2-24 最後の日(2)
「お二人とも、本当にエスコートなしで? 本当に?」
会場に向かう途中、何度もそう声をかけてきたエドワードは、「なんならアルフォンスもいますから、お二人のエスコートは私たちが」と言ってくれたけれど、「エイネシア様の今日のエスコートは私なの!」というアンナマリアの言葉がエドワードに口を噤ませた。
アルフォンスも卒業する側の、いわばもてなされる側であり主役であるから、ただの幼馴染でしかない下級生のエスコートに駆り出すのは申し訳ないし、そうでなくとも今日はずっとヴィンセントの側に控えていて、近侍としての役目をまっとうすることになるだろう。
そもそもアルフォンスがヴィンセントに近侍する際に与えられた役目は“護衛”なのであって、こういう大勢が紛れるパーティーの際はとりわけアルフォンスの出番ということになる。そしてそれこそがアルフォンスが侯爵家の出身でありながら星雲寮の三階に部屋を貰っていた理由でもあるわけだ。
なのでヴィンセントにアルフォンスが付き従うことは、今はまだ正式な官職ではないというだけであって公務とさほど変わりない。そのアルフォンスを自分に付き合わせてヴィンセントから離してしまうわけにはいかない。
本当ならばエドワードにもヴィンセントの側にいてもらうべきなのだが、それについてはエドワードが、ご一緒します、と譲らなかった。
それはきっと半年前の舞踏会で、自分たち皆がエイネシアの傍を離れたせいで、姉を過呼吸で倒れさせるような事態にしてしまったことが尾を引いているのだろう。
正直、その心遣いはとても頼もしかった。
それに学院内のパーティーだ。社交界ではないから、許嫁と在学時期がずれていてエスコートがいない令嬢も少しも珍しくはなく、彼女たちは他に兄弟などが在学していない限り、よもや他の男性にエスコートしてもらうなどという事はなく、パートナーなしで出席する。
王女様や公爵令嬢ともなれば誰かしらがパートナーをお勤めするのも普通だが、一人で出席する令嬢が他にもいることを思えば、そんなに変な目でも見られないと思う。
いや……“許嫁が在学しているエイネシア”についてはそりゃあ変な目で見られるだろうが。
でもそれも、皆薄々納得している話だろう。
だから大丈夫、と、少しゆっくり目に会場に向かって、アンナマリアとエイネシア。その後ろから、一緒に来たエドワードにビアンナ、エブリルなんかも同時に入場した。
すでに会場はワイワイと賑わっていて、ただでさえ学院内でも目立つ星雲寮の面々が入ってきた時には当然視線が向き、しかもアンナマリアがエイネシアをエスコートするみたいに手を差し伸べて楽しそうに入ってきた時には、流石に皆騒然とした。
エイネシアが、あるべきパートナーを連れていなかったことも。
そして噂の渦中にある“極悪非道な王子の許嫁”が、“アンナマリア王女”と親しげに笑いながら現れたことについても。
そしてさらに予想外だったのは、思わず皆が遠巻きにしたその集団に、颯爽と近づいて行った紳士が一人いたこと。
「ごきげんよう、アン王女。エドにシア。それから“許嫁殿”」
ニコリととてもさわやかな笑みを浮かべてやって来た背の高い紳士。
やや無邪気さの残る金色の瞳と鳶色の髪に、軽く上着を肩に引っかけて着崩した格好ながらも上品さがにじみ出ている気さくそうなお兄ちゃん。
その人を見た瞬間に、「何故いらっしゃるの?!」とビアンナが思わず声を張り上げた。
それもそのはず。それは二年前に卒業して今は学院に籍を置いていないはずのアーウィン・ダレン・ラングフォードで、噂の、ビアンナの許嫁になったばかりの公爵令息だ。
「ごきげんよう、アーウィン。どうして貴方が?」
ビアンナと同じ質問を投げかけたエイネシアに、「ちょっと仕事でね」とアーウィンは肩をすくめて見せた。
その様子に、仕事? と、エイネシアは首を傾ける。
ラングフォード公爵は件のアデリーン王女とフレデリカ妃がもめた一件以来所領に引っ込んでしまっているし、学院を出た嫡男がどこで何をしていたのかは、そういえば知らなかった。
てっきり公爵同様所領に戻って所領運営に携わっているものと思っていたが、それだと“仕事”でこんなところにいる理由が見当もつかない。
