2-24 最後の日(3)
「殿下。私が初めて殿下にお叱りを受けたのは、“シンドリー侯”の件でしたわね」
「……」
「候に我が家と弟を侮辱され、また候の礼を失した発言に言い返した私を、お窘めになりました。殿下のお立場も弁えず、公爵家の威光を着て“正論”で侯を追い詰めようとした。下手をすれば大きな騒ぎになったかもしれないというのに、それを慮ることもできなかった己の過失に、私も深く反省を致しました」
あの頃のヴィンセントは、とても慎重だった。
幼いながらも自分を取り巻く情勢をよくよく理解していて、シンドリーを敵に回してはならないことを理解するとともに、エイネシアにもその情勢を共有することを求め、自制を求めた。
その叱責は深くエイネシアを打ちのめしたけれど、だがそれはエイネシアがヴィンセントの傍に居るために、それを認めた上での叱責だった。
「私がパーティーを抜け出して休んでいるのを、窘めにいらしたこともありました。王太子の許嫁として主催者への礼を失し、相応しくない振る舞いをした。ええ。まったくその通りでした。私はそれを真摯に受け止め、謝罪を口にしました。殿下の“三度目はない”とのお言葉を胸に、どうすれば殿下のお心に沿えるのか。どう弁えればいいのかを、来る日も来る日も考え続けました」
もう。もう忘れてしまったのだろうか。
王太子とその許嫁という体裁を、責務として互いに背負い、互いに守ってきた。
その小さな背にかけられてきた大人たちからの期待。
共にその責務を背負い、この国の礎となることを少しも疑っていなかった頃の話。
「ですが殿下。今の殿下は如何でしょう?」
「なんだと……」
「たとえ身内を馬鹿にされてでさえも、この国の王子として、その許嫁として、それをぐっと我慢して笑顔で答えねばならないことがあると。そう教えてくれたのは殿下でした」
「あれは政治的な判断だった! 君が個人的な嫉妬でアイラにしていたことと同じではない!」
「では舞踏会の日。私が倒れたと聞いてなおそれを“同情を引くためだ”と決めつけ、私を一目見ることも無く平然と舞踏会を楽しまれたというのはどうなのでしょう?」
「そのようなことはしていない!」
「私の症状とその時処方された薬は薬室に問い合わせていただければ分かりますわよ。それが、同情を引くためだったと仰る理由はなんですの?」
「状況証拠だけで十分だろう!」
「そう……では先日のお茶会の件でも宜しいですわ。殿下は私がアイラさんに紅茶をかけようとしたと仰いましたが、それを誰にお確かめになったのですか?」
「私がこの目で見ていた」
「この目で? アイラさんに紅茶がかかっていらっしゃった? 本当にそうでしたか? この場にも、あの席にいた方々がいらっしゃいます。聞いてみてはいかがですか? 私がアイラさんに出して差し上げた氷の他に、その後アイラさんが薬室のお世話になった記録なんて有りませんよ。対して、そのアイラさんの目の前で、私は一体どのような無様な姿をしていましたか?」
自らを無様と言ったエイネシアに、一部で、ざわざわ、とざわめきが起った。
そう。あの場の者たちは皆が見ていた。ドレスに紅茶をひっかぶり、侍女が倒したポットのお湯がかかって赤く手を腫らした上に、髪飾りを壊してバラバラと乱れた髪を背中に舞わせた無残な姿を。
あの状況で、一体エイネシアが何をどうしてそうなったというのか。
アイラに紅茶をかけようとした? 馬鹿な話だ。だって紅茶は、エイネシアにかかっていたではないか。
