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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第二章 エデルニアの雪融け
59/192

2-24 最後の日(4)

「ッ、何をしている! 良い機会だ、二人とも追放してしまえ! 王子へのこのような無礼、極刑にも値するぞ!」

 そこに、ワッと躍り出て声をあげた男に、「シンドリー!」と、ヴィンセントが声をあげる。

 だがその声を飲み込むかのように、「不敬だ」「国家反逆だ」と、わっと周りが騒ぎ出す。

 そんな彼らの中から進み出てきた一人の鋭い目つきの生徒が、途端にグッとエイネシアの腕を掴んだ。

「大人しくしろ。殿下の裁可だ」

 気が付いた時にはもうギリギリと腕を掴み上げられていて、すぐにもエドワードが「貴様!」と声を上げて手を伸ばした。

 だがそれよりも早く。どんっ! とその男――マクレス・シグノーラを突き飛ばしたアルフォンスの背中に、エイネシアは顔を跳ね上げる。

 大きな背中とサラサラと襟首を掠める黒髪と。その手に鞘ごと剣を抜き、堂々とマクレスを突き飛ばしてエイネシアの前を庇った騎士。

 まったく、予想だにしていなかった光景だ。

「アルフォンス!」

 ヴィンセントの厳しい声色が飛ぶ。

 アルフォンスの剣は、王子護衛のために下賜された騎士の剣。それを抜くという事の意味をアルフォンスは誰よりもよく分かっているはずだ。

「アル……ッ」

「マクレス・シグノーラ。不敬はお前だ」

 そう冷たく吐き捨てるアルフォンスの冴え冴えとした声に、崩れかけた体制を立て直したマクレスが奥歯を噛んでアルフォンスを睨む。

「貴様ッ。殿下の騎士でありながらッ」

「黙れ、シグノーラ」

 キリリと厳しい声色が、気迫でマクレスを黙らせる。

「殿下。貴族を裁くのは“近衛”の職務。いかに将軍のご子息であろうと、ましてやそれが大将軍閣下であらせられたとしても、それは越権行為です。違いますか?」

「ッ……あ、あぁ。そうだ」

 ヴィンセントがはっとしたようにマクレスを見る。

 そう。本来ならばヴィンセントは、それをこの場で唯一近衛に準じる身分を与えられているアルフォンスに任せるべきなのだ。

 だがそのアルフォンスはさらに、「しかし」と言葉を続ける。

「近衛が裁くことができるのは“貴族”のみ。恐れながらアーデルハイド公爵家のご令息、ご令嬢のお二人は、アンナベティ王女殿下のご令孫。先々代国王オズワルド陛下“三世”のご血縁です」

