2-6 一年(1)
それから間もなく、エニーの手を借りて、日中のパーティーに似つかわしい襟首のゆったりとしたレースのドレスに着替え、小ぶりな装飾品と、長い髪はゆったりと編んで小さな白薔薇の髪飾りを幾つか編み込んだ。
その内、ヴィンセントがこの部屋の扉を叩いて顔を出したが、彼はエイネシアが白百合の部屋ではなく薔薇の名を冠する部屋にいることについても、その部屋のやけに重々しい設えについても、何一つ問うことは無かった。
そこからの道すがらには大した会話はなく、ただ幾つかの寮則についての話と確認事項。とりわけ、毎月第四土曜日に他寮の生徒を招いて開かれるお茶会の件についてや、逆に毎月十五日のお茶会の日などに揃って他の学生が催すお茶会に呼ばれる際のことなど、事務的な会話が続いた。
王子とその許嫁という間柄である以上、おそらくは二人がセットで招いたり招かれたりすることは多いはずで、そのためには逐一互いに互いの予定を刷りあわしておかねばならないというわけだ。
それから金曜の晩餐という寮則についても話した。
幸いにしてヴィンセントは日頃食堂は使用しておらず、部屋で取っているとのことで、それならばエイネシアも普段は気を使わずに食事ができることに少しほっとした。
いかに王家と席を共にすることが許されている公爵家の令嬢といっても、王族とはやはりれっきとした差がある。
うっかり王子より先に食事を始めてしまおうものならば、それは礼を失することになるし、もっというならば、王族との正式の晩餐会には何十という事細かに定められた仕来りと手順というものがあって、実に神経をすり減らすものなのだ。
ただ金曜の晩餐だけは、二、三言話し合った結果、極力共にすることになった。
寮内であろうとも外聞への気は抜けないことと、連絡事項を話し合う場として都合が良い、というのが主な理由で、昨年度まで在籍していた何かと大らかなアーウィンでさえこの王子との晩餐はきちっとこなしていたというから、エイネシアもそれを踏襲しない理由はなかった。
もとより、王子の決定がエイネシアにとってはすでに決定事項なわけだけれど。
そして最後にもう一つ。
「明日の登校は一緒に。周囲にアーデルハイド家が王家についていることの印象は早めに学生たちに植え付けておきたい」
それは言われずとも意図の明白なことで、だがそれをわざわざ口にするのがこの人だ。
それはある意味で、隠し事なくエイネシアに誠実とも言えるのかもしれないが、何度言われてもその言葉は実感をするたびに、何かに突き刺されたような心地になる。
そのせいで顔が曇ってしまったのだろうか。最後の階段を一段降りたところで、ふとエイネシアを見たヴィンセントが、「不都合があったか?」と気にするそぶりを見せたことで、はっ、と慌てて表情を取り繕った。
「いいえ、なんでもありませんわ。自分の役目は分かっております」
「あぁ。それにまだ学校への道も覚えていないだろう。行きたい場所が有ったら言え。都合が合えば案内をするから」
そうサッと再び進行方向を見て歩き出したヴィンセントには、ぱちぱち、と目を瞬かせてその横顔を伺ってしまった。
そういえば忘れていた。彼はいつも義務や責務が先んじているせいで物言いが淡泊だけれど、別に冷たい人なわけではないのだ。最近はもうずっと責務ばかりに追われて打ち沈むことが多かったが、思えば彼は昔から、色々なところを案内してくれたではないか。
女王の庭に初めて入った時もヴィンセントが一緒だった。
離宮や図書館に連れて行ってくれたこともあった。
許嫁である前に幼馴染である。その事を忘れていたのは、自分かもしれない。
そうぼんやりと思いながらも、やがて差し掛かった大階段の奥のテラスの明るさに、エイネシアは幼馴染の顔から許嫁の顔へと表情を改めた。
それでももう油断はしない。
