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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第二章 エデルニアの雪融け
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2-14 西の森の魔法使い(1)

 どうしてだろう。

 冷たい土の上の、人の温もり。

 握りしめた白い布と。

 古書とインクと、でもどこかほろ苦い……。


「やっと落ち着いたか。馬鹿弟子」


 全く思ってもみなかった、“あの人ではない声”に目を見開いて、大慌てで顔をあげる。

 切れ長の細い眼差しに片眼鏡。グレイの長い髪と、長い白衣。やれやれと息づく低い声音と、女の子を慰めるだなんて行為が微塵も似合わない呆れ顔。

 ポカン……、と呆気にとられて間抜け面を晒す泣きじゃくったはずの女の子を前に、「酷い顔だぞ」と無遠慮な物言いをする朴念仁。


「……ハイン……さ、ま?」


 キョトンとして絞り出した声に、「人違いで悪かったな」と言うその言葉が、途端にカァッとエイネシアの頬を真っ赤に染めあげた。

 あぁ。馬鹿だ。本当に馬鹿だ。

 思わず飛びついた古書の匂い。いつもと違って中々慰めてくれない暖かい掌。

 でもよく考えれば、その人であるはずなんて絶対になくて。

 それに何処からか漂う苦い薬草と土の香りは、そうだ。そういえば、その人の匂い。

「ッッ。ど、う……してっ。ここっ」

「私は一応王立大付属の研究員なのだが? 図書館に住んでいるわけではないぞ」

 いや、それはそうだ。確かにそうだ。王立大学はこの王立学院の隣に接していたはずで、エイネシアが咄嗟に飛び込んだこの森は、要するに大学部が所有する研究用の人工林なわけだ。

 薬学や植物学を専攻するその人がいてもちっともおかしくない場所ということになる。

「……私ッ……」

 慌てて掴んでいた手を離し、それから白衣に点々と付着した赤い血に、顔を青くしてハインツリッヒを見上げた。

 最後に会ったのは、いつだったか。その懐かしい顔が、未だになにやら信じられない。

「ごめんなさいっ。私。どうしましょう……まさか……夢か何かかとっ」

「日中、ましてや穏やかなこの季節に白昼夢とは重症だな。取りあえず手を出しなさい」

 そう促すハインツリッヒに、「いえ」と手を引いて、出来るだけ早くこの場を離れる策をめぐらせるが、そんなのはなからお見通しのハインツリッヒ先生は、「いいから」と、遠慮なくエイネシアの手を取って上を向けさせた。

「まったく。どんな力で握りしめれば掌に爪が食い込むのやら。それに一体どこを通って来たんだ。ユズスギの棘がこんなに。あぁ、ここでは設備が足りなさすぎる。立てるか?」

「……あの」

「立てないなら抱えて行く。あぁ、肩に担ぐ、という意味でだ」

 お姫様抱っこなど甘い夢は見るな、と先んじて忠告する鬼先生に、「立てます……」と、自分の姿を見下ろした。

 今更だが随分と酷い格好で、土に汚れて葉っぱを沢山つけた無残な制服も、血がにじんで破れた靴下も、とてもじゃないがこのままでは寮にだって帰れない。その令嬢らしからぬ自分には、カァ、とまたも頬が染まった。

 だがお生憎様。微塵も気にした様子のない先生は、「やっぱり担ぐか?」と言うものだから、慌てて膝をたてて腰を上げた。

 一応怪我人のためにと差しのべられた手に、土と血に汚れた手を重ねることは躊躇いがあったけれど、そうしていると呆気なく腕を掴まれて引っ張り上げられた。

 今更だけれど、この人とこんなに近くに並んで立ったのは初めてで、うんと見上げてから、また少し困ったように視線を落とした。


 恥ずかしい……。

 まさか“人違い”をするなんて。

 ましてや、絶対にいるはずがないのに。

 絶対に、望んでなんていないはずなのに。

 なのに……“彼”だと思って、泣きつくなんて。


「少し歩くぞ。傷むところがあればすぐに言いなさい」

 そう歩き出した後ろ姿に、慌てて足を踏み出す。

 さり、さり、と土を踏む足音と、かさり、かさり、と草を分け入る静かな森。

 その人が無言で歩くから、とぼとぼと追うエイネシアの頭には再び先ほどの見たくもない光景が思い出されて、ぎゅうっ、と再び拳を握りしめざるを得なかった。


 どうして。

 ねぇ、どうして? ヴィンセント様。

 どうしてそんな状況になったの?