 途端に、ヴィンセントの顔色が青ざめた。

 そうだ。そうなのだ。

 ヴィンセントだって知っている。三世以内は親族。国王から三世の血脈にある彼らは、たとえ臣下に下っていようとも、紛れもない“王族”の一員。

「お二方は公爵家の人間である前に、“王位継承権”を持っておいでです」

 ザワッと皆がざわめく。

 それは皆、日頃認識していなかっただけのこと。だがアルフォンスの言う通り、彼らは確かに王位継承権を持っている。

 それも、ヴィンセントの後見を確固にしたほどの、強い正統性という付加価値を有した王位継承権を。

「王族を裁けるのは国王陛下のみ。殿下がここでどのようなご裁可を下さろうと、法的には何ら意味を持ちません。お二方を裁けるのは、陛下のみです」

 二度繰り返して言ったアルフォンスに、エイネシアもまた息を呑んでしまった。

 まさかのエイネシアも、それを失念していたのだ。

 だって、ゲームでは断罪されていた。王子の一言で、いとも簡単に。

 だがそうじゃない。

 そんなのはありえないのだ。

 元より、公爵家のことを王子が一人で決めるなどあり得ていいはずがない。

「え? ちょっと。何で? えっ。何で?! ヴィンセント様ッ!? 何であの二人を捕えないのですかッ!?」

 そうアイラが声を張り上げる。

 だがヴィンセントはただ顔色を曇らせただけで、言葉を紡ぐことができない。

「殿下……殿下の近侍として、謹んで諫言致します。どうか、ご撤回を……」

 そっと、囁くように。切なる思いで、アルフォンスはヴィンセントに言葉をかける。

 出来るだけ声を潜めて。どうか、どうかと。

「ッ……いや。私は一度自分で言ったことを撤回するような無責任な真似は……」

「内乱になります」

 その一言に、ヴィンセントが言葉を呑む。

「本気で、アーデルハイドを離反させるおつもりですか? お二人を追放し、人望ある宰相閣下を敵に回し、戦でもお仕掛けになるおつもりですか?」

「ッ……」

「それだけではありません。ラングフォード卿が見ています」

 チラ、と壁際を見やったアルフォンスの視線に、ヴィンセントもそちらを見やって口を引き結んだ。

 ジッ、と。まるで見定めるかのように鋭い眼差しでヴィンセントを見るアーウィンの視線。

 国王の裁可も待たずに突如、スカーレット侯爵家という南方でも有数の権門貴族の娘と婚約をした、南方公のご子息。そして彼は、現国王の実の甥である。

 この国では女性にも王位継承権はある。今最も王位に近しいのは確かに現国王の子供達かもしれないが、その次に王位に近しいのは、まず間違いなくウィルフレッド王の弟妹であり、そして妹の子であるアーウィンなのだ。

 もしも。もしもアーデルハイドに引き続いてラングフォードが離反したとして、下手をすれば王位の正統性までラングフォードが持って行ってしまう可能性はかなり高い。

 そうなり得るほどに、ヴィンセントの後見は弱い。

「お願いします。撤回を……」

 そう求めたアルフォンスに、ヴィンセントはまだ言葉を飲み込む。

 撤回を。分かっている。そうせねばならないと。

 だが本当にそれでいいのか。

 ここで王太子が折れて。

 過ちを認めて。


 あぁ、そうだ。

 そうなのだと、やっと気が付く。

 どうしてエイネシアが、自分一人罪を背負い、何も言わずに去ろうとしたのか。

 わざわざ自分から不敬を犯すことで、罪を着たのか。

 どうしてこれまで、エイネシアが自分の罪とされたことに反論をしてこなかったのか。

 ヴィンセントに“撤回”などという恥をかかせないためだ。

 衆目の中で、ヴィンセントが貴族達に侮られるような状況を作らないため。

 他でもない、“王太子”であるヴィンセントが、やがては彼らの王となることを見据えて。

 そのために、自らが罪を着て――。

 “内乱”を起こさぬために――。


「ッ……」

「殿……」


「アル、やめて――」


 そっと。切に願うようにと吐き出されたエイネシアの声色に、アルフォンスが視線が動く。

「お願い。もうやめて。違う。こんなのは、私の望んでいた結末じゃあないわ」

 そう首を振るエイネシアに、けれどエドワードもアルフォンスも己のしたことを撤回するつもりはない。

 元よりエイネシアがたった一人で罪を着て去ってゆくつもりだったなど、知っていたらこの場所に連れてなど来なかった。

 そんな理不尽、認めていいはずがない。

「誤りは、正すべきです」

「それでもよ、アル。お願い。エドも。貴方達は殿下の近侍でしょう?」

「関係ありません。姉上が本気で()()を望まれるのであれば、私もそれについて行く。それだけのことです」

 そう冴え冴えとした微笑みで言うエドワードのその一言に、エイネシアは、ハッと目を見開いた。

 あぁ。分かった。そうか。そういうことか、と。

 今この場所を、何事も無く収める唯一の方法。殿下に己の過ちを認めて処分を撤回させる必要も無く、かといってアーデルハイドを離反させずに収めることが出来て。まるで何事も無かったかのように、何もかもを“まっさら”に戻す方法。

