、アーデルハイド公国とか王国とか、そんな名前に代わっていただろう。
もとより、公爵家は国の国境の要であり、大陸中央部を統一したエーデルワイス王国と同盟を結ぶことで友好関係となった“他国”である。その後、エーデルワイス王家と度々婚姻を繰り返して同族化していった結果が、今のエーデルワイス王国の版図だ。
いざとなれば王家を裏切りかねない、なんていう懸念をする人は今時いないだろうが、歴史をさかのぼればそれも決して“ありえなくはない”。
現に三百年前、謀反の罪を着せられたフォルディージ公爵家が断絶した際も、中央西部の元“国民”たちが、王家に対して大内乱を引き起こしている。
フォルディージの民は唯一処刑を免れた物心もつかない幼い傍系の姫を担ぎ出して独立を宣言し、二十年にも及んで抵抗を続けた。やがて成人した姫がこれを憂え、他の公爵家に取り成しを求めたことで、王家が正式にフォルディージ家の冤罪を認めて謝罪と賠償をすることで決着を見せた。ただし姫が独身を貫いたせいで、フォルディージ家は再興しなかった。今なお中央西部に王国に反感的な民が多いのはこのせいだという。
それほどまでに、公爵家には独自の力があるのだ。
公爵家が離反をすれば、またあの大内乱が起きる――それを人々に思い出させるほどに、今回の事件は“やばかった”らしい。
国王陛下が自らの治世に汚名を着てまで宰相をボイコットさせ、まっさきに“謝罪をした”というのも、かつての二の舞を封じるためのけじめなのだろう。
「それと一応言っておくが、王子とお前の婚約は正式に破棄されたからな」
「……はい」
「これでスッキリしたわ! 早速シアちゃんの次の許嫁を探さないと。一足先にアーウィンが売れてしまったのは残念ね。でもリードスのところは、可愛い娘をやるには遠すぎるし……」
早速そう切り出す母には、「お母様……」と困惑の顔を見せた。
その顔に、「まぁそうよね」と母も目じりを下げる。
婚約を破棄されたばかりの娘を元気づけようとしてくれたことは分かっていたけれど、しかしまだ、到底そんな気にはなれない……。
「余所にやる必要なんてないではありませんか。婿でもいいですし、何なら私が一生養って差し上げますよ、姉上」
そうニコリと微笑んだ弟には、あれ、これ結構本気で殿下の件にご立腹なんだな……と、言葉を失ってしまった。
「そんなことよりエイネシア。良い機会だ。以前より君がこの領地でやっている精霊魔法の応用による生産性と品質に関しての実験についてなのだが……」
母と弟との会話がひと段落したところで、突如、生真面目な顔をして話し出した父に、いきなり何事だとビックリしていると、話の続きよりも早く、両側からガシッ! と、ネリーとジェシカに掴まれた。
「まぁまぁ! お嬢様。ドレスの裾が皺になってしまっているではありませんか! すぐにお着替えを用意いたします」
「長旅でお疲れになったでしょう! お召し代えのついでに、久しぶりに所領のハーブ園で取れたハーブをたっぷり使ったオイルマッサージは如何ですか? まぁ。御髪もこんなに乱れてしまって。すぐにお手入れしなくては!」
そういって二人がぐいぐいとエイネシアを引っ張りながら、正面階段へと誘って行く。
「ちょっ、二人ともッ」
「おい。こら、待ちな……」
「あーなーた?」
「ちーちーうーえー?」
瞬く間に背を押されたエイネシアと父の声は、さらにニコリと頬笑む母と弟によって呆気なく遮られた。
いきなり玄関で所領運営の話をし出す父もどうかと思うが、一応話の内容は気になったのに。なんて強引な。
「ネリーもジェシカも。一体何なの?」
「奥様からはくれぐれも、これが“バカンス”なのを忘れぬように、と命じられておりますので」
「難しいお話は旦那様にお任せしておけばよろしいんですわ! さぁ! 久しぶりなので腕が鳴ります。まずはお湯を。それからマッサージですわね!」
そう賑やかにこの居城でのエイネシアの部屋へと連れて行く二人に圧倒されつつ、でも立ち入った自分の部屋がとても綺麗に模様替えされ、掃除されているのを見る頃には、なんだか顔がほころんでいた。
きっと二人とも、ずっとエイネシアのことを気にしてくれていて。それで今も、少しでも明るくして慰めてくれているのだろう。
それもそうか……。この二人もまた、ずっと小さな頃から、エイネシアのことを見て来たのだ。
時折泣き腫らして城から帰ってきたり。ドレスが変わっていたり。手に沢山の傷をつけてきたり。
彼女たちはいつも一人きりになりたがったエイネシアに慮って、そんなエイネシアに何事もないふりをして接してくれていたけれど、しかしきっとずっと、ハラハラとしていたに違いない。
でもそれがもう、すっぱりと終わったのだ。
「そうね……久しぶりだもの。少しゆっくりと過ごそうかしら」
「ええ! それが良いですわ!」
「雪融けの春祭りはいつからだったかしら?」
「四日後からですわ。お出かけになりますか?」
「そうね。エドが一緒なら、町に行ってみてもよいとお父様はお許し下さるかしら?」
「奥様が味方に付いてくださいますわ! 今年は奥様のお取り計らいで、最終日の夜祭にはお城の中庭を解放して舞踏会を催すんですよ。素敵ですわね!」
そう賑やかにエイネシアの髪を解き、旅のドレスを脱がせて暖かい湯船へと誘う。
所領の水は裏手の崖を何千年と凍らせてきた氷の雪解け水で、ミネラルが豊富でとってもお肌に良い。
湯に入った瞬間のじわっと包まれるような軟水に、少し熱めのお湯が、すっかり冷えた体を温めてくれた。
「はぁ……やはりこちらはまだ寒いわね」
「ご所領は年の半分が冬みたいなものですものね」
「ですが雪の下で育ったお野菜や雪融けのお水は最高ですわ。タウンハウスからはシェフのリースも一緒に来ているんですよ。今夜はきっとごちそうを振舞ってくださいますわ」
「えっ……」
シェフまで連れてきてしまったのか……。
一応こっちの居城にもちゃんとしたシェフがいたはずなのだが。
けれど……まぁ、良いか。
久しぶりの我が家の味も、なんだか恋しいし。
でもこっちの郷土料理であるジャガイモのクレープや、チーズ鍋なんかも食べたい。
今度作ってもらおう。
「あぁ……でもやっぱり、こっちはいいわね。空気も水も澄んでいて。何だか静かで……心地いい」
そう湯船の淵に頬を預けるエイネシアに、ほっと二人は顔をほころばせた。
あぁ、よかった。
よかった……。
私たちのお嬢様が、笑って下さっている――。