 貴方がお誘いになったの? それとも偶然?

 ねぇ。どうして。どうしてそれを、お食べになったの?

 私もね。お菓子を焼いたの。

 覚えているかしら。イリアの離宮で過ごした日々のことを。

 まだ皆今よりもう少しずつ無邪気で、幼くて。

 何のしがらみも考えずに、ただの友人として過ごすことのできた、あの愛おしい日々のことを。

 貴方がとってもおかしそうに笑っていた、あの日のケーキをね。焼いてみたの。

 そしたらまた……あの時に戻れるかもだなんて。

 そんな馬鹿なこと、あるはずもないのに。

 あるはずも、ないのに……。


「それ以上怪我を増やしても、診てはやらんぞ」

 途端に背中を向けたままのその人が口にした言葉が、エイネシアをハッと我に返らせた。

 それから思わず、え、え? とあたりを見回して。

 でも相変わらず背中を向けたままのその人に、キョトンと首を傾ける。

 見てもいないのに。どうして……分かるのだろう。

「まったく。君といいアレといい。何故私の教え子はこうも手がかかるのか。あぁ、まったく。もう一人いたぞ。あの天然ほわほわ異星人。どこ行きやがった」

 ブツブツと奇妙なことを口にしたハインツリッヒは、そう言って目の前に現れたガラス張りの温室をざっと覗き込むと、チッ、と一つ舌打ちをする。

「おい、ユナン! どこにいる、ユナン!」

 突如バッと振り返るからエイネシアは思わず肩を跳ね上げたのだけれど、ハインツリッヒが見ているのははるか森の方で、何度かそう苛立たしげに声を上げたところで、「はぁぁいー」という間の抜けるような声と共に、ガサゴソガサッ、と低い垣根からズボッッと薄茶色の頭が飛び出してきた。

 あちらこちらに沢山の葉っぱを付けた淡い色の髪。それからにこーっ、と微笑んだ、淡いトパーズ色の瞳の温厚そうな面差し。

「まったく。何をしているんだお前は。あぁ、その外の葉っぱを温室に持ち込むなよ。全部払え。いっそ頭の中まで全部払え」

「えぇぇ。酷いですよ、室長ー。室長が捕まえて来いっていうから、捕まえて来たのにぃ」

 どこか間延びしたゆったりとした声色で、よいしょ、よいしょ、と必死に垣根を掻き分けて出てきたその人は、研究室の白衣を纏っていて、そしてその手に何故かとても綺麗な瑠璃色の羽の小さな鳥を持っていた。

 それを見た瞬間、ハインツリッヒの眉間にピシリと深い谷間が刻まれる。

「貴様は馬鹿か。馬鹿なのか。ルリバタキの声がしていたので、この辺に生息地があっただろうか、とは問うたが、捕まえて来いなどと一言も言っていない。元の場所に返してきなさい」