「ッ……エド」

「私は、姉上の判断に従います。もしここを出て行かれるのであれば、私がエスコートを」

 本当に、本気でそう言っているのだ。

 アーデルハイド家と、その領民のことも何もかも。この瞬間に決まるというのに。

 本気で。

「ッ……あぁ……」

 そして本気で。エイネシアを救おうとしているのだ。

 妥協なんてものはない。

 ただ何事も無く。平穏に。

 何もかもを。

「エド……」

「姉上が、決めてください」

 そのすべてを、エイネシアに任せようとしているのだ。

 その気持ちがわからない程、愚鈍じゃない。

 どうか、と。そう願う彼の本心が分からない程、馬鹿じゃない。



「……殿下」


 ゆっくりと。

 エドワードとアルフォンスに挟まれながら、ヴィンセントの前に凛と立つ。

 青い顔で、酷く厳しい顔をしているその人。

 その厳しい顔が懐かしいだなんて、本当に、自分は碌な関係をこの人と築けていなかったのだと実感する。

「今宵は礼を失するどころか、大変なご無礼を申し上げました……。アイラさんをエスコートなさった殿下への私のささやかな嫉妬でございました……。ですがこのような大事にするつもりはなく、今は殿下の忠臣たる二人に窘められ、己の無礼を恥じております」

「……エイネシア」

「殿下。どうかこの罰は後ほどご存分に。ただどうか、どうか、この謝罪を……受け入れてください」

 お願いします、と、深く深く頭を下げながら、硬く握りしめる拳が不安に震えた。

 受け入れてもらえなかったら。

 いいや。それだけじゃない。

 もし受け入れられたとして、そしたらどうなるのか。

 物語は、どうなるのか。


「ヴィンセント様ッ。駄目ですわっ! 一度お言葉になさったのにッ」

 アイラがグッとヴィンセントの腕を引っ張る。

 その顔には焦りが浮かんでいて、今ここでエイネシアをどうにかしなければという必死の色が見えた。

「ッ、そうだわ。投獄っ。投獄すべきです! このようにヴィンセント様を惑わして、このような恥をかかせるだなんてっ。私、許せません!」

 鋭い眼差しを向けたアイラに、しかしバッとヴィンセントの手がそんなアイラの目の前を制したものだから、アイラは目を丸くして言葉を失した。


 じっと。深く頭を下げるエイネシアを見つめる青い瞳。

 視線の先で目に留まった、きらりと光る、白蝶貝の百合と紫の薔薇の髪飾り。

 それはこの日、全てを覚悟して。それでいてなお、彼女が身に着けてきた、矜持と責任だ。

 その薔薇を課したのは……自分だ。

 それにふさわしくあれと、彼女をがんじがらめにしたのは、自分だ。


 今なお、何が真実なのかが分からない。

 何を信じたらいいのかも、分からない。

 ただ、今そこでジッとヴィンセントの言葉を待つその姿は、ひどく()()()()