その責務を損なうことが、何よりも辛い結果を呼ぶことを、もう知っているから。
ニコリとした笑顔を張り付けて、優雅に内庭へと降りて行く。
王太子の許嫁として。
そのあるべき姿を求める、その仰せのままに。
◇◇◇
それからの学園生活は最初こそ戸惑うことが多かったが、次第に順応していった。
侍女が少ない分、何かと自分のことを自分でやれるという環境も、エイネシアにはあっていたのだと思う。
朝、窓から入る朝日に目を覚まし、自分でクローゼットから出した制服を身に纏い、精霊魔法のかけられた洗面台で顔を洗う。
貴族の令嬢が日常身に着けるようなドレスは下着の編み上げやらドレスのリボンやらと絶対に一人では着付けられないのだけれど、制服は流石に動きやすい作りをしていて、充分に自分で何とかできるものだった。
首元のスカーフを綺麗に整えるのには最初苦労したけれど、エニーにコツを教えてもらってからはすっかりと慣れた。
朝食はエニーに部屋まで運んでもらう。
部屋にはゆったり座れるソファーセットや勉強のための机の他に小ぶりな丸テーブルが置かれていて、食事をするにも、ちょっと腰掛けてお茶をするのにも良いし、軽い書き物をするのにも使えた。
一、二階の住人達は一階の食堂で、決められた時間内の好きな時にそこへ出向いて食事をとるというが、三階ではこうして部屋で食事をとれるようになっている。だがそれゆえに、食堂で誰かと楽しく会話をしながら食事をするということとは無縁であった。
そんな毎日でも孤独にならずに済んだのは、多分この部屋のおかげだ。
かつての図書館もそうだった。とても広いから、いつも自分はどこかにポツンと存在していて、けれど必ずどこかに彼がいることを知っていたし、表には司書のミケが。どこかの階ではニカがいることも知っていた。
その図書館の雰囲気を体が覚えているからなのか、この部屋にいるときはちっとも孤独ではなかったのだ。
だからエイネシアは、学校以外の大半を自分の部屋で過ごした。
他の寮生とは、時折学校への行き来などで遭遇した。
寮生は、三階に住まうヴィンセントとエイネシア、それにアルフォンスを除くと、全部で十人。
寮長で三年のファビアンと同じく三年の副寮長スティーシア。同じクラスのジュスタス、フレディ、シシリアとセシリー。他の面々も大体は見知った顔ばかりで、三年のジュード、セシリーの姉のレナリー。二年のビアンナとエブリル。
寮生はそれで全部。たったの十三名だから、遭遇するといっても稀なことで、むしろ遭遇して一緒に学校まで行かねばならないことの方が気まずく、わざとかなり早い時間に学校に行くようになったのは、おそらく入学して程ない頃からだったと思う。
だがおそらく一番避けたかったのは、“王子との登校”なのだ。
はじめこそ時間をあわせて登校したが、周りの目に充分に二人が親密であることをアピールできたあとは、ヴィンセントもとやかく言わなくなった。
正直、別人のような完璧な王子様を演じる彼と完璧な許嫁を演じる自分との時間は、それが外聞のためであると分かっているからこそ一層奇妙で切なくもあり、話していても少しも話している実感が無かった。それが嫌だったのかもしれない。
ただお昼は時折、一緒にランチをした。
外聞のためもあったが、当の王子様のせいで見事に女子から遠巻きにされることになったエイネシアには、身分の上からも他の誰かと同じ食卓に着くというのが困難で、かといって一人で食堂で食事をしているとまるで動物園のライオンのごとく好奇の目で遠巻きにされ、ちっとも食事をする気になれなかった。
その点、ヴィンセントやアルフォンスが一緒にいれば、好奇の目は“一人で食事をしている王子の許嫁”ではなく“王子殿下御一行様”へと変わり、かなり食事がしやすくなることに気が付いたからだ。
