2-4 入学(2)
この世界に、いわゆる保護者が参列するような日本風の入学式というシステムは存在しておらず、屋敷の玄関で母とエドワードに見送られたエイネシアは、一人公爵家の馬車で学院へと降り立った。
かわるがわるアプローチを過ぎてゆく馬車からは、次々と真新しい制服に身を包んだ少年少女たちが下り立って行く。
同じように馬車を降りたエイネシアは、すぐにも上級生と思しき先輩方の、「新入生の皆さまはこちらに!」の声に従って、そちらへと歩を進めた。
人前に出れば、すぐにもざわざわと周りがどよめき、視線が寄越される。
この学院の生徒の殆どは貴族であるから、エイネシアが彼ら一人一人を知らずとも、いつも王子様のパートナーを務めていたエイネシアという公爵令嬢を誰もが見知っているのだろう。これでは少しも気が抜けない。出来る限り気を引き締め、背筋と表情を取り繕いながら、広々とした玄関口に設けられた机で入学の受付を済ませた。
そのまま右手の校舎へ、と案内をしてもらったので、言われた方向に視線を向けて。
そこで、これまで以上にガヤガヤと。とりわけ女子生徒の黄色い悲鳴が混じりだしたのを耳にした。
どうやら“来た”らしい。
こんな女子生徒の歓声を一身に集める人物は、今のところ一人しか心当たりがない。
「エイネシア」
かけられた声に、軽く瞼を伏せて礼を取る。
「ごきげんよう、ヴィンセント様」
ホゥと零れる周りの吐息に、よし上手くいった、と自画自賛する。
一年ぶりだから、うまく取り繕えるか不安だったのだが、心配いらない。ちゃんと穏やかな声色で、ちゃんと睦まじいかのように話せている。
あとは引き続き、完璧な王太子の許嫁らしく出迎えてくれたことの感謝を述べて……、と頭の中で段取りを確認していたら、それよりも早く、ガッと手をつかみ引き寄せられたものだから、間の抜けた顔をして顔を跳ね上げてしまった。
まてまてまて。
これは何だ。
これは何なのだ。
「あ、あの……?」
「一年も会えなかったからな。エイネシアの入学を心待ちにしていた」
ふわりと綻ぶような笑みを浮かべたヴィンセントに、きゃーっ、と女子たちが卒倒してゆく。
いや、それは良い。良くないが、まぁ良い。
「そ、れは……申し訳ありません。私も、あとひと月早く生まれていれば、ヴィンセント様と同じ学年で共に学べたのにと悔やみながら、この日を待ち遠しく思っておりました」
混乱しきった頭で、だが思いのほかサラリと口から突いて出た咄嗟の言葉は中々上手くいったようで、「私もだよ」だなんて甘い言葉を吐くその人に呆然とした。
おかしい。
なんだこれは。
この人は本当に、あのヴィンセント王子なのだろうか。
いつも完璧無比で、少しだって隙など見せることは無く、いつも義務と責務を着て王太子であろうと努める、あのクールで、ちょっと冷めすぎているくらいの王子様なのだろうか。
非礼を働いたエイネシアから薔薇を取り上げ、ぐしゃりと握りつぶした、あの……。
いや、絶対におかしい、と逆に青ざめそうになったところで、なにやら後ろの方で口元を隠して密かに肩を揺らしているアルフォンスの姿をみつけ、腑に落ちてしまった。
あのアルフォンスが……無表情の過ぎるくらいの幼馴染が、肩を揺らして“笑っている”だなんて絶対に変だ。何かよほどのことがあるに違いない。
「……あの。殿下……人目がありますわ。どうか、お手を……」
取りあえずそこの笑っている幼馴染を黙らせたくて、そう恥じらうようにヴィンセントの手に握り包まれた自分の手を見やる。
今更だけれど……とても恥ずかしい。
「嫌か?」
だがあろうことかそんなことを言われて、はい、なんて言えるはずがない。
ぼっ、と赤く染まった頬が恥ずかしくて、あわてて少し俯きながら、「いいえ」と答えた。
「それなら構わないだろう?」
改めて、エスコートするようにエイネシアの手を自分の手に乗せて歩き出したヴィンセントに、なにやらぼうっ、と立ちくらんでしまった。
本当に、これは一体何の羞恥プレイなのだろうか。
