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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第二章 エデルニアの雪融け
34/192

2-8 アンナマリア

「というわけで。薔薇の砂糖漬けを持ってまいりましたの。お茶に致しましょう」


 その日の夜。少し遅い時間から始まり、軽い夕餉を兼ねた入寮のパーティーを終えてすぐ、部屋に戻ろうと扉に手をかけていたエイネシアを呼びとめた王女様に、エイネシアはしばらくポカンと立ちすくんでしまった。

 あの場限りの適当な嘘か何かだと思っていたのに、まさかそんなことを言われて、しかも部屋の前で呼びとめられるとは思っていなかった。

 そもそもついこの間まで避けられまくっていたように記憶しているのだが、これはどうしたことだろうか。

「どうかなさった?」

 そう首を傾げる愛らしい王女様。

「い、いえっ。ええ、喜んで」

 そうひとまず礼を尽くして答えたところで、「そんなに畏まるのはもうやめに致しましょう」と言われた。

 まぁ……それは有難いには有難いけれど。

 一体何があったのだろうか。

 王族の子は学院に入ると性格が一変する……みたいな呪いでもかかっているのだろうか。

 そうポカンとするエイネシアに、「お茶って何処でしたら良いのかしら?」と言っているアンナマリアを見て、「あぁ、それでしたら」と案内を買って出た。

 まだ何やら腑に落ちない事ばかりだが、取りあえずアンナマリアと仲良くなれるのであればそれに越したことは無い。

 ひとまず廊下を戻って、西棟の廊下を真っ直ぐ。片翼のと白百合の扉の前を通り過ぎた先の北棟には、広々としたギャラリーの奥の西北の搭屋に、落ち着く小ぶりなサロンがあるのだ。

 隅には小さな暖炉もあるから、エイネシアも去年の冬にはここに本を持ちこんで過ごしたりした。少々奥まった場所ではあるが、二人で過ごすならここが大きさもちょうどいい。

 道すがらすれ違ったエニーにお茶をお願いしてサロンに入ると、「素敵なサロンね」と、アンナマリアが真っ先に二人掛けのソファの片側に腰を下ろした。

 瀟洒な銀の装飾の支えに、落ち着いた青のフカフカのソファー。小ぶりな二人掛けと、両側に一人掛けが一つずつあり、間に白練り色の背の低いテーブルが一つ。窓には青に銀の紐のかかった重々しいカーテンがかかっていて、ほんのりと温かい色合いのシャンデリアとともに、落ち着いた空間になっている。

 どこに座ろうかと少し悩んだ上で、隣に座るのも何だし、余り離れた場所というのも何だからと、アンナマリアが座った方に近い一人掛けのソファーへと腰を下ろした。

 すぐにもエニーがお茶を用意してきてくれて、「夜はまだ冷えますから」と、二人にそれぞれ暖かいショールをかけてくれた。

 そうして落ち着いたところで、エニーの置いていってくれたピンセットで、楕円形の小瓶から薔薇の花びらの砂糖漬けを摘み取ったアンナマリアは、小皿にそれを並べてゆく。

 それは確か、九つくらいの頃だったか。王宮でいつものようにヴィンセントにご挨拶をして、そのまま一緒にお茶を、という流れになった時に、偶然休憩にやって来た女王陛下がこれを見かけて、「まぁまぁ、なんて可愛らしい光景かしら」と、わざわざご自分の部屋から取ってきて分けて下さったのが、この薔薇の砂糖漬けというお菓子だった。

 女王陛下が丹精込めて自ら育てた薔薇を使ってあり、そのまま食べたり、紅茶に溶かしていただいたりするらしい。

 その可愛らしい小瓶に入った砂糖漬けに、エイネシアはすぐにも夢中になった。

 しゃくりと噛めば薔薇の香りが口の中いっぱいに広がって、でも最後にほんの少しの苦みがある。きっと味よりも見た目と香りを楽しむものなのだろうが、エイネシアは香りが溶け込んだお砂糖を苦みがするまでゆっくりと口の中で溶かすのが好きだ。それがことさら、じっくりと味わって楽しんでいるように見えるのかもしれない。

 時折お茶の席を一緒にしたアンナマリアがそれを知っていることは少しも問題ではなく、アンナマリアは小ぶりな物を小皿のままエイネシアに差し出すと、自分は大ぶりのものを一つ紅茶に沈めて、カラカラとかき混ぜた。

