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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第二章 エデルニアの雪融け
25/192

2-2 パーティー(3)


「アン王女!」


 気が付いた時にはもう、あっ、と地面を蹴っていて、抱き留めるようにして腕の中にアンナマリアの体を引き寄せる。

 けれどそのバランスは酷く危うくて、転ぶ、と分かった瞬間、ぎゅっとアンナマリアを抱きしめながら、衝撃に備えた。

 けれどその衝撃は、ガシッッとつかみとめられた肩の痛みにだけ集約されて、ゆっくりと勢いを失った体は忽ちお腹を引き寄せられたことで思いとどまってくれた。

 その思いがけない出来事に、ドキン、ドキンッと心臓が暴れる。

 転ぶかと思った……。

 でも、誰が、と振り返ったところで、焦った顔をしているアルフォンスの姿が目に入りはっとする。

「あ……アル……」

「危機一髪……でしたね」

 そう、ほうぅぅ、と、安堵の長いため息をついたアルフォンスの乱れた髪に、彼が息を乱すほど急いで助けの手を差し伸べてくれたことに気が付いた。

「咄嗟のことゆえ、ご無礼をいたしました。大丈夫でしたか?」

「ええ……心臓……以外は」

 思わず、バクバクとしている心臓を抑えてそう言うと、ふっ、アルフォンスが僅かに顔をほころばせた。

 怪我がないと判断して、安堵したのかもしれない。

 それからすぐにエイネシアが庇った少女を見やると、すぐにそれがアンナマリア王女であったことに気が付き、ハッと顔色を引き締めた。

「これは……大変失礼をいたしました、王女殿下。殿下も、お怪我はございませんか?」

 そう深く頭を下げるアルフォンスに、エイネシアと同じようにバクバクした心臓を抑えて深呼吸していたアンナマリアが、「ええ、大丈夫。顔をあげて、アルフォンス」と促した。

「助けてくださって有難う。それに……」

 エイネシア様も、と、その目がエイネシアを向いたところで、「うっ……」と何やら呻き声がして、三人の視線がアンナマリアの後ろ……何故か地面に倒れ込んでいる、アイラ・キャロラインを見た。

 いや。これは……もしかしなくても、エイネシアがアンナマリアを引っ張ったせいで、バランスを崩して倒れてしまった……、という演技だろうか。

 騎士なアルフォンス様はどうやら、わざとらしいとはいえ膝を抱えているアイラを放っておくなんてできないようで、すぐにそちらに歩み寄って片膝をつくと、「大丈夫ですか?」と声をかけた。

 それを待っていたかのようにパッと顔をあげたアイラが、アルフォンスを見た瞬間。ふわっ、と、その頬を赤く染める。

 気持ちはわからないでもないが、なんて単純な子なんだろう。

 そしてそこには更なる爆弾……ヴィンセント様が投下された。

 アルフォンスがやって来たであろう舞踏館側のアーチから、ゆったりと歩み寄ってくる王子様。

 あっ、と緊張に身を固めたエイネシアをチラリと見た視線はすぐに逸らされ、さっと控えて場所を譲ったアルフォンスに、ヴィンセントがしゃがみこんだ少女を見下ろす。

「何があった。怪我をしたのか?」

 差しのべられた手に。見る見る真ん丸に見開かれてゆくアイラの目。

 そのキラキラと大きな瞳と、ふわっとさらに赤くなった頬。それにモジッと恥ずかしがるように僅かに身じろいだその行為がいじらしく見えて、エイネシアはドキリと胸をつかまれる思いがした。

 嫌だ。やめてほしい。

 そんな目で王子を見ないで。

 そんな顔で王子に会わないで。

 その手に。

 触らないで、と。

 そうのた打ち回りそうな感情が、胸の下で暴れ出す。

「だ、大丈夫です。少し……“エイネシア様に突き飛ばされただけ”です」

 その瞬間。見る見るエイネシアの頭は真っ白になり、座り込むアイラを愕然と見やった。

 その顔で。この状況で。なんて自然に人を貶めるのか。

「突き飛ばされた?」

 チラ、とエイネシアを見たヴィンセントの眼差しに息をのむ。

 違う。そうじゃない。そうじゃないと言いたいのに、蛇に睨まれたように言葉が詰まる。

「アン。怪我は?」

 それからチラリとそこに立つ妹に気が付いたヴィンセントが声をかけるが、はっとしたアンナマリアはすぐに首を横にブンブンとふって、それから困ったようにエイネシアを見た。