「屁理屈を言うな! 君はいつもいつもそうやって自分は悪くないという顔をして、さもアイラが礼を失したかのように振る舞ってきた! 表向き詫びていればそれでいいとでも思っているのか、いつも表面ばかり取り繕って、裏でこうやって手を回す! それを私は何度もこの目で見た!」
「はぁ……アイラさんが何度も礼を失していたことは、誰の目にも明らかではございませんか。私は未だかつて一度として、アイラさんにちゃんとした挨拶の一つもされたことがございませんよ。その上、王族に許可も無く触れる。許嫁のいる男性の腕をつかむ。招待があったわけではないお茶会に居座る。あげればきりがありません。しかし学院はそれらを学ぶ場でもあるのですからと目をつむってまいりましたが……そのせいでどうやら皆様、“慣れ”てしまったようですわね」
幾人かの傍観する学生達が、そういえば、とでもいうように顔色を濁して顔を見合わせている。ひとたび冷静になってみれば、今この状況におけるアイラの恰好も立ち方も、何もかもがおかしいと分かるはずなのだ。なのにいつの間にか皆、それに慣れてしまっている。
「冬のお茶会の一件もそうです。私が一度でもアイラさんを責めましたか? もしそうだとしても、しかし私が怒るのは当たり前じゃありませんか。あの時アイラさんとの間にあった騒動のせいで、簪は壊れたのです。直接的でなく間接的であったとしても、アイラさんが原因で割れたんですのよ? その意味は、殿下もご存じのはず。あれがどういうものであったのかも」
「まだその話を引っ張るつもりか! だからといってアイラに責任を押し付けるなどっ……」
「本当に責任を押し付けていたのなら、すでにこの場にアイラさんはいらっしゃいませんわよ」
公爵家の家紋を傷つけたのだ。その気になれば近衛に引き渡して、重たい刑罰にだって処せたのである。そうなっていないのだから、責任なんて問うていないことは明白ではないか。
「それに私はきっぱりと、“ダグリア家へは私から謝罪をする”と話を収めましたわ。それで殿下は私に何を仰ったか。ご自分で覚えておいででしょうか?」
「何?」
「“それがいい”、と。それがいい? それだけですの?」
「何が言いたい」
「“百合”を割ったんですのよ?」
その一言で意味が通じないのであれば、最早話す価値もない。
それは驚嘆にポカンと口を開いているアーウィンの顔を見れば一目瞭然で、まさか本当にそんなことがあったのか? と青い顔でビアンナに問うている……それが、“普通”の反応だ。
たとえ事故であっても、男爵令嬢が“百合”を割った。
弁償してもらう必要性など微塵も感じないが、だがこの事態をヴィンセントが少しも重く受け止めていないというその事実が問題なのだ。
ましてやあの時のヴィンセントは、仮にもエイネシアと共にお茶会の主催者であったはず。そのお茶会で、ヴィンセントの招いた客との間におきた出来事なのだから、むしろヴィンセントが自ら対処するべきだったのだ。
少なくとも本当にアイラを庇うのであれば、ヴィンセントが、家紋の主であるアーデルハイド公に詫びをいれねばならなかった。それがダグリア公爵家から頂いた大切な品だと知っているなら、ダグリア家へも、エイネシアが故意に割ったものではないのだと、言葉を尽くして取り成しをするべきだった。
なのにヴィンセントはその一切から目を閉ざし、エイネシアただ一人にすべてを放り出した。そんなことをするから、こんなデタラメの過ぎる偽の手紙などに踊らされるのだ。
その簪が“エイネシアのものであった”という事実が、この王子の目を曇らせる。彼から当たり前を失わせる。
「それは……あのような席に、そんな貴重な物を身に着けてきたお前にも責任はあるだろう。そもそもあのような、あの日の招待客に宛てつけるような権力の象徴のようなものをっ」
