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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第二章 エデルニアの雪融け
29/192

2-5 親愛なるシアへ

 そこは星の雲というには重厚すぎる、歴史のありそうな建物で、正面のアプローチをくぐるとすぐにも「お帰りなさい」と、朗らかな笑顔のご夫人が出迎えてくれた。

 彼女が寮監のマダムスミス。こと、リリアン・フロウ・スミス伯爵夫人だろう。

 学院の寮は未亡人となられたご夫人であったり、未婚のまま年を取った貴族の子息や令嬢が寮監を勤め、屋敷の管理をしていると聞いている。このご夫人のことも、ちょうどついこの間入れ違いに卒業した従兄のアーウィンから聞いていた。

 少々抜けたところもあるご夫人だが、困った時には頼りになる、と。

 若い頃に夫と共に馬車の事故にあって未亡人となり、それ以来足も悪くなさっていると聞いていて、その言葉の通り、四十前後と思しき若々しいお姿ながらも手にはしっかりとした作りの杖をついていらっしゃった。

 そのご夫人が、「寮について少し説明いたしますわね」と声をかけてくれたので、一度ヴィンセントと別れると、夫人が促すままに玄関ホールのソファに腰を下ろした。



「この星雲寮は人が少なく物寂しいのが残念ですが、静かで落ち着きがあって、良い場所でございましょう? 気に入っていただけると良いのですが」

 そういう夫人の言葉の通り、人が少なくてガランとした雰囲気があったけれど、それを覆す温かみのある色合いの内装が落ち着いた雰囲気を醸し出している。そういう重厚な雰囲気は嫌いではないから、「とても気に入りました」と言うと、夫人もほっと顔をほころばせた。

「三階はとりわけ人が少なくて物寂しいですが。しかし近年はラングフォード公爵家のご令息に続いて、先年には王太子殿下を。今年は次期王太子妃様をお迎えいたしましたから、これほどこの寮にとって嬉しいことはありません」

 来年には王女殿下や弟君も入っていらっしゃいますから、益々賑やかになって嬉しいわ、と微笑む夫人は本当におっとりとした雰囲気の方で、丁寧にお世話になることを挨拶したエイネシアに対しても砕けた様子で、「これから三年間家族のようにすごすのですもの。堅苦しいことなんておよしになって」と求めた。

「さぁ。では簡単に寮のことをご案内いたしますわね。三階だけに致しますか? それとも他のところも見て回りますか?」

 何しろこの寮では王公家の住まう三階と侯伯家の暮らす一、二階で大きな隔たりがあるわけで、暗にエイネシアにとって必要なのは三階だけだと言っているのだろう。けれど一応、「他の階の造りも、軽く把握だけはしておきたいです」とお願いする。すると、「ではこちらにいたしましょう」と、簡単な屋敷の見取り図をテーブルに開いてくれた。

 これなら歩いて回らずとも把握できる。

「建物は四角型になっていて、北を正面に四棟。真ん中にはお庭もあるの。後ほどこちらで入寮のパーティーも開きますから、時間になったら是非いらして下さいね」

 そういえばお祝いの会をマダムが開いて下さるのだったか。今回は、先ほどヴィンセントから出席するとの言葉を聞いていたので、迷うことなく「喜んでお伺いさせていただきます」と答えることができた。

「正面の右手の扉は食堂。左手のお部屋は談話室。奥に図書室。搭屋にはガーデンサロンもありますよ。ここが北棟ですね。それから東棟には会議室などがあって、南棟に少しお部屋と、サロンや音楽ホール。一番西に私の寮監事務室などがありますから、御用の際はこちらに訪ねていらしてね」

 ざっと説明を受けて、それから紙面は二枚目。二階へ。

「二階は主に個室ね。南東側に紳士の皆様。南西側に淑女の皆様。姫様のご友人は西棟の、ここ。二一〇号室ね」

 友人……と称するには頼りないのだが、それは要するにエイネシアが推薦を出したシシリアの事だろう。

「それから三階」

 こちらの間取りはざっくりとしか書かれていないが、それでも二階の部屋よりはるかに一つ一つが広々としており、続き間なども付属していて、特別なのが一目瞭然だった。

「北棟には三階専用の食堂と談話室。食堂の奥には二階へ降りる階段と、奥にギャラリーや、小さなサロンなどもありますよ。三階はお部屋でも食事がとれるように設えてありますけれど。でも金曜の晩餐は寮生皆で取るのが寮則ですから……三階は姫様と殿下とお二人ということに。まぁ、お二方に限ってはそんな決まりなんて関係ないでしょうけれど」

