2-10 嫉妬
「お聞きになりました? 今朝の……」
「ええ。殿下が……見知らぬ一年とご登校なさったとか」
「見知らぬではありませんわ。あの子よ。初日に、何かエイネシア様と口論になったとかいう」
チラチラ、と投げかけられる視線にさらされながら、聞こえぬふりをするエイネシアは、ぐっ、と、平静を装う顔の下で奥歯を噛み締めた。
「またあの子ですの?」
「確か昨日はお昼休みに殿下と中庭を歩いておいでだとかいう噂が……」
「私も見ましたわ。どうなっていますの?」
「どうしてエイネシア様は何もご注意なさらないのかしら」
チラチラ。チラチラ。
覗き見るような視線が絶えない中で、エイネシアはそっと開いていた本を閉じた。
それにピクリとクラスメイト達が反応したけれど、お生憎様、何か反応を返してあげるつもりはなく、ゴーン、ゴーン、と、授業開始の鐘が鳴る。
がっかりとした顔で散ってゆくクラスメイト達と、入ってきた教師。鞄から取り出した教科書とノートを開きながら、手にした万年筆をぎゅっと握った。
周りが静かだったのは、精々一日程度のことだった。
そのすぐあとから、この手の噂はもはや絶えない。
入学三日目にして、アイラ・キャロラインは先日お騒がせしたお詫びだと言って三年の教室を訪ねて行き、王子を名指しで呼び寄せて、お詫びの刺繍をいれたハンカチをお渡ししたそうだ。
ヴィンセントは一度はそれを断ったそうだが、「お詫びですから」と強引に押し付けて去って行ったアイラに、ついそれを受け取ってしまったという。
そのハンカチがどうなったのかは、知らない。
その次の日には、特別棟からサロンへの道すがらで偶然、ヴィンセントがアイラを見かけ、先日のハンカチの礼を言い、少しの立ち話をしたらしい。
思わず「宜しければお昼をご一緒に」と口にしたアイラは、すぐにはっとした顔を赤らめて、「私ったらなんてご無礼なことを。ごめんなさい!」と逃げ去ったと聞いた。
それからまた別の日には、髪のリボンに愛らしい春の花を一輪さして教室に現れたアイラが、頬を染めながら「ヴィンセント様にいただきましたの」と話していたとか。
そして昨日はヴィンセントとの中庭の散歩で、今日はついに一緒に登校。
美園寮と星雲寮では一緒になりようがないはずなのだが、一体どうなっているのやら。
噂はあくまでも噂で、一体どこからどこまでが本当なのかは分からないが、日々麗しのお顔をみるみる歪めて苛立たしそうにしているアンナマリアの姿を見てる限りだと、決してすべてが噂というわけではないことが明らかだった。
彼女の憤りはとても嬉しかったけれど、しかしだからと言ってエイネシアにどうこうできる話でもない。
無駄にアイラを咎めたりすれば、またアイラの“エイネシア嬢にいじめられた”との演技の標的になることは間違いなく、ならば極力避けて大人しくしているのが、エイネシアが唯一出来る術なのだ。
王子も王子だ。どうしてそんなアイラを咎めもせず為されるがままなのか。
いやそれも仕方がないのか。
胸が痛くて仕方がないが、しかしそれでも王子に『お慎み下さいませ』だなんて言えるはずも無く、エイネシアはただただこうして視線の標的になりながらも平静を保つしかないのだ。
少しでも感情のままに動いたならば、その時点で罠に落とされる。
幸いであったのは、そんなエイネシアを気遣うアンナマリアが、何かと一緒にいてくれたことだった。
毎日のようにお昼には一緒にランチをしましょう、と約束をしたし、朝も一緒に登校をするのが日々の習慣になっていった。
廊下などですれ違えばことさら親しげにエイネシアと会話を楽しみ、慰めてくれた。
ただあんまりアイラと反目し過ぎては、エイネシアの代わりにアンナマリアが悪役令嬢ポジションにおかれかねないからと、どうかくれぐれも気を付けるようにとお願いした。
そのことはアンナマリアも良く分かっているようで、過度な接触こそ拒んでいるが、出来る限りアイラにも冷たくならないように接しているらしい。
