2-4 入学(1)
それからの一年。
一体これから何が起こるのかと怯えた日々は遠く過ぎ去り、夏が来て、秋が来て、そして再び寒さに凍える冬が来て。日々は何の変哲も無く、穏やかに流れた。
学院へ入ったヴィンセントの評判は頗る良いと聞く。
だがそれへの関心も持てぬまま、再びエイネシアは屋敷に引きこもり、変わらぬ毎日を過ごした。
少し違ったのは、ヴィンセントやアルフォンスがいないため、エドワードが家にいる時間が格段に増えたということだろうか。
ただこの機会にと王宮への図書館通いは本格化しているようで、見る見るエイネシア以上に知識を蓄えていく弟は、しょっちゅうエイネシアの元を訪ねてきて、その日学んだこととその日読んだ本の内容を語ってくれた。
それはとても面白くて顔をほころばせて聞き入ったけれど、エイネシアがそれに活発な議論を交わすことは無かった。
だがエイネシアがそうであればあるほどに、エドワードはまるで何かに取りつかれたかのように勉強をしまくった。
それはもう、何かおかしくなったのではと母が慌てふためくほどで、しかし「早く力をつけて、姉上を支えられるようになりたいのです」と言ったエドワードに、母も言葉を飲んで納得を示した。
そんな彼らの心配が己に向いている事など微塵も知ることなく。
ただただエイネシアは一人窓の外を見て一日一日を数えた。
ほろほろと降る白い雪は、あの人を思い出させる。
頬に触れた、淡い光と淡い温もりを。
こんな日には、図書館を思い出す。
深い色のカーテンと、たっぷりの綿のソファに暖かいブランケット。
ニカの淹れてくれるとっても甘いアレクシス様仕様のココアと、焚かれた火鉢のお蔭で一層色濃くただよう古書の匂いを。
だけどそれがもうとんでもなく昔の事のようでもあり、そしてまた昨日の事のようでもあり。
パタン、と閉じた青い表紙の本に、エイネシアはおもむろに、その表紙のロマンティックな精霊の姿を指先で撫でた。
フェアリーブランの物語――。
少女の作るお菓子の匂いに誘われて、いつしか少女の周りをふわふわと漂うようになった小さな精霊、ブラン。
はやくその美味しい匂いを嗅ぎたくて、オーブンの火を勢いづかせてケーキを丸コゲにしたり、竈の火を燃え上がらせて火事を起こしかけたり大騒ぎ。それはいつも“精霊の悪戯”と呼ばれて、この世界に満ち溢れている摩訶不思議。
やがて少女はブランに気が付き、そんなにお菓子が気になるなら、一緒に作りましょうよと持ちかける。
『だからケーキが美味しくなるよう、私に貴方の力を貸して』
『いいとも。でも僕にはちっともわからないから、ちゃんと教えておくれよ』
そうやって二人は言葉を交わしながら、時には意思疎通がうまくいかず、何度も失敗をしながら最後に美味しいケーキを焼く。
それが、人間と精霊の原初の契約。人間と精霊魔法の在り方だ、と。この本はそれを説いている。
では問いたい。
私と契約してくれた氷の精霊よ。
貴方はどうして私のところへ来たのかしら。
私の何が気に入って、力を貸してくれたのかしら。
上に向けた掌に、ピシピシ、ピシ、と、氷のオブジェがせせりたつ。
やがて形作られた氷は、この部屋の火鉢の熱に溶かされて、タラリタラリとエイネシアの掌を零れ落ち、水たまりを残すことも無く霧散してゆく。
こうして目を楽しませてくれる精霊は。
何を思ってこの力を、与えたのだろう。
魔法とは奇跡。
精霊はいつも私達を楽しませ、豊かにしてくれる。
そう説く青い表紙の本を見て。
やがてそれを机の隅に詰み上がった本の上に退けると、今度は別の分厚い論文集を手に取り、紙面をめくる。
いつの間にか、積み上げた本はかつてあの人が読んでいたものばかりになっていることに気が付いていた。
でもそれに素知らぬふりをしながら。
その人の跡を辿っていることに、見て見ぬふりをしながら。
そしてやがて雪は融け。
春、四月――。
ついにエイネシアは、その最悪の舞台へとその身を投じる。
今までの生涯で、きっと一番長く王子と過ごし。
そして一番辛い、出来事の待ち構える。
最後の二年間――。
エイネシア・フィオレ・アーデルハイドはその日、王立エデルニア学院の門をくぐった。