「あの日」
思わず声色がきつくなる。
「あの日、アイラさんが身に着けていた髪飾りを今ここで声高らかに口に致しましょうか?!」
そう言った瞬間、流石にヴィンセントが口を噤んだ。
そうだろう。そうだろうとも。エイネシアの目の前でありながら、ピンクの薔薇の髪飾りを纏った少女。それはエイネシアに宛てつけるための権力の象徴だ。しかもそれは、ヴィンセントが贈ったものだ。
「殿下。殿下は私が嫉妬のせいでアイラさんに酷いことを為さったと言いましたが。それで? 私がそんなことをする理由って、一体何ですの?」
「そんなもの……」
「ええ。そんなもの。分かってらっしゃるのでしょう?」
切なくて。
悲しくて。
ぎりっときつく握りしめた拳が、情けなく震える。
何故嫉妬をするのか。
それはエイネシアが、彼の許嫁であるから。
それから、それから……。
「でももう。終わりに致しましょう」
震える声を叱咤しながら、自らその話を切り出した。
みるみる、驚いたように開かれていくヴィンセントの目に、あぁ、そうだ。やはり彼は、エイネシアが自分を見限るだなんて、ちっとも疑っていなかったことを知る。
いつだったか、ハインツリッヒが言っていた。エイネシアは、ヴィンセントを甘やかしすぎたのだと。
今ならその言葉がよく分かる。本当に、そうだった。
エイネシア・フィオレ・アーデルハイドは、絶対に自分だけは裏切らない。
たとえアイラに嫉妬しようとも、たとえ他の誰かを貶めようとも、ヴィンセントを立てないエイネシアなんてエイネシアじゃない。
彼はそう信じて、微塵も疑っていないのだ。
自分が何をしても、エイネシアは疑わない。傷つかない。変わらない。どれほどに厭い、言葉では何を言っていたとしても、結局のところエイネシアは彼にとって、そういう“人形”でしかないのだ。
だからこの衆目の中でエイネシアを咎め、辱めたところでエイネシアが傷つく事も考えていない。
追い詰めたところでエイネシアが本気で反論することなんて思っていなくって、どうせ最後には頭を下げて、『許してください』と泣き縋るのだと思っている。
だから婚約を破棄したところで、“アーデルハイド”がどうこうなるなんてちっとも思っていない。
ヴィンセントの王太子位を守ってくれるエイネシアというお人形は、必ずアーデルハイド家に対して、“ヴィンセント様とアイラを助けて”と請うものだと思っている。
だけどそんなのは御免だ。
もう、この人に振り回されるのは嫌なのだ。
自分の結末は、自分でつける。
「私はエイネシア。エイネシア・フィオレ・アーデルハイド。お人形でも、殿下の王太子位を盤石にするための道具でもなければ、殿下の為だけに役に立つ都合の良い駒でもありませんのよ?」
「ッ……」
「アーデルハイドは、長年陛下と殿下に忠誠を尽くしてきました。私もまた、そう努めてきました。殿下との関係がただの義務や責務でしかないことを知りながら、それが殿下とアーデルハイドのためであるからと、それに尽くしてまいりました。でも殿下。私がそうであったのは、殿下が義務や責務を共に背負い、共に歩んでくださっていたからなんですよ?」
だけどもはやその歯車は、違えられた。
私は決して、裏切られてなお懸命にあなたを支え続ける懇親的なお人形では、ないのだから。
「父上は“この”判断を、私に一任してくださいました」
「ッ。まて。言うなッ、エイネシア!」
今更遅い。
先手なんて、取らせてやらない。
だってどうせ貴方も、そのつもりだったのでしょう?