「姉上。アーウィンは今、父上の所で書記官を務めているんですよ」
後ろから口を挟んだエドワードの言葉に、えっ! と、エイネシアとアンナマリアが揃って振り返り、それから再びアーウィンを見た。
その彼は、ハハハ、と疲れた顔で苦笑いしていて、たちまちに何だか色々なことが察せた。
「まぁ……お可哀想に。お父様にこき使われて……」
「うん。何も言わずにわかってくれて嬉しいよ……シア」
そう肩を落とす公爵令息は、きっとあの氷の宰相閣下に、今日もまた無茶なことを言われてここにいるに違いない。
「お父様のご用事はなあに?」
「いや、最初はただの使いっぱしりで、陛下からの祝辞を学院長に届けに」
「お父様……」
いや。まぁ、国王陛下の公的な宣旨類が宰相府から出されるのは普通だ。だがよりにもよって数多くいる書記官の中から、最も身分が高いであろう公爵令息を使いっぱしりに選ぶその神経とは何なのだろうか。すごく聞きたい。
「そしたら学院長から、“従弟殿”と“許嫁”の卒業祝いなのだから参加して行けと引き止められてね」
そういうことだ、とビアンナを見やったアーウィンに、ビアンナがらしくも無く頬を染めて粗放を向いた。
恥ずかしがっているのだろうか? 少し貴重なビアンナの様子に、つい目を瞬かせてしまった。
「まったく……来るなら来ると言ってくださいませ。そしたら堂々とエスコートをお願いしましたのに」
「おっと。これは失礼。今からでもお手をどうぞ、お姫様」
そう胸に手を当てて手を差し伸べて見せるアーウィンは流石に手慣れていて、そんな大人の余裕がビアンナを困惑させた。
「何でそんなに手慣れていらっしゃるの? 遊んだ女が十や二十いらっしゃるのかしら」
「いやいや、せいぜい両の手に抱えきれる数だよ。殿下のいらっしゃらない催しの時には喜んで右手にシアを侍らせ。生憎殿下がいらっしゃるときはうちの超絶可愛いアンジェリカ姫を左手でエスコートし。なんなら時には両手に花ってことも」
そう悦に浸って言うアーウィンに、ビアンナが凄まじく呆れた顔をした。
「まぁ。もうお分かりと思いますが。アーウィンは重度のシスコンです。苦労しますね、寮長」
そう付け足したエドワードに、「失敬な! うちの天使達を兄として見守って来ただけだ」という頼りないことを言った。
とりわけ彼の、今年十四になった小柄な妹アンジェリカは、この兄が大層ベタ可愛がりしていることで有名だ。
「両手に花……ありましたわね」
その懐かしさには、思わずエイネシアも笑ってしまう。
同時に二人エスコートするだなんてことは普通の社交ではありえないのだが、四公爵家の身内の集まりに際し、そういえばエイネシアとアンジェリカとが二人、アーウィンの左右で手を引かれて、エスコート、もとい引率されたことがあった。とても小さな頃の話だ。
くしくも幼い頃から一番近しかった親戚で、しかもアーウィンが一番お兄さんであるから、そういうエピソードは随所に残っている。
アーウィンが基本お兄ちゃん体質なのも、そんな弟妹を昔からよく面倒見てきたからだ。
だが、しっかり者で三人姉弟の長女でもあるビアンナには、彼が自分を年下の女の子扱いするのがむず痒いようで、らしくも無くどぎまぎしているのが少し可愛らしかった。
その内、「アン王女」と星雲寮一年のイザベルがアンナマリアに手を振ったのを見て、アンナマリアがチラリとエイネシアを伺った。
一年の友人たちに少し挨拶をしてきたいが、エイネシアの傍を離れても良いものか、という視線で、それを察したエイネシアは、「公爵令息がお二人もいらっしゃるのだもの。大丈夫よ」とアンナマリアを促した。
そんな二人に、「私が戻るまで決してお義姉様から離れてはなりませんわよ!」と念を押してから、イザベルたちの方へと向かう。
それを見送ってから。
「それで。本当のお父様からのお仕事とは何ですか?」
早速そうエイネシアが問うものだから、「あぁまったく……」と、アーウィンは俄かに頭を抱えた。
さも平然と隣で同じ質問をしそうな様子を見せているエドワードしかり。この姉弟は本当に油断ならない。
「何で、別の仕事があると?」
