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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第二章 エデルニアの雪融け
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2-24 最後の日(5)

 泣いちゃだめだ。

 まだ駄目。まだ泣いちゃダメ。

 悲しくなんてない。

 あぁ、なんてすがすがしいの。

 やっと全部終わって、すっきりとして。

 もう何にも恐れなくていい。

 好きに生きて、好きに過ごせる。

 良かったじゃない。追放にもならず、婚約まで破棄されて。

 これでもう好きに生きて、好きに死ねる。

 良かったじゃない。

 何も失わずに済んだ。

 何も。

 何も……。


「ッ……」


 駄目。まだ。もう少し。

 必死に。必死に足を動かす。

 薄暗闇が道を失わせ、夜風が肩を撫でる。

 まだ駄目。ここではまだ駄目、と、必死に足を動かす。

 でも何処へ行けばいいの?

 ここにはあの、女王の庭はない。

 いつも突っ伏して泣いた噴水も。

 あのかぐわしい薔薇の匂いと。

 それから……あの、“手”がない。

 何処に行けばいいの?


 はっと顔をあげた先の深い深い闇の森に、手を伸ばす。


 そうだ。森。

 森の中に入ってしまえばいい。

 そこには誰もいない。

 そこなら誰もエイネシアを見ない。

 誰にも見られない。

 そこなら。


 ドレスの絡む足をもつれさせながら。

 必死に、必死に手を伸ばして。



「駄目だよ――」


 伸ばした手を掴み止めた大きな手。

 古い古い紙とインクと、甘い甘いあの庭と同じ薔薇の香り。

 じんわりと体を包み込む、まるで微睡むような甘い声色。


「……え?」


 一瞬では何が何だか分からなくて。


「駄目だよ。森にはとても悪い魔法使いがいるから」


 呆然と。

 呆然と。


 真ん丸に目を見開いて、ポカンと見上げたのは夜の月。

 淡い淡い銀の光に、サワリと揺れたクリーミーブロンド。

 困ったように少し下がった目尻と、いつもいつも穏やかに微笑む口元と。


 でも知らない? 何だか知らない。

 でも知っている。


「ん? 大丈夫かな? あ、暗いのかな?」


 だったら、と、瞳を下ろしたその人が何かを呟いた瞬間、フワリと足元から沢山の蛍のような光の粒が浮かび上がってきた。

 じわりじわりと肌に溶け込み、暖かい温もりを与えながらほのかに昇って行く光。

 その淡い光の中で、ぼんやりと浮かび上がる、とても優しい眼差し。


「これで見えるかい?」


 きゅっとエイネシアの両手を包み込んだ大きな掌。

 ぽうっ、と手のひらから伝わってくる、光魔法の熱。


 ニコリと……微笑むその人を見た瞬間。

 ポロリ……ポロリ、と、大粒の涙がこぼれ出した。


「また泣いているのかい? 君は本当に……泣かされてばかりだね、“シア”」


 どうしてだろうね、と少し苦笑いするその声が。

 あぁ、そうだ。知っているその人より、少し低いのだ。

 こちらを伺うその顔が、昔より少し近くて。でもお互いずっと背が伸びて、視線が高い。

 寝食も忘れて図書館に引きこもるものだから、少し病的なほどにガリガリだったはずの少年が、今ではずっと逞しくなり、その広い肩と広い上背がとても大きくて。


 でも間違えない。

 その顔も。その声も。どんなに変わっていたって、きっと間違えない。


「……ゆ、め?」


 でもとてもじゃないけれど現実的ではない光景に、そう首を傾げたら、ふふっ、と、思っていた通りの顔で笑ったその人が、そっとエイネシアの頭を撫でた。

 あぁ……そう。この手だ。

 ずっと、ずっと。もう何年も何年も焦がれ続け、触れて欲しかった手だ。


「またヴィンセントに苛められたのかい?」

「……いいえ」

「じゃあエド? あの子はジルに似ているから。きっと今頃は小悪魔だろう」

「エドは素敵な天使よ」

「だったらアルかな? あの仏頂面は中々に手ごわい」