 ふふっ、と可愛らしく笑う寮監は、もしかしたら巷での“仲の良い王太子殿下と許嫁”の噂を信じていらっしゃるのだろうか。

 いや、もしかしなくてもそうなのだろう。決まりなんて関係なく、いつもお二人で仲良くお食事すればよいわ、というニュアンスで仰っているのだろうが、それこそエイネシアには胃が痛い話だった。

 少なくともこれからは毎週一度、殿下と二人で食事をすることになる。

 先程は思いがけない事情で思いがけないらしくもない優しい態度を取られてしまったが、それでも以前最後に出会った時に気まずい別れ方をしたことに違いはない。それからも月に一度、いつもと変わらない義務的な手紙が届いてはいたけれど、益々二人の関係は義務的なものになりつつあった。

 それでいながら、決して睦まじくない様子など誰にも見せてはならないのが二人の関係だ。これからは学校に行くたびに王子の許嫁らしく振舞い、また寮にあって金曜の晩餐のたびに、あのアフタヌーンパーティーの時のような作られた関係を演じなければならないのである。

 これでは少しとして気が抜けたものではない。

「三階のお部屋は歴代の公爵家の皆様や王族の皆様なんかがお入りになっていらっしゃるから、自然とお部屋にその家のカラーというのが現れるようになっていって。今では扉にその家の紋を象ったような彫刻が為されているほどですの」

「聞いたことがあります。母はラングフォード家……片翼の紋の家の出身だけれど、その隣の白百合のお部屋が気に入って、三年間そこに住んだと。それが、許嫁であった父が以前使っていた部屋だとは知らずに」

「ほほっ。そういう逸話はこの寮にはよくあって、面白いのですよ。ちなみに姫様のお母上様がいらっしゃった頃は、後にご夫婦となられた現ラングフォード公エルバート様と、アデリーン王女殿下も、片翼と白薔薇のお部屋にそれぞれお住まいでしたわ」

 王族や公爵家は元々婚姻関係が密接だから、子供たちの年齢も近く、許嫁同士で学年がかぶることも多い。学院生活は、彼らがそうして遭遇したりすれ違ったりする、物語の沢山ある場所なのだ。

 白百合はアーデルハイド家の家紋。片翼はラングフォード家の。薔薇は王族の紋。三階の見取り図には他にも、黒弓、獅子、紅薔薇、剣、古薔薇などの銘が打ってあった。

 一際広い紅薔薇は、王子の部屋。きっと今はヴィンセントが使っている部屋だろう。白薔薇は王女の部屋。アデリーン王女がご卒業なさって以来、ずっと空き部屋になっているその部屋は、きっと来年アンナマリア王女がお使いになる。

 黒弓は東公ダグリア公爵家の家紋。獅子はシルヴェスト公爵家。(つるぎ)の家紋というのは、もう三百年近くも前に断絶したフォルディージ公爵家の家紋だ。

 要するにこの寮は、そんなフォルディージ公爵家がまだ権勢を誇り存続していた“五公爵時代”より前に建てられた寮で、その頃の歴史が残っているのである。

 道理で、学生寮というわりに重厚感があって、どっしりとした落ち着きがあるはずだ。


「さぁ、それではそろそろお部屋にご案内いたしましょうかしらね。生憎と私は足が悪いものですから、ここからは侍女に案内をさせますね」

 そう侍女の手を借りて席を立つマダムスミスに、「ご説明有難うございました」と、エイネシアも席を立つ。するとすぐに黒髪ボブショートの侍女が一人、ニコリと笑みを浮かべて歩み寄ってきた。

「この子はエニー。寮には何人か使用人がおりますが、今年の三階のお部屋付の侍女は二人。このエニーと、もう一人アニタという子が務めますよ。何なりと申し付けてくださいませ」

「宜しく、エニー。気楽に接して頂戴ね」

「宜しくお願いいたします、お嬢様。どうぞ何でもお申し付けください」

 この寮で長く働いているのだろうか。変に恐縮したりせずにそう微笑む様子は実に手慣れていて、きっとこれまでも色々な王公に接してきたであろうことがすぐにわかった。

 三年もジェシカやネリーがいない生活だなんて、と思っていた不安は、エニーのお蔭ですぐに拭えた。

「それでは三階にご案内いたします。主な階段はこの奥の主階段と、内庭の四隅にそれぞれ小階段がございます。今日は主階段からご案内いたしますね」

 エニーが指示したのはホールの奥にある赤い毛氈(もうせん)の敷かれた重厚感のある階段スペースで、吹き抜けのホールを三階まで突き抜ける、堂々たるものだった。

 主階段というのはその屋敷の印象を象徴するようなものだが、この寮の階段もまたそれに相応しく、学生の住まいに似つかわしい少し柔らかい彫刻の、けれどその格式に見合った佇まいが、いっそ威圧的なほどに聳えている。その立派さは嘆息ものだったが、勿論そんな様子は見せず、歩き出したエニーについて行って右側の階段を登った。

