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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第一章 定められた配役
3/192

1-1 エイネシア

「お嬢様ッ、お嬢様!」

「た、大変ッ。誰か、早く薬師を!」

「お嬢様、聞こえますかッ。お嬢様!」


 ガンガンと頭を打ち付け揺さぶられたような衝撃と共に、“思い出した”一幕。

 いや、それが自分の記憶なのか、有りもしない夢なのか、それすらも曖昧な中で、目の前をバタバタと駆け回る、白い襟に黒いワンピースドレスと真っ白なフリフリのエプロンを纏った、いわゆるメイド服姿の女性達を見た。

 現実と非現実と、現在と記憶と、瞼の裏に重なった光景とともに折り重なってゆく目の前の光景。

 ぶちまけた絵具をぐちゃぐちゃとこねくり回すような不快感。

 その原因を探し求めて頭を抱えようと掲げた八歳児の小さな指先に、ぬめっと生暖かい血が纏わりついた。

 その真っ赤な血と。

 その衝撃のせいなのか、つい今しがたの事のように唐突に頭の中でフラッシュバックした“記憶”が、一斉に脳裏にあふれ出てくる。

 その記憶の中にある最も悲惨な幾つかの光景が、この生温かな感覚と共によみがえって。

 その次の瞬間には、うええぇ、と、胃の中のものをすべて吐き出しながら、恐怖と不快感に意識を失った。


 ◇◇◇




 目が覚めた時にはフカフカと小さな体躯(たいく)を包む柔らかなベッドに埋もれていて、その広い寝台を覆う幕や見知らぬ星空が描かれた天蓋(てんがい)に、しばしボウっとした。

 昨日まで当たり前だった、高貴な少女の微睡(まどろみ)を安らかにするためのとても立派で可愛らしいベッド。

 でも急激に甦った“過去”の記憶のせいで、今はこの場所に違和感を感じさえした。

 それから改めて、表、裏、また表、と、その小さな手を確かめる。


 少女の名前はエイネシア・フィオレ・アーデルハイド。

 この国、エーデルワイス王国でも格別の扱いをされる大貴族、四公爵家の一つ。中でもとりわけ権勢を誇るアーデルハイド公爵家の長女であり、王族に次いで身分の高いと言っても過言ではない、貴族の中でも筆頭のお家柄のお姫様だ。

 それを疑ったことは過去一度としてなく、いかなる高貴な人物へも嫁げる身分の女性として厳しく育てられてきたこの八年間の記憶は、自分の物として確かにリアルに存在している。

 だが少女は自分が自分になる以前のこともまた、現実として実感していた。

 キャパオーバーした記憶の混乱に一度はぶっ倒れてしまったわけだが、今こうして時間をおいてみると、不思議と落ち着いていた。


 どうして自分がここにいるのか。

 どうしてエイネシアなのか。

 どうして自分に、前世というべきものの記憶があるのか。


 まさか八歳でそんなことを思考することになるとは思ってもみなかったが、過去の出来事――フィーという胡散臭い神様が話していた内容――を思い出したというのは、この“アフターデスケアサービス”とやらが、自分のかつての不運を理解した上で自分の力でそれをケアしなさいという、いわゆる “セルフケアモード”だったということだ。

