2-21 ご褒美
『もしも何かいいことがあって、今日は自分にご褒美をあげよう、だなんていう気になったなら、ベッドの枕上の天蓋の裏を探ってみるといい。良い物があるから』
ずっと前に見つけたメモだけれど、この日、じっとそのメモを見つめたエイネシアは、よし、と意を決すると、寝台に向かった。
今日ならば、多分“ご褒美”があってもいいはずだ。
言いたいことも言えた。礼を失することなくお茶会も乗り切れた。落ち込むことなくちゃんと楽しめた。
靴を脱いでベッドに上がり、ちょっとはしたないとは思いつつも、枕元に立って手を伸ばす。
天蓋の裏、と言っても、この大きなベッドでは枕上も広い。
それに一見変わったものなんて何も見えないから、文字通り手探りで探すしかないのだけれど、エイネシアの背丈ではあと少し手が届かなくて、うーんっ、と一生懸命背伸びした。
すると少しだけ、指先の触れた天井が、カタリと浮くのを感じた。
ここだ。隠し扉がある、と。
そう気が付いて、えいっ、と飛び跳ねたところで。
「きゃーっ、お嬢様ッ!」
そんなエニーの悲痛の声に、しまった、と顔を真っ赤に染めた。
あぁ……恥ずかしい。
「な、な、なっ。何事ですかっ。一体何をッ」
「落ち着いてっ、取りあえず落ち着いて、エニーっ。ちゃんとお話しするからっ」
取りあえず誰か来たら恥ずかしいから、扉を閉めて、と促すエイネシアに、どうやらエイネシアが何か危ないことをしていたわけではないと理解したエニーが、扉を閉めて、歩み寄ってきた。
どうやら茶会のドレスを脱ぐ手伝いのためにやって来たらしい。
手には洗い立ての軽いドレスを持っていて、他にも暖かいタオルや何やらと用意してくれていた。
だが今はまずはこの状況だ。
「これは……?」
そんなエニーに見せたのは、アレクシスの書き残していたメモだ。
「前の部屋主さんの書き残しなの。天蓋の裏とあるから、ちょっとはしたないとは思いながらも探していたの。あと少しだったのだけれど、届かなくて」
そう事情を説明したところで、なるほど、と納得してくれたエニーが、「少しお待ちください」と一度部屋を出ると、間もなく、掃除用のはたきを持ってきてくれた。
棒の先が引っかけて収納できるようにと少し丸くなっていて、そこそこに柄にも長さが有るので、手の届かないところのものを取るのにはちょうど良い。
それを借りて、エイネシアは改めてベッドの上に立つと、目星をつけた場所を突く。
隣でエニーがハラハラしながら、お怪我しないでくださいね、と心配していたけれど、ベッドの上では怪我する心配なんてない。
クスクスと笑いつつ、隠し扉を押し上げて、それから柄の部分の丸みを使って、コソコソと周りを探ってみる。
すると何かにぶつかる感触があって、これかしら? と、引っ掻いてみた。
「お嬢様っ。大丈夫ですか? 埃など溜まっていませんか?」
「ええ、大丈夫。とても綺麗にしてあるみたい。それと何か……あっ」
話している内に何かちょうど引っかかったようで、隙間からぽとんっ、と、何か小さな包みが落ちてきて、あらっ、と、エニーが目を瞬かせた。彼女も、こんな場所に隠し扉や、何か物が置かれていたなんて知らなかったのだろう。
はたきをエニーに返したエイネシアは、枕の上に落ちたそれを拾うと、ベッドサイドに腰を下ろした。膝の上に置いたそれは手のひらサイズほどの小さな包みだった。
この部屋のような厚みのある紅茶色の包み。
金糸で描かれた唐草の刺繍はそれだけでもとっても素敵で、慎重に捲りながらも、ドキドキとした。
それから最後の覆いをハラリと開いて。
「まぁ……」
思わず傍らで、エニーがうっとりとするような嘆息を溢す。
「髪飾り……」
布から出てきたのは、一つのヘアコームだった。
とても瀟洒な細工の銀の装飾に白蝶貝の繊細な百合の花。その百合の花園の合間合間に、淡いアメジストの小薔薇が咲き乱れている。小ぶりなものだけれど、とても美しい細工で、ひと目で特別に誂えられたものであることがわかるものだ。
「なんて素敵……この淡い紫は、お嬢様の瞳のお色ですわね」
そう言ったエニーの言葉に、はっとした。
透明感のある淡い紫。
エイネシアの瞳に合わせたその色の、しかしながら薔薇という王家の紋をかたどった細工だ。
とても素敵だけれど……一体、どんなつもりでこんな髪飾りを残してくれたのだろう。
さらに髪飾りの下に、二つ折りの小さなメモがあるのに気が付き、開いてみる。
『シアへ』