 何度も、何度も見た。

 そう。何度も。

 ヴィンセントが自制を促すたびにそうやって、深く深く頭を下げて。

 でも一言だって、彼女がヴィンセントを責めることは無くて。

 それが無性に……“空虚”で、腹立たしかった。

 彼女は何を思い、何のために、頭を下げて来たのだろう。



「謝罪を、受け入れる――」


 その一言に、ゆっくりと持ち上がった薄紫の瞳。

 その色が……大嫌いだった。

 父の隣でヴィンセントを見る王妃エルヴィアの色。

 とても冷たくて。どこか死人のように生気が希薄で。

 うらやましいほどに気高く、恐ろしいほどに美しく。

 なのに氷のように冷たい、父の正妃。

 彼女を思い起こすその色が……嫌いで。

 そして、エイネシアの謝罪を見るたびに、安堵していたのだ。

 母フレデリカを惨めにする王妃が、己に首を垂れているようで。

 その何憂うことない孤高の存在が、己にひれ伏しているかのようで。

 それに、安心して――。


「婚約の件は、追って陛下にお伺いを立てる。それで、いいな……」


 ニコリともしない。

 とても静かで。何を考えているのか分からない顔。

 ただただ冴え冴えと美しく。

 恐ろしいほどに、完璧で。


「有難うございます、殿下……」


 さも当然のようにヴィンセントを立ててくる。





「さぁ! 茶番はおしまいですわよ!」

 パンッ! と。

 甲高い音と共に明るいアンナマリアの声が、響く。

 その瞬間、皆が何か呪縛から解かれたかのように、あれ? おや? なんだったんだ? と、混乱したように辺りを見回す。

 この一連の、国をも揺るがす大事が起きたばかりだと言うのに、皆実感もなくおろおろとあわてふためく。

「まったく、痴話喧嘩ならお二人でなさって、お兄様もお義姉様も」

 わざとそう明るく言いながらエイネシアとヴィンセントの間に入ってきたアンナマリアの穏やかな声色と温厚そうな面差しが、段々と皆の混乱を拭い取って行った。

「ハハハ。なんだか緊張したな」

「なんだったんだ? 殿下のご趣向か?」

「四公爵家が離反なんて、ははっ、あるわけないか!」

 アハハ、アハハハ、と笑いながらざわめきを取り返してゆく会場。

「ヴィンセント様……」

 そっと、不安そうなアイラが大きな瞳を持ち上げる。

 その手を握りしめたヴィンセントは、大丈夫、と促すように一つ瞼を下ろして見せる。

 何も心配はいらないと。

 だがその瞬間。

「見損ないましたわ。お兄様――」

 周りの喧騒にまぎれるかのようにして冷たく吐かれたアンナマリアの声が、ヴィンセントの背筋をきゅっと寒くした。

「一体これまでどれほどの方が、“お兄様の許嫁”ではなく、“エイネシア様”を通して、尊敬と忠誠を捧げて下さったと思っているのかしら」

「……ッ」

「例えどんなにか後から後悔なさっても、もう二度とシア様は手にお入りにならないのよ。それを選んだのは、貴方自身。そのことを、よくご自覚なさって。お兄様」

 とても冷たくて。

 これが本当に、あのおどおどと逃げてばかりいたアンナマリアなのかとたじろいだ。

 エイネシアとは、アンナマリアをこうまで変えてしまえる、人間だったのかと……。


「エイネシア……」

「……」

 静かに目を伏して。

 ぎゅっと拳を握りしめる、静かな少女。

 その顔は。

 あぁ。知っている。

 ヴィンセントに叱責された時に見せていた、堪えるような眼差し。

「婚約は、破棄する」

 改めて告げられた言葉に、ビクリ、と、僅かに身じろいだ手。

「私はアイラを愛している」

 うっとりと、ヴィンセントを見上げる無邪気な少女。

 この少女に……何の面影を見たのか。何を、求めたのか。

 今では良く分かる。

「エイネシア。君を、“エルヴィア様”にはさせたくない」

 ようやく、ゆっくりと。ゆっくりと、エイネシアの目が持ち上がって。

 それから少し悲しそうに。そしてどこか泣きそうに。寂しそうに微笑んだその顔は、始めてみる顔で。

 微睡むように美しい……ただの一人の、生きた少女の顔で。

「ええ……有難うございます。殿下――」

 あぁ。いつからだ。いつからエイネシアは、自分を“ヴィンセント”と呼ばなくなった。

 いつからだ――。

「……ごめんなさい。私は……これで」

 にわかに震えた声と。

 ゆっくりと後ろに下がったその華奢な肩。

 姉上、と、心配そうに手を伸ばしたエドワードに、気丈とした笑顔を投げかけて見せる。

 あぁ。どうしてその顔を……疑わなかったのだろうか。

