2-14 西の森の魔法使い(2)
「お嬢様! まぁまぁっ。なんてあられもないお姿で。こんな小汚いものに触れてはいけませんよ!」
駆け込んできたエニーは第一声にしてそう叫ぶと、勢いよくエイネシアの膝の白衣をはぎ取り、傍らののっぽさんの頭に引っかけた。
取りあえず何処から驚いたらいいのかわからずに呆然としている間にも、広げられた大判の布に、フワリと全身が包み込まれた。
ほのかに古書とインクの匂いのしみついたそれは、エイネシアの部屋のソファーに最近掛けられていたブラケットだった。
「おい。エニー……貴様……」
「殿方はお早く裏へ。お嬢様のお肌をチラリとでも見たら許しませんわよ」
そうハインツリッヒの背中を小突くあまりにも親しげな様子には、益々キョトンとしてしまった。
「エニー? あの……ハイン様は悪くないのよ? 私が不注意で……」
「まぁ。おいたわしい。変な実験の被験体になどなされていませんか!? ちゃんとした薬でしょうね?」
「……私は薬室の室長だぞ」
「ですから信用ならないのですよ!」
キッ、とハインツリッヒに遠慮ない視線を投げ寄越したエニーは、「ほら、いいからお早くお下がりになって!」と追い出した。
はて……ハインツリッヒはあぁ見えて、一応大公家の子息だったはずなのだが、そんなハインツリッヒをこうも邪険にできる侍女というのは、何者なのだろうか。
やれやれ、と引っ込むハインツリッヒの背中を見ていると、「お立ちになれますか?」とエニーが優しげに手を差し伸べてくれて、それに頷いて椅子を立つ。
すぐにもテキパキと上着を脱がせ、極力手早く汚れた制服のワンピースをはぎ取ると、上からかぶせるだけの簡単なドレスを着せて肌を覆ってから、丁寧に背中の編み上げをやんわりと編んでくれた。
袖は長くゆったりとしていて、足元もくるぶし丈で、新しい靴下を着用せずともいいようにと、気を使ってくれたドレスだった。
それに合わせた履きやすい靴まで持ってきてくれていて、すっかり身ぐるみを変えた傍らで、テキパキと脱いだ服をまとめて、何事も無かったように大きなバスケットにしまう。
着替えが入っているとは到底思えない籠で、何重にも気を使ってくれたのが分かった。
「有難う、エニー。助かったわ」
「いいえ、お嬢様。遅くなって申し訳ありせんでした。こんなにも長い間、お嬢様をこんな危ないところにお一人にしてしまうなんて」
「えっと……エニー? ハイン様と何かあったのかしら?」
そう問うて見たところで、エニーはとても重たいため息を溢した。
「ええ……それはもう。少し前に寮を出られたブラットワイス大公殿下やラングフォード公爵息閣下も相当のものでしたが、長年星雲寮にお仕えしていて、こちらのグレンワイス卿ほどの問題児は他に知りません」
「問題児……」
あぁ、なるほど、と納得してしまった。聞かずとも何となく想像がつく。
「無断外泊の常習犯。学校をさぼって大学に潜り込むこと数知れず。果ては学院を抜け出して王宮に忍び込み行方不明騒動を起こすこと七回。寮の菜園を勝手に薬草園に改造したり、とても可憐なお部屋だったはずの小薔薇のお部屋を床が抜けそうなほどの本で覆い尽くして“古薔薇”にした張本人ッ……」
なんと。あの部屋の原型を作ったのはハインツリッヒらしい。
そういえば彼も大公家の人間……王族なのであって、星雲寮の三階。それも薔薇を冠する小薔薇の部屋主であった可能性はとても高い。
「だからちゃんと床が抜けない程度に本棚は整理しただろう……」
そうため息をつきながら、身支度が終わったのを見計らったようにして奥から出てきたハインツリッヒに、エニーが今一度キッと鋭い視線を投げかけた。
「ええ。ええ。“少し”は。代わりに寮の図書室が物置と化しましたがね!」
あぁ……察せられてしまう。
「ブラットワイス大公殿下が入寮して、ひと目で貴方が作り変えたお部屋をお気に召した時は、私、本気で“不味い”と思い、知恵を絞ったのですよ。絶対に私の定めた境界から本を飛び出させないようにと!」
「学院に王宮図書館並みの設備がないのが悪い。それと菜園については許可をもらった。“食べれる葉っぱを育てていいか”と」