だがまさか、アンナマリアとエイネシアが二人でランチをしていた際、同じ寮の一年のイザベル・ディー・フロックハート嬢に、「アイラさんとのランチのお約束があったのに、エイネシア様が同席をお拒みになられてお二人でランチ為されているとのお噂は本当ですか?」と聞かれた時には、二人そろってポカンとしてしまった。
寮内でアンナマリアとエイネシアが親しくしていることを知っているイザベルも、まさかその噂が本当だと思って問うたわけではなく、こんなことになっていますよ、と教えてくれるつもりでの言葉だったのだが、あまりにも呆然とした顔をした二人には、「ごめんなさい。もう少し言い方をかえるべきでしたわっ」と困った顔をした。
これにはアンナマリアが怒りを潜めた満面の笑みで、わざとらしく声を大きくして、「私、お昼はいつもシアお義姉様と二人で取ると決めていますの。他の方を誘ったり、誘われたりしたことなんてないわ」と口にした。
その言葉に、なんだ、なんだ、と周りの視線がチラチラとそれて行くのを見ながら、「良かったのですか?」とエイネシアは心配したけれど、これにはアンナマリアも深いため息を溢した。
どうやらアイラの存在はアンナマリアにとっても相当のストレスになっているらしい。
だがそんな味方が一人でもいてくれるのは頼もしいことで、色々な噂が飛び交いながらも、いつでも傍に居て話を聞いてくれるアンナマリアがいてくれることは、とんでもなく大きな支えになった。
だがそれでも。
この思いをどうしたらよいのか、と。
ぼんやりと見やった窓の外に、憂えた吐息を溢す。
今宵は寮則にある金曜の晩餐の日。
一体自分はどんな顔をして、ヴィンセントに会えばよいのだろうか。
◇◇◇
そんな日の帰り道。
教室からの階段を降りようとしたところで、ちょうど上の三年の階から下りてきたヴィンセントとばったりと遭遇してしまったエイネシアは、思わず一瞬逃げ出しそうになったのをこらえて、丁寧に挨拶した。
一瞬言葉を躊躇ったのはヴィンセントも同じで、その反応は、後ろめたいことがあるからなのだろう……と考えてしまったのは、自分がそう疑っているからなのだろうか。
とはいえそこで別々に帰るのもおかしな話で、「寮に帰るところか?」「ええ」「では一緒に帰ろう」という流れになるのはごく自然なことであった。
今日はアルフォンスの姿がなくて、正真正銘の二人きり。
共に階段を降りる途中、一年の教室の階段の隅でまさに“待ち伏せ待機中”なアイラを見つけてしまったのだが、彼女はヴィンセントの姿に身を乗り出しかけた瞬間、隣のエイネシアを見てパッと柱の影に引っ込んでしまった。
なるほど。どうやらエイネシアを避けてひそひそと行動をしているらしい。
そして今日は朝ばかりでなく、帰りもヴィンセントと一緒になることを目論んでいたわけだ。
それについては、こうやって偶然にでも一緒に帰ることになったことにとんでもなく安堵し、思わずそっとヴィンセントの腕の制服を掴んでしまった。
それに気が付いたヴィンセントが驚いたような顔を向けたものだから、その顔にようやく自分がしたことの大胆さに気が付いて、「すみませんっ」と、慌てて手を離したけれど、ヴィンセントはそんなエイネシアに、「何故?」と首を傾げると、さりげなくエスコートするように腕を差し出してくれたから驚いた。
ただの登下校にまでエスコートは必要ないのだけれど、まさかエイネシアがそれを望んでいると思い、腕を差し出してくれたのか。
そんなことをされたのは初めてで(そもそも自分から腕を掴むなんて真似をしたのが初めてだったのだけれど)、どうしようとどぎまぎと頬を染めながらも、そっとその腕に手を添えた。
久しぶりのエスコートの手は相変わらず慣れた様子で、触れているというだけで、一歩一歩の歩みが愛おしくなる。
このままずっと歩いていたいような心地になりながら、ほんの少しだけ……。いつもよりも距離を縮めてみた。