 一度折れ曲がり、二階で左右の階段は合流するが、そこからまた左右に分かれて三階へ。その三階への階段も、エニーはまた右側へと折れた。

 はて。そういえばエイネシアの部屋は、どの部屋なのだろうか。

 慣例から行けば、アーデルハイド家のよく使用する“白百合の部屋”だが、母のように好きな部屋を使う例もある。それに母も無意味に家紋以外の部屋を使っていたわけではなく、ラングフォード家の跡取りであり年の近い弟がいずれ入学してくることを見越して、家門の部屋を空けていたのではないだろうか。

 先んじて卒業した従兄アーウィン・ダレン・ラングフォードの場合は、片翼の部屋よりも日当たりがいいのが気に入ったと、真逆にある獅子の部屋を使っていたという。だから家紋に准えた扉があるといっても必ずしもその部屋に入るとは限らないわけで、エイネシアの場合は母の時同様、来年弟も入って来るから、白百合の部屋とは限らない。

 だがサクサクと階段を上がって西棟の廊下に入ったエニーは、そういえば一言も『どの部屋がいいですか』とか、その手のことは言わない。むしろ廊下を一つ曲がってすぐ、「白百合のお部屋はあちらです」などと言って通り過ぎてしまった。

 どうやら白百合の部屋ではないらしい。

 やがて道すがら、母方の実家である片翼の扉の前を通ったけれど、しかしエニーはそこでも立ち止まることはなく、突き当たった先を右に。行き止まりの廊下へと入っていった。

 はて。確か先ほどみた図面で、この先にあったのは“古薔薇の部屋”だ。

 ヴィンセントの紅薔薇とは同じ向きの丁度逆位置にある角部屋で、多少格は落としてあるものの、随分と広々とした間取りだったように記憶している。

 だが薔薇とは、王家の紋であるはず。

「こちらにあるのは薔薇の紋のお部屋でしょう? 私が宜しいの?」

 だから扉にたどり着く前にそう声をかけたら、ニコリとした顔が振り返り、「ええ。このお部屋は、とある方からの贈り物でございますから」と、その扉を開いた。

 それはどういう事だろうか。

 まさか、ヴィンセントが気を回してくれたというのだろうか。

 許嫁だから?

 いずれは王家に入る者だから?

 だから薔薇の部屋を?

 まさかそんな、とわずかに期待してしまう胸を、どこか冷静な別の自分が諌めつつ、古薔薇……いわゆる“オールドローズ”とはどこか違った、小ぶりな野薔薇が装飾された扉の部屋の前に立った。

 これはむしろ、“古薔薇”ではなく“小薔薇”ではなかろうか。

 そう首を傾けつつ、部屋に立ち入る。

 途端、ツンと鼻を掠めた懐かしい匂いに、呆然と足を止めてしまった。


 落ち着いたレッドブラウンのカーペットと、大きな出窓にゆったりと腰の低いソファ。

 重厚なドレープを描く大きなベルベットのカーテンと、差し込む南からの柔らかな灯り。


 それはまさに“古めいた部屋”で、古薔薇の名称はここから揶揄(やゆ)してつけられたに違いない。

 重厚な色合いの部屋は、まるで端厳な老人が住んでいそうな部屋で、それでいながら所々に可憐な細工が施されているのが、その部屋を重々しいだけではない柔らかいものにしている。

 公爵令嬢が住まう部屋には似つかわしくないが、だがエイネシアの趣味にはとてもあっていて、何故か入った瞬間からとんでもない安心感に包まれた。

 この感覚は何なのだろうか。

 見渡した部屋の、思わず引きつけられた一角に、おのずと足が向く。

 わざわざ後付で壁まで設けたのであろう一角を、背の高い本棚が埋め尽くしている。そこにはエイネシアが持ってきた本とは比べ物にならないほどの沢山の本が詰め込まれていて、あたかもすでに誰かが住んでいる部屋なのではないかと思うほどの生活感があった。

