2-13 裏切り
いつも以上にあっという間に過ぎて行った午前の授業。
授業が終わり、どこか緊張で憂鬱になりそうな気持を、ハァとこぼした溜息に包みながら、ゆっくりと席を立ったところで、「シアお義姉様」と呼ばれた。
見るとニコニコと微笑むアンナマリアが手を振っていて、それに気が付いた教室の皆が、ごきげんよう、ごきげんようと頭を下げてゆく。
「お邪魔致します。皆どうぞ楽になさって」
周囲をあしらいながらそそくさと教室に入ってきたアンナマリアは、のんびりとしているエイネシアの傍まで来ると、「さぁお早く参りましょう」と促す。
何でこんなにもアンナマリアの方が嬉しそうなのだろうか。逆に冷静になる。
「わかりました。わかりましたわ。だから落ちついてくださいませ、アン王女。そんなに急がなくてもお昼休みは逃げませんから」
思わず肩をすくめる弱気なエイネシアに、「だって一分一秒も勿体ないのですもの」と、少し強引に引っ張ってくれる手が、やはりなんだか頼もしい。
廊下に出ると、どうやら同じくアンナマリアに連行されてきたらしいエドワードが、キャイキャイと彼を愛でる女子生徒の視線の中にさらされていた。そんな彼女たちを、実に冷たい威圧感のある佇まいが、お父様にそっくりだ。
うぅむ、美人の無言は迫力がある。
とはいえエイネシアを見るなりすぐに顔をほころばせた様子は相変わらずの王子様で、これにはたちまち覗き見のお嬢様方も、ほぅぅ、と嘆息をこぼしてノックアウトされた。なんて罪な弟なのだろう。
「お待たせ、エド」
「いいえ、ちっとも。今日は姉上主催のお茶会だそうですね」
「あら。そんなことを仰ったの? アン王女」
そうチラとアンナマリアを見やったら、「その方が効果も覿面でしょう?」と微笑まれた。
なるほど。エイネシアの名前で、エドワードをここまで釣ってきたらしい。
「正確には、私とアン王女の、なのよ。昨日、二人で久しぶりにケーキを焼いたから。食べていただけるかしら?」
「勿論です。姉上のケーキは久しぶりですね」
楽しみです、と言うエドワードに、「久しぶりだから、あまり期待しないで」と肩をすくめた。
そうして三人で廊下を歩き、通常棟の校舎を出たところで、待ち構えていたエニーとアニタから荷物を受け取った。
エニーの持ってきたバスケットには、三本のパウンドケーキと、それから今朝早起きしてアンナマリアと用意したサンドイッチなんかも用意してある。アニタが持ってきてくれたのは、この日のために選んだ食器と紅茶の葉を入れたバスケットだ。
たかがお昼休みのちょっとしたお茶会にしては豪勢すぎるくらいの準備だけれど、女の子も二人集まればいつの間にやらすっかりと楽しくなってしまったのだ。
その二つのバスケットの内、ケーキのバスケットをエイネシアが受け取って、茶器の重たい方はエドワードが持ってくれた。
そうして甘い香りに包まれながら、三人で揃って学内のサロンを目指す。
「姉上がご自分からお茶会を言い出すなんて、珍しいのではないですか?」
「ふふっ。私ではないわ。本当は全部、アン王女が考えたの」
そう傍らを見たところで、「少し強引でしたかしら?」とアンナマリアが肩をすくめる。
「いいえ。感謝しているくらいです」
「だって、もどかしいんだもの。お兄様もお義姉様もとってもおとなで、少しも恋人らしいことをなさらないから」
「恋び……」
ええ。それはね。違うもの、という言葉は飲み込んでおいた。
アンナマリアだってそんなことは百も承知だ。それでいて、かつて口にした『お兄様とのことを応援する』というのをやってくれているわけだ。
それはとても嬉しいけれど。
本当は少し、怖くもある。
それは、そんなことをしても今更どうにかなるものでもないと、そう諦めてしまっているからなのか。
「それに、胃袋をつかむのは大事ですわ。そうではなくて? エド」