あくまで皆の関心はエイネシアではなく、その先の王子に向けられているのである。
アルフォンスは、驚くほどに彼単体で遭遇するということが無く、大抵はヴィンセントが一緒の時に遭遇した。
彼はその立場上、特別に三階に部屋をもらっており、常にヴィンセントの近侍として傍に仕えたが、しかし寮則にある金曜の晩餐においても頑なにヴィンセントとエイネシアの座る食卓には一緒に座すことはなく、むしろ給仕の真似事までする始末だった。
ただ学院内でのランチに限っては、一緒にテラスの席に座って食事をとってくれた。
これは、寮と違って学院がある程度身分差の薄い場所という性格を有しており(何しろ王族と男爵家とが同じ教室で学ぶという奇跡さえここでは普通なのだから)、軽食が主流のこの国のランチが、お茶会の時のような気軽な性質の食事に位置付けられていることも一因であろう。
正式な晩餐の席にはザラトリア侯爵家の子息として決してつかないが、学院内での気楽なランチには幼馴染の友人として同席してくれる、といったところか。
そのことがまた、エイネシアが気を楽にしてヴィンセントと席を同じくしてランチを取ることができる要因の一つになっていたと思う。
正直、アルフォンスがいてくれたことにはどれだけ感謝したともわからない。
次に感謝しているというと、それは意外なことに、これまであまり接点のなかった同じ寮の住人、ビアンナ嬢だった。
ビアンナは元々社交で見かけていた頃から、自分の意志をしっかりと持っていて、建前でそれを曲げたりはしない、サバサバとした快い人だ、という印象を持っていた。実際話してみるとまさにその通りな人で、ある意味では、最もエイネシアに気を使わずに接してくれる気楽な人物でもあった。
シシリアは同学年の同じクラスということもあり、最初は何かと会話をする機会もあったのだが、当然ながらすぐにもエイネシアよりセシリーと親しくなり、彼女たちは二人で行動することが増えた。エイネシアが王子の許嫁としてますます遠巻きにされるようになったことも一因で、またエイネシアがどんなにか「気を使わないで」と言ったところで、彼女はいずれ王妃になるのだという認識が、誰もかもを慎重にさせ、萎縮させた。
それはエイネシアと幼少期から付き合いのあるシシリアはともかく、それまで王族だなんて雲の上の人、くらいに思ってきたセシリーにはことさら顕著で、いつもエイネシアと緊張した様子で会話をし、なにかと気を使って丁寧な対応をするセシリーが憐れで、エイネシアの方が声をかけるのを躊躇うようになった。それが同時に、セシリーと親しくなっていたシシリアをも遠ざけることになったわけだ。
授業で課される合同研究や合同レポートなどでは相変わらず彼女たちが組んでくれたので、ちっとも“いじめ”的な空気でないことは確かなのだが、エイネシアの側から誰一人として“女友達”的な存在がいなくなったことは、より一層他の女子たちをも遠ざけてしまった。
それはエイネシアがヴィンセント達とランチを取るようになる一因にもなった。
一度、シシリアとセシリーと共に食堂へ向かおうとしていたところでヴィンセント達に遭遇したことがあり、「折角会えたのだから」と、ヴィンセントがエイネシアを食事に誘ったことがあった。
許嫁的には是非と答えるべきだろうが、しかしシシリア達との先約を慮って、この日ばかりは、「折角ですが」とお断りした。それに対してヴィンセントは「友人たちも一緒に」と促した。
そして当然ながら……二人はそれを、「それは恐れ多いことでございますから」と恭しく辞退したのである。
その日以来、シシリア達と昼食をとるということは無くなった。
エイネシアがビアンナ・ボーレ・スカーレット侯爵令嬢を“快い人物”と思ったのは、それから間もなくした頃の事だった。