「本当にここ?」

 だからそう問うてみたところで、「本当にこちらですが、お気に召さないようでしたら変わっていただいても構いませんよ」と言ったエニーは、「白百合のお部屋も、白とグリーンを基調としたとても素敵なお部屋です」と付け足した。

 なるほど。要するにこの王都にあるアーデルハイド家の雰囲気そのものというわけだ。

 なのにこの部屋にこんなにも既視感を感じるのは何故なのか。

「いえ、気に入らないわけではないのだけれど」

 そう、机の上に置きっぱなしにされているインクや羽ペンを手に取り、それから本棚に並ぶ本の背表紙をゆっくりと指先でなぞる。

 指先でなぞって、二段目で……すぐにドキリとした。

「ララ。シグノー。バーレイ。ベンテンス。グリオット。タイアネン。フリッツマン。バーナードに、クレデリン……」

 見覚えがあるどころじゃない。いつもいつも傍らに置き、参考にしていた辞書ばかり。

 思わず急いた気持ちで隣の本棚に駆け寄り、再び背表紙を追う。

 政治。経済。歴史。地理。言語。貴族譜。帝王学。果てはなぜか料理の本まで。下の戸棚には手書きの紙の束がギッシリと詰め込まれていて、一つ抜いてみると、なんとハインツリッヒの手書きのレポートだった。

 それをクルリと見まわし。

 それから改めて部屋を見渡す。

 柔らかな間仕切りのかかる奥の空間に足を延ばすと、そこも同じカラートーンで、落ち着いたレッドブラウンの天蓋のかかった大きなベッドと、窓べりにはゆったりと身を沈められる綿をたっぷりと詰め込んだようなソファ。その背には、王公の住まいにはいささか不釣り合いな、温かみのある手編みのブランケットがかけられていた。

 そしてすぐにわかった。どうしてここが懐かしいのか。

 ここはあの、“大図書館”の雰囲気なのだ。

 秋の装いになった大図書館に良く似ているが、それより少しだけ軽やかな印象を与えるのは、春という季節に合わせて少しばかり侍女たちが手を加えてくれているからだろう。

 でも間違いない。ここには懐かしい空気が漂っていて、まるで元々自分の部屋であったかのようにしっくりとしている。


 誰が、こんなことをしてくれたのか。

 ヴィンセントではない。

 この部屋を見て、彼がここをエイネシアにと言うはずがない。

 だとしたら思い当たるのは二人。

 その内の一人、ハインツリッヒは、エイネシアと出会った時にはすでにこの学院を卒業してしまっていた。

 だから間違いない。“薔薇”の部屋に住まうあの図書館の住人なんて、あとはもう、一人しかいない。


「どうして……」


 そう呟きながら、きっと彼が使っていたのであろう大きな机を撫でる。

 沢山本が積めて、沢山資料を広げられそうな大きな机。

 置きっぱなしのブルーインクも、瀟洒な持ち手の羽ペンも。何故かとっても可愛いまんまるな眠り鹿の文鎮も。全部あの人が残した物だろうか。

 そうおもむろに机を見渡したところで、一通の封筒が置かれてあるのに気が付き、思わず手を伸ばす。

 差出人の名前はない。

 宛先にはただ、『シアへ』とだけ書いてあった。

 どうしたらいいのだろう。

 この手紙の中を読みたい。だがそれは、この部屋を使うかどうかを決めてからであるべきで、そしてこの部屋を使っていいのか、ただただ迷う。

 ここは間違いなく、かつての彼の部屋なのだ。

 そんなところを、彼と仲の良くなかったヴィンセントのいるすぐ目と鼻の先で使うというのはどうなのか。

 それはここに住むエイネシアの心情的にもいたたまれないし、少し怖い。

 そう戸惑っていたら、「その手紙はお読みになった方が宜しいですよ」とエニーが口を挟んだから、ハッとして彼女を見やった。

 彼女は一体、何を知っているのだろうか。

 彼女はこの場所で、たった一年半で学校を去った人から、何を聞き、何を話したのだろうか。

 それから今しばらく迷ったものの、是非に、と促すエニーの柔らかい視線に促されるようにして、恐る恐る。ゆっくりと、その手紙を開いた。



『親愛なるシアへ。

 もしもこの手紙を開いたのがシアという名前のレディでないのならば、残念だ。読まずに暖炉に投じてくれたなら、私は君に恥をさらさずに済む――』


 相も変わらず、冗談なのかそうでないのか。茶化したような物言いで、けれどその精霊文字の名残を残したような装飾的な綺麗な字は、間違いない。良く見知っている彼の字だ。


『あの夜、君が突然駆け去ったその日から、私はずっと、君と話ができないことと、それから食べ損ねたチェリーパイのことばかりを惜しんでいる。

 どう考えても、あの少女が語った未来はまったく想像がつかないのだけれど、それでもただ一つ分かるのは、これからの君の未来がきっととんでもなく困難なのだろうということだ。それがただ心配でならない。


 ねぇ、シア。あの図書館は好きだったかい?