「婚約を、白紙に戻してくださいませ、殿下」
「ッエイネシア!」
「アーデルハイドは変わりません。変わらず陛下をお助けし、この国の四柱の一つとして王国をお支え致しましょう。しかし、この婚約だけはなかった事にしてくださいませ」
「ッ……」
「それが、“殿下のお話”なのでございましょう?」
「それは……」
「どうなさったの? ヴィンセント様」
クイ、と、アイラがヴィンセントの袖を引っ張る。
好都合じゃない。どうせそうするおつもりだったのでしょう? と。
アイラには、この状況が見えていないのだ。
「許嫁でなくなれば、私がアイラさんに嫌がらせをする必要も無くなります。他の皆様に何かを言う必要も。殿下に、“お前が王になるために私を利用しているんだろう”だなんて妄言を吐かれることもなくなりましょう。私は王太子妃の地位を自ら捨てるのですから」
「ッ……な、んで……」
「これでもう、私は殿下とは何の関係もない。これで宜しいのでしょう? それが、殿下のお望みなのでしょう?」
「……ッ」
ただ言葉もないヴィンセントに、エイネシアは一つそっと目を細めて、切な気な吐息を溢した。
あぁ……最後の最後で。そんな、かつてのような理性的で冷たい眼差しをなさらないで。今更思い出しても、もう遅いのだ。何もかも。
エイネシアを王にするためにヴィンセントがいるんじゃない。
ヴィンセントを王にするために、エイネシアがいたのだ。
でももう、そんなのはやめよう。
今更アーデルハイドを欲しがられても、もうそれはできないのだ。絶対に。
エイネシアが、そう決めたのだから。
だからどうかもう、これで終わりにして。
全部終わりにして――。
でも。
でもね……。
私は別に、貴方の不幸を見たかったわけじゃないのよ。
貴方を私の代わりに断罪したかったわけでもないの。
貴方が難しい立場の中で、懸命に王たらんと己を律し続けたことを知っている。
エイネシアに厳しい叱責をする傍らで、頼りない自分の力に悔しそうに口を引き結んでいた小さな頃のあのお顔を、忘れもしない。
今も王位を微塵だって諦めているわけでないことを知っている。
ただその道に、もうエイネシアは必要ないのだというのであれば……それを受け入れよう。
そんな貴方に、一つだけ――。
最後の贈り物を、残してゆこうと思う。
裏切りに裏切りを積み重ねたこの一年の貴方にではなくて。
一人黙々と研鑽をつみ、王子たらんと耐え忍んできたかつての貴方に。
「殿下。私、エイネシアが申した言葉に嘘偽りはございません。されどいち公爵家の臣でありながら、殿下に対して大変に礼を失する言動を取り、あまつさえ絶対に許されないご無礼を申し上げました。ひいては、いかなる罰も仰せのままに承る所存です。どうぞ、追放なり身分剥奪なり。思うがままになさってください」
ドレスの裾を、ゆっくりとつまみ。
震える指先を隠しながら、恭しく裁きを待つ罪人の如く低く頭を下げる。
これが。この瞬間が、エイネシアが描いてきた構図。
その状況の意味を理解できた者は、きっと多くない。
ヴィンセントは、どちらだろうか。
もしもこの日、ヴィンセントが一方的にエイネシアを責め立てて一方的な婚約破棄を口にしていたならば、まず間違いなくアーデルハイドが離反しただろう。
アーデルハイドが離れれば、エイネシアに憂えの払拭を託していたシルヴェストも。四公爵家の結束を重んじるラングフォードも。そしたらあるいはダグリアも。少なくともヴィンセントの王太子位は、この時点で消滅しただろう。
だがエイネシアはこの状況になってなお、ヴィンセントを守ろうとしているのだ。
自分はアーデルハイドであった。アーデルハイドを背負っていた。その矜持を持って、お傍にお仕えしてきた。
でも今、そのアーデルハイドとして絶対にしてはならない、王族に一方的に婚約破棄を申し出るという大罪を犯した。
だからどうぞ。この“アーデルハイドにふさわしくない罪人”を、裁いてください、と。
これであなたの望み通り。私は貴方の前から消えていなくなる。
アーデルハイドを残して、いなくなる。