たしか最後に会った時は……そう。あれはちょうど一年ほど前の、大茶会の代わりに催されたパーティーで、無責任な休息と起こした揉め事に対するお咎めを受けたエイネシアは、いつもならそれでも差し伸べられていたはずの手を差し伸べられなかったことに酷いショックを受け、これでもかというほどに絶望したはずだった。
義務と責務のために差し出された手はとても冷たく冷ややかで、触れているのに触れていないかのように遠く、最後には見送りもしていただけず、顔を上げることも許されぬまま、去ってしまわれた。
その冷たい足音を、今も昨日のことのように思い出せる。
だというのに、この暖かい手は何だろう。
冷たい足音などそこには無く、隣をゆっくりとエイネシアに合わせて歩いて下さるその人は、一体誰だろう。
その混乱に、差し掛かった階段を一歩一歩と歩みながらも、どこか呆然として間の抜けた顔になっていたのだと思う。
ふっと傍らから近付いてきたヴィンセントの顔に、えっ、と驚く間もなく。
「顔」
良く知っている冷たい声が耳元でボソリとそう呟いた瞬間に理解した。
うむ。やはり間違いない。間違いなく、ヴィンセント王子だ。
一体この一年、ヴィンセントは学校で何を学んでいたのだろうか。
演技力だろうか……。
とんだ詐欺だ。騙された。
ときめいて大爆発しそうなこの心臓に、賠償金を支払ってほしい。
なんて短い夢。
そしてその短い夢は同じく、あっという間にたどり着いてしまった教室で、いとも簡単に解かれてしまった。
「わざわざ有難うございました、ヴィンセント様」
「帰りも迎えに来る。教室で待っていなさい」
「はい」
自分で頷いておきながら何だが、やっぱり気持ち悪い。
そう思っているのが分かっているのか、「寮まで案内しますよ」と付け足したアルフォンスのおかげで、ようやく意味を理解した。
しかしまぁ何というか……。まさか一年ぶりのアルフォンスとの最初の会話がそれというのは情けない。
「私達の教室はすぐ上だ。何かあったら訪ねてくるといい」
「とても心強いですわ。アルも。また後ほど、お二人の一年のことを色々と教えてくださいね」
そうニコリと微笑んで見せたところで、おそらく今回の任務は終了だ。
じゃあまた、と去ってゆく二人を恭しく見送って、クルリと教室へ方向転換する。
途端、全ての視線が此方に集まっていたことに気が付いたが、それをおくびにも出さず、「騒がしくしてしまってごめんなさい」と微笑んで見せながら、当たり障りない後ろの方の席へと腰掛けた。
そうしてようやくガヤガヤと、静まり返っていた教室が賑わい初める。
皆ちらちらとエイネシアを伺っていたけれど、まだ入学したばかりとあって、いきなり王子様を伴って現れた公爵令嬢との距離の取り方が分からないのだろう。
遠巻きにして近寄って来ないのは、ある意味幸いだったのかもしれない。ここで『殿下と仲が宜しいんですね』だなんて話題を振られても、上手く取り繕える気がしない。
けれどそんな遠巻きな人達をものともせず、一人の女生徒が傍らまで歩み寄ってきて礼をしたから、はたと顔をあげて、微笑んでみせた。
スレンダーな体躯にやんわりと結い上げた深い紺色のポニーテール。
「ごきげんよう、シシー。お久しぶりね」
シシリア・ノー・セイロン。正直、友人と呼べるほど親しくしていたわけではなかったけれど、この右も左もわからぬ場所の同じ教室に、少なからず見知った人物がいてくれたことは心強い。
「ごきげんよう、姫様。よかった。最近は少しもお茶会などなさらないので、私のことなどもう忘れられたのかと思っておりましたわ」
「ごめんなさいね、シシー。最近は所領に戻って色々と勉強することが多かったものだから。でも忘れてなんていなかったわ。寮への推薦状も」
そう言うエイネシアに、「この度はご配慮まことに有難うございます」と、シシリアは今一度丁寧な礼をした。
エイネシアがこれから入る予定になっている“星雲寮”という寮は、いわゆる王族・大公家・公爵家の子弟のために設けられた学生寮であり、数十年ほど前からは王公家の人数の減少もあって、一部名門侯爵家の子弟なども入寮するようになったという、最も格式の高い寮である。
