2-3 完璧な許嫁
「どうしてあのようなことをなさったのですか?」
平素から無口すぎると叱り飛ばすことが多いくらいの幼馴染の無駄口に、胸ポケットから抜き取った薔薇の花を、ぐしゃりと握りつぶすことで答える。
その薔薇を見やるアルフォンスの眼差しが、気に入らない。
だがそれと同じくらいに、自分の中のこのままならない感情が気に入らなくて、そのまま薔薇の花をうち捨てた。
追い打ちをかけるようにして、投げ捨てた薔薇を律儀に拾う侍女のアマリアの行動がむしゃくしゃする。
「捨てておけ」
そう吐き捨てたところで、ゆっくりと腰を起こしたアマリアの眼差しが、非難に満ち満ちて感じられた。
「お言葉ですが殿下。この部屋のカーペットは、大変に高価なものでございます」
だがどうしたことか、アマリアが口にしたのはそんな言葉で、思わず、は? と顔を上げたヴィンセントに、彼女は少しの遠慮もなく、盛大なため息をこぼして見せた。
「放っておけというのであればそのように致しますが、このまま枯れて腐ってカーペットに染みが残っても殿下の自業自得ということになります。それでもよろしいでしょうか?」
「もういい! お前は下がっていろ!」
小さな頃から側近――“影”という、裏方の仕事をも任せうる存在として、最も近い場所においてきた女だ。過ぎる口も慎むということを知らなくて困る。それでいてこちらも、彼女にはいささか後ろめたい事情もあって、傍から完全に外すということもできない。
本当に厄介な女だ。
「はぁ……ご自分ではまともにお着替えもできないくせに」
「ッ……」
ましてやそんなことを言いながら、礼もなしに部屋を出ていく後ろ姿は、憎たらしいことこの上ない。
流石のアルフォンスも困った顔で、言葉をなくした。
最悪の気分だ。
着替えくらい、一人でできる。
もう子供ではないのだから。
「それで。殿下は何故、姫にばかり厳しくなさるんです?」
ベルトから抜いた儀仗用の剣をすかさず受け取ったアルフォンスを、チラと見やる。
まぁ……このくらいの手伝い、他人に着替えを手伝わせている範疇には入らないか……。
「まだその話を続けるつもりか」
「先ほどの一件。姫に非がなかったことは、お分かりでしたでしょう」
「……」
わかっている。わかっているとも。
エイネシア・フィオレ・アーデルハイド。
まるで非の打ちどころのない完璧な彼女は、何も間違ってなんていやしない。
間違えるはずがないのだ。
初めて彼女と引き合わされた時、そのただ立っているだけの姿に見惚れ、足がすくんだ。
目を引く長い白金の髪。分厚い氷におおわれているという最北の地の氷山のように、何もかも見通すかのような薄紫の瞳。
自分はそれに、美しいというよりも、怖い、という感想を抱いた。
わずか八歳という年で、少しの体幹も乱すことなく腰を落とした完璧な拝礼。
よどむことなくスラスラと子供には難解な言葉を綴る、柔らかで涼やかな声色。
何憂うことなく名家に生まれ、何憂うことなく“厳しく”育てられた、本物のお姫様。
自分とは何もかも違う、“完璧”な少女だった。
そしてその“完璧さ”に、この世で最も手の届かぬ女性――“エルヴィア”の面影を見た。
ヴィンセントは、最初から城の中で、王子として育てられたわけではない。
父が王太子という地位にあったとしても、原則として一夫一妻制であるこの国において、側室などというものは公には認められていない。
そんな中、ろくな官職も持たない、しがないいち伯爵家で生まれたのがヴィンセントだった。
そのことに当時の国王であった女王陛下はひどく怒り、我が子を叱責した。
産まれた子供は、身内の拒絶により、王宮に出入りすることどころか父に会うことさえ許されなかったのだ。
ヴィンセントはまだ小さくて、何一つ難しい政治や情勢の事なんてわからなかったけれど、自分が“生まれてはならなかった子”なのだということだけは、理解していた。
長い間、父を知らず、母と、母の兄の手で育てられた。
『貴方は王子なのよ』『貴方だけが王になれるの』と言われ続け、伯爵家の窓から、いつも遠くの王宮の外壁を眺めていた。
そしてついに七歳となり大神殿で洗礼を受けた際、王家の子しか契約できないと言われている光の精霊との契約を結んだ。これが、大きな転機となった。
周りの神官たちの大仰なほどの祝福の言葉を浴び、王家からの検分がやって来て、彼らが目の前に恭しく膝をついた時……生まれて初めて、自分が本当に王家の子であったことを確信した。
そしてこれが女王陛下をも折れさせ、ヴィンセントはようやく宮中に引き取られたのだ。