「食べれる“薬草”だとは仰っていませんでした!」
あー……、と、またも無駄に納得してしまった。
「果ては空き部屋という空き部屋まで自分の書斎になさって、日当たりが良いからと獅子のお部屋の美しいカーペットの上でプランター菜園などはじめられた時は、本当にもう、どうしてやろうかとッ」
「……ハイン様」
「その目を止めなさい。あれは流石に反省している。リードスにも叱られた」
リードス、と言われて、はたっ、とエイネシアは目を瞬かせた。
「まぁ。リードス? リードス・シグル・ダグリア!? 驚きましたわ。同じ頃に?」
「あぁ。あれもあれで引き籠りの問題児だったと思うがな」
四公爵家の一角にして東公と称されるダグリア家は、公爵家の中でも異端の一家だ。東の国境を一手に守っているということもあり、当主は王国誕生祭の大夜会にでさえめったに出てこないという究極の引き籠り貴族。公爵家でありながら王女降嫁や王妃輩出とも無縁の存在である。
勿論、四年に一度ダグリア領で開かれる四公会議ではアーデルハイド家も交流があり、ダグリア公とシルヴェスト公には血縁関係もあるので、アーデルハイドにとっても血縁だ。エイネシアも一、二度ダグリア領には行ったことがあり、王都に定例の報告に訪れるダグリア公にも何度か会ったことがある。とりわけ公は父ととても仲が良かったように記憶している。
普通の貴族達には、本当に存在しているのかと噂されるほどにちっともお目にかかれない“神秘の一族”扱いだが、エイネシアにとっては、“ちょっと遠方に住んでいて中々会えない身内”くらいの感覚だ。
現公爵の一人息子のリードスとも面識はあり、小さな頃、彼からもらった翡翠の百合の髪飾りは、今でもお気に入りとして使っている。
実のところかなりの年齢不詳なお兄さん……といった風だったのだが、まさかハインツリッヒと同世代だとは思わなかった。
「お二人がいらっしゃった代の三階は暗黒時代でした……」
ハァァ、と深い溜息を吐いて首を横に振るエニーの様子を見ると、なんだか想像できてしまって肩をすくめた。
片やお師匠様。片や身内とあって、なんだかちょっと申し訳ない。
「相変わらずお前は遠慮というものがないな。大体私よりもあの天然王子……アレクシスの方が問題児だっただろう。あれが大人しく学校に通っていたなどと信じられん」
「大公殿下もそれは……まぁ色々となさいましたが。しかしじっとしていられないからとじっとしなかった貴方と違って、早々と真面目に課題をこなし単位を満了して飛び級するという意味では、貴方よりはるかに優秀でした!」
「未だに信じられん……あの議題が飛びに飛びまくる男が、どうやってまともに一年半で単位を満了できたのか……」
そう頭を抱えるハインツリッヒには、エイネシアも苦笑を溢す。
言われてみれば確かに。よほどここの水が合わなかったのだろうか。
「ふふっ。なんだか……思いがけない話が聞けてしまいました。ハイン様にも学生の頃があったのですよね」
「何を言っている。姫と出会った頃も一応大学に籍を置いていた」
「だってハイン様、大学に行っている様子なんて微塵もありませんでしたもの」
その頃からすでに図書館と薬園と研究室通いをしており、気が付いた時にはもうとっとと単位を満了して正式な研究員になってしまっていた。学生だなんて、ちっとも想像できないのも仕方ない。
「それと。あの図書館みたいな部屋をお作りになったのも、ハイン様だったのですね。道理で」
「あぁ、もしかして今は姫が? 白百合ではないのか?」
「白百合は弟が」
「エドか。去年は随分と図書館で遭遇したのに、最近は見かけないと思っていたら……そうか。もう入学の年だったか」
あれは不肖の弟子達と違って非常に真っ当に優秀だ、と頷くハインツリッヒには、喜んだらいいのかどうかちょっと分からなかった。
一応弟を褒めていただいたようなので、不肖の弟子としてはお礼を言っておくべきだろうか。
「まぁ。お嬢様。もしかしてハインツリッヒ卿とは長いお付き合いなのですか?」
家柄としては当然かもしれませんが、と口を挟んだエニーに、「私の小さな頃からの先生ですよ」と笑って見せる。