この他にも、現在政治上の要職にある家柄や、社会的な後見度の高いような名門中の名門といわれる家の子弟が入ることがあるが、他の寮と違って毎年四、五人ほどしか入寮できないという、実に狭き門戸の寮だ。
シシリアの実家のセイロン伯爵家は、当主がアーデルハイド公爵と古くからの友人という関係があり、またいずれは外務大臣との噂もある勢いのある家柄だが、名門と言うほどに長い歴史や権勢があるわけではない。なので入るとしても星雲寮ではなく、その次の格と言われる花星寮くらいが妥当である。
しかし星雲寮には、王公の子弟に限って、誰か一名を寮に推薦できるという権利が与えられており、エイネシアはそのひと枠に、このシシリアを推薦したのだ。
正確には特に推薦したい人もおらずどうしようかと両親に相談したところ、母からは、誰か一人くらい同学年の頼れる友人が同じ寮にいてくれた方が心強いわよ、とのアドバイスをいただき、また父からは、それならセイロン伯の娘はどうだ、との提案を受けた。
現セイロン伯も学生時代、父の推薦で星雲寮に入っていたらしい。なので先んじてその旨をシシリアに手紙で知らせたところ、ご推薦いただけるならば是非、という事だったので、シシリアを推薦したのだ。
今まさに勢いを伸ばしている伯爵家ということもあり、寮の審査も無事通過したようで、星雲寮に入れることになりました、との連絡も、先んじてシシリアから手紙で受け取っていた。
実際今になってみると、こうして同じ寮に住んでくれる顔見知りが同じ教室にいるのは心強い。
「でもいきなり殿下とご一緒に現れるとは思っておりませんでしたわ。流石はエイネシア様です」
言葉が皮肉がかって聞こえるのは、エイネシアが突拍子なヴィンセントの行為のせいで、今まさに懐疑心が高まりすぎているからだろうか。
できればシシリアとはその話を続けたくなくて、その言葉をなかった事のように受け流し、「今年はシシーと。それから女子はもう一人、伯爵家から入寮者がいると聞いているのだけれど」と話題をすり替えた。
そんな問いに、「ええ」と何事も無く頷いたシシリアが見やった先で、肩ほどの栗色の髪とおっとりとした目元の小柄な少女がこちらへ歩み寄ってきて、丁寧な礼を尽くした。
それはどこかで見覚えのある顔で、必死に記憶をさかのぼり思い出す。
「ごきげんよう。確か、大貿易伯の……」
そう言ったところで、おっと、と口元に手を添える。
大貿易伯、だなんていうちょっと変わった異名をとるのは、権門貴族でありながら貿易商人として一大財産を築いたことで有名なランドール前伯爵だ。
早々と息子に家督を譲って、今なお世界中を行脚しては時折王宮に珍しい舶来品を持って帰ってくる前伯とは、エイネシアも宮中で何度も顔を合わせたことがあり、お土産をいただいたこともあった。
だが大貿易伯という呼び方は、貴族なのに商人のような成りをして、という皮肉を込めて他の貴族たちが呼び出した蔑称であり、エイネシアはむしろなんて面白い異名と気に入っているのだけれど、あまりいい意味ではないのかもしれない。
だがその少女はちっとも気にした様子はなく、「そう、その貿易商人の孫娘です」と笑ってみせた。
「セシリー・エット・ランドールと申します。寮には姉のレナリーもおります。どうぞよろしくお願いします、姫様」
「エイネシアと呼んで頂戴。私も、宜しければセシリーと」
そういえば、「光栄です」と柔らかな笑みが返ってきた。
二人に取りあえず座って頂戴、と促したところで、今度は二人ほど男子生徒も歩み寄ってきて、「我々もご挨拶して宜しいですか」と声をかけてきた。
この内の一人は見覚えがあった。
「ごきげんよう、ジュスタス卿。確か卿も同じ寮でしたわね」
そう声をかけたところで、「ええ、幸いにも」と言った気の良さそうな背の高い青年は、エイネシアも茶会などの際に何度か挨拶をしたことのある人物だった。
ジュスタス・ニーズ・ノージェント。ノージェント家も、とても古い歴史を持つ名門侯爵家の一つだ。
「こちらは、フレディ・ワーズ・クレイウッド。彼も、同じ寮です」
