2-17 光と闇と舞踏会(3)
「お嬢様。お嬢様……あぁ、良かった。ご気分は如何ですか? 気持ちの悪いところはございませんか?」
薄ぼんやりと開いた視線。
深い深い真紅の帳と蒸し暑い夏の空気に肌を覆うすべらかなシーツ。
深い深い夜の闇に、ポウ、とベッドの傍らで揺れる、精霊魔法のランプ。
ぼうぅ、と開いた視線が、その揺れる光を見つめた。
あぁ、何だ。やっぱり呼んだら、光がついた――。
何故だかそんなことを思って。
「お嬢様?」
心配そうな声色に、ふっと意識が覚醒してゆく。
あぁ、そうか。情けない。
混乱して、動揺して。それで何故だか倒れたのだ。
分からないけれど、なんだか少し息が苦しくて。
それで。
「今お前は息をしている。それを確認しろ。深く息を吸い、息を吐け」
エニーの声ではない。
低く静やかでぶっきらぼうな声色に、何故か促されるようにして、深く深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
そうすると不思議と頭の中がすっきりとした。
「エニー。泣かないで、エニー。ごめんなさいね、驚かせたわね」
目に涙を浮かべてベッドサイドに乗り出すその姿に、声をかける。
いいえ、いいえ、と必死に首を振るエニー。
きっととても、とても驚かせてしまったのだろう。
「それから、ハイン様。どうしてここに?」
そう、エニーの傍らに緩慢と座る、白衣の人を見る。
この古書の匂いと薄明りの中に見える設えは、間違いなく古薔薇の部屋のはずなのに、どうして西の森の魔法使いさんがいるのだろうか。
「学院の生徒が急に倒れたと言って、薬室に使いが来た。今晩はたまたまうちの第三研究室が宿直番だったからな。まさか患者がまたも私の不肖の弟子だとは思わなかったが」
一体一年に何度薬室の世話になるんだ? と遠慮のないことを言うハインツリッヒに、しかし今日ばかりはエニーもそれを茶化したりせず、身を起こそうとするエイネシアに手を貸してくれた。
「お水を飲まれますか? それともお紅茶を?」
「有難う、エニー。取りあえずお水を……」
「落ち着いたら、サヤンの葉にミントを少しと蜂蜜をいれて飲んでから、早く寝なさい。精神の抑制効果と安眠効果がある」
「ハイン様。私、落ち着いていますわ」
「ああ。けれどそれでも飲みなさい。師匠の言うことは……」
「ふふっ。ええ、そうでした。弟子は黙って聞くものだ。ですね」
「分かっているじゃないか」
クスリと笑って、先ずはエニーの注いでくれた冷たい水で喉を潤す。
暑い季節なのにとても冷えているのは、いつ目覚めても気持ちの良い水を飲めるようにとずっと入れ替え続けてくれていたからなのだろう。
「エニー。簡単に状況を教えて。あれからどうなったのかしら?」
「幸い、すぐにエドワード卿とビアンナ様がいらして下さり、お二方が場を治めてくださいました。エドワード卿が、大事にしないようにと仰られて、アマリア様にも、殿下にはお嬢様が体調を悪くなされて倒れられたので急遽寮へ連れて帰ることになったと伝言するようにと。皆様ご心配なさって一緒にお戻りになろうとなさいましたが、それも卿がお止めになられて、パーティーにご参加を。王女殿下が、殿下の今宵のパートナーを代わりにお勤めになられたと聞いています」
「そう。よかった。アン王女が、フォローして下さったのね」
「エドワード卿はすぐに戻っていらして、しばらくこちらにいらっしゃいました。今は何があったのかを確認しに……セイロン伯爵令嬢の、ところへ……」
寮内にエイネシアを貶めた人物がいることなど信じたくないのだろう。
先細りするエニーの声色に、「大丈夫よ、心配しないで」と声をかけた。
大丈夫。少しも心配なんていらない。