これは、アーデルハイドではない。
“エイネシア個人”がしでかした、ヴィンセントへの不敬だから、と。
それを。
それをこの人は、理解しているであろうか。
「エイ……」
「ヴィンセント様。私、そんな重たい罰なんて望んでいませんわ!」
声を掛けようとしたヴィンセントを遮るように、グッとアイラがその腕を引っ張る。
その声に、ハッとヴィンセントが傍らを見やった。
「それは……色々と。嫌がらせは受けました。次は何をされるのかと怯える毎日でした。母は? 男爵家の皆は? 私のせいでエイネシア様がヴィンセント様にまでひどいことをするんじゃないかしら、って。本当に大丈夫なのか。本当に無事なのか。とても、とても怖かったっ!」
うるっ、と涙を浮かべて見せるアイラに、ざわざわと場が鳴る。
「でも全部私のせいです! 私がッ……私が……」
きらきら、きらきらと。
涙の膜を張った大きな瞳が、切な気にヴィンセントを見上げる。
「私が……ヴィンセント様を。好きになってしまったから……」
「アイラ……」
切なくて。悲しくて。嬉しくて。そんな複雑な面差しで、柔らかな声色が少女の名を呼ぶ。
なんて甘い声色。そしてなんて憂えた響き。
それはまるで、決して結ばれぬ悲劇の二人のよう。
「ごめんなさい。ごめんなさいっ、私ッ……こんなことを言ってはいけないのにッ」
「私もだ」
真っ直ぐと溢されたヴィンセントの言葉に、これまでで一番場がざわついた。
思わず足を踏み出しかけたアーウィンを慌ててビアンナが掴み止めるのが目端によぎる。
「私も。君を愛しいと。そう思っている」
「ッ……ヴィンセント様……」
「だからその気持ちを否定しないでくれ」
これは一体何の茶番なのか。
低く、低く頭を下げたまま。
エイネシアはただただヴィンセントの決断を待つだけだ。
「エイネシア。お前の罪は重い」
「貴方はまごうことなき、王太子殿下であらせられます。殿下がそう思われるのでしたら、どうぞお好きになさってください」
「お前にもはや、王家の正妃になる資格はない。婚約は破棄する」
「はい……」
ズキリ、と。やはりどんなにか覚悟していても、胸は痛んだ。
「また罪もない多くの者に行った浅ましい行為は、公爵家の娘としても断罪に値する所業だ」
「……さようでございますか」
「よって、身分を剥奪。庶人とする」
ザワザワと、その重たい処遇に皆が困惑気に顔を見合わせる。
これは何? ドッキリなの? 何が起きているの? と。
「また今後一切、アイラに関わることは禁じ、王都を追放。その身を悔い改めるまで、アーデルハイド領から一歩たりと出ることを禁じ……」
「ヴィンセント様ッ。そんな。あまりにも重すぎます!」
口を挟んだのはアイラだった。
ピクリ、と、傍らを見やるヴィンセントに、ウルウルとした目が一生懸命に背伸びをしてその腕を引っ張る。
「それは……同じ王都にいるのはとても怖いです。エイネシア様も……きっとご家族も、私に仕返しをしたいと思うはずです……。でもそのくらい当たり前です。殿下のお心を奪ったのだもの。エイネシア様やご家族が私をお恨みになるならば私もその恨みを受け止めるべきですッ」
謙虚なふりをして益々エイネシアを貶めてゆく言葉。
その言葉の中に、アイラがまだ“エイネシア”ではなく、“アーデルハイド”を標的にしている様子がうかがえ、エイネシアも俄かに口を歪めた。
まったく……おバカな割に、余計なことばかりしてくれる。
「いけませんわ、アイラさん! そんなことを言ったら、本当に何をされるかッ」
「殿下ッ、お考え直しを! アーデルハイド家の権力は絶大です。我々貴族は誰も公爵家に刃向かうことなどできませんッ。ましてや当主はこの国の宰相! エイネシア様がたとえ庶人となろうとも、宰相閣下は娘をそのようには決して扱いませんよ!?」
「国外追放を! 公爵家の、その権力の及ばない場所へ!」
「国外追放を!」
「国外追放を!!」
ワーッ! と、一斉にいつものアイラの取り巻き連中が騒ぎ立てはじめる。
その渦はいつしか大きくなり、一年を中心に、追放を、追放を、と連呼が始まる。