「まぁまぁ、そう言わず。折角森中駆けずり回って見つけて来たんですから」

 そうニコニコとする青年は、ふと目を瞬かせているお嬢さんがいることに気が付くと、たちまちにこぉと頬笑んで、「ほら」とエイネシアの目の前にその鳥をつきだした。

 ぴぃっ、ぴぃっ、とか細く鳴いたその声は、とても繊細で澄んでいて、なんだか心地よい音をしている。

「お嬢さん。ルリバタキ。見たことありますか? とても綺麗な声で鳴くんですよ」

「ルリバタキ……綺麗な羽の色」

「空を飛ぶと、もっと綺麗なんです。羽ばたく翼に光が反射すると本当に宝石のようで、それでルリバタキ。鳴かせてみます? それとも飛ばせてみます?」

「……とても綺麗ですが……可哀想なので、放してあげてくださいませんか?」

 そう頼むと、「いいですよ。ではよーく見ていてくださいね」と、ふわっ、と優しげに小鳥を空に放った。

 途端に、ピィィィ、と、甲高い囀りを鳴らしてバサリと翼をはばたかせる。

 その翼がきらりと青い閃光を走らせたようにきらめいて、ほぅっ、と、思わず吐息を溢す。

 なんて綺麗な鳥。

 そう見惚れていると、ハアァァ、というハインツリッヒの深い溜息に、意識を引き戻された。

 そうだった。その人がいるんだった。

「エイネシア姫。一応紹介をしておくと、これはユナン・ボードレール。今年私のところの薬室に入ってきた研究員で……って、おい、こら、ユナン! 温室には葉っぱを全部払ってから入れと言っただろう!」

 がちゃがちゃと温室の戸を開けようとしていていたユナンへの怒鳴り声に、「あれ、まだついてます?」とキョロキョロする呑気な声色が、なんだかエイネシアの気をも抜けさせた。

 なんだろうか。なんだかちょっと……懐かしい。

 あぁもうまったくお前は! なんて言いながら、結局自らユナンの背中をはたいてやるハインツリッヒは、やっぱり結構面倒見が良くて……その光景は、文句を言いながらも本に埋もれた王子様を発掘してあげるありし日の情景を思い出させた。

「大体お前。人が自分のことを紹介しているのだから、じっとして紹介されろ」

「え。今僕のこと紹介していましたか? ははは。室長、僕のこと人間だと思っていないのだと思ってました」

「ああ。私は論理的でないものを人間とは認めない主義だ」

「ははー。酷いよねー、この人。お嬢さん、気を付けた方がいいですよ」

 そう忠告するユナンに、ハァ、とハインツリッヒが今一度ため息を吐いた。

「心配せずともこちらの姫は私の古い馴染みだ。それとお前。一応言葉には気を付けろ。こちらは西方公アーデルハイド家のご令嬢だ」

「へぇ公爵様の。ん? え。あ。アーデルハイドって。えっ。室長のお師匠の?」

 はた、と流石に目を瞬かせたユナンは、わっわっ、と途端に慌てふためくと、くしゃくしゃの白衣をパンパンと一応振り払ってから、「ユナンです」と一応それっぽい礼をとってみせた。

 その柔和な雰囲気がなんだか和ませてくれて、ほっ、とエイネシアの顔にもようやく僅かな安堵の色が過った。その様子に一つ目を細めたハインツリッヒが、「少しは落ち着いたようだな」とかすかに口元を緩めながら、そそくさと温室の扉をくぐる。

 その様子に、「へぇ。これは驚いた」と、ユナンがした。

「室長も、あんな顔をなさるんですね」

 そう首を傾けるユナンには、「えぇ」と、思わずエイネシアが頷く。

「良い返答や良い質問をした時は、よくあんな顔をしてくださいましたわ……」

 それはなんだか少し、不思議な感覚だった。

 その人にとっては今もまだエイネシアは教え子で。昔とちっとも変らない顔で、笑ってくださるのだから。

「何をしている。早く入りなさい」

 温室の中からそう促されて、「あっ。どうぞどうぞ」と扉の前を開けるユナンに一つお礼を言ってから、その小さな扉をくぐる。

 くぐってすぐに、ほぅ、と、その立派な温室の実に効率の良い循環式薬草園に目移りする。

 すごい。始めて見る魔法陣がいくつも複数に張られている。水。土。木。それにとても希少な光の魔法陣も。それだけじゃない。この温室全体が、魔法結界に閉じ込められているのだ。気温が違う。湿度が違う。差し込んでくる光の柔らかさが違う。これは一体、何の魔法だろう?