もう……知っていたことだから。
「エニー。エドには、あまりシシーを責めないように言って。見ていたでしょう? シシーは関係ないわ。今回の騒動はあの子の自作自演よ」
「私、信じられませんッ。あの子は何なんですか?! お嬢様はあの子が恥をかかないようにとお庇いになったのにッ。あの子が、皆様が時折怪訝な顔をして話されていた方なのですか!?」
珍しく声を荒げたエニーに、「落ち着きなさい」とそれを制したのはハインツリッヒだった。ここで問題を蒸し返しても、エイネシアにいらぬ気を使わせるだけ、と、早々と見て取ったのだろう。
「ですが殿下もあんなっ」
言いかけた言葉を、ハッと思わず手でふさいだエニーに、何となく、ことを察した。
今更隠すことなんてない。昔から変わらない。
こういう時、ヴィンセントがどんなお顔をするかなんて。もう散々見てきたのだから。
「“一体何をやっているんだ、騒ぎを起こして”というお顔で私を睨んでおられた? それともアイラさんを追いかけて、とても綺麗だとお囁きになって、二人きりの秘密のワルツでも踊っていらっしゃったのかしら?」
「両方だ」
エイネシアの憶測に少しの遠慮も無くきっぱりと答えたハインツリッヒに、「ハインツリッヒ卿!」と、咎めるようなきついエニーの声が飛んだけれど、エイネシアはちっとも気になんてならなかった。
むしろはっきりと状況が分かって、有難い。
「ハイン様、見ていらしたの?」
「これでも一応それなりに腹は立ってな。皆忘れていると思うが、これでも一応ヴィンセント王子の父上とは従兄弟なんだ。たまには年長者らしく、従兄子に説教でもしてやろうかと近くまで行った」
「ふふっ。忘れていましたわ」
グレンワイス大公は、先の女王陛下の夫であった王配セオスティアン・ロゼル・ブラットワイス陛下の一番下の弟だ。大公の子であるハインツリッヒは、セオスティアン陛下の子である現国王ウィルフレッド様とは従兄弟同士になる。
今までちっとも考えたことなかったけれど、言われてみればその通りで、こう見えてこの方は結構なご身分の御方なのだ。
「こちらにも噂はあれこれ届いていたが、流石の私も今回ばかりは王子の無神経さに、国を憂えた」
「ハイン様……」
「アレは頑固で強情ではあるが、彼なりによく努力し、よく自制していると認めてもいたのだがな。まさか、少し見ぬ間にあんなどうしようもない王子に成り下がっていたとは」
「やめて下さい。ハイン様」
少し厳しいくらいのエイネシアの声に、ハインツリッヒは一度口を噤んだ。
だがすぐにも一つ重たいため息を吐くと、「いいや、やめはしないさ」と言葉を続ける。
「一国民としてでもいい。大公家の一員としてでもいい。思うことがあるなら、私ははっきりと言う。私には背負うべき貴族の模範などというものはないからね」
「……ハイン様」
「ヴィンセントは王太子だ。その自覚があるなら、彼は何を差し置いても今この場所にいるべきなのだよ。親の不始末を子が拭うのは理不尽だと思うが、だがそれでもヴィンセントの王太子位は、アーデルハイド公爵令嬢によって約束されたものだ。そんなこと、八年前なら誰もが知っていた」
そう。それが八年前ならば。
「だがあいつは君に甘え過ぎた。王家の妃として求めるすべての物事を、倍の成果にして返すほどに優秀な許嫁に、まるで何をしても許されるかのような勘違いをして、自分の地位が何によって保障されているのかを忘れかけている。どうして君が、自分の行動に何一つ文句を言わないのかもだ」
「……いいえ。いいえ、ハイン様。そんなこと、ヴィンセント様は思っていらっしゃいませんわ。ちゃんと分かっていらっしゃいますわ。私は……アーデルハイド家は、殿下をお試しになるような真似は致しません。公爵家は王をお支えするする四柱としてここにあるのであり、決して柱が支えるべき天井を脅したり、ましてや突き抜けたりなどしません。してはならないのです」