「薔薇の砂糖漬けは久しぶりです」

 どうぞいただいて、というアンナマリアにお礼を言ってから、エイネシアはそれをそのまま摘まんで口に含む。

 ふわりと口の中に広がった薔薇の芳香と、この日一日の色々とあった疲れを溶かしてくれるような甘い砂糖。じんわりとにじみ出てきた野性味のある苦味。でもその苦味が口の中で溶けた砂糖の甘さを際立させる。幸せな味だ。

「お祖母様から預かって来たの。貴女がお好きだったから、一緒にお食べなさい、って」

「嬉しいです。お誘いいただいて有難うございます、アンナマリア王女」

「あぁ、それ、やめましょう。アンでいいわ、エイネシア姫。えっと……お義兄(にい)様は、“シア”って呼んでおられたかしら……」

 そう言ったアンナマリアに、え?? と一度首を傾げてしまった。

 アンナマリアのお兄様、ことヴィンセントには、一度も愛称でなんて呼ばれたことが無い。というかお互い未だに、ヴィンセント、エイネシアと呼ぶ間柄で、それを今まで変に思うという事も無かった。

 だからヴィンセントにシアだなんて呼ばれたことない、と首を傾げたのだが、それを見て取ったのか、「アレクお義兄様ですわ」と付け足したアンナマリアには、ドキリと息を呑んでしまった。

 一体、どこで見られていたのか。あぁ、そうだ。確かにそう呼ばれていた。

 まだエイネシアが赤ん坊の頃に会ったことがあるというアレクシスは、多分その頃、大人たちが呼んでいたシアという愛称を真似て呼んで、その赤ん坊をあやしたのだろう。言われてみれば、物心ついて再会した時から当たり前のようにそう呼ばれていた気がする。

「シア、と呼んでも?」

 そう改めて言われて、慌てて「勿論です、アン王女」と答えた。

 だがそれに対してもアンナマリアは、「ただのアンでいいわ」という。

 とはいえ流石にそれは、と口ごもっていたら。


「貴女、“転移者”でしょう? シア」


 そう言われたから。

 カランッッ、と、思わず持ち上げかけていたカップがソーサーに落ちて、さぁっと顔が冷めあがって行った。


 不味い。どうしよう。知られてはいけない。

 何故だかわからないけれど、ただただそんな気がして。

 カクカクと震える指先をギュッと包みながら、必死に飛び跳ねる心臓を宥める。


「あの。何の事だか……」

「貴女と。それから、あのアイラという子もそうね。あの子の方はすぐにわかったけれど、貴女については半信半疑だったの。でもやっとすっきりしたわ。貴女で“三人目”」


 そう言ってのんびりと紅茶を飲むアンナマリアの落ち着いた様子に、エイネシアは、どこか呆気にとられたようにして顔をはねあげた。

 おっとりと。そしていつもどこかおどおどと。逃げ回っていた王女様。

 出会った頃にはもうその様子で、いつもいつも避けられて。

 一体自分は何かしたかしら、と、そう悩んで……。

「あ……まさか」

 そうか。そういうことなのか、と。

 何やらようやくすべてに合点がいった。

 どうして避けられていたのか。

 何を怯えられていたのか――。


「貴女もそうなのね……アン」


 ニコリ、と。紅茶を片手に微笑んだその人の、多分始めて見るであろう“素の笑顔”に、ほぅぅ……と、激しく緊張していた体が一気に弛緩した。

 何で気が付かなかったのだろう。

 こんなにも近くにいて、こんなにも一緒の時間を沢山過ごして。

 彼女がエイネシアを避けていた理由。それは彼女が、“知っていた”からだ。

 エイネシア・フィオレ・アーデルハイドが、いずれは悪女として名を馳せ、没落する、と。

 それはエイネシアが、いずれヴィンセントを裏切り貶めるアレクシス……ブラットワイス大公を避けたのと、まったく同じ理由だったのだ。


「でも……だったらどうして私を庇うようなことをなさったの?」

 そんなことをしたら、アンアマリアまで巻き込まれてしまう、と心配をしたのだけれど、一つ吐息を吐いたアンナマリアは、ゆっくりと頷きながらカップをソーサーに戻した。

「私も勿論最初は警戒しましたわ。貴女と。それからお義兄様……ブラットワイス大公に」

 あぁ、そうだ。そうだった。確かアレクシスも、昔は懐いてくれていたのに最近避けられている、みたいなことを言っていた頃があった。多分、エイネシアが登城するようになったのと同じ頃のことだ。