 どうするの? と。そう言っているような眼差し。

 でもどうするも何も、頭は真っ白で。ちっとも言葉なんて思い浮かばない。

「立てるか? 無理ならそこに座りなさい。すぐに薬室の者を呼ぶ」

 痺れを切らせてエイネシアから視線を外したヴィンセントが、そうアイラの手を取って引っ張り上げる。

 その強い力にフワリと体を浮かせたアイラは、「あっ!」とわざとらしく体を傾けさせて、ヴィンセントの腕の中へとしなだれ込んだ。

 とたんに爆発した感情が、強引にヴィンセントからアイラを引き剥がすべくエイネシアの体を突き動かしたけれど、しかしそれよりも早く、ガバっ!! と二人の間を引き剥がしたのは、あろうことか、アンナマリアだった。

 その行動が、今にも衝動に突き動かされてそうだったエイネシアを一気に冷静に引き戻す。

「……アン。何だ……」

 アンナマリアはビックリしているアイラに見たこともないきつい視線を投げつけたかと思うと、次いでキキッ、と、しかめ面のヴィンセントを睨みつけた。

「お兄様はがさつなのです! 怪我をしているかもしれない子に、危ないではありませんか」

 そう真っ当なことを言いながら引き剥がした放り出したアンナマリアに、ポカンと呆気にとられていたアイラは顔色を引き締め、「ま、まぁ、私ッたら!」と、白々しいことを言って頬に手を当て恥ずかしがって見せた。

 だがさほど興味を示した様子のないヴィンセントは、一つため息を溢すと、「それで」と改めてさめざめとした眼差しでエイネシアを見やる。

 何故……何故この人はいつも、私にだけはそのような眼差しをなさるのか。

 そのことにギリリと下唇を噛み締めたところで、「誤解です」と口を挟んだのはアルフォンスだった。

「アル。誤解とは?」

「事情は存じませんが、私が先んじて駆けこんだ時には皆揃って倒れそうになっておりました。エイネシア姫は王女殿下を助けようと手を差し伸べておられて、急ぎ駆けつけた私が咄嗟に姫の肩を掴んでお引き止めを。姫が抱き留めておいでだった王女殿下を一緒にお助けすることができたのは幸いでしたが、もう一人のそちらの令嬢には手が足りず……」

 チラとエイネシアを見やった同意を求める視線には、すぐにでも頷きたかったが、未だに声が上手く出なかった。

 そうだ、と言って……それでこの人が信じてくれるとは、限らないじゃないか……。

「いえ、違います! 私、エイネシア様が強引にアン王女を引っ張ろうとしているのを見かけて、アン王女をお助けしようと思ってお手を取って走り出そうとしたところを、エイネシア様が王女の手を引っ張って私をお付き飛ばしになったから!」

「違うわ」

 同情を誘うようなアイラの声を、一刀両断のもとに遮断した鋭い声色に、ぎょっっ、と、誰もの目がその声の主、アンナマリアを見た。

 彼女のそんな吐き捨てるような声を聞いたのは皆初めてで、いつも言葉少なでおっとりとした彼女からは想像もできないような、覇気のある声だった。

 そしてそのたった一言が、見る見るアイラの顔を青ざめさせてゆく。

「アン。違うとは?」

「エイネシア様は私に失礼を働いたそちらの方をご指導くださっただけよ。それなのに私を楯にして逃げ回るものだから、エイネシア様も困っておられたところ、そちらの方に突然腕をつかまれて引っ張られましたの」