「興味を持ってもらえるのは有難いが、まずは座りなさい。ユナン、お前はリコとノコラを薬に。それからアリギリと。ニコルは三日分ほど摘み取ってくれ」

「はい。リコにノコラにアリギリ、それからニコル。あれ。お怪我ですか?」

「いいから早く」

 そう促され、「もう。お師匠に似てせっかちだなぁ」と薬園の奥へ入ってゆく。

 それに早々と背を向け、ハインツリッヒは温室の入り口の近くにあった研究スペースと思しき机の本をがさっと腕で適当に避けると、傍に椅子を一つ置いて「取合えあず座りなさい」と促した。

 その言葉に従って、大人しく椅子に座る。

「シズ。シーズリース。いるか?」

 それからどこへともなく声をかけたところで、ひょっこりと薬園の上の方の段から顔を出した男性が、「お呼びですか」と降りてくる。

「学院に使いを頼む。こちらの不手際でアーデルハイド公爵令嬢にお怪我をさせたので、手当てをしている。午後は欠席扱いにしてくれと」

「ハイン様。私……」

「ここの室長は私だから、姫を怪我させたといっても大事にはならない。この方が都合がいいだろう」

 それは申し訳ない気はしたが、けれどハインツリッヒの言うとおりだ。自分で転んだとか、森に迷ってとか、理由はいくらでも作れるが、どれもどこかしらでエイネシアに傷をつける噂になる。

 少なくともハインツリッヒは、いつも王太子の許嫁に相応しいようにと必死に勤めてきたエイネシアの姿を、彼女がとても小さな頃から見て来たのだ。それを知っているからこその、配慮だった。

「有難うございます、ハイン様。ご迷惑をおかけしているのに」

「薬効の臨床に協力してくれる被験体ならいつでも歓迎だ。経過の報告は怠るなよ」

 そう真面目な顔で言われて、思わずほっとエイネシアも肩の力が抜けた。

「室長。伝言はそれだけで?」

「あぁ。いや。すまないがもう一つ。星雲寮……」

 だよな? と視線を寄越したハインツリッヒに、コクンとエイネシアは一つ頷く。

「星雲寮に寄って同じように伝えて、侍女に姫の着替えを持たせて連れて来てくれ。いや、待て」

 どうした方がいい? という視線に、エイネシアも少し口を噤んだ。

 出来ることなら、誰にも知られずにいたい。けれど着替えを持ってきてもらわねば、このまま帰ってはむしろ寮の関係者を心配させるし、いらぬ噂にもなる。

「エニーに。できれば他の人には知らせず、エニーという侍女を呼んで、そのようにお願いできますか?」

「あぁ。彼女はまだ星雲寮にいるのか」

 そうハインツリッヒが言うから、むしろハインツリッヒが寮にいた頃からいるのだろうか、と、ぎょっと驚いた。

 まだ若くに見えたのに……もしかして、エニーって、思っていたよりかなり年上なのではなかろうか。

「それなら都合がいい。取次に別の侍女が出たら、“ハインツリッヒがエニーに用事だ”と言って呼び出してくれ。あの寮の一室にはかなりの私の私物があるはずだ。周りも変には思わないだろう」

 その言葉には、あぁ、と納得してしまった。ハインツリッヒの私物……それは間違いない。今はエイネシアの部屋になっているあの部屋の、大量の彼の手書きレポートだろう。

 内容はどれも新しかったから、多分()が在学中にハインツリッヒから受け取ったものなのだろうが、執筆者はハインツリッヒである。ハインツリッヒの私物であることに間違いはない。三階の専属の侍女であるエニーに取り次いでもらうには十分な理由だ。

「分かりました。ついでに森でオレンジでももいできますよ。ニコルは恐ろしく苦いですから」

 そう言って出てゆくシーズリースという青年に、“恐ろしく苦いニコル”のことを思い出したエイネシアは、俄かに眉尻を下げて口を緩めた。

 そう言えば、ハインツリッヒと最初に交わした話題も、それであったか。

「さぁ。手を出しなさい。それから足と。他には?」

「ありません。あ……傷口は自分で洗います」

 そう言って傷ついた掌を上に向けたエイネシアは、ブツブツ、と、短い精霊魔法の言霊を紡ぐ。

 同時にピシピシと掌の上に氷の柱がせせりたち、それがジワリと融けて形を変え、掌を包み込むように形を作ると、食い込んでいた棘と一緒に土や汚れを浮かせてからパシャンッと落ちた。