「記憶が戻ったのは、八歳……いえ、七歳くらいの頃ですか?」

 エイネシアが八歳の頃だから、一つ年下の彼女は七歳の頃か。

「正確にはもう少し前からね。多分五歳くらいの頃、王宮で暮らすようになってから、少しずつ何かおかしいとは思っていたの。それで、始めて貴女と会った時に全部思い出したわ。あぁ。そういえば私、“フィー”とかいうくっそふざけた女神にゲームの世界にぶち込まれたんだ、って」

 王女様とは思えない汚いお言葉を仰ったその顔が、ニコニコと穏やかに微笑んでいらっしゃるのがちょっと怖い。

 だがすごく良く分かる。エイネシアも激しくそう思った頃があった。

 そしてその言葉で確信が持てた。

 やはり、あの時あの場所にいた“七人”。その全員ないし複数人が、この全く同じ世界に転移させられているのだ。

「七人、いましたよね……」

「ええ。色々な年齢の。スーツの人とか寝間着の人とか。あと私服の人と……」

「高校かどこかの制服の子も」

「あ、それが私だわ」

 アンナマリアがそう自分を指差すので、ぎょっとした。

 いや、まぁあの中の誰かなのは確かだが、まさか、エイネシアとして生まれる以前から、彼女と知り合っていたなんて。なんだかとんでもなく変な感じがした。

「貴女はどの人?」

「えっと……どう、だったかしら。もう随分と前だからうろ覚えで。私、大学一年だったから……きっと私服ね。ワンピース……かな」

「あ、わかったわ! 長い黒髪のお嬢ワンピの人!」

 そう、きっとそれ、と、思わず二人で肩を寄せ合って笑ってしまった。

「ふふっ。お嬢ワンピって、何ですか?」

「いや、なんだかすっごく可愛い小花柄のお嬢様系清楚ワンピース。可愛いなーって見てたの」

「死んだばかりなのに?」

「そう。死んだばかりなのに」

 そう言って再び二人揃って笑ってしまった。

「アンは、高校生だったの?」

「ええ。高校三年生。私が一つ年下ね。今と同じ」

「出身は何処? 関東?」

「ええ、東京。アンは?」

「川崎だよ。結構近いわね。もしかしたらどこかですれ違ったことがあったのかも」

「とっても不思議」

 でも二人とも、“何故”という言葉は口にしなかった。

 何故、その年で死んだのか――とは。

「ゲームは? やっぱりやっていた?」

 次いで問われたのはそんな質問で、これには、「あんまり」と首を横に振った。

「こういうゲームが好きなのは妹の方で、私も受験生だったから。でも妹が私の部屋で熱弁してくれるのをよく見てたわ」

「妹がいるのね。私は一人っ子。うちは母子家庭で貧乏だったから、アルバイトでお金ためて、で、ほとんど全部ゲームとかにつぎ込んでいたの。だから私はプレイ済み」

「じゃあ私よりアンの方が詳しいかも知れないわ。私、かなりうろ覚えで」

 頼りになるっ、と手を合わせたところで、「どんとまかせなさい!」と、またも王女らしからぬ行動をとられて、なんだか笑ってしまった。

 ギャップが……こう。いろいろと。

「ふふっ。アルバイト生活からいきなり王女様って、どんな気分でした?」

「カルチャーショックが沢山。まぁ王女として生まれ育った記憶もあったから、困りはしなかったけれど。しばらくは豪華すぎる食事に手が震えて食が細くなって、ちょっとした騒ぎになったわ」