ぐっと拳を握って、おそらく姉に胃袋をつかまれているであろう代表を見やったアンナマリアには、「ええ、その通りですね」とあっさりとエドワードが首肯した。
「つかまれていると言えば、アルもですね。確か以前、姉上の焼かれたケーキを丸かじりにしたことが……」
エイネシアやアンナマリアが思い出したのと全く同じエピソードを思い出したエドワードに、「そう、それ!」と、思わず揃って肩を揺らした。
「あれはとってもおかしかったわ」
「思えば昔からアルが素直にテーブルに着くのは、大抵が姉上のお菓子がある時でしたね」
「アルは小麦のぎっしりとしたお菓子が好きよね」
いつの間にやらアルフォンス談義で盛り上がる二人の会話を耳に入れている内に、エイネシアの方も緊張がとけてきた。二人とアルフォンスがいてくれたら、大丈夫な気がする。
それにしたって本当に。この二人はいつからこんなに仲良くなったのだろうか。お姉さんは少し妬けてしまう。
そんな話をしている間に、サロンが見えてきた。
相も変わらずこそこそと見物人が多くいるのを見ると、すでに目的の人物がサロンに来ているであろうことがすぐに分かった。
来てくれたのだ――。
「早く参りましょう」
その様子を見て取ったアンナマリアがそう笑みを深くして、軽い足取りで駆けてゆく。
危ないですよ、なんて言いながらそれを追って。
けれどテラスへの入り口でピタッとアンナマリアが足を止めたものだから、「アン王女?」と首を傾げながら隣に並んで。
その瞬間、さぁっ、とエイネシアの顔が青ざめた。
慌てて振り返ったアンナマリアの視線にさえ気づかなかった。
ただエイネシアの視線を釘付けたのは、ちらりちらりと翻ったピンクの髪と、彼女の目の前にいる、金の髪の王子様。ただ、それだけ。
「ご兄妹でお茶会なんて素敵ですわね。王女様、甘い物がお好きだと宜しいのですが」
甲高い声が耳に響く。
「嫌いではないだろうが」
「私などの手作りでは、お気に召されないかもしれませんわ」
甘ったるい声音が、脳内をねっとりと掻き回す。
「君が食べるために作ったものなのでは? 私達が貰っても良いのか?」
「良いのです。友人たちに振舞おうと思って、沢山作って来たものですから。高貴な皆様のお口にも合えばいいのですが」
ニコニコとあどけない微笑みを振りまきながら、バスケットから出してテーブルへ並べられるお菓子たち。
ガラスのカップに見覚えのある黄色いふるりとした卵菓子は、見覚えがある。卵と牛乳と砂糖さえあれば簡単に作れる、プリンだ。
「はじめてみる菓子だな」
「私が考えたお菓子なんです。そうだわ。ヴィンセント様、一つお試しになって!」
「私が? しかし……」
「お願いしますっ! 王女様のお口に合うかどうか、是非っ」
手を合わせて可愛らしくきゅんきゅんと肩をすくめてお願いして見せる少女に、ふっ、と、王子様の口元が思わず綻ぶ。
「相変わらず君はおかしな子だな。私に毒見をさせる人は初めてだ」
「あっ。いけないっ。私ったらまた失礼をッ!」
そう慌てて手を伸ばしてプリンを回収しようとしたその手を、パシリと掴みとめた手。
「いや、いい。貰おう」
そう言ってその手がガラスの容器に触れて。
匙を手に取って――。
バッッ、と。その瞬間、エイネシアは硬く目を閉ざして振り返った。
あぁ。嫌だ。嫌だ。嫌だ――。
胸の内を醜く焦がす、どろどろとした熱。
ぎしぎしと心臓を握りつぶすような茨の感覚。
硬く握りしめた掌に爪が食い込み、籠りすぎた力に肩が震える。
「あの子、またっ」
そうエイネシアの隣を駆け抜けようと踏み出したアンナマリアの腕を、気が付いた時にはもう、パシリッと掴みとめていた。
お願い。どうか、お願い。何も言わないで、と。
ここで出て行って、あの子と揉めるわけにはいかない。アンナマリアにそんな役回りをさせてもいけない。でもだからといって、今笑顔を浮かべてあの子の作ったものをいただくなんて、絶対にできない。
そのすべての葛藤をぎゅうっと握りしめた掌の中に包み治める。