桜に良く似た白い春の樹花がほとんど散った五月の最初の十五日。これまでの伝統に従って、学院の定める最初の“茶会の日”のお茶会は星雲寮の寮長と副寮長が主催することになっており、エイネシアもヴィンセントのエスコートでこれを訪れた。
茶会といっても、王室主催の大茶会でもない限り、王族は普通他の貴族と同じテーブルにはつかない。賓客として誂えられた四阿の中の別のテーブルにエイネシアと二人腰掛け、傍らには相変わらずアルフォンスが律儀に突っ立っている中で、他の客は恭しく四阿の外からご挨拶を申し上げ、たとえ会話が弾んで「お座りになりませんか」と促しても、座ることさえ辞退する者がほとんどだ。
名門の侯爵家ともなれば辞退する方が失礼なので、大層な礼を尽くして同じ席について会話を楽しむこともあるが、それでも彼らはどんなにか勧められても、お茶や茶菓子に手を付けることはない。
王族とテーブルを同じくせずの原則は、たとえそれが特別に許されるはずの茶会の場であっても、さりげなく遠慮するのが理想的で模範的な貴族の在り方なのだ。
だがビアンナは違っていた。
「お座りになりませんか?」
そう促したのは、常々ビアンナともう少し話をしてみたいと思っていたエイネシアで、構いませんか? と伺ったヴィンセントが頷くのを見て、「それでは遠慮なく」と、ビアンナは実に様になったそそくさとした礼を尽くしてから、エイネシアの側の椅子に座った。
席についた来客に対し、身分の高い者が先んじて話題を振るのが茶会でのマナー。ビアンナはそれを守り粛々としており、そんな彼女に、「今日の茶葉は大貿易伯の差し入れて下さったお品だとか」と、エイネシアは話題を提供した。
暗に客人に茶を勧めるための気の利いた定型文のようなもので、茶会というのも要はこうした定型文と定型文を応酬させるだけの儀礼的なものでしかないのだ。そこに少し感情や個性が混じったスパイスが加味され会話を楽しくすることはあるけれど、そこが“嗜み”としての場所であることに代わりはない。
だがどうしたことか。幾つかの定型文を押収した後で、ビアンナが変わったことを言い出した。
「実は先ほど、スティ副寮長に教えていただいて、こっそりタイナーとレディグラムをコップの中で直接ブレンドしてみましたの。これがとても良いのですよ」
貴族の令嬢としては驚くようなことを、さも普通の女の子同士の少しお茶目な会話の如く言うのだ。提携通りのお茶会しか知らなかったエイネシアが驚くのも無理はない。
「タイナーは癖があって味わいが強いけれど香りが薄く、レディグラムは味は平凡だけれど果実のような香りがとても良かったわ。合わせると良いお味になるのね」
でも彼女がそういう人だというのは薄々知っていたから、あまり取り繕わずにそう返したところで、この茶会の主催者の一人でもあるそのスティーシア副寮長が、「お試しになりますか?」と、ポットを手に現れた。
「勿論、二つの紅茶をカップに注ぐだなんて真似は致しませんよ。レナリーに裏でキチンと茶葉を配合していただいたものです」
そう苦笑交じりに付け足してビアンナを見るスティーシアに微笑みを返しつつ、「では私にそれを」と。それから勿論、「ヴィンセント様もいかがですか?」と勧めることを忘れなかった。
相変わらずの外向きの王子様仕様で、「私もいただこう」とエイネシアに賛同する様子をみせるヴィンセントに、すぐにもこの茶会を手伝っている星雲寮の侍女達が二人の前のカップを入れ替える。
「ビアンナ様にも、お淹れ致しますか?」
そしてそう問うたのは、主催者としての侯爵令嬢への礼儀である。それは断るのが前提であるから、侍女もビアンナの前にはカップを置かずに早々と王子様方へのお茶の準備を始めていた。
そしてそれはエイネシアにとってはとても残念なことに、ビアンナがそれを遠慮して「長居をしてしまいました」と席を立つ切っ掛けの言葉でもあるのだ。残念さが先行したせいか、我ながらつい、「宜しければ是非」と言った言葉に期待が孕んでしまっていたとは思う。