 何事も無く流れに任せていたらハッピーエンド。なんて生易しいケアではなかったらしい。

 それに……思い出さなくていいことまで、思い出してしまった。

 “一度死んだ自分の最後”の記憶を思うと、この薄暗闇に一人ぼっちで寝かされている状況がとんでもなく恐ろしく、ぎゅうっと身をすくめて布団の中に縮こまる。


 怖い。

 次に扉を開けるのは誰だろうか。

 怖い人ではないだろうか。

 自分を恐怖のどん底へと突き落す人物ではないだろうか。

 そんな不安が、ただただ幼い少女の記憶を苛む。


 だがこの大権門たる公爵家のお屋敷で、いつまでも怪我をしているお嬢様を放っておいてくれるはずもなく、控え目に開いた扉の音に、ビクリと大げさに肩が揺れた。

 流れ込む冷たい廊下の空気。

 少し古臭く、いつもどこか芳しい花の香り。

 ジリリと肌を撫でる緊張感。

 大丈夫。恐れることなんてない。きっとエイネシアの侍女のジェシカかネリーだ。

 だから大丈夫。大丈夫、と、何度も何度も自分に言い聞かせる。


 六つ年上のジェシカは、エイネシアが四歳の頃から仕えてくれている乳母子(めのとご)だ。

 ネリーは十個上のお姉さん。若くしてこの家の下仕えとなり、二年前から正式に雇用され、エイネシアの傍に使えるようになった女性。

 どちらも、いささか他人の視線や言葉、態度に敏感なエイネシアが、珍しくいじわるもせずに傍に置くことを認めていた信頼できる人物だ。

 絶対に自分に危害なんて加えるはずがない。

 絶対に。


 いや、そうだろうか?


 どうしてそんな全幅の信頼をもてるのだろう?

 絶対に傷つけない? そんな保障、どこにもないのに。

 もしも彼女たちが裏切って……いいや。最初から、エイネシアのことなんて何とも思っていなかったら?

 面倒なお嬢様だと。いつか傷つけてやろうだなんて、思っていたら?

 ごめんなさい。ごめんなさい――。

 もっと、いい子になるから。とってもいい子にしているから。

 そしたらもう、“怖い物”はやってこないよね?


 いい子でいよう。いい子でいないと、と、必死に寝つきの良い大人しい子を演じるべく深呼吸をしている内に、カサッ、と、ベッドの天幕を掻き分ける音がした。

 あまりにも軽やかで、あまりにも(かす)かな人の気配と小さな物音に、布団の中で身を固くする。

 だがどうしたのか。いつまでたってもその後の反応がない。

 眠っているのを確認して再び天幕を降ろすならいざ知らず、動く気配さえ見せないというのはどういうことなのか。

 まさか。

 まさかまた、誰かが自分を傷つけにやって来たんじゃあ……。



「まぁ。エドワード様?」


 遠く、扉の方で聞こえたネリーの声とピクリと身じろいだベッドサイドの小さな気配に、エイネシアも思わず布団の中から目を出した。

 外はもうすっかりと暗くなっているようで、ネリーの持つ小さな明かりだけが頼りの部屋では、ベッドサイドの小さな少年の姿もはっきりと見えない。

 けれどその小さな明かりに照らされてゆらゆらときらめく、自分と同じプラチナの髪も、その小さな背丈も、ほんのりと心地よいお日様の香りも、全てエイネシアの記憶の中にある。

 それは一つ年下の弟、エドワードのものに違いなかった。


「ごめんなさい、勝手に。お夕飯の席にも、姉様、いなかったから……」

 少したどたどしい物言いなのは、勝手に姉の部屋に入ったことを咎められると思っているからだろうか。

「リーサが探しておりましたよ。お部屋にいらっしゃらないと思ったら、こちらにおいでだったのですね」

 エドワードを咎めることもなく、優しい物言いで、「姉上様のご様子はいかがですか?」と問うネリーに、ほっとした様子のエドワードが、ちらりとベッドの方へ身を乗り出した。

 おかげで布団から顔を出していたエイネシアとはばっちりと目が合ってしまい、たちまち「あっ!」と声をあげる。

 同じく歩み寄ってきたネリーが明かりを差し入れたことではっきりとベッドの中が見えるようになり、ネリーもすぐに、「お目覚めでございましたか?」と声をかけた。

「もう痛いところや気持ち悪いところはございませんか?」

 ベッドサイドにランプを置いて軽く天幕を括ったネリーは、すぐにも身を起こそうとしているエイネシアに手を貸してくれて、額に手を触れて熱を測ったり、恐らく怪我をしているのであろう頭の傷を確かめた。

