2-23 真冬のお茶会(2)
人気のない廊下に出た瞬間、胸の内でたぎっていた怒りは段々と苛立ちに代わって行って。
一歩、二歩、と歩を進め。
次の瞬間には側の小階段を勢いよく駆け上った。
駆けるようにして二階へ。
そして三階へ。
人気のない廊下に飛び込み、古薔薇の部屋に駆け込んで。
ドンッッ! とベッドの脇に飛びつくと、枕に顔を押し当てて、今にも叫び出しそうな声を噛み締めた奥歯の内側に閉じ込めて、声にならない声を金切りあげた。
もう、怒ればいいのか悲しめばいいのか、悔しがればいいのかさえ分からない。
ただただ叫び出したい思いを、枕に全部ぶつけて、荒れ狂う感情の波を押し付ける。
そのすべてを集約するような熱い涙が一筋、枕に溶け込む頃になって、ぎゅっと唇を引き結んだまま、ずっと握りしめていた簪を見やった。
欠けてしまった百合の簪。
透き通るような白にほんのりと緑を孕んだ美しい翡翠。
柄の部分のとても瀟洒な銀の細工も、見れば形が傷ついてしまっていて、これでは直すこともできない。
なんて馬鹿なことをしたのだろう。
とても大切なものだから。だから勇気を貰おうと身に着けたのに。
こんなことならば大切に大切にしまっておいて、大事にしておけばよかった。
どうしてこうも、上手くいかない事ばかりなのだろうか。
こんなことになってしまって。
なんて、リードスに謝罪したらいいのだろうか。
「お嬢様? お戻りなのですか?」
コンコンコン、と、扉の外でエニーの声がする。
エイネシアが戻るには早すぎる時間で、しかし扉をしっかりと閉め損なって部屋に飛び込んだから、それを不審に思ったのだろう。
チラ、と中を覗き見たエニーがすぐにもベッドに突っ伏すエイネシアを見つけて、「お嬢様?!」と慌てて飛んできた。
何かあったのは一目瞭然で。
「一体どうなさって……あっ。ドレスがっ」
すぐにもドレスの裾を濡らす紅茶に気が付いたエニーが、慌ててエイネシアの全身を見やる。
「お嬢様ッ。お怪我は……あっ。お手をっ」
エニーでさえ、すぐに気が付く。赤くなった手の甲。握りしめた、翡翠の簪。
「ッ。そんな。お嬢様の大事なっ……」
どこからどうしたらいいのかわからなくなって、混乱したように慌てふためくエニー。
それからやがてエイネシアの傍らに膝をつくと、そっとその背中に手を添えてくれた。
その優しさが、心に染みる。
「……有難う、エニー。大丈夫よ」
枕に預けていた頬を浮かせて、僅かに口元に笑みを象って見せる。
でもその覇気のない顔にはエニーが眉尻を下げて、壊れてしまった簪に、ますます眉尻を下げた。
「お嬢様……お立ちになれますか? まずは手を……」
そう促すエニーに、「それもそうね」とゆっくりと立ち上がったところで、ドレスの前面にもぐっしょりと染みた紅茶に、これ以上ないほどにエニーの顔はくぐもった。
「まずはドレスを。楽な物になさいますか?」
それともまだ、茶会の会場に戻らねばならないのか。それを配慮した問いにエイネシアは少し迷ったけれど、すぐにも、「部屋着で構わないわ」と答えた。
どうせあの場所に、もう主催者のこなすべき儀礼的なルールを気にしている人物なんて一人もいない。
「お待ちを。すぐに持ってきます」
そうクローゼットに飛んで行くのを見送りながら、エイネシアは握りしめていた簪をそっと机の上に置いた。
あぁ。なんて……なんて惨めな姿だろう。
引き裂くようにドレスを脱ぎ捨てたい気持ちだったけれど、それを自制してリボンを解き、袖を抜いてドレスを落とす。
すぐにエニーが変わりのドレスを持ってきて着付けてくれて、次いでソファーに促されると、手を取られた。
「赤くなっておいでです。まさか紅茶が?」
なのに誰一人として侍女も何も手当てしなかったのか、という事に驚くエニーに、あぁ、言われてみればそうだな、だなんて、今更思った。
いや。心配してそれを指示すべきヴィンセントが、少しもそうしなかったからなのだろうけれど。