 どうして彼女が本気で、何があっても変わらぬ氷の姫だなどと思っていたのか。

「エドはここにいて……。殿下のお傍に……」

 婚約を破棄されてなおそう求めるエイネシアの言葉が、今はまっすぐと耳に届く。

 一体何度だ。何度彼女はその言葉を口にしたのだ。

 ヴィンセントの知らない場所で。

 何度……。

「ッ……ごめん、なさい。お先に……」

 失礼します、と。

 いつもなら完璧なまでの礼を取って静やかに退出するはずのエイネシアが、声を途絶えさせて走り去るのを始めてみた。

 それを追いかけそうになって、グッ、と引き止めたアイラの手に、我に返る。

 追ってどうする。

 どうなる。

 たった今アンナマリアが言っただろう。

 もう二度と、手に入らないのだ、と。

 分かっている。元よりそのつもりだ。

 だが。

 だが……あんな顔を。

 初めて見た……。


「初めてではないですよ」


 静かに。

 とても静かに呟いたエドワードに、ハッと顔をあげる。

「姉はいつも。殿下が去った後には、あんな顔をしてばかりいました。私にまで気丈と笑って見せて。背中を向けて。それで誰もいなくなったところで、あんな顔をして泣くんです」

「ッ……エド。ならば早くエイネシアをッ」

「それは私の役目ではありません」

「何?」

「姉が求めているのは、私ではない。昔から。姉が人前で泣くのは、あの人の前だけです」

「あの人……?」

「貴方でも、私でもない人です」

 エドワードはそれ以上何も言わず。

 ただ皮肉がかった冷たい面差しで視線をよこしただけで、何も教えてはくれなかった。

 そうだろう。最早そんな資格さえ、ヴィンセントにはないのだ。

「ヴィンセント様……どう、なさるのですか? あの。アーデルハイドは、どうなったのですか?」

 そう困惑した顔で問うアイラに、チラリと視線を寄越して。

「何の心配もいらない」

 そう答えながらも、言葉に詰まりそうになってしまった。

 何の心配もいらない。何も。全部……エイネシアとエドワードが、上手く収めてしまった。

 何の問題も無いようにと、何もかも……。


「お義姉様は……シア様は、本当に……お兄様が、お好きだったのよ」

 ポツリ、と。

 去っていったその後ろ姿を今なおじっと見据えるかのようにして、アンナマリアが呟く。


『お慕い申し上げていました……』


 信じがたい言葉。

 そんなはずがないと思いながら。

 でもどこかで多分、知っていた。

「王宮で迷子になった時に、お兄様のお名前をお呼びしたら、本当に見つけてくださって。格子越しに触れた手が、ドキドキした、と。そう、泣きそうな顔で言ってらっしゃったわ」

「……あぁ」

 首肯したヴィンセントに、チラ、と、アンナマリアが顔を向けた。

「覚えて、いらっしゃるの?」

 そう言われるから、言葉に詰まった。


 あぁ、そうだ。いつだったか。

 エイネシアが入学した頃だろうか。

 周りの視線が窮屈で、強引にエイネシアの手を引いて校舎を連れ回した。

 その帰り道、彼女が言ったのだ。

 良い思いが出来た。まるで、あの時のよう――、と。

『迷子……? 手など引いたか?』

 なのに冷たく突き放したヴィンセントの言葉。

『さぁ……。私の記憶違いかもしれませんわね』

 そう笑った彼女の顔は、どんな顔だっただろうか。


「……忘れたかったんだ。あの日、森の側で怯えている許嫁をすぐに見つけてやることができなかったことも。エイネシアの手に手を重ねて歩いた先で、自分のせいでエイネシアが沢山の怪我をしたことも。私はずっと、悔いていた」

「まぁ……」

「先に道を掃わせればよかったのにそれができなかった。かける言葉が思いつかなくて、口を噤んで本を読んでいるふりをした。叔父上と親しげなのが気に食わなくて、図書館に居座るなどという子供じみた行動をとった。そのすべてが、恥ずかしかった」

「……でもエイネシア様は、そのすべてを、愛おしい思い出だと思ってらっしゃったわ」

「……そうか」

 そんなことさえも、知らなかったのだ。

 自分たちはどうしようもないほどにすれ違い。

 そしてあの頃の無邪気なエイネシアを、みるみる人形のようにしていったのは、紛れも無くヴィンセントだ。

 ヴィンセントが、彼女をそうさせたのだ。

 そういうことなのだ。


「もう、時間は巻き戻せませんわ」

「……あぁ」




 この世界に、“コンティニュー”はないのだから。







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