その騒然とする状況を、ヴィンセントはざっと見まわして。
それから未だなおエイネシアがじっと処分を待っているのを見やると、その姿に一つ目を細めた。
追放? 馬鹿な。
いや……だが自分の手から離れるというのであれば、いっそ王国から消してしまうべきだ。
この女はそれだけの意義を持っているのだから――。
「わかった」
そう呟くと共に、場が収まる。
「身分剥奪の上、国外追放を命じる。その権力をほしいままとし、自分の驕りが破滅を招いたのだという事を生涯後悔して生き恥をさらすがいい!」
カンッ、と、高らかな踵の音が鳴り。
処分を聞き終えたエイネシアが、ゆっくりと顔をあげて。
ただ一度。一度だけ。
悲しげに、ヴィンセントを見やった。
あぁ。結局最後まで、この人にはエイネシアの何一つ伝わらなかった。
いわれのない罪。
いわれのない驕りとやら。
実家の権力なんて一度も使ったことが無いのに、そんなことさえも周りの言葉に促されて安易に決めてしまう。
そんな人ではなかったはずなのに。
でもそれでも。
それでもずっと。
ずっと。
八歳の時に、貴方に引きあわされたその時から、もうずっと。
「……それでも。どうしようもなく……」
ただただ、ひたすらに。
「お慕い申し上げていました……ヴィンセント様」
驚いたように。見る見る見開かれたヴィンセントの瞳。
そのブルーの瞳が、好きだった。
厳しい表情とは裏腹の、その優しい目元が好きだった。
「エイネシア……」
名前を呼ぶ、冷たいのにどこか穏やかな声色が、好きだった。
迷子になったエイネシアに、手を出せと言って鉄格子越しに重ねられた手。
その腕に抱き上げられて、一緒に乗った初めての馬。
いつも体裁や責務ばかりだった幼い少年少女たちの、イリア離宮でのささやかな幸せな日々。
エイネシアの手作りの菓子を、食べてみたい、と言ったり。
アルフォンスのおかしな行動に声を上げて笑ったり。
課題をこなすエイネシアの目の前で、凛と椅子に背を預けて本をめくっていた姿も。
全部、全部、この胸の中にしまってある。
楽しかった。楽しかったのだ。
その人の視線が此方を向くことが。
その人の声が自分の名を呼ぶことが。
その人の手が、差し伸べられることが。
本当に。
愛おしかったのだ。
「このような誤解を受けたまま去らねばならないことを……残念に思います」
でもこの問題をこれ以上蒸し返して、良いことなど何もない。
もしここでヴィンセントがエイネシアを在りもしない罪で貶めたことが知られてしまえば、公爵令嬢を貶めたとしてヴィンセントの方が糾弾されかねない。
いかに王族が上。公爵家が下とはいえ、罪もない者を貶めておいて許される者などありはしない。
だからエイネシアはそれを否定しない。
すべての罪をかぶって、去ろうと思う。
でもどうか。どうか忘れないでほしい。
その目が曇り続けていては、いつかまた過ちを犯す。
その時、エイネシアと同じ目にあった人物が、同じ判断をしてくれるとは限らないのだということを。
知っておいてほしい。
「どうか、殿下が真実を見定め用いる、正しき王となられることを、願っています」
そう恭しく述べてから。
ふと、自分の指に納まる指輪を見た。
アーデルハイドの娘である証。
今まで背負ってきた、公爵令嬢としてのすべてが、ここに詰まっている。
その指輪に手をかけて。
ゆっくりと、ゆっくりと引き抜いて。
その瞳に、ヴィンセントとの仲直りを願いながらエニーが塗ってくれた爪紅が映った。
とても、とても綺麗な色。
庶人には絶対に手の出ないような、甘い香りの最高級品。
エイネシア最後の、貴族の武装。
でももう終わり。
この印章を、殿下にお返しして。
それで……。
「必要ありません。姉上――」
パシンッ、と……エイネシアの手を掴み止めた掌に。
その目に飛び込んできた百合の印章に。思わず一瞬呆然とし。
それから、えっ?! と顔を跳ね上げた。
「ッ……エドッ?!」
「なっ。何をしているのッ!?」
思わずアイラの叫び声がかかる。
だがそんなの少しも耳に入れず。ただただ少し切な気に口元を緩めたエドワードの父にそっくりな顔が、エイネシアを呆然とさせた。