「ほぅ。範囲魔法と、それに構築魔法を途中で詠唱破棄して空間固定しているのか。これはすごいな。いや。だが氷の精霊魔法でこう簡単に水には……」

「氷も細かく砕けば雪のようなものです。氷の塊は融けるのに時間がかかりますが、雪なら体温ですぐに融けてしまうでしょう? それと同じです」

「なるほど。微小な氷粒を大量に発生させて、あとは自然の力で溶かしているのか。空間固定は? 傷口の洗浄などの繊細な動きも、精霊魔法だけでは難しいだろう」

「傷口を凍らせて凝固する範囲魔法を先にかけて、周りに無属性魔法で空間固定した氷の膜を残して、内側だけを溶かすんです。それで凍った傷口と氷の膜の間に自然と異物が浮き出る仕組みです」

「ほう。複合魔法か。無属性魔法と氷魔法の掛け合わせを実に無駄なく可能としている。ちゃんと腕は御あがいていたようだな。結構だ」

 滅多には褒めては下さらない先生なので、思いがけないところで褒められて、少しだけ心がふわりとした。大図書館に行かなくなってからも勉強を怠ったわけではないが、ちゃんとやっておいてよかったと心から思う。

「それで、傷口の凝固といったか……それは氷を新たに生み出すだけでなくて、血液自体を直接凍らせることもできるか?」

「えっと……氷魔法士の個々の性質にも左右されますが、理論的には、おそらく」

「医学分野にかなりの効果が見込める術式だ。いや……だが汎用性的な観点から言えば氷魔法士はそもそもが少ないからな……」

 ぶつぶつぶつ、と何やら考えふけるハインツリッヒが今考えていることは、以前エイネシアも考えたことがあった。

 あの時は考えることを辞めてしまったけれど、ハインツリッヒを見ていると、やっておけばよかったと少し後悔してしまう。

「薬、蒸し上がりましたよ。まだ少し熱いですが」

 そうユナンが持ってきてくれた柔らかくなった葉を受け取ると、ハインツリッヒが無言で葉っぱを差し出してきた。

 自分でどうにかしろ、という意味ではない。『それだけ魔法が堪能なら、冷やせるよな?』とでもいいたげな興味津々な視線が、どうしればいいのかを雄弁に物語っている。勿論エイネシアは駄々をこねることも無く、苦笑をこらえながら手をかざし、冷気を送って薬草を冷ましてさしあげた。治療代である。

 それを適度なところで「よし」と頷いてやめさせたハインツリッヒが、自ら開けた空間の机の上でゴリゴリとすり潰し出す。

 彼がわざと背を向けてくれたことも分かっていて、「お茶でも淹れますね」とユナンが奥へ下がり人気が無くなったのを見ると、パパッと、汚れた制服の下に手を入れて、破れた靴下を脱ぎとった。

 スカートの裾をこそこそとたくしあげて、膝の傷も同じように魔法で洗い落とす。

「膝の治療は自分で出来るか?」

 背を向けたままそうタイミングよく言うこの人は、やはり背中に目でもついているのではなかろうか……。

「はい。できます」

「リコの葉はそのまま傷に張って、上からすり潰したノコラとガーゼを重ねたらしっかりと包帯で固定しろ。質問は?」

「ありません」

 受け取ったリコの葉は、ほのかに熱を孕んでいた。薬効が出ているせいだろうか。不思議だ。形は丸くて、香りには清涼感がある。

 一枚を千切って膝に乗せたところで、タイミングよくすり潰した薬をのせたガーゼを差し出されたので、それを重ねる。包帯はすぐ傍に置いてあったので、拝借してテキパキと巻いた。