だがそこは決して、夢のような場所ではなかった――。
『よく来てくれた、ヴィンセント。かしこまる必要はない。もっとこっちに来なさい』
そう朗らかに迎えてくれた父は、遠慮がちな息子をその腕に抱えて、膝の上に座らせてくれた。
よく事情は分からなかったけれど、どうやらこれからは家族皆で過ごせるらしい。
そんな思いに、つい顔をほころばせて、きょろきょろと、その見事な王家の居室を見渡した。
そこで初めて……父の傍らに座る女性を見た。
美しい人だった――。
白金の長い髪と、どこまでも底が見えない、まるで宝石のような紫の瞳。
ほっそりとした体躯を、母とは正反対のシンプルなドレスに包んで座るその姿は、まるで女神様か何かのようだった。
長い睫毛におおわれた神秘な瞳が、物憂げに見やる視線の一つ一つ。
薄紅色の唇から零れ落ちる、醜さのかけらもない清廉とした言葉の数々。
白い指先が無骨な父の手に誘われるように導かれて、憂鬱気に席を立った後ろ姿。
そのすべてが、まるでこの世のものではないかのように、少年の目を瞬かせた。
一体どんな人なのだろう。
もしかして、自分の親戚なのだろうか。
本物の王家の姫君というのは、あんなにも美しいのだ。
自分には、あの人と同じ血が流れているのだ――。
そうほくほくとして周りに聞いて回った王子様に、しかし皆は怪訝な顔をして口を噤んだ。
それが、自分の血筋とはまるで関係がない、公爵家の姫君で。
父の“妻”なのだと知ったのは、それから間もない頃の事だった。
『良いこと、ヴィンセント。貴方は王太子の子。この国の王位を継ぐのは、貴方です』
子守唄のように、毎晩聞かされた母の言葉。
『あの女がいる限り、貴方には苦労をかけるでしょう。けれど私は絶対に負けません。だから貴方もどうか、負けないで。必ず、王となって……私を、この国の母にして頂戴』
涙ながらにそう訴える母に、そうか、あの氷のように美しかった女性は、女神じゃない。魔女なのだ、と。そんなことを思った。
ただの子供のたわごとだ。
今になってみれば、両親の関係も、エルヴィア妃が何故父の正妻なのかも、それを取り巻く情勢だって合理的に理解ができる。
だがそれでもどうしても拭い去れない感情が、この胸の奥底にある。
『申し訳、ありませんでした――』
深く深く頭を下げる許嫁の姿を見るたびに、ずきりずきりと胸が疼いた。
歓喜とも後悔とも言えない、複雑な感情だ。
エイネシア――母を苦しめるあの女の血を引く、最初から何もかも持って生まれたお姫様。まるで息をするかのように貪欲に学び、まるで息をするかのようにヴィンセントを立ててくる、少しの非の打ちどころもない婚約者。
心根がまっすぐで、状況にも聡く、ヴィンセントのために沢山の“耐え”を負わねばならないにもかかわらず、だがそれでいてヴィンセントのように卑屈になることは微塵もなく、生まれながらにそうであるかのように気高い。
だから彼女が完璧であればあるほどに、ヴィンセントは焦りを覚えた。
“自分”が、王位を継ぐべき子なのではない。
“彼女”が王となるために、自分がいるのではないか。
「エイネシア姫は、落ち込んでおいででしたよ」
追い打ちをかけるようなアルフォンスの言葉に、腹立たしげに脱いだ上着をその頭に引っ掛ける。
それを文句も言わずに受け取って、てきぱきとハンガーにかけるこいつもまた騎士の鑑のような男だが、それでも彼にこんな醜い感情を抱いたことはない。
エイネシアだけなのだ――。
「もうその話はいいだろう。アンに無礼を働いていたのがあの令嬢とやらの方だったことも、エイネシアに非がないことも、分かっている」
「ではどうして姫を叱責なさるような真似を?」
「私が怒っているのは、大事な夜会の最中にエイネシアが席を中座して、私や母に恥をかかせようとしたことについてだ」
「恥などかいてないではありませんか」
ハァ、とため息を吐くアルフォンスに、今度はベルトを投げつけてやる。
それを少しの迷いもなく受け止める身体能力が腹立たしい。
「だが中座はしただろう。私の母を侮るとも見られかねない行動だ」
「姫は大変にしっかりしておいでですが、恐れながら、まだ十四です。武芸の訓練を受けている貴方や私と違って、何時間も立ちっぱなしではお体も辛かったでしょう。ましてやこの難しい情勢柄、いつも以上に気を張っていたはず。その心労を考えれば、少しくらいの休憩が何です」
お分かりでしょう、と、いつも以上に口うるさいアルフォンスに、一つ眉をしかめた。