「仏頂面なんかじゃないわ。ケーキを食べている時は、とっても良いお顔をするの」

「なんだって。羨ましい。私は未だにチェリーパイをお預けされているのに」


 あぁ。

 夢じゃない。

 夢じゃないのだ。


「じゃあどうして泣いているんだい?」


「ッ……そんなの」


 そんなの、決まってる。


「アレク様が来るのが遅すぎるからです!」


 ドンと思い切り抱き着いた広い胸。

 突然の行動に「わっ!」と後ろに傾いで、一緒に倒れこんでしまうくらい非力な人。

 なのにちっともエイネシアには痛みはなくて。

 その唐突な行動にビックリとした様子だったけれど、咎めることなんて少しも無くて。

 すぐにも「ハハハ……私のせいか」と言ったその人は、エイネシアの頼りない体を抱き支え、よしよし、とその頭を撫でてくれた。

 ぐりぐりと頭を押し付ければ、揺れた衣から彼の匂いがする。

 古書とインクと、何処で身に着けて来るのかわからないような、何故か甘い薔薇の香り。

 それが懐かしくてぐりぐりと頭を押し付ければ押し付けるほどに、殊更に優しい掌が、エイネシアの頭を撫でた。

 それが何故だか無性に泣きたくて、泣きたくて。

「ごめんね、シア。ごめん。一人きりで……随分と、頑張ったんだね……」

 柔らかな声色が、どんどんとエイネシアの心を溶かしてゆく。

「私が隠してあげるから。全部涙にしておしまい」

 とくんとくんと穏やかなその人の鼓動が、エイネシアを慰める。

 ポウ、ポウ、と灯る光が、エイネシアを温める。


「ッ……何処にッ」

「……うん」

「何処に行ってたんですかッ……今まで」

「うん……えっと。まぁ、色々と」

「どうして手紙に宛先が書いてないんですか!」

「え?! あっ。それは、えっと……」

「あんなに沢山。たくさんっ、一方的に書き残してッ」

「そう……良かった。あの部屋を、使ってくれているんだね」

「変なところにばかり物を隠して!」

「ははは。良かった。それも気が付いてくれたのか」

「すぐには気が付かなくて、森で悪い魔法使いに散々レポートを書かされました!」

「あー……ハハ。うん。会っちゃったか。いや私もね。入学早々迷い込んでその魔法使いにとっ捕まったんだ。何度被験体になったことか……シアは大丈夫だったかな?」

「一杯ッ……一杯っ、経過報告を書かされましたッ」

「そう……」

 少し悲しそうに囁いて。

 ぎゅっと、エイネシアの頭を抱きしめる。

「そう。一杯一杯……怪我をしたんだね……」

 その言葉にまたホロホロ、ホロホロと涙がこぼれる。

 ねぇ、どうして。

 まるで見て来たみたいにいつもいつも。

 どうしてわかるの?


「部屋のランプは、まだついているかな?」

「……私が帰ると、何故かいつも勝手に灯るんです」

「私のとっておきの魔法がかかっているからね」

「机の下の魔法陣は……どうして触れただけで光の粒が降ってくるのですか?」

「気に入ったかい? 私の手では、もう温めてあげられないと思ったから……」

 温かかった。

 とてもとても、温かかった。

 でもそんなの、今自分に触れているこの手ほど温かいはずがないではないか。

 余計に恋しいだけで。

 恋しくて、恋しくて……。

「風邪を引きました」

「……シア。だからちゃんと、ブランケットを忘れずにって書いたのに」

「でしたら今度からは、ブランケットも一緒に降ってくるようにしてください」

「ははっ。それは新しい発想だね。うん。わかったよ」

 無意味な約束。

 でもきっとこの人は破らない。

 絶対にと信じられる。


「あれ……」


 唐突に頭を抱きしめていた手が遠ざかり、エイネシアの髪に触れる。

「あぁ……そうか」

 あぁ、そうだ。

「髪飾り……見つけたんだね」

 そのとてもとても穏やかな声色は、いつもよりずっと柔らかで。

 ずっと聞いていたいほどに切なくて。


「やだ! 放さないでください!」


 でも今はそれよりも遠ざかってしまった熱の方が腹立たしくて、そうギュッと胸元に頭を押し付けたなら、「はははっ」と楽しそうに笑う声色が、再びエイネシアの頭を撫でてくれた。