 頭がぎゅっとしているのは、包帯を巻かれているせいらしい。

「痛くないわ。大丈夫。ネリー、ジェシカは?」

 昔から、怖いことがあった時はジェシカが一緒に寝てくれた。年配の侍女や母に見つかると怒られるので、ひっそりと。今日だけですよ、なんて言いながら一緒に眠ってくれた。

 だから今日もジェシカが一緒にいてくれたらと思って見渡したけれど、いつも傍に居るはずのジェシカが今日に限って見当たらない。

「旦那様にお咎めを頂いて、謹慎しております」

「謹慎? どうしてっ」

 いやそもそもこの昼、一体何があったのだったか。

 以前の記憶が戻ったせいか、つい先ごろの記憶が曖昧になっている。

 むしろこれは頭をぶつけたせいだろうか。

 そう。そうだ。頭をぶつけたのだ。



 確か数日前に、新しい侍女が入ってきて――例にもれずエイネシアは大層その新しい子が気に入らなかったようで、無視をしたり邪険にしたりしていた。挙句、庭先で午後のお茶をいただこうという段になって、その子の淹れてくれたお茶にケチをつけ(主に出すお茶なのにすっかり冷めていたのが気に入らなかったという教育的指導だ)、『ジェシカのお茶じゃないと飲まないわ』的なことを言って怒らせたのだ。

 それでも辛抱強く我慢して、ではすぐに淹れ直させますね、と答えるのが、公爵家に奉公する侍女の正しい在り方である。

 しかし未だ年若く、公爵家に侍女として採用されたという事自体に優越感を抱いていた彼女は、お嬢様というだけで自分を辱める少女が許せなかったらしい。

 よりにもよってポットを振り上げて、幼子に投げつけたのだ。

「あぁ……」

 思い出して、思わず頭を抱えてしまった。

 思わず指先に触れた頭がズキンと痛んで、眉をしかめる。

 エイネシアの言い方も言い方だが、それで八歳の少女にポットを投げつける侍女というのは、多分エイネシアが遭遇した侍女たちの中でも相当のものだ。

 本当に、頭が痛くなる。


「ジェシカは悪くないわ。ポットに続いてカップを投げようとした侍女を止めてくれたのだもの」

「お嬢様……」

 お嬢様が思い出してしまったことに少し困った顔をしたネリーだったけれど、覚えているのであれば敢えて詳しく説明することはない。ただその上で、「ジェシカが自らの意思で謹慎しているのですよ」とだけ説明した。

 エイネシアにとってみれば、そんなことより傍に居てくれた方がよほどいいと思うのだけれど、ジェシカは聡明な子だから、きっとエイネシアのことだけではなく、自分を雇ってくれている公爵夫妻に対しての義として、自ら罰を受けているのだろう。

 だとしたらそれを無理やり呼び寄せて、粛々とした態度で反省を表しているジェシカを、“恥知らずな侍女”にしてしまうわけにはいかない。

「私にポットを投げた侍女は?」

「旦那様がすぐに近衛に引き渡しました。初犯ですので重い罪にはなりませんが、庶人に落とされて下町に放り出される程度の罪には問われるかと思います」

 いやいや、それって重たい罪だよね、という言葉は(つぐ)んでおいた。

 公爵家は一応貴族に位置付けられるとはいえ、王女降嫁や王妃輩出を許された特別な家柄だ。

 父も母もともに王家の近縁で、エイネシア自身も先王陛下から数えて王家三世という血筋であるから、彼女への無礼も王族への無礼に準じる。

 王族への無礼がその時点で極刑であることを考えれば、女王陛下の妹孫にあたるエイネシアへの無礼が、最下層民に落として放逐される“程度”というのは軽い処罰の内に入るのだろう。

 そこまでしなくてもと思うのは、貴賤のない日本で暮らした記憶のせいか。これまでのエイネシアであれば、生ぬるい処罰になったのね、くらいの感想しか抱かなかったと思う。

 環境とは恐ろしい。


 そうモンモンと考え込んでいたら、いつの間にかベッドに身を乗り出して近づいていたエドワードが、一際小さな幼い手で、ぺたんっ、とエイネシアの額に触れて来たものだから、キョトンとしてその少年の大きな瞳を見つめてしまった。