今日は本当に無駄口が多い。一体どういうつもりなのか。
「休憩などしていなかったではないか。いらぬ揉め事なんぞ引き起こしてっ」
「揉め事を起こしたのは姫ではなく、迷い込んだとかいう令嬢の方では」
「穏便に済ませる方法もあった!」
「我々があの場に顔を出さなければ、穏便に済んでいたかもしれません」
「いい加減にしろ、アルフォンス!」
あぁいえばこういう幼馴染に、いい加減に腹が立って名を呼んだところで、さすがにスッと目礼したアルフォンスが、一歩引き下がった。
だがその冷静な対応が、さらにヴィンセントの胸の内をかき乱すかのようだった。
「……わかっている。私の態度が大人げなかったことくらい」
わかっている……腹が立っているのは、本当はエイネシアの中座に対してなんかじゃない。
彼女が自分に面倒をかけないよう、ひそかに席を外そうとしたこと。
彼女を疲弊させた視線と重責のすべてが、自分の許嫁であるせいだということ。
彼女を取り巻くそれらのすべてに、許嫁でありながら何ら退けてやることさえできない、惨めな自分のこと。
私は彼女をなんら支えてはやれない。
むしろ私が、彼女の立場に支えられている。
そう、彼女のせいで、自分がどんどんと卑屈になってゆくこと。
「あれは八つ当たりだッ。何一つしてやれず、何一つ頼りさえしないアイツへのッ……身勝手な……」
「……殿下」
クソ、とむしり取ったシャツのボタンが、コロンコロンと転がってゆく。
このままにしていたら、きっとまたアマリアがうるさく言うのだろう。
でもそれを拾うことさえ億劫で、むしゃくしゃとしてやるせない。
そうと知ってか――音もなく身をかがめてゆっくりとボタンを拾い上げたアルフォンスが、ただそっと、机の上にボタンを置いた。
「申し訳ありません、殿下……お心の内も察せず、過ぎたことを申しました」
わかっている。こいつは何も悪くない。
至極真っ当なことしか、言っていない。
そんなんことは、わかっている、が。
「ただ殿下――その“八つ当たり”は、貴方だけじゃない。彼女をも追い詰めますよ?」
わかっている。
彼女はどこまでも完璧だ。
たとえ理不尽な八つ当たりをされても、決して私を責めはしないし、追い詰めもしない。
何も悪くなくても、きっと自分ばかりを追い詰める。
それを知っているから、こうも私は惨めな思いばかりを重ねて。
このむしゃくしゃした思いを、また八つ当たりして、彼女を追い詰める。
彼女の笑みに、愛おしさという素直な感情を抱いたこともあった。
彼女の努力に、それでこそ王家の妃だ、と嬉しく思うこともあった。
でもそれが積み重なればなるほどに、恐ろしくもなった。
そんな彼女に裏切られない確証がどこにある?
彼女はアーデルハイドだ。
まごうことなく、何もかも、その一挙手一投足、視線の一つ、指先の動き一つ、言葉の端々に至るまで、完璧なアーデルハイドなのだ。
エイネシアなんかじゃない。
ヴィンセントを王太子でいさせるための、ただただどこまでも完璧なお姫様。
そんな彼女に見合う人物でなければならないことに、息がつまる。
「私には、エイネシアの本心が分からない――」
「わからないも何も……貴方の目の前にある姿が、そのまま、エイネシア姫です」
さも当然のように言うアルフォンスの言葉が、右から左へと通り抜けて行く。
そうだろう。あぁ、そうだろうとも。
お前もまた、何憂うことなく騎士の家系に生まれ、騎士となるべく育てられた権門の生まれ。
何の迷いを抱くこともなくレールに乗った、“持って生まれた”者。
そうではない私には、分からない。
どうせ分からないのだ。
彼女の謝罪を見るたびに安堵する。
己に首を垂れるその脅えた顔に、安堵する。
彼女が私を見捨てていないことに、安堵する。
そうでなければ不安だから、彼女を突き放して詫びを請わせる。
こんなにも歪なことをしていないと、安心できない。
だれか――このがんじがらめの醜い感情を、解き放ってはくれないか――。
私を安心させてくれる、愚かな女は、いないのか――。
「殿下は少し、お疲れのようです……」
「……あぁ。あぁ……そうだな」
「学院は良い機会です。王宮から距離を置けば、また、あの頃のように……イリア離宮での日々のように、姫とも接せるようになりましょう」
「……」
「何のしがらみもない森の離宮で過ごしたあの愛おしい日々を、お忘れですか?」
「いいや、忘れていない。忘れるものか……」
「あれもまた、貴方方の事実です」
「……あぁ……」
そうだ。
そうだな。
そうだと、いい――。
それが叶うなら。
それがいい――。