「ヴィンセント王子」
フワリと、姉を庇うようにして立つエドワードに、ヴィンセントが俄かに眉をしかめる。
アーデルハイドを敵に回すつもりはない。
そういう立場を取った。
だが……。
「姉上を国外追放になさるのであれば、今日この日を以て私もまた殿下の近侍のお役目を返上し、このまま姉を連れて所領へ戻らせていただきます」
「ッ、エドッ!? 何を言っているの! 貴方は何があっても殿下にお仕えするようにとッ」
「姉上は黙っていてください」
きっぱりと背中越しに言われた言葉に、ビクンッと驚いて口を噤んだ。
エドワードに、そんなことを言われたのは初めてで。
その背中がとんでもなく大きく見えて、引き止められない。
「エドワード。それは……姉と共に国外追放になる、という意味か」
怪訝そうに眉をしかめるヴィンセントに、「追放? お好きにどうぞ」とエドワードは冷たい笑みを浮かべる。
「ですがわざわざそんなお手間をかけていただく必要はありません。今日この日をもって西方公アーデルハイドは、爵位を陛下にお返しし、先祖代々より我らが受け継いできたアーデルハイド領に立ち戻り“王国を離反”致しますので」
「エド!」
真っ青な顔をして、今度こそエドワードの背中を引っ張った。
そのびくともしない背と、少しの迷いも無く笑みさえ浮かべてそう告げたエドワードに、ざわっッ! と、今までで一番大きなどよめきが起った。
それは、大きく目を見開いたヴィンセントが、思わず言葉を失って口をパクパクと泳がせるほどの衝撃で。
取り巻き連中さえも、ポカンっ、と口を開いて硬直した。
今。この方は、何を口にしたのかと……。
「ッ。エド。お願い、取り消して。取り消しなさい! アーデルハイドはッ」
「アーデルハイドは、王国の臣であり王家の四柱の一つ」
「分かっているのであればッ」
「私がそうであるように、姉上もまた、アーデルハイドです」
「エド!」
ゆっくりと。ゆっくりと、振り返ったエイネシアと同じ紫色の瞳。
そのどこかせつなくも優しげな瞳は、かつて同じベッドで身を寄せ合って眠った小さな頃を思い出させた。
でも違う。そうじゃない。
エドワードに殺されるだなんて未来はまっぴらだったけれど、でも自分の選んだ道にエドワードを、ましてやアーデルハイドを巻き込むつもりなんて微塵も無かった。
だから何も言わないでと。何もしないでと言ったのに。
なのに。
「私が姉上のいう事を聞くいわれはありません。私は私です」
「でもっ……」
「姉上はまだ殿下をお庇いになるのですか? 入学式の日の件。姉上がアイラ・キャロラインに接触していなかったことは私が証明できますよ。なのに彼女が言った言葉を覚えていますか? 姉上に命じられて、アン王女を探していたんでしたか? 姉上の友達と騙る誰かがそう促したんでしたか? それで? 勝手に姉上の友達を騙った人物は、見つかったんでしたか?」
「何を言っている、エド」
ヴィンセントの厳しい声色がエドワードを呼ぶ。
エドワードは再びその視線をヴィンセントに向けると、姉に向けたのとは違う、厳しい視線を投げかける。
「殿下は、許嫁である姉が誰かに貶められたにもかかわらず、その犯人を捜して下さいましたか? そのような誤解をして姉を傷つけたアイラ嬢に、姉へ謝罪をするようにと、一言でも仰ってくださいましたか?」
「それは……」
「舞踏会の日、アイラ嬢は姉にドレスを切り裂かれたと泣き叫んで飛び出していったそうですが、その控えの部屋で何があったのか、殿下は本当にご存知なのですか?」
「だから。エイネシアが……」
「あの部屋には、エニーとアマリアがいました。“殿下の忠実なる侍女”が、一緒だったんです。ふっ。あの優秀な貴方の侍女は、姉上がアイラ嬢のドレスを丁寧勝つ丹念に切り刻むのをお手伝いでもしていたんですか?」
ビクンッ、と、ヴィンセントが肩を揺らす。
「ええ。違うでしょう。では彼女からは、何を聞きましたか? 彼女に、何があったのかの説明をさせましたか?」