するとエニーは、まぁ! と目を瞬かせたかと思うと、少しばかりその眉根を寄せて。
「お嬢様。いけませんよ。決してこの方のようになられてはいけませんよ」
そう念を押すものだから、なんだかおかしくて、ふふっ、と肩を揺らしてしまった。
そこで憮然とした顔をしてため息をついているハインツリッヒの顔がおかしかった。
二人のお蔭で、なんだか少し、気がまぎれた……。
「そろそろ戻りますわ。ハイン様。色々と有難うございました。助かりました」
「慈善事業ではないぞ。経過報告は詳細に」
「ふふっ。分かっております」
「それから先ほどの凝固魔法と空間固定の医療応用について、十日以内にレポートにして提出すること」
「ハイン様……それはえっと。私情が混じっておいででは?」
「君は私の弟子だろう。師匠の課題は文句を言わずにこなしなさい」
「ハインツリッヒ卿ッ!」
むっ! とエニーが声を張り上げたけれど、しかしエイネシアの方は何だかおかしくなってしまって、クスクスと肩を揺らして笑った。
もう嘘笑いなんかじゃない。本当に心から。ただほっとして零れ落ちた、本物の笑みだ。
それを見て取ったのか、僅かにハインツリッヒの口元が緩んだ様子に、一つ、丁寧な一礼をした。
この人がいなかったら、きっと、もう、少しだって立ち直れなかった――。
「さぁ、帰りましょう、お嬢様。早くここから離れた方が宜しいですわ」
そう促すエニーに、「今行くわ」と言いながら、踵を返す。
そんなエイネシアに、「あぁ、そうだ。姫」と、ハインツリッヒが声をかける。
「あの部屋に大きな机があるだろう」
「机? ええ。大図書館にあったようなものが」
「色々と探って見なさい。天板とか。引き出しの裏とか。あれは私が拾ってきた細工机で、色々なところに仕掛けがある」
「え?」
「悪戯好きのアイツなら、多分色々と残しているはずだ」
それはちっとも知らなかった。
悪戯好きの。
まさか、そんなもの――。
そそくさと仕事に戻るべく、エイネシアの血が付いたはずの白衣をそのまま羽織りなおして奥へ行くその人は、もうそれ以上のことは言ってくれず。
お嬢様? と促すエニーに、はっとして慌てて温室の外を目指した。
机の仕掛け。
そこを開けたら、何があるのだろうか。
そう首を傾けながら。
こころばかりか、寮への道を急いだ。
◇◇◇
「シアお義姉様!」
寮に戻ると、わっとアンナマリアが飛んできて、心配そうにエイネシアの腕をつかんだものだから驚いた。
はて。まだ授業中の時間のはず。
「アン王女。授業は?」
「それどころではありませんわ。よかった……戻って見えて」
ほぅっ、と息を吐くアンナマリアに、あぁ、そうだ。心配をかけたよな、と後悔する。
他には誰にも見られていないだろうか。ちゃんと……アーデルハイド公爵令嬢としてあるべき姿のまま、皆に認識されているだろうか。
「ごめんなさい。急な用事を思い出してしまって」
「お義姉様……」
「アン王女。ね?」
そうよね? と。言葉で言いくるめてしまうように、さも平然とした笑みを象って口にするエイネシアに、アンナマリアもぎゅっと言葉を飲み込んだ。
何事も無かった。何事も無く、ただエイネシアは急な用事が出来てお茶会に出られなくなっただけ。そうしてほしい、という意図に、アンナマリアはうんと切な気に眉をしかめたけれど、間もなく頷いて、納得してくれた。
「エドはどうしました?」
「大丈夫よ。私が寮に帰るから、と、授業に行っていただいたわ。ケーキは、アルのお口に突っ込んでおいたわ」
「えっ」
「なんだか腹が立って。騎士だというのに、ちっとも役に立たないんですもの。困った顔でポカンと突っ立っていらしたから、お口を塞いでさしあげたの。お兄様とのお茶会はすっぽかしてさしあげましたわ。残りはエドと二人で美味しくいただきました。まだ残っていますから、後ほどお茶に致しましょう」
そう少し心配そうながらも明るくなるよう努めて言ってくれるアンナマリアに、エイネシアも極力自然になるよう心掛けながら、口元を緩めて見せた。
そうだ。なんてことない。元々、断られること前提だったじゃないか。
少し予定は狂ってしまったけれど、だからといってなんてことはない。
「あの……シア様。私……ごめんなさ……」