 重々しいベルベットのカーテンは?

 埃っぽい古書とインクばかりの匂いは?

 ニカの手編みのブランケットと、あのとっても甘いココアは?

 嫌いなはずがないよね。あの図書館で、微睡むように本をめくっている君の顔は、何をしている時よりも美しく、幸せそうだったよ。

 少なくとも、あそこに君にとっての平穏な時間があったことを私は信じている。だからきっとこの部屋は、君のこれからの生活の慰めになるだろう。そうは思わないかな?


 気まぐれに、私のものをいくつか残して行こうと思う。嫌なら捨ててくれて構わない。

 ただもしも君がこの部屋で少しでも心を休め、穏やかに卒業することが適ったなら、その時は是非、チェリーパイを焼いて欲しい』




 四年前――この人は自分の味方にはならない人であることと、やがてはヴィンセントから王位を簒奪せんとする人なのだと、知りたくもない未来を知ってしまった。

 けれどこの手紙からはそんな気配は少しも無い。

 彼はただ、エイネシアのこれからの困難を察してこの部屋を残してくれたのだ。

 どこで何があっても、この部屋に帰ってくれば大丈夫。

 ここにはかつての穏やかな、懐かしい時間がある。

 ここに、エイネシアを傷つけるものは何もないと。



「エニー。少し、聞き辛いのだけれど」

 ゆっくりと手紙をおろし、躊躇いがちに声をかける。

「何なりと、お嬢様」

「例えば……ヴィンセント様は、このお部屋がかつてどなたがお使いになっていた部屋なのか……ご存知なのかしら」

 もしもそうなら、使えない。

 どんなにかここを欲していたとしても、使えない。

 しかしその不安をよそに、エニーはあっさりと、「いいえ」と首を横に振った。

「殿下は元々お気を止めておられませんでしたし、それに以前のお部屋主様から、どうかくれぐれも知らせないで欲しいと、口止め料の木の実のタルトをたっぷりと貢がれております」

 そうクスクスとおかしそうに笑うエニーには、エイネシアも思わず“以前のお部屋主”を思い出し、呆れた顔をしてしまった。

 相変わらずあの人は……何なのだろうか。

 ちっとも元王子様な感じがしない。

 でもものすごくその情景が想像できる。

「いかがなさいますか? お嬢様」

「……そう、ね」

 手紙を片手に、窓にかかるカーテンを手で避ける。

 瀟洒な柵の窓の外には裏庭を臨み、その景色はまるで額縁のよう。そこからはきっと、とても素敵な夜空の月が、見えるのだろう。

 それに建物の一番隅というこの奥まった寝室が、周りから人の気配を遠ざけていて、その孤独感がとても安心できた。

 あの人は……一体どんな気持ちで、この部屋で過ごしたのだろうか。

「ええ。ここにするわ。“先生”の置き土産ですもの」

 エニーは一度、先生? と首を傾けたようだったけれど、すぐにニコリと頬笑むと、「それでは荷物をしまわせていただきますね」と、先んじて絨毯の上に運び込まれていたトランクを軽々と抱えて続きの間へ入って行った。



「チェリーパイ……か」

 ゆっくりと。手紙の上の、端正な文字が記すには可愛らしすぎる単語を指先で辿った。

 あの日渡すことのできなかったチェリーパイは、『お届けしますか?』という侍従の言葉を断り、(かまど)にくべた。

 その轟々(ごうごう)と燃える炎を見ながら、どうしようもない虚無感に見舞われた。

 でもこんなにも楽しみにしていてくれたのなら、渡せばよかった。

 それでいつか。もしも本当に彼がヴィンセントを裏切るのであれば、その時に後悔をすればよかったと思う……。


 そうしたら自分はこの部屋で、何一つ憂うことなく過ごせたのに。


 こんなことを書かれたら、あの日のことを後悔して後悔して、ちっとも休まらないじゃない、と。

 くしゃりと歪めた顔で、使い込まれた机を撫でた。



 時間はもう、巻き戻せない。






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