「あら、貴族院評議員のクレイウッド侯爵のご縁者?」
そうすぐに答えたエイネシアに、「父をご存知いただいているようで恐縮です」と言ったのは、ジュスタスより小柄だがゆったりと構えた余裕を感じさせる青年だった。強面のクレイウッド侯爵とはあまり似ていない。
「今年の入寮者はこれで全部ね。聞いてはいたけれど、本当に少ないのね」
「殿下やエイネシア様と同じ寮の屋根の下で過ごすだなんて、未だに夢のようです。星雲寮からの入寮の案内が届いた時は我が目を疑いましたわ」
未だに信じられないくらいです、というセシリーは、「でも」とざっと教室を見渡すと、少しだけ肩をすくめて声を潜めた。
「納得致しましたわ。私たちの学年には、あまり侯爵様のご子弟がいらっしゃらないのね」
その言葉の通り。この一番家格の高い人たちがいるであろう教室を見渡しても、エイネシアの見知った顔は多くない。
元々この国の貴族の割合はそんなに多くなく、公爵家でさえ四家。侯爵家でも四十に満たない。その中で同じ学年になる可能性といえば僅かなもので、さらに名門の家柄に絞ったなら、一人もいないことだってあるわけだ。実際に男子生徒にはノージェントやクレイウッドがいても、女子生徒にはめぼしい侯爵家の令嬢は見当たらなかった。
名実ともに公爵家の令嬢であるエイネシアが、頭一つ以上飛びぬけていることになるから、これでは遠巻きにされるのも仕方がない。シシリアたちがいてくれて本当に頼もしい。
おかげさまで教師が教室に入ってくるまでの間、彼らとの会話が適度に時間を潰すのに有意義に働いてくれて、あのとても奇妙なヴィンセントの行動をあれこれ考えずに済んだ。
気のいい同世代との会話というのも、思えばエイネシア史上初めてかもしれなくて、やはりどの時代どの世界でも、学校というのは良いものだ、と、そう思ったのは時期尚早だろうか。
少なくともあと一年。
あと一年は、平和なはずなのだ。
できればそれからも。こんなにも気のいい人達から白い目で見られるようなことにだけはなりたくないと思うのだけれど……それはもう、仕方のないことなのだろうか。
それからしばらく、教師が学院での授業や生活、規則についてなどの説明をこなし、次いで講堂で学長の挨拶を聞いてから、総じて二時間半ほどで皆は解放された。
講堂から出ると至るところで先輩達が、「美園寮の方はこちらに」「花星寮の皆様はお集まりになって」と声をかけて回っていて、これは同じ寮でまとまっていた方がよさそう、と、誰からともなくエイネシア達も再び集合したところで、「ごきげんよう、姫様」と恭しく礼を尽くした令嬢が声をかけた。
それはエイネシアも見知った顔で、すぐに礼を返すと、「ごきげんよう、スティーシア嬢」と返す。スティーシア・オメル・シャーロット。彼女もまた名だたる侯爵家のご令嬢だ。
さらにその隣で控え目に礼を取った男性にも見覚えがあった。ファビアン・ディー・フロックハート。フロックハート侯爵といえば、今の司法省法制局長もお勤めの御仁だ。
「ごきげんよう、ファビアン卿。卿は確か今年三年でしたわね」
「ええ。今は私が星雲寮の寮長を。スティが副寮長を勤めています」
なるほど。ではこの二人が、星雲寮諸君のお迎えというわけだ。とはいえエインシアは先んじてヴィンセントに、教室にいるようにと言われたから、彼らについていくことはできない。
そうと知っているのか、スティーシアが「皆様は私達についていらして」と声をかけ、「姫様は、教室にお戻りになられるのですよね?」と言う。
どうして知っているのかは……聞かないことにする。
「お先にお戻りになられて下さい。私はお約束がありますので」
だからそう答えたところで、「教室までは分かりますか?」と問われたので、頷いた。教室から講堂はそんなに難しくなかったので、まっすぐ帰れると思う。
「それではまた後ほど」
「寮監のマダムスミスが入寮のお祝いを開いて下さるの。宜しければご参加くださいませ」
そう礼を尽くすスティーシアに、「お伺いいたします」と答えてから、いや、それで良かったのだろうか、と少し不安になった。