 ポロポロ。ポロポロと。

 撫でられれば撫でられるほどに、涙が落ちる。

 嫌なものと一緒にすべて。流れてゆく。


「髪飾りは気に入ってくれたかい?」

「……リードスは細工の名人です」

「えー……」

 私は? と言うその人に、クツツ、と喉の奥で笑う。

「こんなに素敵な百合の髪飾りは、初めていただきました」

 こそりとそう囁けば、頭の上で、ふふっ、と優しい笑い声がした。

「そうか……よかった。自分にご褒美をあげたいと。そう思える出来事も、あったんだね」

「アンのお陰です」

「アン?」

 あれ? 何で? と首を傾げるその人に、クツツと笑って頬を寄せる。

 とくり、とくり……。

 驚いてもちっとも変わらない規則正しい鼓動音。

 とくり、とくり……。

 羨ましいくらいにおっとりと穏やかな、微睡みの音。

「なのにこんなに泣いて。私は罪な男だね」

 そう冗談めかした言葉をのんびりと言うものだから、またもなんだかおかしくて、肩を揺らす。

 本当に。こっちは泣いているのに、そんなに笑わせないでほしい。

 こんなに悲しいはずなのに。

 なんだかもう、何が悲しかったのかさえ分からなくなってきた。


「君がそんなに泣いているのは……“噂”のせい……なのかな」

 ポツリと呟いた彼の言葉に、エイネシアの肩が跳ね上がった。

 けれど身を固くしたエイネシアに、彼は少し悲しげに、ぎゅっとエイネシアを強く抱きすくめてくれた。

「あぁ……ヴィーは馬鹿だね。こんなにも可愛いシアを、あの子は知らないのだから」

「……」

「本当に……馬鹿な子だね」

「……っ」

「ごめんね、シア。もっと早く、駆けつけてあげるべきだった。こんなに遅刻したのは初めてだね」

「……ちこ、く?」

 ふと、その言葉の違和感に気が付いて。おそるおそると顔をあげる。

 少し寂しそうで。

 少し困ったような。

 後悔の色。

「私はね。いつもいつも……窓の外を、見ていたんだよ」

「窓の……そ、と?」

「大図書館の西の棟の三階からは、女王の庭が一望できるんだ」

 意味が分からず、キョトンと顔をあげる。

 何だ? 何を言っているのだろう?

「私はいつもそこで、君達を見ていたんだ。いつも、いつもね。何かあると一人きりで庭の奥へ走り去ってしまう君を……いつもそこから、見ていたよ」

「っ」

「ふふっ。がっかりしたかな? 格好悪いでしょう? 私はシアが走ってゆくたびにね、慌てて本を投げ捨てて庭に駆け込むんだ。なのにシアと来たらいつも同じ所にはいてくれなくて、たまにとんでもなく奥まで入り込んでいたりして。その度に私は青い顔で一生懸命あの庭を走り回ったんだよ」

「っ?!」

 そんなはずない。

 だってこの人はいつもいつも、のんびりおっとりと何処からともなく現れて、何も言わずに傍らに腰かけて。

 それでゆっくりと、ゆっくりと。こうして頭を撫でてくれた。

 何も言わず。何も聞かずに。ただただエイネシアに、涙を流させてくれた。

「まったく君と来たら。どうせなら図書館に飛び込んできてくれたらいいのに。何故かいつも人気のない場所にばかり行くんだから。あぁ。自分から私の所へ飛び込んできてくれたのは、今日が初めてだね」