その事にもヴィンセントは少しも何も言わず、当然のようにエスコートをしてくれて、二人並んでゆっくりと寮への道を歩んだ。
これは何だろうか。神様からのプレゼントだろうか。
あぁ。いつぞやの、手も差し伸べられずに背中を向けられたアレは、なにかの間違いだったのだ。
そう一時の夢に微睡みながら、ドキドキと歩いた長いようで短い道のり。
閑静な並木道を行き、広間を通り過ぎ、「まぁ」「あら」と此方を見やる沢山の視線が少しずつ減っていって、寮が見える頃になり。
「噂を気にしているのか?」
そうおもむろに口を開いたヴィンセントに、「えっ!?」と驚いて顔を跳ね上げた。
すっかりとこの時間に酔いしれいたせいで、一瞬何を言われたのかさえ聞き取れなかった。
でもすぐに理解をすると、「噂?」と首を傾げる。
噂を知らないという意味ではなく、どうしてそんな話が出て来たのか、という意味での言葉だったのだが、段々と冷静になってきたエイネシアは、唐突に、彼が何を言いたいのかを理解してしまった。
要するに、自分からヴィンセントの腕を求めるだなんていうらしくないエイネシア嬢の行動の原因は、“噂”の払拭のためなのだろう? と。そう言われているのだ。
違う。そうじゃない。
確かに原因は噂で、それに不安になっていたせい。
けれど王子に対し、許嫁が“不安で”などと、信頼していないかのようなことを口にすることはできない。
だから幾つもの言葉を飲み込みながら、作られた笑みを浮かべて見せて。
「皆様が気にしていらっしゃるようでしたので」
そう答えたなら、とても静やかな視線が寄越された。
その視線に、何故か一瞬ドキリとしてしまった。
何だろうか。何かとても不安な。言葉を間違えた、と。思わずそう思ってしまうような視線。
「あの……ヴィ……」
「確かに。最近は不審気な視線が多かったからな。まさか噂を信じているわけではないだろう?」
「……えぇ。勿論ですわ、ヴィンセント様」
そうニコリと微笑んで見せながら。
ぎゅっ、と、思わず唇を引き結んだ。
信じて? 勿論、信じてなんていない。信じたくなんてない。
でもそれでもすべてがすべて噂でない事もまた、知っている。
本当はすべて聞いてしまいたかった。
ねぇ。受け取ったハンカチはどうなさったの?
お昼に誘われたことがおありになるの?
今朝は一緒にご登校なされたの?
仲良くお庭を散策したり。手ずから摘み取った花を、あの子の髪に飾って差し上げましたの?
そんなこと。私はされたことないわ――。
今にも喉から出てしまいそうな言葉の数々は、硬く口を引き結んでいないと今にも漏れ出してしまいそうで、必死でそれを噤んだ。
それに気が付くことも無く、寮の扉をくぐるなり解けてしまった腕が空しくて。
「ではまた後ほど」
同じ三階に帰るのに、エイネシアを残して逆の階段へと向かった許嫁の君に、しばし気が抜けたように玄関で佇んでしまった。
やはり、もう決して。どんなにか望んでも絶対に、あの人との普通の関係は、手に入らないのだろうか。
一度違えてしまったこの関係は、もう二度と修復されはしないのだろうか。
寮までの道を率いてくれたその手は、ちっとも変わることなく、昔と同じその人の手であったのに。
義務でもいいから……傍に居ることを、許してほしかったのに。
もしかしたらもう、それさえも……。
ただただ取り残されて立ちすくんだエイネシアは、間もなく帰ってきたエドワードが、「姉上?」と不思議そうに声をかけるまで、少しとしてその場所から動くことができなかった。
慌てて、「なんだかぼうっと考え事をしてしまって」なんて笑って見せながら歩き出すエイネシアに、「そんなに急ぐと危ないですよ」と隣に並んで、同じ右側の階段を上ってくれた弟の存在が、とても頼もしくて。
でもとても、切なかった。
どんなにか優しくて、どんなにか愛しくても。
彼は、左の階段を上って行ったあの人では、ないのだから――。