「あっ。分かるっ」

 それはとっても同意見だ。

 子供が身に着けるには豪華すぎるお飾りに、ぎょっとして硬くなっていた子供の頃が懐かしい。

「今ではもうすっかりとこの生活に慣れたけど。あと、侍女に身ぐるみはがされてお風呂に入れられる辱めも……」

「あー……」

 わかるわかる。恥じらいなんてものは最初に吹き飛んだ。

「シア様は大学って、何を勉強してたの? 学部は?」

「法学部」

「あぁ、やっぱりそういう系なのね」

「やっぱり?」

「なんか頭良さそう系。私、本当は時折貴女のこと、見ていたのよ。その……“大図書館”とかで」

「え?!」

 それには驚いた。

 確かアンナマリア王女は図書館には近づかないと聞いていたから。

「記憶が戻って困惑して。それからしばらくは結構通い詰めたの。何か分かることが無いかと思って。まぁ、ちっともわからなかったのだけれど」

 出来るだけ皆にばれないようにこそこそと通って。そしてそこで、よくその人達を見かけた。

「大きな机に一杯に本を積み上げて。アレクシスお義兄様と、ハインツリッヒ卿ね。それから貴女。私とそんなに年も変わらないのに、貴女を取り囲んで小難しい議論をしている二人に、正直最初はかなりドンびいたわ」

「はは……」

「でも段々と、あぁ、そうではないのね、と思うようになったの」

「そうでは、ありませんでしたか?」

「ええ。彼らの話を聞いている貴女はとても生き生きとしていて、小難しい本もスラスラ読んで。あぁ、この子。本当に勉強が好きなのだわって」

「勉強が……なのかはわかりませんが。彼らと話しているのは楽しかったですよ。二人とも話がお上手でしたし、知らない事がどんどんと分かっていって。でももっと疑問も増えていって。彼らの議論は、聞いているだけでもとても楽しかった」

 でもそれももう――昔の話。

「そういう様子を見ていたから、少し分からなくなっていたの。この本の虫が、本当にあの悪役令嬢なのかしら、って」

 本の虫と言われてしまった。いや、間違っていなかったと思うが。

「私も自分がどういう役回りなのかは気が付いていましたから、回避する努力はしたんです。エドと仲良くしたり……くらいしか、上手くいっていないけれど」

「そうでもないと思うわ」

 キョトリと首を傾げるエイネシアに、アンナマリアは少し考えるそぶりをする。

「ゲームでは、私とシア様とお兄様とアルとエド。五人で幼馴染、みたいなことにはなってたけれど、だからといって親しいという意味ではなかったと思うの」

「それは……えぇ」

 でなければ、いきなりアンナマリアがアイラの側に立ってエイネシアと敵対したりしないし、アルフォンスやエドワードがエイネシアに厳しすぎる態度を取ることもないはず。

「でも実際、シア様はお兄様やアルとお手製のケーキでお茶をするくらい、仲良くなったでしょう?」

「それは……そんな時期もありましたけれど」

「イリア離宮で皆で過ごした時間もそう。正直今のお兄様が何を考えているのかなんて私にはちっともわからないけれど、少なくともアルは貴女のことをちゃんと大切に思っているわ」

「そう、ですか?」

「ええ。見ていればわかるもの」

 そうなのだろうか。いや、そうかもしれない。

 いつしかの禁苑では、ヴィンセントに対してエイネシアを庇うようなことを言ってくれた。いつも無表情で無駄なことは何も言わない、そういうキャラだったはずなのに、忠誠を誓っているはずの王子に、きちんと意見してくれた。

 パーティーでもいつもエドワードと二人、エイネシアのことを気遣って声をかけてくれたし、中座する時も、着いていきましょうか、と気にかけてくれる。

 とても良くしてもらっていると思う。

「貴女が同じ転移者なのではという可能性については、本当は随分と前から疑っていたの」

「私はちっとも気が付きませんでした……」

「私、逃げ回ってばかりいたものね」

 そうアンナマリアは肩をすくめて見せる。

「でもあくまで幼い頃は幼い頃。この後どう変わるのかはわからないし、と静観していたのだけれど……二年前のパーティーの時の、ね。禁苑の」

「ええ」

「その時ヒロイン……アイラが、ゲームがどうのこうのと随分と支離滅裂なことを言っていたでしょう? なのに貴女ときたら、少しも変な顔をなさらないどころか、あの痛い子を見るような視線がなんだか……」

「……それは、あの。まぁ……」

 うん。それは確かに。どうしようとは思ったのだけれど。

「私はそれ以前にも一度アイラさんに会っていて、転移者であることには気が付いていましたから」

「以前にも禁苑に迷い込んだ子がいた話は聞いたことがあったわ。でもその時も貴女は特に何も証言なさらなかったし、むしろ無駄に王宮を避けるようになったでしょう? お兄様と距離を置きだしたのもそれから」