「私が君と出会ったばかりの頃の君達の関係は、義務的だが対等だった。君はヴィンセントの立場を考慮して、下げなくていい相手に頭を下げて見せたが、ヴィンセントもまた君にそれを強いねばならなにことを悔いて、人々に認められる王になる為の努力を怠らなかった。だが今はどうだ。何故ヴィンセントはここにいない」
「っ……」
「柱がもろくなれば天井は落ちるのだよ。その柱がどれほど貴重なのか。それを忘れた王に、王たる資格はない。君が口を噤むのが“義務”なのだというのであれば、ヴィンセントは今、“義務”としてここにいなければならないのだ」
「ハイン様……」
どうかもう。もうそれ以上言わないで欲しい、と、そう切に願う。
まだすべての関係が無くなったわけではない。
今はまだ少し、空を見上げて地に足のつかぬそれに焦がれているだけ。
ヴィンセントは決して愚鈍ではない。
必ず、それに気が付くはずだ。
そして何よりも。
「それでもまだ、あの許嫁が恋しいのか?」
言われた言葉に、どうしようもなく顔を歪めた。
あぁ、ほらまったく。ばれていないはずがないのだ。
散々共に過ごしたのだから、聡明なこの人が分かっていないはずがないのだ。
「馬鹿だと……お笑いになりますか?」
義務だ。それが責務だ――。
言葉でそう繰り返しながら……でも義務や責務以外のものにすがって来たのは、自分の方だ。
本当は……本当は、ただ……“嫌われたくない”。たったのそれだけ。
「……笑いはしない。呆れはするがな」
「ええ、本当に。本当にそうですわ、ハイン様。でも私は愚かなのです。どうしようもなく」
「分かっているのならいい。愚かであることと、愚かを演じることは別だ」
「演じる、だなんて……」
「エイネシア・フィオレ・アーデルハイド。王を支える四柱の一つたる姫君。君に一つ、忠告しておく」
呑気に頬杖をついて、そんな顔で忠告なんて。
まるで本当に、悪い魔法使いのよう。
「もう気付いているだろう? 愚かな夢は、いつか覚めるぞ。覚めなければ、いけないぞ」
「……」
「その時君はどうする。君は“何者”になる――エイネシア」
ぼんやりと。
ぼんやりと見上げた天井に、ゆらりゆらりとランプの光が反射する。
ほこりほこりと、水が揺蕩うように、波を打つ。
「私は……」
私は何者に、なるのか。
私は何を、選ぶのか――。
「……まぁ、いい。とにかく今日はゆっくりと眠りなさい」
そう言って立ち上がるハインツリッヒに、エイネシアはぼうっと光を見つめた。
エニーがその背を急き立てるように追い出すのを聞きながら、ぼんやりと、その近いようで遠い光を。
ねぇ、先生。
分かっているの。
それでもどうしても、手放せない。
そうでしょう?
だってエイネシアはずっと、思い描いて来たのだもの。
その人を支えて。その人の王座を守ることを。
それだけを求められ、そのために求められて生きてきた。
それが自分の役目だと。この国を揺るがす大役を担っているのだと。
そう小さな頃から言われて育ってきて。
そして他でもない――ヴィンセントが、そう言ったの。
四公家に恥じない王子になろう。だからお前も、私を王とするに相応しい存在になれ、と。
それを頼りに、生きてきたの。
それを誇りに、縋ってきたの。
たったのそれだけが……私の、“存在意義”なのに。
なのに今更、そんなのは過ぎた話。愚かな夢でしかないだなんて言って。
ただただ無慈悲に現実を突きつけるだなんて。
そんなの、酷いわ。
酷いのに。
とっても酷いのに。
なのに、ねぇ。
何でその言葉を、否定できないの?