 薄明りの中では良く見えないけれど、ランプのゆらゆらとした炎に照らされてきらめく青紫の瞳は宝石のように美しくて、そのあまりにも端正なお人形のように可愛らしい弟に、思わずぽうっと見惚れそうになった。

 今更だが、なんて可愛らしい弟なのだろうか。

 エイネシアとおそろいの目尻の泣き黒子なんて、大人になったら絶対吐血物の色気に代わるに違いない。

「姉様。痛いですか?」

 そんなお人形さんみたいな天使が、不安そうに問う。

 うむ。可愛い。

 最大限に癒された。

「平気よ、エドワード。貴方が私を心配してくれるなんて、珍しいわね」

 口にしてすぐに、あぁ、そういえば昼間の事件の時、この弟も近くにいたのだと思い出した。

 厳しいながらも両親に大切にされている姉と違って、公爵家の跡取り、ひいては現在この国の宰相という政治の頂点に立っている父の跡を継ぐべく、姉以上に厳しく育てられている長男だ。

 かたや王家の妃に。かたや未来の宰相に、という姉弟であるから、一歳違いで年も近いというのに、ちっとも姉弟らしい関係は築かれてこなかった。

 姉の存在価値はお国のためにあり、弟の存在価値は王家に嫁ぐ姉の後見のためにある。それ以上でもそれ以下でもなかったからだ。

 この日も、弟の家庭教師が急病に寝込んでしまい、折よく優秀な姉が早々と課題を終えてお茶の時間を確保していなければ、よもや一緒にお茶をすることになんてならなかっただろう。

 弟が空き時間をエイネシアとのお茶に費やしたのだって、たまたま窓を開けたらエイネシアが庭を通過中で、目があってしまった、というだけの理由だ。

 そこで何気なく気が向いて、『お暇になったのなら貴方もどう?』なんて口にしたのはただの社交辞令で、『光栄です』と答えた弟の返事は、いずれは王家の者となるであろう姉へのただただ義務的なものだった。

 だがそんな珍しい姉弟のお茶会で、また特別珍しい事件が起きてしまった。

 新入りの侍女が、お嬢様にティーポットを投げつけるという事件が――。

 何しろこれまで机に向かって勉強ばかりやらされていたエドワードだ。いささか大人びているとはいっても、まだ七歳。しかも公爵家で厳重に守られてきた少年だ。

 それがこの日、初めて流血沙汰……それも身内にまつわる流血事件に遭遇してしまった。

 ちょっと可哀想なくらい真っ青になっていたし、呆然と立ち尽くすしかできなかったのも仕方がない。

 だがそのことに責任を感じているのだろう。エドワードの指先はとても冷たくて、すぐにでも温めてあげなければならないような、そんな姉心が疼いてしまった。

 エイネシアにとって弟というのは、ただただこの家の跡取りであり、いずれは自分に仕えてくれるであろう存在でしかなく、一緒の家に住んでいて、親が同じではあるけれど、それは親しみよりも前に利益をもたらしあう存在でしかなかった。それが、当然であった。

 だがかつての記憶が戻ってしまった今となっては、その心境も少し違ってくる。


 自分にもかつて、弟がいたのだ――。

 幼くして亡くしてしまった、弟が。


 それを思うと、似ても似つかない外見ながらも、弟という存在が少しばかり愛おしい。

 利害じゃない。さほど仲が良くもなかったはずの姉を心配して、そこで不安そうな顔をしながら小さな手を伸ばした小さな弟が。その血肉が自分と同じものからできているという事実が、たまらなく安堵する。