「……アマリアは何も言っていない。だがそれは噂が事実だったからで……」
「姉がアマリアに、“何も言わなくていい”と言ったんですよ。何故だかわかります?」
「ッ、やめて、エド」
エイネシアがギュッとその背中を掴んで声を絞り出す。
嫌だ。やめて。そんなことを、その人に突きつけないで、と。
「いいえ、やめません。姉上がのしかかる責任と重圧に押しつぶされてお倒れになった時、殿下は何をしていらっしゃいました? 姉はそれを知っています。知っていて、口を噤んだんです。何故だかお分かりですか?」
「やめてッ、エドッ」
「真実を知ったら、貴方が自分の“過ち”を知ってしまうから。罪もない姉を放りだし、男爵令嬢と逢瀬ていた。その事実を知れば、貴方だって自分が決してしてはならない間違いをしたことに気が付くはずだ。だから姉は何も言わなかった。貴方を恥知らずな王太子にしないために」
「もういい。もういいわ、エドッ。もういいでしょうッ」
「いいえ。まだあります。何度も何度も。殿下がその眼を曇らせれば曇らせるほどに、姉は言葉を噤み、己を殺し、殿下に目を開くことを促してきました。この手紙も。何故最初に姉を疑ったんです? 姉のご印章が押されているのですよ? もしもこれが偽物だったら? 学院でこのようなことが起きた以上、姉上の印章だけじゃない。私や貴方の印章が偽造される可能性もあるんです。その恐ろしさが、殿下には理解できないのですか?」
「ッ……」
「誰かが姉の部屋に立ち入り、印章を持ち出した可能性について、少しでもお考えになりましたか? あるいは寮監事務室には入寮時に押した押印があるはずです。それが盗まれていないか、確認しましたか? 手紙には姉がアイラ嬢に弁償を求めているかのような書き振りをしてありますが、姉があの後すぐにダグリア公爵家へ送った手紙の内容を知っていますか? 学院での噂を訝しむ両親に、姉が何と言って公爵家が動かぬよう制してきたか。殿下は知っているのですか?」
「……それ、は」
「恐れ多くも、私と姉は殿下の幼馴染です。何年も側で、一緒に学んできたはずです。殿下の知る姉は、どんな性格でしたか?」
いつもいつも、ヴィンセントのことを気にして。ヴィンセントの気に沿うように。その優しい眼差しが欲しくて、いつもいつも目で追って。
求められれば求められるだけ己を戒め、自制し、少しも恥じない王太子の許嫁であろうと努めてきた。
社交に出れば少しの遜色も無くその役目をこなし、それを失すれば深く謝罪を。
王子に恥じないように。王子に恥と思われぬように。
何もかも、ヴィンセントのために。
「私もアルフォンスも。私達は何度も窘められましたよ。私は姉上を心配しているというのに、姉ときたら、自分がどのように遇されようがそれは自分一人の問題。“何をしている。貴方達は殿下のお傍へ行きなさい”と。そう何度も何度も私の背中を押し出しましたよ。そうしてずっと、姉に冷たい言葉を吐き続ける貴方の側に、お仕えしてきた」
けれどその想いは、少しとして報われていない。
貴方にとって私達は、いて当たり前の物ですか?
私達に感情があることを、ご存知ないのですか?
「そのような姉をいわれもない罪で貶めるのであれば、元より私はアーデルハイドの次期当主として、そのような方に我が一族の姫を嫁がせる気など微塵もありません。婚約などこちらから突き返して差し上げます。ですから殿下。それが不敬だと仰るのであれば、構いません。どうぞ私のことも、国外追放になさってください。“何があっても殿下のお傍にお仕えしろ”、“自分のこととアーデルハイドは関係ない”と私を窘め続けた姉を、殿下は侮辱なさったのですから」
「……エド」
もう止めることもできず。
ただその背中をぎゅっと握りしめて、エイネシアは肩を震わせた。
初めて聞いた……エドワードの本音。
いつもいつも、殿下の元へ、と送り出す言葉を紡ぎながら、それでエドワードがどんな気持ちでヴィンセントの傍に居たのかなんて、考えていなかった。
それほどまでにエイネシアを想ってくれていたことも。
それも、アーデルハイドの命運さえもかけてしまうほどに……。