星雲寮というのは少し特殊なところで、元は王族・公爵のための寮だったという事情から分かる通り、他の貴族とは明確に区別された、特別な寮である。たとえ学生であろうとも、王族と貴族が同じ寮で分け隔てなく過ごすなんてことはありえないのであって、公爵家以上と侯爵家以下との間には、絶対的に交わってはならない境界線が存在する。
これは別に、差別ではない。この国が“君主制”であり“身分制統治社会”である以上、必要不可欠な規範というべきものである。
王族はすべての貴族達とは分け隔てられた絶対孤高な存在でなければならないのであって、それなくして君主制は成り立たない。これが瓦解して、貴族が驕り高ぶり君主が威厳を失った無秩序な社会こそが、いわゆる君主制が悪法とされる由縁だ。
だからそうならないために、この国には数多くの王族が貴族を“支配”する制度があり、貴族を抑圧するための、数多くのマナーやしきたりが存在しているのである。
公爵家だけはその成り立ちと性質上、貴族とは一線を画して王族に準ずる扱いを受けるが、そうした扱いを受けてなお王族に絶対の忠誠を尽くし仕える姿を他の貴族達に見せつけることが、いわば王族と貴族を隔てる役目を担っている。
だからいかに同じ寮に王公家と侯伯家の子弟とが同居しているといっても、その生活には明確な隔たりが設けられている。これはある意味、侯伯家が肩の力を抜いて生活するための措置でもあって、そのため寮内は、主に一、二階に彼ら侯伯家の子弟の生活空間、三階が王公家の子弟の生活空間として区別もされている。食堂や談話室なども、それぞれ別に存在しているのだという。
だからもしも三階の住人であるヴィンセント王子がこうした寮の些事には参加しない、という方針であったならば、同じ三階の住人であるエイネシアもまたそれに従うのが“公爵家のあるべき姿”である。それこそが“彼らの為”でもあって、安易に出席を口にしてしまったことは早まったかもしれない、と後悔したのだ。エイネシアの立場では、まず『殿下にお伺いしてみます』と答えるべきだった。
だから早まったかもと顔色を濁したけれど、“参加したい”というようなエイネシアの先んじた胸の内を読み取ったらしいファビアンは、すぐに、「ご安心ください。きっと殿下もご出席くださいますよ」とフォローしてくれた。
さすがは、星雲寮の寮長。幼い頃から比較的エイネシアやヴィンセントと接する機会も多かった人物らしい気遣いで、ヴィンセントが不参加でもエイネシアにとって断りやすい状況を築いてくれたに違いなかった。
「ごめんなさい……軽率でしたわね、私」
「いえ。二階と三階に隔たりがあるといっても、寮生皆の生活が穏やかであるよう努めるのが寮長の役目です。お節介にならなければ良いのですが」
「有難うございます、ファビアン卿。ヴィンセント様にお伺いを立てさせていただきますね」
「是非、お待ちしております」
そう恭しくしてくれるファビアンに一つ頷いて見せてから、「それでは我々はお先に」と言う彼らを見送りつつ、エイネシアは一人、教室へと引き返す道に足を踏み出した。
◇◇◇
教室方面へと向かう人気は少なくて、エイネシアもまた教室に戻りきる前にヴィンセントとアルフォンスに遭遇したため、そのまま直接寮に向かうことになった。
その道中でもやはりヴィンセントは気味が悪いくらいに優しい王子様を演じていらっしゃって、エイネシアの手を強引にとってエスコートすると、一体どうしたのかというほどに丁寧に学内を案内しながら寮への道を歩いた。
それは間違いなく、誰かに何かを誇示するための行為であり、段々とその意図が読めてくるにつれ、ようやく頭もまわるようになってきた。
だからといって、寮を目前とした人気のない道に入ってすぐ、「それで、一体どなたに睦まじい様子を見せつけねばなりませんでしたの?」なんて問うた自分は、さぞかし可愛くない女の子だったと思う。
だがそう思わず問うてしまうほどに、気味が悪かったのから仕方がない。