「いくらなんでも、まさか本当にお父様がアーウィンを使いっぱしりのためだけに学院に寄越すだなんて思っていませんわ。まぁ……ついでに使いっぱしりをさせたという点についてはその……ええ」
「フォローはいいよ。私もこの一年で、伯父上という人の人となりはかなり理解したつもりだ」
そうくぐもった顔をするアーウィンには、本当に申し訳なかった。
「別件の仕事は……学院とは少しも関係ない仕事でね。偶然この周辺にたどり着く結果になった、というべきか。そしたらついでに幾つか仕事を追加されたという次第で、陛下の祝辞もその一つ」
「もう一つは、“私”かしら」
そうため息吐くエイネシアに、アーウィンも困った顔をした。
だがまったくもってその通りだ。
「詳しいことは言えないが……伯父上からは、“ラングフォードとして傍聴して来い”と言われていてね。もしや今日は何かあるのかな?」
もっとも、何かあるであろうことは既に勘繰りが付いている。
エイネシア・フィオレ・アーデルハイド姫が、王太子殿下のエスコートを受けずにこの会場にやって来た時から、嫌な予感ばかりが頭をよぎっている。
「ラングフォードとして、ですか」
「エドは? 閣下から何と?」
そうアーウィンがふるものだから、「エドワードまで?」とエイネシアは振り返る。
するとエドワードは少し眉尻を下げて困った顔をしてから、「お前の判断に任せる、とだけ」と答えたから驚いた。
「お父様……エドにそんなことを?」
「小麦迷路を抜け出した時から、お前達はすでに一人前だ、とも仰っておられましたよ」
要するに、エイネシアが先んじて出した手紙に対し、“お前の責任で好きにしろ”と言われたことになる。
そうはなるが……本当に、いいのだろうか。
そんなことをして、本当に陛下はなんとも仰らないのだろうか。
父は一応、国王補佐の筆頭、宰相という地位にあるはずなのに。
「話はあまり見えませんけれど、要するにアーウィン卿はご公務としていらしたのね?」
そうまとめたビアンナに、「そういうこと」とアーウィンが苦笑する。
許嫁殿をエスコートするためでなく申し訳ない、といったところか。
「私の事は構いませんわ。味方は一人でも多い方が良いですもの」
そう言うビアンナに、「味方か……」と、アーウィンもこの場の異様な雰囲気をチラリとみて回した。
「近頃妙な噂が宮中にまで聞こえて来ていたが……まさか本当にこんな状況だったとは驚いた。一体この一年、何があったんだい? シア」
「それは私にお尋ねにならないで、アーウィン。むしろ私が聞きたいくらいですのよ」
それもそうか、とアーウィンも口を噤む。
「でも一つ言えることは……お父様は“傍聴しろ”と仰ったのよね?」
「……あぁ」
「ではどうか、これから何があっても傍聴に徹して下さいませ。ラングフォード卿」
「それは、これからこの場所でどんなことがあって、どんなことを思っても、うちの可愛い従妹殿を助けに入るようなおせっかいは焼くな、という意味かな?」
「そうとっていただいて結構ですわ。でもそのお言葉は、嬉しく胸に留めておきます」
そうクスリと微笑んだエイネシアの様子に、アーウィンもその軽薄そうな顔を少し潜めると、静やかに頷いた。
なるほど。今からここで起こる“何か”とやらに、エイネシアはアーデルハイドではなく、“エイネシア”として受けたつものなのだ、と。
「では私は隅に退いているけれど。もしどうしようもなくなったら、すぐに呼びなさい。四公爵家の結束は固い。シアはその四公爵家の大切な大切な親族であり、我ら皆に愛されているのだから。それだけは忘れないで」
「有難う、アーウィン兄様」
そう答えたところで、ガチャンと扉が開き、自然と皆の視線が向く。
会場の華やいだ空気と歓声。でもそれと同時にチラチラと訝しそうに困惑する幾つかの視線。
エイネシアの傍らで、たった今傍聴を約束したばかりのアーウィンが、思わず「は?」と間の抜けた声を出したのには、うんうん、気持ちはわかる、と、ビアンナが頷いた。
それもそのはず。
本日の許嫁のエスコートという役目を放り出して、白の装束で現れたいつもながら煌びやかな王子様は、あろうことかその腕に、エスコートを受けるというよりは抱き着くといった風に纏わりついている、ピンクの髪の女の子を連れ添っていらっしゃった。