その筆跡は、もうすっかりと見慣れた、その人の字だ。
『夏にダグリア公爵領に行ったら、町でばったりリードスという細工職人(と自称していたよ)と意気投合して、伝統細工を習った。土台を作ったのはリードスだけれど、蝶貝細工は私のお手製だよ。気に入ってもらえると良いのだけれど』
「え……」
ぎょっとして、慌てて髪飾りを取り直してまじまじと見た。
プロの仕事としか思えないような本当に繊細な髪飾り。薄い貝の内側の光沢を割れないように一枚一枚装飾品へと仕立ててゆくその技術は、ダグリア公爵領の特産の一つであり、門外不出の伝統工芸だ。
一体あの元王子様は何をしているのだろう。
しかもこの手紙にある自称細工職人のリードスというのは、まず間違いなく公爵令息であらせられるリードス・シグル・ダグリアだ。
彼も一体何をしているのだろう。
一心不乱に銀細工を作るあの小柄な黒髪の遠縁と、それにほくほくと興味深そうに目を輝かせる元王子様。そんな姿が、ふと脳裏をよぎって。
何だかものすごくありえそうなそのシチュエーションに、途端におかしくなってしまった。
「ふふっ。ふふふっ。まさか。えぇ。そんなまさか」
クスクス、クスクスクス、と、実に取り留めも無く笑い出したお嬢様に、エニーが困惑気に首を傾げる。
「お嬢様。何が書かれていたのですか?」
「エニー。聞いてちょうだい。このとんでもなく素敵な髪飾り」
「ええ。本当に。どこのどんな著名なお方の作品で……」
「アレクシス様がお作りになったそうよ」
「はっ?!」
これには流石にエニーも声をあげた。
「昔から、何を目指しているのか分からない御方だったけれど。ふふっ。細工職人でも目指すことにしたのかしら」
「ほ、本当に、本当にこれを大公殿下が?! ですがこれ……とんでもなく貴重な東方の伝統工芸品ではっ」
「ええ。ですからその東方の、ダグリア公爵家のリードスに教えていただいたんですって。ふふっ。リードスったら。彼も、一体何を目指していらっしゃるのやら」
「信じられません……こんな素敵な……。あぁ、ですがリードス卿はそういえばとんでもなく手先が器用でいらっしゃいましたわ。東方の民族衣装だというターバンの沢山の金銀の装飾や宝石なんかも、お手ずから作っていらっしゃって」
「ええ。私の翡翠の百合の髪飾りも、昔リードスが手作りして下さったのよ」
「まぁ。お嬢様が大切になさっているあれですか?」
お気に入りの髪飾りなので昔は家に置いておいたのだが、去年の卒業パーティー時にドレスの色によくあうからと、実家から届けてもらっていた。
その時にそれを髪にあしらってくれたのはエニーで、その清楚な百合の簪には、『とても素敵ですわ』とうっとりとしていた。
「まったく……アレクシス様ったら。こんな素敵な物。私が気が付かずに卒業してしまっていたら、どうするつもりだったのかしら……」
そう、そっと指先で貝殻を撫でる。
とても艶やかで、光が当たるとほのかに貝殻特有の模様に合わせて色が変わる様が、とても美しい。
「私、大公殿下がお部屋を出られた後、きちんとお片づけしたはずなのですが。あぁ、このメモも。何処にあったのですか?」
そう、ベッドの天蓋を調べろだなんていうメモに首を傾げたエニーには、「それは内緒」と、エイネシアも肩をすくめて笑ってみせた。
多分、机の隠し扉や、裏に勝手に刻まれた魔法陣なんかには少しだって気がつかないだろう。
エイネシアだって、ハインツリッヒに出会わなければ一生気が付かなかったと思う。
「でもようやくわかりましたわ。私、大公殿下が寮を出るときに、アーデルハイド家の姫君がこのお部屋を使われなかった時は、部屋にあるすべての物を燃やしてほしいと言われていたんです」
「あ……」
そうか。ではあの机も。この寝台も。魔法のかかったランプに、眠り鹿の文鎮や、どこか昔懐かしいソファも。そしてこれからもまだ色々なところに残されているであろう、彼の残した物のすべて。
これらは全部、エイネシアのためだけに仕込まれているものなのだ。
「だからエニーは……迷っていた私に、アレク様が残された手紙を“読んだ方がいい”とお勧めしてくれたのね」
「申し訳ございません。あの時は出過ぎたことを口にしました」
「いいえ。そんなことないわ」
「ハインツリッヒ卿には色々と申しましたが、長くここに勤めている私にとっては、ハインツリッヒ卿が。そして大公殿下がお過ごしになって、少しずつ“古薔薇”になって行ったこのお部屋のことが、それなりに思い出深く、大切だったのです」