案の定、周囲に視線がなくなったのを確認したヴィンセントは、たちまちエスコートの手をおろし、何の色も映さない淡泊な表情になった。
その顔の方が見慣れていて安心する、というのは、自分でもどうかと思うけれど、今ばかりはその態度にほっとする。
とはいえヴィンセントはただ辟易した顔で黙りこくるだけで、一向に答えてくれる様子がなかったので、矛先を変えて、今朝さりげなく笑いをこらえて肩を揺らしていた幼馴染を見やった。
そんなアルフォンスが視線に気が付くや否や、「それはもう、全ての女生徒に」と言うから首を傾げた。
すべての貴族達、ならまだわかるが、すべての女生徒、というのはどういう意味だろうか。
「学院には保護者の目が無い分、羽目を外すレディが多いのですよ」
その言葉を受けて、ヴィンセントがらしくもない大きなため息を吐く。
いつも王太子然として振舞い、幼馴染や許嫁の前でさえ決してそれを崩さないヴィンセントが、まさかそんなあからさまなため息を吐くとは思わなかった。
「私に許嫁がいることは皆知っているだろうに……なぜ皆こう……」
だがその濁した言葉だけで、充分に何があったのかは伝わってきた。
案外積極的なお嬢様方が多く、これまで沢山の近衛や国王の目に守られてきた王宮とは違ったこの野放しの学園空間に、王子様はこの一年、カルチャーショクの洗礼を受けたらしい。
まぁ……貴族の子弟にとってみれば、同じ空間に、それまで別世界の人間だった人物がいるわけだから、そりゃあ気にならないわけはないだろう。
見たところ、皆遠巻きに、といった様子で、直接的なアプローチをかけるような勇者はいなかったように見受けられたが、しかしエイネシアでさえ、この日一緒に歩いた数十分だけでも充分に突き刺さる視線の多さには辟易していたところだ。もはやプライバシーも何もないほどの熱烈な視線にさらされ続けたに違いない。だからこの機会にエイネシアとの親密ぶりをアピールすることで、そんな女子たちの視線を逸らそうという魂胆だったのだろう。
おかげさまでエイネシアはあらゆる女子生徒から妬みの視線を向けられることになったわけだが……そんなことは、彼にとっては“当たり前”であって、配慮すべき事ではないのだろう。
分かっている。
「でもそのおかげで私は良い思いが出来ましたわ。このように殿下に手を引かれて歩いたのは……あの日の、迷子の時以来ではないでしょうか」
離れてしまった手が少し寂しくて。でもこうしてちっとも気取らずに何気ない会話をしながら並んで歩くのは、少しも寂しくない。
寮へのささやかな並木道もどことなくあの時の森を思い起こさせて、こうやって歩いているとあの日のことを思い出した。
思いがけない迷子が不安で、恐ろしくて。
思わず名前を呼んだら、本当にその人が現れて、助けてくれた。
鉄格子越しに触れた指先の温もりを、今でも昨日の事に様に思い出すことができる。
気を付けろ、と言われながら歩いた茨の道が、今までで一番幸せな道だった。
忘れもしない……ドキドキと緊張しながら手を引かれ、共に図書館まで歩いたその道も。
静かに本を捲るその人に思わず見惚れながら過ごした。その愛おしい時間も。
そうしてまだ無邪気で自由だった頃、幼馴染たちと過ごしたイリア離宮での時間のことも。
ちっとも忘れてなんかいないけれど。
「迷子……? 手など引いたことがあったか?」
その視線の一つも寄越さぬ物言いが、ズキリと胸を突き刺した。
あぁ、分かっている。
分かっていたとも。
この思いは一方通行。
ヴィンセントにしてみれば、あんなのはただの些細な出来事で、むしろその後成り行きで貴重な時間をエイネシアに割かねばならなくなったことを、煩わしくさえ思っていたのかもしれない。
あぁ、そうなのかもしれない。
「さぁ……。私の記憶違いかもしれませんわね」
だからそう口にして。
ええ、そうよ。きっと記憶違いよ、と。
その切なさに、蓋をする。
私たちの間の隔たりは、きっと二階と三階の隔たりよりも、ずっと深く、明らかなのだ――。
その内に目の前にはとても瀟洒で大きなブルーの屋根の白いお屋敷が見えて来て、会話はそこで途絶えた。