「……」

 わかってはいたけれど、他人から言われるとドキっとする。

 やはり、いくらなんでもあからさま過ぎただろうか。

「だから、アイラの存在に気が付いて、あぁ、それで避けるようになったんだ、って、気が付いたの」

 ではあの時。あの禁苑での出来事の日に、アンナマリアはエイネシアが転移者である可能性を知ったという事なのか。

「それからずっと、貴女とはこうやって話したいと思っていたのよ。けれど貴女はあれからもちっとも社交にはいらっしゃらないし、私から呼びつけるのも、お兄様の許嫁に対して不躾かもしれないし。それに……いらっしゃりたく、なかっただろうし」

 なるほど。随分と気を使わせてしまっていたのだと知る。

 けれどエイネシアもそうと知っていれば、もっと早くアンナマリアとこうやって話したかった。

 なにしろ今、エイネシアの胸はこれまでにないほどに緩く解けきっていて、何も隠すことなく気持ちを溢すことのできるこの時間が、嬉しくてたまらないのだ。

「シア。貴女はゲームはしていなかったって言っていたけれど。でも……」

 少し躊躇うような。でもとても静かで真剣なブルーグリーンの眼差しが、困惑外に、切なそうにエイネシアを見やる。

 それから一つ、二つと言葉を躊躇って。

 やがて意を決したように小さく息を吐いて。

「でもあの日言った言葉は。本気なのでしょう?」

 あの日言った言葉――。

 それが何を指すのかは、すぐにわかった。

 分かってしまった。


『エイネシア様は、お兄様がお好きなのではないのですか?』

 問われたその言葉に、ぎゅっと拳を握りしめて。緊張に肩を震わせて。

『お慕い、しております――』

 そのとても勇気のいるか細い声に、アンナマリアはしばし言葉を噤んで、それからただ優しげに、『そう――』、と、頷いたのだ。

 あの時。アンナマリアは何を思っていたのだろうか。


「私にも……もう、分からないの」

 あの時と同じ。何処か震える声色が、絞り出すようにしてエイネシアの口から零れ落ちる。

 駄目だ。不安なんて見せては駄目だ、と、どこかで口を噤むよう促す自分がいる。

 でも堰を切った言葉は、留まってしまうことができない。

「駄目だと気が付いた時にはもう許嫁で。記憶が戻って初めてお会いした時にはもう、“エイネシア”はその人に焦がれていて。たとえどんなに冷たくされても、それが義務であり責務なのだと思い知らされても、それでも差し伸べられる手が愛おしくて……」

 そんなあの人の、何処が好きなのかと言われても困るのだ。

 でもそういうものじゃないだろうか。

 優しくされるから、その人を好きになるのではない。

 ただどうしようもなく好きだから。その優しさが、愛おしい。

「わかってるのっ。どんどんとこの関係がいびつになっていることもっ。会うたびに義務的になっていくこの関係が、まともじゃないこともっ。辛いのにっ。もう嫌なのにっ……なのに」

 なのにそれでも。

 何度でも。

 その人がエイネシアを褒めてくれるたびに、愛おしさが募る。

 アーデルハイドの娘としての価値を認めてくれただけでさえも、愛おしい。

 それを拒絶されることが一番怖いから、拒絶されたくなくて、必死に褒められようと、もがき続けずにはいられない。

 どんなにか苦しくても、辛くても、理不尽な関係だと分かっていても。

 それでもやっぱり。


「好きなの……」


 “好きでいたい”の――。

 絞り出すように呟いて。

 思わず掌で顔を覆って腰を折った震えるエイネシアに、アンナマリアの小さな掌が、そっとその背を撫でた。

 慰めるようなその手が、何故か無性に懐かしくて。

 駄目だ。いけない、と分かっているのに。

 ポロポロ、ポロポロと零れ落ちはじめた涙は留まることを知らなくて。

 アンナマリアの慰めの手が、ただただ優しかった。

 それは多分……失って久しい人の手で。

 長らくつもりに積もり続けた茨が、ほとりほとりと抜け落ちるようだった。


『そして貴女にそれを口にすることを許してくれる人が現れることを、一人の女性、一人の学院の先輩として、願っていますわね』


 いつの日か、ビアンナが言っていたその言葉が。

 ゆっくりと、その傷だらけの胸の内に思い起こされるのであった。






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