「ええ。分かるわ。とっても」
くすりと微笑んで見せたエイネシアに、エニーもほっと顔をほころばせる。
この寮には、この寮独特の。多分、寮という性格だからこその、歴史がある。
在学生は皆必ず三年で去って行き、その度に部屋は空室になり、また新しい部屋主を待つ。
特にこの三階は、下手をすれば十年以上誰も住人がいないことだって珍しくない。
今エドワードが暮らしている白百合の部屋も、エドワードが入学する前に母が使って以来、ずっと無人だったのだ。
そしてエドワードが卒業すれば。きっと次はまた数十年後。エドワードの子供か、あるいは他の公爵家の誰かの子供かが入学するまで、また長い間無人になる。
しかしその中でこうやって目まぐるしく入れ替わってゆく部屋主の歴史が、そのそれぞれの部屋に刻まれている。
白百合の部屋なのに、母が愛用していた片翼の持ち手のアーデルハイドカラーなランプがあるのもそう。
白薔薇の部屋の他とは趣の違う優しいピンクベージュのカーテンや装飾品は、アデリーン王女が一式揃えたものだったとか。
そういう歴史を、部屋を管理してくれている侍女達が大切に保持してきてくれたからこそ、ここには物語が残っている。
エイネシアの手元にも、これらが届いた。
「ですがこれは流石に無神経ですわ」
「えっ」
思いがけないエニーの言葉に、キョトンとする。
「仮にも許嫁のいらっしゃるご令嬢に、髪飾りを送るだなんて。これでは横恋慕ではありませんか」
「え?」
ますますキョトキョト、と首を傾げるエイネシア。
ヨコレンボ? はて。何の事やら。
「まぁ、お嬢様。『白騎士物語』をご存知ありませんか?」
「白騎士、物語?」
「古いお話ですが、若い女性には今も昔も大人気の恋愛小説ですわ。この寮の図書館にもありますよ」
「知らないわ。小説は……そういえば最近はあまり読んでいなくて」
「まぁ、筋書としては、伯爵家のご令息が騎士となって手柄を立てて、王女様と結婚する、という、少し突拍子もないお話なのですが」
なるほど。良く有りそうな物語だ。
「この物語の中には色々と独自の習慣や慣習、言い習わしのようなものがあって、髪飾りもその一つなんです」
「どんな意味があるの?」
「指輪は親から子へ。首飾りは恋人から恋人へ。耳飾りは旅ゆく人へ。そして髪飾りは、叶わぬ恋の相手へ」
そう聞いて、途端に呆れた顔になってしまった。
とてもロマンチックなお話だけれど、しかしそれはなんだかちっともアレクシスに似合わない。
それが分かっているのか、ですよね! とエニーもカラカラと笑った。
「大体アレク様が小説を読んでいらっしゃるところなんて、見たことが無いわ」
「あら、ですがこのお話は読んでいらっしゃいますよ。私がオススメしたんです」
「エニーが?」
「何故かある日突然、巷で婦女子に一番人気の物語は何だ、と問われまして」
「それで、その物語を?」
「ええ。一心不乱に、全巻十七冊を一日で」
「一体アレク様に何があったのかの方が気になるわ……」
そう呆れた顔をするエイネシアに、「私も未だに謎です」とエニーが笑う。
「でもそんなことを言ったらエニー。私は色々な人に思われていることになるわ。今日なんて、エドに髪に花を飾ってもらったわ」
そう思い出し笑いをしながら言ったエイネシアに、「エドワード卿の仕業だったのですね。相変わらずうっとりするような御方です」とエニーは肩をすくめた。
この日エニーが手ずから結い上げたエイネシア嬢の髪に、誰が花を添えたのか。ちょっと気になっていたのだろう。
だがようするに何がいいたいかと言えば、髪飾りに深い意味はないのだ。
「でもとても素敵な贈り物。“ご褒美”に、有難くいただくことにするわ」
「とても繊細な作りですから、壊れないようにちょうど良い装飾箱をご用意しますね」
「ええ、お願い」
「でも折角ですから。一度身に着けて見ますか?」
そうぐっ、とやる気を見せてエニーが声を弾ませる。
それに頷き掛けて。
でも少し考えてから、「いいえ」と答えた。
「これを最初に身に着けるのは……別の日にするわ」
そうですか? と言うエニーに。
では箱をお願いね、と言いながら、髪飾りを手に机へ向かう。
そうだ。これは頑張れた自分へのご褒美。
彼からの、ご褒美だ。
だから最初に身に着けるのは、もう一度頑張らなければいけない時。
卒業パーティーの時だ……。
だからそれまでどうか。
見守っていてくださいね、と。
そっと、引き出しにしまう。