「ごめん、なさいっ。僕、何もできなくてっ」

 弟の脅えたような様子に、自分は彼にとってそんなに怖い姉だったのだろうかと、少し反省する。

 こんなにもかわいい天使を怯えさせるとは、なんと罪な姉なのだろう。

 今まさにそれを弁解すべく、意識して表情を柔らかくたゆませると、弟の頭をよしよしと撫でてみせた。

 思った通りのふわふわと柔らかい絹糸のような髪だ。いつまでも触っていたくなるようなモフモフ感がすばらしい。

 驚いたようにキョトリと瞬いた紫の瞳が、宝石みたいに綺麗だ。

「そうだわ、エドワード。私、昼間にあんなことがあって、怯えているの。良かったら今夜は、ここで一緒に眠ってくれない? エドが一緒にいてくれたら、安心して眠れるわ」

 そうだ、それがいい。

 ジェシカがいない今、両親やネリーが目こぼししてくれるような安心できる人の気配として、これ以上の適任者はいない。

 良いことを思いついた、といった様子でそう言ったエイネシアに、えっっ、と驚いた声を上げたのはエドワードだけではなくネリーもで、殊更ネリーは、あまり他人を寄せ付けたがらない、しかも弟との関係の希薄だったエイネシアがそんなことを言い出したことに大層驚いたようだった。

 でも背に腹は代えられない。

 実際、今もどこか生々しく思い出す過去の記憶が、すごく怖いのだ。

 けれどこの可愛らしい少年と話していると、その気がすっと紛れてゆく様な気がする。

 多分エドワードは、エイネシアにとって身近な人物だから、一緒にいるとかつての記憶に引っ張られず、“エイネシア”でいられるのだ。

 怖いことを少しでも忘れて、紛らわすことができる――。

 ただ突然の姉の思いがけない申し出に、エドワードは困ったようにきょろきょろとネリーの様子を伺ったりしていて、流石に突拍子も無かっただろうか、と戸惑った。

 そんな頼りないエイネシアの様子に気が付いたのか、ネリーが一つ、「わかりました」と頷いてエドワードの背をおしてくれた。

「奥様には私から申し上げておきますから。エドワード様。宜しければ今夜は姉上様とご一緒にいてあげてくださいませ。悪い精霊が悪戯をしないように、しっかりとお姉様をお守りしてください」

 そう幼くも貴い少年を奮い立たせるような物言いをしたネリーには、すぐにもエドワードがきゅっと唇を引き結んだ真剣な顔で、「わかりました!」と景気の良い返事をした。

 三度繰り返すが……うむ、可愛い。

 お許しが出た途端、わっ、とベッドの脇から布団の中へと潜り込んだエドワードは、すぐにもぷふっ、とエイネシアの傍らに頭を出した。

 そのほんのりと上気した頬が愛らしく、俄かに触れた肌に温かみが戻っているのに気が付いた。

 子供特有の高い体温が、ポカポカと傍らでエイネシアの体を温めてくれる。

 これはまさに天然湯たんぽというやつで、何やら妙に眠気を誘う。

「僕が姉様をお守りするので、姉様はしっかり眠って、お怪我を治してくださいね」

 そう責任感たっぷりに言う少年に、「有難う、エド」と言葉を返すと、再びベッドに横になって、少し遠慮がちに傍らに寝そべるエドワードの頭を撫でながら、僅かにその温もりに寄り添った。