「お湯を少しね。氷は自分で出せるから平気よ」
「ハインツリッヒ卿をお呼びしましょうか?」
そう心配そうに声をかけたエニーの本心は、“薬のため”ではなく、エイネシアを子供扱いできる頼れる人物として、彼がいた方がいい、という判断だったのだろう。
しかしエイネシアはそれに対し首を横に振って、「大丈夫」と答える。
「ハイン様を煩わせるほど、落ち込んでいないわ。むしろ……そうね。腹立たしい、とか。苛立つ、とか。そういう感情……かしら」
そう言いながらもとても物静かな声色に、「お腹立ちなのですか?」とエニーが首を傾げた。
それが少しおかしくて、口元に笑みが浮かぶ。
なんだか不思議と今はもう落ち着いていて、本当になんともなかった。
この部屋で。こうしていつものようにエニーと普通に会話をしている。その事が、どこかエイネシアを安心させるのかもしれない。
「なんだか……もう。腹を立てるのにも疲れたわ」
そう弱音を吐いてしまったのも、この場の空気のせいだろうか。
その珍しい言葉はエイネシアが思っていた以上にエニーを驚かせたようで、どこかはらはら、そわそわ、としたエニーは、ぎゅっ、と己の拳を握りしめると、意を決したような顔をする。
「お嬢様。少しお一人にしてもかまいませんか?」
「どうしたの? エニー。私の事ならちっとも心配いらないわよ?」
「薬室に行って、お薬を貰ってきます。それくらいなら、宜しいですよね?」
何かしないといてもたってもいられない、という様子のエニーに、エイネシアも少し口をほころばせて、自ら出した氷で冷やす手を見ながら、「それもそうね」と答えた。
ひどい火傷ではないけれど、痕になど残ったら大変だ。
「くれぐれもハイン様をご心配させるようなことは言わないでね」
「はい。少しお紅茶がかかってしまっただけ、と」
「そうして頂戴」
すぐに戻りますから! と念を押しながら部屋を飛び出していくエニーを見送りながら、俄かに席を立ったエイネシアは、書棚横の机へと歩み寄る。
上の荷物をごっそりと避けて、いつものように天板を開けて。
一杯に詰まったメモを、さわさわと指先でかき乱す。
『今日も一日よく頑張りました』?
いや、違う。
『悪い魔法使いが住んでいて、君を助けてくれるから』?
いいや。ハインツリッヒに頼ってばかりでは駄目だ。
今欲しい言葉は何だろう。
今、この心を慰めてくれるのは何だろう。
この腹が立っているのかも悲しいのかも良く分からない空虚な気持ちを埋めてくれるものは、何だろう。
『気分が打ち沈んでいる時は、この机の下に丸まって閉じこもるのがオススメだ。机の裏にこっそりと魔法陣を刻んである。ほんのりと温かくてよく眠れる。でも風邪を引かないよう、ブランケットを忘れずに』
ええ。でももう、机の下に引き籠るのは止めた。
もう止めようと、決めたのだけれど。
ブランケットにくるまって、あの蛍のように降り注ぐ光に心を休めるくらいなら良いだろうか。
ふわりふわりとあたりを見回して。
いつもならソファーの背にかかっているブランケットが無いことに気が付いた。
今日は良い天気だから、洗濯中だろうか。
エニー……を呼ぼうとして、そういえば薬室に行ったのだったと思い出すと、部屋を出て、アニタを探しに行く。
今日は茶会で手伝いも多く来ているから、手は空いているだろうけれど、と、ペタリペタリと廊下を曲がって。
「明るくて素敵な廊下ですね。あっ。ヴィンセント様のお部屋はここですか? 一番真ん中! 薔薇の扉!」
耳に飛び込んできた無邪気な声に、あぁ……、と壁の影に身を隠した。
「いいや。そこはアンの部屋だな。こっちにお出で。私の部屋に案内するから」
続いて聞こえたヴィンセントの声と、楽しげにそちらへ駆けてゆくアイラの足音。
「扉の数が随分と少ないですが、もしかしてそこからここまで、ずーっとアン王女のお部屋なんですか?」