 そう微笑むその人に、段々と頬に熱が灯ってゆく。

 あぁ。馬鹿だ。馬鹿だったんだ。

 何処にいても何があっても絶対にやってきて、頭を撫でてくれた人。

 でもそんな都合のいいこと、あるわけがない。

 彼はいつもいつも、あの大図書館の窓辺で、こうやって、エイネシアが一人ぼっちで泣かないようにと見ていてくれたのだ。

 そんなことにも気がつかないで。

「私ッ……」

「これからは出来るだけ、居場所が分かるようにしておくよ」

「ッ」

「だから私が見つけきれない時は、こうやってシアが自分で私を見つけておくれ」

「わたし、が?」

「そしたら一杯、甘やかしてあげるからね」

 そう言ってもう一度エイネシアの頭を抱いて、ポン、ポン、とその髪を撫でるその人に、あぁ、なんだかもう、それでいいや、という気がしてくる。

 この古書と古いインクと、ほのかな薔薇と。とても優しい、光の粒と。

 この腕の中に居たら、きっと少しも怖いことなんてない。

 少しも何も、怖くないから。

「私の……見える所に、いて下さらないと……。見つけられないわ」

「大丈夫だよ。名前を呼んだら、私は光を灯してあげるから」

 あぁ、そうだった。

 暗闇で。距離も出口も何もわからない場所に居たら。

 エイネシアはまず、アレクシスの名前を呼ぶんだったか。

 そう。確かに自分はそう言った。

「ヴィンセントに先を越されないように気を付けないと……」

「……」

 だけどそれは……。

「もう、その心配は、いらないわ……」

「シア?」

「ヴィンセント様はもう、駆けつけては下さらないから」

「えっと……」

「婚約は、破棄したんです」

「え……?」

 それは驚くと言うよりも、焦るような声色だった。

 それもそうだろう。その言葉の意味が分からない程、彼は馬鹿でも愚鈍でも蒙昧でもない。

 その一言だけで、ヴィンセントがとんでもなく大変なことをしでかしてしまったことを誰よりも理解したはずだ。

「……シア……」

「ふふっ。私。振られてしまいました。八年間も……ずっと、片思いだったんです」

「……うん」

「ちっとも、届いてなかったんです。変ですよね。許嫁だったのに。私が告白したらヴィンセント様、きょとんとした顔をして驚いていらしたんですよ。ふふっ。馬鹿みたいですよね」

「……」

「でももう……終わったんです。これで全部」

「全部?」

「私の物語が」

「シアの物語が? 今日?」

「はい……」

 この物語はバッドエンド。

 いや……エイネシアには、エドワードが、アルフォンスが、そしてアンナマリアがいてくれた。

 何も起こらず、死ぬこともなければ追放もされず。

 ただ……好きだった人を、無くしただけ。

 きっとこれは、バッドエンドなんかじゃない。ノーマルエンドだ。

 なんだ、悪くないじゃないか。

 それならそれで……。



「それはよかったね。では明日からは別のシアの物語が始まるんだね」


「え……?」

「違うのかい?」

 そうさも当然のように首を傾げるその人に。

 エイネシアもまた首を傾げて。

 それがなんだか妙におかしくなってきて。

「ふっ……ははっ。あぁ。そうか……“よかった”。よかった……そうなんですね」

「うん。そうなんだよ」

「明日から……別の物語」

「それは、シアが幸せになる物語だといいね」

「幸せになる……物語」

 なんだか少しも想像がつかなくて。

 でも甘い期待が、胸の中をざわつかせる。

 幸せ……それは一体、どんな物語なのだろうか。

 それはこんな風に……。

 柔らかくて。

 暖かくて。

 それでちょっと甘くて。

 とても優しい、物語だろうか……。

 そんなこと。

 想像もできないのに。

 何故だか再びホロホロ、ホロホロと涙がこぼれ出したから、困ってしまった。

 もういっぱい泣いたのに。

 まだ足りないのだろうか。

 何でこんなに、悲しいのだろうか。


「良いんだよ。止まるまで、沢山泣いて良いんだよ。物語の始まりは、笑顔でないと」

 ポン、ポン、と。

 再びエイネシアの頭を撫でだした手に、ぎゅうぅとその胸に縋りつく。

「シア……よく、我慢したね……」

 どこか悲しそうに。切なそうに。


「今まで……よく頑張ったね、エイネシア」


 シア、シア、と。

 そう呼ぶ声が甘やかで。

 とてもとても、懐かしくて。

 その声を聴きながら、沢山泣いた。

 もうすべての涙を出し尽くすかのように、沢山泣いた。

 何が悲しいのかも忘れるほどに。

 ただただ泣いて。

 そして沢山の想いに、整理をつけて行った。



 楽しかったことも。

 悲しかったことも。

 辛かったことも。

 言えなかったことも。


 全部全部整理して。

 全部全部、涙に変えて。



 これでこの物語は、終幕だ――。








第二章 NORMAL ENDING

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