 ポカポカ。ポカポカと温かくて。

 それは記憶の中にある、冷たくて薄暗い恐怖の連続を、柔らかく解きほぐしてくれるようだった。

 目を閉じた二人の様子に、こっそりと微笑みを浮かべたネリーはすぐに、お子様方の邪魔をしないようにと天幕をおろした。

「お休みなさいませ、天使様方」

 そんなネリーが出て行きざまに囁いた言葉には、ついベッドの中で笑みをこぼしてしまう。

 聞かれていないつもりだったのだろうが、しかし天使とは。なるほど、この可愛らしい少年を見ていればそうも言いたくなるだろう。

 エイネシアの腕の中であっという間にスヤスヤと寝息をたてはじめた無垢な少年。

 そういえばエイネシアも弟とはよく似ていたはずだから、ネリーにはエイネシアのことも可愛らしく見えているのだろうか。

 少なくともエイネシアは、身内には甘い。ネリーはその身内に含まれているから、エイネシアもちっとも冷たい扱いをしたことはない(来てすぐの頃は別だが)。

 それなら、エイネシアみたいな厳しい少女を天使だなんて言うのも無理ないか、と。

 そんな、どこか他人行儀な。でも自分の事のような。どこか曖昧な感覚で、自分を客観的に分析した。



 さて……しかしこの思い出した記憶は、一体どう分析したらいいのだろうか。

 あの場にいたのは、確か七人。

 皆同じ世界に転移させられているのだろうか。

 そもそもこの世界は何なのだろうか。

 エイネシアの記憶にある限り、文化的には中世ヨーロッパ風。文明的にも、電気は存在していないし、移動手段は馬か馬車のみの中世レベル。しかし建築技巧や手工業などはとても成熟していて、一つ一つの手仕事の美しさはこのベッド一つ見ても明らかである。服飾や建築、衛生面に関しては、近世ヨーロッパレベルだろう。

 だが一言で言うなら、この世界は歴史を曲解した“ファンタジーヨーロッパ風”というべきものだ。

 ようするに、ここはあのファンシーでメルヘンな空間の主であったフィーが作り出すにはいかにも“らしい”というべき雰囲気で、まず間違いなく、地球ではない。

 ではここは何処なのだろうか。

 というか……何故だろう。今更だけれど、自分の“エイネシア・フィオレ・アーデルハイド”という名前が、なんだかしっくりとくる。

 それは勿論、八年間その名前で過ごしてきたのだから当然だと言えば当然だが、そうではなく、なにかもっと客観的な既視感を感じるのだ。

 どこかで聞いたような名前。

 はて。そういえばこのすやすやとお眠りあそばしている弟君は、エドワードといっただろうか。


 エドワード・フィオレ・アーデルハイド。

 エドワード……フィオレ、アーデル……ハイド。


 そう二度、三度と頭の中で繰り返して。


 繰り返して。



 次の瞬間、閉じかけていた目をカッと見開き、天使の寝顔を披露している弟を凝視した。

 この暗がりでは顔なんて見えなかったけれど、だがその淡い紫色の瞳が、間違いなく、あどけない少年をがん見した。

 このなぜだかしっくりと来る名前。

 そして今ここにはいないが、八歳の誕生日の日に引き合わせられた、エイネシアの“婚約者殿”の名前を思い起こしたところで、愕然とした。

 地球じゃない?

 フィーの空想の世界?

 いいや。そうだ。良く思い出せ。

 フィーは決して、別の人生を過ごし直すことでデスケアしてね、と言ったわけではない。

 むしろ地球上で再び輪廻の輪に戻り次の人生を何憂うことなくまっさらな魂の状態で生まれ直すために、さもアトラクションに乗り込む入園者宜しく『いってらっしゃい』と送り込まれたのであって、ここが現実世界であろうが、それと似て非なる創造世界であろうが、関係ない。むしろ、フィーが、心残りをして死んだ魂を安んじるためだけに造り出した“空想世界”に等しい場所であるのだ。


 要するにどういう事かというと。

 自分はこの世界を知っている。

 そしてエイネシア・フィオレ・アーデルハイドを知っている。

 彼女がこれから辿る運命も。

 これから、自分が命を落とした十八歳に到るまでの間に、何が起こるのかを。

 だってここは。この世界は、エイネシアのかつての姿――“小宮雫”が、妹に散々熱弁された、妹お気に入りのゲーム……。それも、“乙女ゲーム”というやつの世界そのものなのだ。

 そしてそれに気が付いた瞬間に、思い出した。


『でも一人だけ“バッドエンド”必至だから! そうならないように、皆頑張ってね!』


 フィーの言い残した、ものすごく不審な死亡フラグ。

 これって要するに、乙女ゲーム『エーデルワイスの聖女物語』において、唯一の“死亡エンド”が存在する脇役――エイネシア・フィオレ・アーデルハイドに、自分が転移しているということで。その死亡フラグは、自分に立っているのではないのか、と。

 それに気が付いてしまった八歳の夜。


 どうやら二度目の人生でも……自分の人生は、あと十年もないらしい――。




 結局この日は一睡もすることができなかった。






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