「アン王女。どうか謝らないで」
そっと。アンナマリアの口元に人差し指を添えて、その口を噤ませる。
「お菓子作り。とても楽しかったの。わくわくしたの。それは間違いないの。だからどうか、謝らないで」
「シア……」
「それで良ければ、また一緒にお菓子作りを致しましょう。今度は……二人で。もしよろしければ、エドにも差入れしてあげたいわ」
「ええ。ええ。そう致しましょう。マダムスミスにも、先程とても喜んでいただけたのよ。ビアンナやエブリル。イザベルにもよ。何なら今度は寮の皆と女子会をしましょう。ビアンナはショコラのやつがとても気に入って、作り方を知りたいんですって。一緒にお茶をしたら、きっと楽しいわ」
そう口早に言うアンナマリアに、コクリと頷いた。
ええ。それはきっと、とても楽しい。
もしも。もしも寮の皆が“まだ”、エイネシアを悪く思っていないでくれたら、だけれど。
「少し、部屋で探し物があるの。アン王女、お茶は少し後でも?」
「ええ、勿論。ゆっくりと休んでちょうだい。落ち着いたら、声をかけてね。私も、今日はもう学校はオサボリすることにしたの」
そう笑って見せるアンナマリアにニコリと微笑みを返してから、ではまた、と、少し足早に部屋を目指す。
◇◇◇
小さな可憐な薔薇が刻まれた、“小薔薇”の部屋。
少し急くようにして開いた途端の、ほのかに香る本の香り。
何処からか漂う薔薇の香りが少しばかりこれに交じって、部屋主の帰宅に合わせてポウと灯った光魔法のランプに、部屋の中が温もりを醸し出す。
そのまますぐに駆け込んだ書棚のスペース。
今日初めて知った。この壁は、エニー建てたものだったこと。
そういえば何だか不自然で気になっていた、書棚スペースを区切る床の、ちょっと乱暴にひかれたような白線。この線に、本のはみ出し厳禁なんて意味があったとは知らなかった。
その書棚スペースの大きな机は、今ではすっかりとエイネシアの机になっている。
エイネシアがよく使う本。教科書。ノート。好きなハーブのポプリと、気に入っている花瓶には、エニーがいつも入れ替えてくれている一輪の薔薇。
そんな机の上に沢山乗った荷物を、せっせと床に下ろしてゆく。
この机には最初から上に色々な物が乗っていて、彼が使っていたであろうペンやインク。可愛らしい眠り鹿の文鎮や、いくつかの辞書と道具類など。言われてみれば、天板が開くことなんてちっとも想定していない状態だった。
だからハインツリッヒに、“天板とか”といわれたところで、何かあるだなんて思っていないのだけれど。
なのにどうしてだろう。心が急いて、早く、早く、と荷をどけてゆく。
そうしてまっさらになった机の奥に、不自然な窪みがあるのを見つけた。
最初から本が乗っていて、絶対に気が付かなかった場所の窪みだ。
触れてみると、奥にスライド式のつまみのようなものがあって、動かすとどこかでカチャリと音がした。
それから恐る恐る。その大きな机の天板に手をかけて、押し上げる。
思いのほかあっさりと。ギシと古めかしい音をたてて開いた天板に。
その浅く狭い空間に、これでもかというほどに散乱した様々な物に。
思わずギリリと、唇をかみしめた。
『マッサカナ街道民俗伝承とその成立に関する一考察』
『ユードレック領での麦芽品質懸念問題とその後のイースニック被害における不慮の効果』
『ヒルデワイス議論の低迷と慰問の形骸化に関する一懸念』
『ウォリンテンス紋から見る“グリンクス”と“グリンテンス”の歴史的認識の再考』
次から次へと詰め込まれた下書きと思われる沢山のレポート。
いつもより少しだけ乱雑な流れるような書体と、幾つもの思考の跡をうかがわせる沢山の訂正。
見覚えのある議題と、聞き覚えのある沢山の議論の痕跡。
懐かしい、大図書館での思い出――。
そうしたレポートを全部外に出したところで。
『シアへ』
底一面にぎっしりと敷き詰められた沢山の便箋に。
硬く、硬く目を閉ざす。
あぁ。どうして気が付かなかったのだろう。
『白線に注意を。そこから本がはみ出すと、エニーという侍女に叱られる。エニーは怒るとすごく怖い』