だがそこでまさか、「とても嬉しいですわ、エイネシア姫」と言うその言葉に続け、「許嫁の君とお茶を楽しむことをお許しいただけますか? 殿下」と、ヴィンセントに向けてそんなことを言うとは、微塵も予想だにしていなかった。
それはもう、日頃から徹底して“王子様”なヴィンセントが、一瞬言葉に詰まってキョトンッッ、と、目を瞬かせるくらいの衝撃で、ポカッと間抜け面を晒したスティーシアが取り乱してポットを取り落としかけるくらいの驚きだった(ポットはまったく危うげも無くアルフォンスが救出した)。
それからビアンナは平静を装ったヴィンセントの「勿論構わない」との言葉にお礼を述べてから、その言葉の通り、一杯の紅茶を飲み干す間、エイネシアとの会話を楽しんだ。
それは儀礼や社交的な会話などではなく、「寮は如何ですか」とか「何々の授業は去年、レポートに苦労しましたの」といった、先輩らしい普通の会話で、ついエイネシアも、前のめりになって会話を楽しんでしまった。
幸いだったのは、予想外の出来事には弱いヴィンセントが、この規格外のお嬢様の行動に呆気にとられ、エイネシアの様子がちっとも目にも耳にも入っていなかったことだろうか。
その後まもなく、偶然寮の図書室で遭遇した時、エイネシアは思い切ってビアンナに問うて見た。
どうしてあの時、お茶を飲んだのか、と。
ビアンナはサバサバとしているだけであって、決して常識知らずではない。むしろとても礼儀正しく気も利いて、名家のご令嬢とあって、社交にも手馴れていらっしゃる。
なのにあの日はどうして席に付き、どうしてわざとお茶をいただいたのか。
「それは私が、ちゃんとブレンドされたその紅茶を飲んでみたかったからですわ」
そうビアンナは笑ってみせた。
それは多分彼女の本心で、でもそうではないことも分かっていたから、「私が、貴女をそうさせたのですか?」と質問を変えた。
すると彼女は僅かに目を細めて静かな微笑みを携えると、俄かに瞼をおろして、一つ、吐息を溢した。
「貴女のお顔がね。ちっとも、楽しそうじゃないの」
そう言われた瞬間、あまりの驚きに声が飛び出しそうだった。
「“とても仲がお宜しい”殿下を見る貴女の目がね。とっても、寂しそうなの」
そしてそれは、もう何年も前から、そう思っていたの――、と。
「そんなことありませんわ。ヴィンセント様はいつもお優しいですもの。楽しくないどころか寂しいことなんて……」
「でも私はもう二度、貴女が窮屈なパーティーを逃げ出して、先の女王陛下の禁苑に逃げてゆく姿を見たことがありますわ」
そう言ったビアンナには、何も言葉を返せなかった。
一度目は国王陛下の戴冠の祝い。
二度目はヴィンセントの入学の祝い。
どちらも逃げるように、なんて態度で庭を目指したわけではない。
少し休憩に、といった様子でさりげなく向かったはずで、それに前々回はともかく前回のパーティーでは、その後禁苑からヴィンセントと二人睦まじく出てきた様子を沢山の人が目撃している。
それなのにどうしてエイネシアをそう評したのか。
それを否定したところで、多分彼女は適当に受け流したのだと思う。
だがエイネシアはそれを否定する言葉も出てこずに、何故か呆然と口ごもってしまった。
それから少し。硬く瞼を閉ざして。
何もかもを吐露してしまいそうになる胸の内をぐっとすべて飲み込んで。
“王太子の許嫁”の仮面をかぶって、まるで何事もないかのごとく微笑んで見せた。
「見られていただなんて、お恥ずかしいですわ。ええ。実はあまりああいう場は得意ではないのです。秘密にしてくださいませ」
王家の妃にはあってはならない事ですもの。