「姉上……」
心配そうな声。
あぁ。嫌だ。嫌だ。嫌だ――。
こんな自分を見られることさえも。
こんなにも惨めに、狭小な心をさらけてしまうことも。
嫌で。嫌でたまらなくて。
ゆっくりと開いた視線に、その握りしめた手の中にあるバスケットが目に入り。
そのあまりにも空しい甘い香りに。
気が付いた時にはもう、それを放り出して走り出していた。
「お義姉様っ」
「姉上!」
二人の声が背中から聞こえていた。
走り出してすぐ。ドンッと誰かにぶつかった気がして。
「っ、と。姫?!」
それが知っている人の声であるのにも気が付いていて。
けれど顔を上げることも無く、ただただ一目散に走り去る。
あぁ。いけない。
こんなところを誰かに見られてはいけない。
私はエイネシア。エイネシア・フィオレ・アーデルハイド。
いずれ王家の妃となる者。どんな時でも取り乱したりなんてしては駄目。
先の女王陛下のように。いつも大らかで穏やかで。公平であって凛として。
こんな姿なんて見せては駄目、と。人目のない垣根へ飛び込み、奥へ、奥へと走り去る。
何度も何度も足がもつれ、髪や裾が幾度も枝に引っかかった。
それでもまだ駄目だ。
もっと奥へと走り去る。
誰もいないところへ。
誰も見ていないところへ。
誰一人いないところへ。
たった一人に、なれるところへ。
深い深い木陰の奥で、根に足を取られて膝を付く。
地面をこすった掌が、チリリと痛みを伴った。
昨日一日でしみついたはずの指先の甘い匂いが苛立たしくて。
浮かれていた自分が腹立たしくて。
「ッ、あぁぁぁぁッッっ」
荒げた声に、がむしゃらに指先で土を掻いた。
馬鹿だ。
なんて馬鹿なんだ。
こんな甘い匂いをさせて、道化じゃないか。
ドンッ。ドンッ、と、何度も何度も拳が地面を打ち叩く。
叩くたびに小石が食い込み、チリチリと広がる鋭い痛みが、ただ唯一の救い。
なんて馬鹿なエイネシア。
忘れるなんて。
忘れてしまうだなんて。
あの日。銀の月を見上げながら、もう充分に思い知ったではないか。
指先を散々に傷つけた薔薇の茨に、チリチリ、チリチリとその小さな痛みを抱えて。
何も望んでは駄目なのだと、思い知ったではないか。
なのにどうしてこんなことをしてしまったの?
分かっていたはず。
たとえどんなに味方が増えようとも、その人だけは手に入らない。
絶対にもう、手に入らない。
馬鹿な、馬鹿な、エイネシア――。
惨めな自分を叩きのめすかのように、今一度ドンッと地面を叩こうとして……掴み止められた手に、ハッとした。
嫌だ。止めないで。そう咄嗟に振り払って顔をあげようとしたけれど、ポン、と頭の上に乗せられた大きな手と……その服から漂った古書とインクの懐かしい香りに。
次の瞬間には、もう何も考えられず。
ただポロポロ、ポロポロ、と涙をこぼすと、どんっ、とその胸に縋りついた。
菓子より甘い、古紙の香り。
微睡むように暖かい、大きな腕。
いつでもどんな時でもちっとも動じない、規則正しい心臓の脈動。
離れてしまった手の平がいつまでたっても頭を撫でてくれないのが不満で、殊更にぎゅっとしがみついて涙を流す。
ぽつりぽつりと涙が頬を落ち。
冷たい土の上で震える体に、ポン、ポン、と、少しだけ大きな手が背中を叩いて宥めてくれた。
あぁ、そうだ。きっと自分は、夢を見ているのだ。
いつもいつも小さくなって、一人打ち震えていた少女をあやしてくれたその人の夢を。
何も言わずにそこにいてくれた、古薔薇の部屋の……その人に。
あぁ、どうして。
どうしてこの人はいつもいつもいて欲しい時にばかりに現れて。
なのに何も言わずに去ってしまってうのだろう。
あぁ、そうだ。去らないで。
どうかこの幻だけは、覚めないで、と。
懇願すべく、頭を浮かせる。
浮かせて……気付いた。
このリアルな熱。このリアルな匂い。このリアルな感触。
この違和感は……なんだろう?