今日は春らしい淡いピンクのドレスに、王子と合わせたのか、白いフリルが沢山縫い付けてあって、歩くと膝下がチラチラと見える。
一応学習して膝より上は見えないようになっているし、膝下もシフォンのフリルが縫い付けられてカバーはしていたが、正式なパーティーに着るにはやはり少し丈が頼りない類のものだった。
だがそのふんだんなフリルが覗く裾と少し短めの丈は彼女にとても良く似合っていて、多くの男子生徒諸君に“可愛いな”という感想を抱かせただろう。
だがいかんせん。良識人であるアーウィンは、王太子の腕に纏わりついた非常識な格好の見知らぬ少女に、ただ呆気にとられる、という反応を示した。
何よりも驚くべきは、ヴィンセントが胸元に挿した淡いピンクの薔薇と揃いの薔薇が、彼女の髪にあしらわれていたことだろう。
それがどれほどに非常識なのかは、きっと最早それに“慣れてしまった”学院の者達以上に、アーウィンを愕然とさせたに違いなかった。
「え。いや、ちょ。まって。あれ。え? ちょっと口を挟んでもいいかな?」
早速動揺してそう言ったアーウィンに、「まぁ落ち着いて」とエイネシアが促す。
「こんなの序の口ですわよ」
「……え」
「ビアンナ。アーウィンと、少し離れていて下さる?」
「姫様……」
「大丈夫。私の事なら心配いりませんから」
そう言うのと同時に、急いでエイネシアの元へ戻ってきたアンナマリアが、ぎゅっ、と後ろからエイネシアの手を握った。
それを見て取ったビアンナは、「わかりましたわ」と首肯すると、「こちらにいらして」と、アーウィンを引きつれて、星雲寮の皆の集まる方へと向かった。
「エドは殿下の所へ」
「いいえ」
「エド……」
チラと隣を見たけれど、ニコリと微笑んでみせるエドワードは、その笑顔だけで姉を黙らせてしまった。
ついこの間までは、こういえば渋々ながらも言うとおりにしてくれていたのに。
「だけど……」
「父は私に、私の判断で行動しろと言いましたから。少なくとも私はアーデルハイドの家名を背負うものとして、アーデルハイドの娘を蔑ろにされていながらその許嫁に笑顔を振りまきは致しませんよ。それは理に適っているのでは?」
「……」
まぁ……確かに。そう言われてしまえば、言う言葉が無くなってしまう。
「分かりました。でもどうか慎重に。アーデルハイドとして振舞うことは、忘れないで頂戴ね」
「承知しています」
そう頷くエドワードの面差しは思っていたよりもずっと冷静で、これなら大丈夫だろう、とほっとした。
とはいえあからさまにエドワードを背後に付けて脅しみたいな態度を取るのは避けたかったから、楽しげに会話をするヴィンセントとアイラが二人、はたと足を止めてエイネシアを見やった瞬間、アンナマリアと二人少しだけ離れておいて、とお願いした。
まずは冷静に。普通に、話をしてみたい。
もしもそれができるのであれば。
「ごきげんよう、殿下」
自ら少し歩み寄り、丁寧に礼を尽くす。
この時点から、すでにヴィンセントの視線は厳しく、アイラときたらすっかりと口を噤んでヴィンセントの背を掴んで身を寄せている。
まるでエイネシアに怯えるように。そしてエイネシアにその距離を見せつけるかのように。
「まずはご卒業おめでとうございます、殿下。最近は寮でもちっともお会いできないものですから、ご挨拶が遅くなってしまい申し訳ありませんでした」
「……よくもまぁ……堂々と顔が出せたものだな」
しょっぱな意味の分からない中傷を投げかけられて、頭を下げたまま、ピクリ、とエイネシアは僅かに身じろいだ。
堂々と顔を出せない程の事をした覚えは微塵もないが。
さて。今度は一体、何をしたことになっているのか……。
「何の事でしょう。学院の催す祝宴には、全ての学生に出席する権利があるはずですが」
いつまでたっても顔をあげろと言ってくれないものだから、自らの意志で頭をあげて、ヴィンセントを見やった。
シャンデリアの下では一層眩い金の髪。青空のように鮮やかなブルーの瞳。凛とした背と気品のある立ち姿。
昔引き合わせられたときと同じ……エイネシアの恋い焦がれたはずの、王子様。