『光魔法のランプは自信作。ただ方陣の永続時間がどのくらい持つのかは実証していないので、在学途中に切れてしまったらごめん……』
『眠り鹿の文鎮。可愛いでしょう? こっそりと町に抜け出して見つけたのだけれど、ばれて眠り兎と眠り猫は没収された。鹿だけは死守したんだ』
『昨日アーウィンが入学してきたんだけど、なんだかわざとらしく叔父さん呼びしてくるんだ。何故かな? 一つ違いだよ?』
それはすべて、手紙と呼べるようなものではない。ただ便箋に走り書いたような独り言がほとんどで、でも時折その裏側に、シアへ、という宛先が書いてあるものが混じっていた。
『最近君の噂を聞いた。氷の姫と呼ばれているんだって? 私はそれを褒め言葉だと思うことにするよ。アーデルハイド領の冬の居城は氷が張って、この世ならぬもののように美しいと聞いているから。ここを出たら、先ず最初の冬に是非見に行こうと思っている』
『気分が打ち沈んでいる時は、この机の下に丸まって閉じこもるのがオススメだ。机の裏にこっそりと魔法陣を刻んである。ほんのりと温かくてよく眠れる。でも風邪を引かないよう、ブランケットを忘れずに』
一体この人は……公爵家の姫に何を勧めているんだと、少し呆れた顔をしながら。でもこっそりと、その手紙を握りしめながら机の下にもぐってみた。
とても狭くて窮屈で、薄暗くって。でも見上げてみると確かに裏側に魔法陣が書かれていて、これかしら、と触れて精霊に呼びかけてみる。
そうすればほのかに淡い光が漂って、はらはら、はらはらと、まるで雪のように光の粒が降ってきた。
それはとても綺麗で、幻想的で。
薄暗い中でふわふわと降る光に包まれていると、肩に、膝にと落ちてゆく光が仄かな温もりを伴って融けてゆく。
あぁ。まったく。
こんなもの。
こんなに優しいものばかり。
残して行かないでよ。
貴方はこんなにも優しいのに。
なのに優しくしてほしい人には少しだって優しくしてもらえないの。
こうして目を閉じれば、貴方はいつもそのふわふわとした穏やかな笑みを浮かべていて、羨ましいほどに暖かいのに。
なのに本当に笑ってほしい人の笑っている顔なんて、ちっとも思い浮かばないの。
『本当に困ったら学院の西の森に思い切って突っ込んでみると良い。そこには悪い魔法使いが住んでいて、君を助けてくれるから。但しとんでもない大変な要求を突き付けられることが有るので注意されたし』
ねぇ。
ねぇ……アレク様。
貴方はかつて自分に懐いてくれた子供が、急に粗放を向いてしまって。約束も守らず、一通の手紙だって返さなかった薄情なその子に、どうしてこんなにも色々な物を残してくれたの?
少し優しくて、少し的外れで。でも少しだけ、愛おしくて。
なのにこんなにも胸を痛ませる優しさを、どうして残して行ったの?
貴方は最初から、知っていたのではないの?
私が。エイネシアがどんなに追っても、追っても、“それ”が絶対に手に入らないと。
本当は、知っていたんじゃないの――?
だって貴方は、分かっていたもの。
ヴィンセント・ルチル・エーデルワイスの許嫁が、エイネシアという名前のただの虚像であることを。
エイネシア・フィオレ・アーデルハイドの許嫁が、彼女をただ自分の正統性のために必要な義務だと思っていることを。
ねぇ。ねぇ、アレク様。
貴方の言葉が聞きたいの。
貴方と話を、したいのよ。
なのにねぇ、どうして、アレク様。
こんなに沢山の手紙を残してくれていたのに。
なのにおかしいわ。
一通だって、返信先が書いていないの。
貴方は今、何処にいるの?
何処に行けば、貴方に会えるの?
どうしたなら、ごめんなさい、と。その言葉を伝えられるの?
あぁ、もう本当に、困った人ね。
貴方の忠告が遅いから。悪い魔法使いに、とっても大変な課題を出されてしまったじゃないの。
ねぇ。他には?
他にはこの部屋に、何を残したの?
これで最後?
いいえ。きっと貴方の事だから、色々と仕掛けてあるのでしょう?
教えて頂戴。他にはどこかしら。
窓? カーテン? クローゼットかしら。それとも絨毯を捲ってみる?
貴方まで私のこと、子供扱いして。
『今日も一日よく頑張りました』
ねぇ、お願い。
泣いてしまうから。
そんな手紙、残さないでよ――。