 逆の膝も同じように手当てして、スカートを下ろす。

 この国では婦女子が素足を晒すのは恥ずかしいことなものだから、ドレスより丈の短いスカートを下ろしたところで他人の目に触れさせるには忍びない。

 だからどうしようと思っていたら、パサリ、と、膝の上に白衣が降ってきたものだから驚いて顔をあげた。

 みればハインツリッヒの白衣で、パチリと目を瞬かせる。

「あ。有難う御座ます」

「エニーにあらぬ姿を見せられては私が叱られる」

 本気なのか冗談なのか分からないが……どっちだろう。

「さぁ。手も出しなさい」

 そううながされ、慌てて掌を上に向ける。

 こちらの方はリコの葉を置く前に、何やらピンセットでチクチクされ、さらに毒々しい赤紫をした液体を浸したガーゼで、ポンポンと傷口を叩かれた。

「ユズスギの棘には微弱だが毒がある。ひとまず毒消しにアリギリを塗っておくが、夜になってもしびれが続くようならすぐに言いなさい」

「あ……はい」

 どうやら掌がジンとしていたのは、その毒とやらのせいだったらしい。

 それからアリギリに染まった掌の上にリコの葉が置かれて、傷口に張りとめるようにしてすり潰されたノコラが塗られ、ガーゼを添えてからテキパキと包帯が巻かれてゆく。

 流石にとても手慣れていて、いつも図書館では政治や経済の話の方が沢山していたものだから、あぁ、本当に薬室の室長さんだったんだ、と驚いたくらいだった。

「まったく。君は存外そそっかしいな。こんなにも器用に傷をこさえてくるとは。森を走るのは危ないからやめなさい。あと、ちゃんと確認せずにいきなり抱き着くのもやめなさい。私であったからまだ良いものの……」

 ブツブツとまるで子供を窘めるような物言いをするハインツリッヒに、一つキョトンとする。

 そそっかしいとか、走るなとか。エイネシアが地に拳を叩きつけて嗚咽していたことを知っているはずなのに、まるでそんなことなどなかったかのようにはぐらかしてくれる。

 でもだからといって、何だろうか。この、先生のような物言いといい雰囲気といい。

「何故私の教え子はこうも手のかかるのが多いのかね。アイツといい君といいアレといい……」

 やれやれ、ともう片方の手の方の包帯をきゅっ、と優しく結んだその人に、なんだか思わず、ふふっ、と、安堵の笑みが零れ落ちた。

 不思議だ。あんなにも悲しいことがあって。あんなにも苦しくて、憤っていたのに。何でこんなに落ち着いて、笑ってなんてられるのだろう。

「おい。私は君に注意を促しているはずなのだが?」

「ふふっ。だってハイン様。私のこと、まるで子供みたいに」

 くすくす、と肩を揺らす。

 なんだかおかしくて。肩が。指先が。かたかたと揺れてしまう。

 いけない。笑っては駄目だわ、と思うのだけれど、ちっとも止まらず体が揺れる。

 小刻みに。ふるふると。

 笑うように。

 ……凍えるように。

「君が八歳の頃から幾分か年を重ねていようとも、その分私も年を取っているのでね。私から見れば君なんぞ、まだまだ子供だ」

 あぁ、そうだった。あの頃二十歳ばかりだった彼は、もう二十代の後半だろうか。十以上も年上なのだから、エイネシアを子供扱いするはずだ。

 なんだ。だからこんなに……安心するんだろうか。

「ふふっ。どうしましょう。なんだかおかしくて……笑いが止まらないわ」

 ふるふる。ふるふると小刻みに揺れる肩。

「聞いているのは人間に興味のない研究者と薬草だけだ。好きにするといい」

 カタカタと小刻みにぶれる掌。

 ポツン……ポツン、と白い包帯に沁み込んだ、何処から湧いて出たともしれぬ水滴。

 あぁ、嫌だわ。

 温室の中なのに、雨だなんて――。

 ポツリ。ポツリと降る水滴に、本当に変ね、と震える声で笑いながら。

 ただただ白衣の中で、小さくまんまるになった。


 ゴリゴリと薬をすり潰すハインツリッヒの作業の音だけが規則正しく木霊する。

 そうして見て見ぬふりをしてくれるその人に。

 もう少しだけ、嘘をついて。

 “笑っているだけよ”と嘘をついて。

 古書とインクと、それから薬草の匂いの中で。

 じっと、じぃっと、切なさに堪えた。


 ツキリツキリと突き刺す胸のこの痛みには。

 こうやって時間をかけて薬に包まれるほかに、癒す方法を思いつかなかったから。






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