「でも前回はヴィンセント様がお探しに来てくださって、心配までしていただきました。ふふっ。ちっとも寂しがる要素なんてありませんわ」
そのとてもうまく言い訳出来たはずの声のトーンに、思った通り、ビアンナは「そうですの」と、当たり障りのない納得に類される言葉を言ってから、手にしていた本を本棚に戻した。
これで会話は終わり。ビアンナももう二度と、あんな常識外の配慮をしてくれることは無いかもしれない、と。そう自分でしでかしたことに自分で後悔しつつ、けれど微塵も撤回する気も無く、ビアンナが礼を取って図書室を去るのを待とうとした。
そして彼女は予想通りに、とても様になった綺麗な一礼をして。
だけど。
「貴女が今呑み込んだすべての言葉と、貴女を王妃に選んだこの国に、一人の臣としての尊敬と感謝を捧げます。そして貴女にそれを口にすることを許してくれる人が現れることを、一人の女性、一人の学院の先輩として、願っていますわね」
彼女が口にした言葉はとても予想外のもので。
そのまま儀礼通りに散歩下がって、クルリと踵を返していくビアンナに、何も言葉が出てこなかった。
きっと彼女は、よく周りを見ていて、そしてよく見えているのだ。
昔からの、エイネシアやヴィンセントのことも。
どこか違和感のある学院でのヴィンセントのことも。
そして彼女たちの居住地の上の、寒々しいほどにガランとしたその場所で、数少ない住人たちがどんな風に過ごしているのかも。
けれどそれでも、エイネシアにはそれを彼女の前で吐露することはなかった。
誰であっても、本音をぶちまけるだなんてありえない。
貴族である以上、ありえてはならないのだ。
それはビアンナが見通した通り、エイネシアがやがては王妃として、全ての貴族達の頂点であり、彼らに尊敬される立場であらねばならないという責任感がそうさせる。
すべての貴族にとって、ヴィンセントは絶対の王でなければならない。それを後見するための、アーデルハイドである。エイネシアの態度が、ひいてはすべての貴族の模範となる。
たとえ気の良い人物であろうと、本音で話したところで軽蔑などしない人だと分かっていたとしても、それでもエイネシアは誰かの前でヴィンセントとの間の不安など決して口にしてはいけない。誰にも不信感など与えてはならない。アーデルハイドは、ただひたすらに懇親として王家に忠義を示す臣下である。我々は王位を揺るがす何人たりとも、許しはしない――。
それが分かっているから、ビアンナはそんなエイネシアに、尊敬を捧げてくれたのだ。
それに、こんな胸の内を明かせる人なんて、必要なかった。
そう。何も必要ない。
ただ階段を上って、人の気配なんてまるでないガランとした廊下を粛々と歩いて、奥まった廊下の古薔薇の扉を潜ればいい。
そしたらそこには一人になれて、けれど少しも孤独ではない場所がある。
何も言わなくても全部を知ってくれている人たちと過ごした思い出が、ここにある。
広いテーブルにはいつの間にか積み上がったハインツリッヒのレポートの山と、読みかけの本。
今朝少し雨が降って季節の割に冷え込んだせいか、よく座っているソファにはいつの間にかエニーがおいてくれたのであろうブランケットがかかっていて、窓際には勝手にポウと淡い光を放つ精霊魔法がかけられたランプもある。
ソファの上で小さくなって。この部屋の古書の匂いのしみついたブランケットに包まれて。彼らの愛用していたインクと、どこからかほのかに漂う薔薇の香りに微睡みながらレポートをめくる。
その時だけは、全てを忘れられた。
ポウ、ポウ、と。
蛍のように仄かに揺れる、どこか温かい光の魔法が。
いつでもエイネシアを微睡みに誘った。
おかえりなさい、シア――。
今日もよく頑張ったね、と。
そう、包み込んでくれるような――。
ここはただ一つ。
エイネシアにすべてを許してくれる場所なのだ。