「ふふっ。あぁ。美園寮より随分と広いだろう?」
「ええ。こんなところに住めたらお姫様の気分……あっ。そうか。お姫様が住んでいらっしゃるんでした!」
ははは、と、楽しそうにお笑いになる声が、どうしようもなく遠いものに聞こえる。
「エドワード様やエイネシア様のお部屋もこの辺りに?」
「……まぁ……あるが」
「私、エイネシア様に謝罪に……」
「必要ない。あれはすべて本人の自業自得だろう。アイラは怪我までしたのに……まったく。君はほんとにお人よしだな」
「ですが大切な簪だったのでしょう? あの侍女の人も……」
「権力を誇示するような代物だ。茶会などに着けてきたエイネシアが悪い。そもそも、最初から壊してアイラを追い詰めるつもりだったのかも……」
「っ……私……どうしてそんなに嫌われて……」
カチャリ、と開く扉の音と。
「まぁ! なんて素敵なお部屋!」
「ふふっ。すごい変わり身の早さだな」
「暗いお話なんかよりもこちらの方が私にはずっと大切ですわ!」
パタン、と閉まる音と共に、急速に遠ざかった声。
気が付いた時にはもう部屋に駆け戻って、ドンと机の下に飛び込んでいた。
うっかり魔法陣に触れたのか。ひらひら、ひらひらと光の粒が落ちてくる。
床にまぁるく、小さくなって。
音も無く声も無く。
ただただ小さくなってうずくまる。
今この場所の対角で、エイネシアでさえ入ったことのないその人の自室に二人がいる。
こんなにも目と鼻の先で、エイネシアが部屋に戻ったことも知っているはずなのに、何という無神経な王子様。
男爵令嬢をこの階に連れて来たことさえ驚くようなことなのに。まさか本気で自室にまで招くだなんて、信じられない。
これが本当に、あのエイネシアの知っているヴィンセントなのだろうか。
かつては窓から声をかけたアレクシスにとんでもなく眉をしかめ。パーティーを抜け出したエイネシアにとても厳しい眼差しを投げかけ、それがいかに礼に反したことなのかを知らしめた。常にエイネシアに自制を促してきた、その人なのか。
狭い狭い机の下で。
ポカンと顔をあげる。
ふわりふわりと降ってくる光の粒が、頬に触れ、肩に触れ、指先に触れて仄かな温もりとなり融けてゆく。
その都度、この醜い感情が少しずつ洗い流されてゆくようで、慰められた。
あぁ。こんな綺麗な魔法をかけるあの人は今、何処で何をしているのだろうか。
話をしたい。
この憤りを聞いて欲しい。
彼はいつも好奇心旺盛だったけれど、そのすべてに対してとても冷静で客観的な物の見方をする人だった。
今彼がこの状況を見たら、何と言うだろう。
『それで? 君はまだヴィーが好きなのかい?』
その狭い狭い空間で。
何故だかその人の声がする気がした。
『強情だなぁ。そんなのではハインに非論理的認証されるよ?』
私のように、と笑うその人の顔が、脳裏によぎる。
『君は本当に馬鹿だね、シア。そんなに意地を張ったって、ちっとも報われなんてしないのに』
君は本当に馬鹿だね、と。
ポウと頭に落ちてきた光が、その人の大きな手のようで。
ポウ、ポウ、と。
まるで頭を撫でられているかのようで。
その光の粒の中で、目を閉じた。
この部屋にいれば、一人じゃない。
一人なんかじゃない。
ここに詰まった沢山の想いが、傍に居てくれる。
だからちっとも、寂しくない。
悔しくも、悲しくもない。
その人のことに。
もうちっとも、傷ついたりなんてしない。
暗く暗く落ちた帳と。
淡い光の中で微睡んで。
沢山のブランケットよりも暖かいものに包まれて。
その小さな小さな机の下で、エイネシアは静やかな微睡を享受した。
雪が積もる夢を見た。
突然頬に添えられた手に、ぬくぬくと光の粒が揺蕩い。
今年の冬は冷え知らずなんだ、と自信満々に言った彼の、夢を見た。
夢の中でのエイネシアは、ちっとも傷ついてなんていなかった。
いつもニコニコと慰めてくれたその人の傍で。
ふわふわと笑う、夢を見た。