「学院を卒業したら、二度と私とアイラが会えないようにと根回しをした上に、こんなものをアイラに渡しただろう」
そうぶわっ、と目の前に散らされた紙の束に、ふっとエイネシアはそのハラハラと散って来るものを見やった。
はらりはらり。はらりはらり。数枚の紙がゆっくりと地面に落ちてゆく。
さて。どういうことか……、と、足元に落ちた紙をいくつか無作為に拾い上げて。
驚嘆した。
『髪飾りを壊してただで済むと思っている? 貴女にあれの価値がわかるのかしら? 弁償どころか、這いつくばって足を舐めたって許さないわ。まぁ、私の下女にでもなるのであれば聞いてあげないこともなくってよ』
『いい加減、卑しい身が私の殿下に話しかけるなんておやめになって。私に隠れてこそこそとお会いになっていること、知っているのよ。まったく、怖いもの知らずでいらっしゃること』
『貴女と。貴女と仲良くなさっているお友達方のすべてを罰することなんて容易い事だと、何度言えば分かっていただけるのかしら。もっと目に見える形で教えて差し上げないと駄目なようね』
『卒業パーティーは欠席なさって。学院では楽しませてあげたけれど、学院をお出になってしまえばもう、殿下は私とアーデルハイドのものなのですから。もういい加減、思い知ったかしら?』
『これだけ言っても改めないのね。殿下が何を仰ろうとも、殿下と私の婚約は国王陛下と公爵家によって確約されているのよ。殿下の意志なんて関係ないの』
幾つもの短い走り書き。その内容は、ちっとも気にならない。想像の範囲を出るような突拍子もないようなものではなかった。
だがその内の一つ。ただ一つ。
そこには絶対にあってはならないものがあった。
『私の命に逆らえば、貴女だけでなく殿下にまで害が及ぶのよ。この“印章”があれば――』
そう書かれた走り書きの下に押された、“百合”のご印章。
そんなはずがない。そんな馬鹿な! と、咄嗟に自分の指を見た。
右手の薬指に納まるそれは、アーデルハイド家の紋である百合を丸みのあるフォルムで刻み、そこに名前の一部を刻印したとても繊細なものであり、いわゆるエイネシア個人が最も正式な書類に押印する際に用いられる“持紋”である。
こうしたパーティーのような正式な場で着用するのは勿論、かつては許嫁と定められた際の婚約書にも押印した。国の紋章院にも正式に登録されている、エイネシアのご印章。
だがそんなはずがないのだ。
そもそもエイネシアはこんな手紙は書いていないし、筆跡が全く違う。こんな手紙程度に、この大切な印章を押すはずがない。
だがそこにある印章の形はエイネシアの指輪に刻まれた紋に間違いなく、それは要するに、誰かがそれを“騙った”ということなのだ。
考え得るのは二つ。誰かがエイネシアの寮の部屋に忍び込み、クローゼットの宝石箱にしまってあったはずの印章を勝手に使用した。あるいは、何らかの書類でこの印章を目にし、複製して用いた。
どちらもとても困難なことだが、しかし寮には入寮手続きの際に押印した書類が寮監の事務室にあるはず。当然貴重書類なのでかなり厳重にしまわれているはずだが、それを覗き見ることはできなくはない。
いや、今問題なのは、誰がどうやってこの印章を騙ったかではない。
騙って作成されたものが、今こうやってこの場で周りの目にさらされているという事だ。
「殿下……この手紙。一体誰が?」
「とぼけるのか。何処からどう見てもお前の印章だ」
「とぼけるも何も、このような手紙には微塵も見覚えがありません。こんなものに大切な印章を用いた覚えなどさらにありません! これがどれほど大切なものであるのかは殿下も御存じのはずですっ」
印章を個人で持っているのは、王族と公爵家の直系くらいなもので、他はそれぞれ家紋のようなものを印章代わりにする。
個人の印章はそれだけでも特別な物であり、その紋がいつどこで使用されたのかの記録は、すべて紋章院によって管理されている。
エイネシアも過去何度かこの印章を使ったが、その度にきちんとした書面をしたて、紋章院に対して、どういう理由で、どういう内容の文章に使ったのかをしたためて正式な書類として提出した。
そのくらい、扱いが厳重な物なのだ。
それを王子であるヴィンセントが知らないはずがない。
「そんな大事な物をこんなくだらない物に使うなど、恥ずかしくないのか!」
「……」
その物言いには、思わず呆気にとられてしまった。
本気で。本気でエイネシアがそんなことをしたと思っているのだろうか。
こんな、下手をすれば自分のボロを出すようなものを、本当に。
「……どうやって私の印章が用いられたのかは知りませんが……筆跡や使用されているインク。紙。抑々どうやってそれがアイラさんの元に届いたのか。私の身の潔白の立てようはいくらでもあるはずです」
「随分と周到な手を回したようだな。アンに協力でもさせたのだろう」
少し離れた場所で、「なっっ」とアンナマリアが目くじらを立てる。
だがそれをそっと視線だけで制すると、落ちた手紙をさっとまとめてからヴィンセントに突き返した。
どうぞ。ご存分にお調べになったらいいわ、と。
だがヴィンセントはそれを受け取りはせず、あろうことかエイネシアの手ごと、パンッと鋭く叩き落とした。
再びハラハラと散る紙と。
思わずカッと痛みを伴った手の甲。
投げ出された自分の手を、しばし呆然と見て。それからゆっくりと息を吐く。
もうこのくらいで、驚いたりなんてしない。
「殿下……先ほどから随分と手ひどいように思いますが」
「構わない。私は今日この場で、君にはっきりと私の決定を告げに来たのだから」
あぁ。来たな、と。
そう思う。
さぁ、“どれ”だろうか。
学院追放か。王都追放か。身分剥奪か。それともアーデルハイドの家名だけは気にして、婚約を破棄はしないが心を求めるなとでも言うつもりか。
「お伺いいたします」
思ったよりずっと冷静な声色が、そうヴィンセントに促す。
ざわりざわりとなる会場。
そのあまりにも堂々と裁断を待つエイネシアの様子にはヴィンセントが一つ眉をしかめたが、だからと言って告げる言葉に代わりはない。
「エイネシア・フィオレ・アーデルハイド。君はアーデルハイドの家名と私の許嫁という立場を利用して、ここにいるアイラ・キャロライン男爵令嬢をはじめとする多くの私の“友”を辱めた」
「……」
「私と口をきいたという女子生徒を片っ端から牽制し、脅し、茶会では無碍な扱いをして、先日に至ってはアイラに紅茶を引っかけ、重症を負わせようとさえした」
あぁ、あぁ。王子様よ。なぜそうなった……。
あの火傷が引くまで、エイネシアが何日痛みに耐えたと思っているのか。
あの時に割れてしまった簪が、どれ程の価値を持っていたと思っているのか。
「あまつさえ自業自得で壊した簪までアイラのせいにして弁償を請求するなど、王家の妃がやることではない!」
一体いつ誰が弁償を請求したと言うのだ。
未だなお捨てられずに大切にしまってあるあの簪については、とっくの昔にリードスに謝罪の手紙を送った。
何ならその手紙を送り返してもらおうか。
遠方なせいでまだリードスからの返信は届いていないが、もう幾らもせず届くはずだ。
彼はそういうところがとてもマメだから、きっとすぐに返してくれる。
それをこの王子様の目の前に突き出してあげればよいのだろうか。
「舞踏会では嫉妬に狂い、アイラのドレスを切り刻んで貶めようとし、あろうことか平然と欠席して周りの同情まで買おうとした! 恥ずかしくないのか!」
同情? 恥ずかしい? とんでもない。
貴方がアイラとワルツを踊っている時、エイネシアは息も絶え絶えになってベッドに横たわり、ハインツリッヒに『大丈夫だ、君は息をしている』と、そう諭されていたのだ。
そんなこと、この人には微塵も理解されていない。
まさか死ぬほど苦しい思いをしていて、同情を引くためだと言われるとは思っていなかった。
「私は幼い頃から何度も君に忠告したはずだ。謙虚であることを忘れずに、自制しろと。だがその度に君は問題を起こし続けてきた」
起こし続ける? 誰が? 何を?
「その責任を、どう取るつもりだ!」
責任? 誰の? 何の?
頭の中を平然と駆け抜けてゆく言葉の数々。
ヴィンセントが言葉を止めたのを聞いて取ると、エイネシアはただそっと瞼をあげて、ヴィンセントを見やった。
変わらない。ちっとも変わらないはずなのに。
何でこんなにも変わったのだろうか。
どうしてこんなにも、変わってしまったのだろうか。