「腕をつかまれた?」

 それだと不敬罪になる、と目を細めたヴィンセントに、「ち、違います!」と、アイラが声をあげる。

「アン王女はエイネシア様に脅されていらっしゃるの! いう事を聞かなければヴィンセント王子に言いつけるからとっ」

 あぁ。言葉を間違えたな、と、エイネシアはか細い息を吐いた。

 残念ながら、エイネシアはヴィンセントに対してそんなことをしない。するはずがないことを、ヴィンセントは誰よりもよく知っている。悲しくも、二人の間にそんな“私情”は存在しないのだ。

 だからアイラの言い分に嘘があるのを見て取ったであろうヴィンセントは、一つ瞼をおろし、「話は分かった」とだけ呟いた。

 そうだ。それで早く。どうか早く、その子をこの場から追い出してほしい。

 そう切に願っていたら。

「エイネシア」

 まさかの名前を呼ばれたのが自分であったことに、驚いて顔を跳ね上げる。

「もう二度と宮中で揉め事は起こさない、と……そう、反省していたものだと思っていた」

 ツキンッと弾んだ心臓が、痛いくらいに高鳴りだした。

 なんだ……なんなのだ、これは。

「君の正論が、他人に誤解を与えていらぬ揉め事を起こす。充分に理解したものだと思っていたが、私の勘違いだったらしい」

 見る見る顔が青ざめた。

 なんてことだろう。くしくもこの場所はあの日、『正論を控えろ』と咎められ、『でしゃばるな』と釘を刺されたエイネシアが逃げ込んで、涙を隠した場所なのだ。

 だから嫌なくらいまじまじと思い出せる。

 あの時に感じた言いようのない恐怖。

 “もういらない”“お前が悪い”と言われるのではという不安。

 イリア離宮で過ごす穏やかな幼馴染の顔とは真逆のように打って変わった、冷たい、義務と責務とで彩られた誹謗の眼差し――。

「驕ったな――」

 スッ、と差しのべられた手が、甘く頬をなぞることはない。

 視線を。頬を通り過ぎ。おもむろに髪に触れた指先が、まるで毒針のようにエイネシアを凍りつかせる。

 その指先は決して傷ついたエイネシアを慰めることなどない。

 ただ髪にあしらわれた薔薇を奪い取り、それをあっというまにぐしゃぐしゃに握りつぶし、その場に打ち捨ててしまった。

 はらり……はらり、と、投げ出されてゆくピンクの花びら。

 ポタリとおちた、つぶれた花芯。

 その無残に投げ捨てられた様子を、熱も失い真っ青に冷めあがった顔で、見つめた。

 “お前にその資格はない――”

 そういわれたような衝撃に、ひゅぅ、ひゅっ、と呼吸がかすむ。

 怖い。ただただひたすらに、怖い――。

 この人に、いらないといわれることが。

 何の価値もないと思われることが、息の仕方も忘れるほどに。

「お兄様!」

 ただアンナマリアがそう声を張り上げたことが救いだったけれど、それさえも青ざめたエイネシアの心を温めることはできず、エイネシアはただただぎゅうっと胸元を握りしめながら、「申し訳ありま、せんッ、殿下……」と、途絶え途絶えの謝罪の言葉だけを溢させた。

 その視線の先で。

 クス、と口元を緩めたアイラに、ぐっ、と爪が食い込むほどに拳を握る。

「それから君」

「アイラと申しますわ!」

 そうパッと顔を輝かせて言うアイラに、僅かばかりにヴィンセントは目を細めると、一度口を噤んでから、それに受け答えするわけでもなく再び開く。

「ここは先の女王陛下の禁苑だ」

「きんえ……え? 何?」

「禁苑。許可なき者は立ち入ってはならない花園だ」

 わざわざお優しい言葉で噛み砕いて説明なさったヴィンセントに、「まぁ!」と声をあげたアイラが、「私ったら、そうと知らずに迷い込んでしまって」とオロオロとして見せる。

 いや。三年前も、彼女はここに来た。一度目は厳重注意で済んだとしても、二度目はないのが普通だが、それさえも彼女はしれっと偽りの言葉ではぐらかすつもりなのか。そこにエイネシアという証言者がいることも気に留めず。エイネシアにはその価値もないと……そう、思っているのだろうか。

 どうせエイネシアの言葉なんて、ヴィンセントは信じないから、と――。

「だって、とても素敵な花園だったんですもの……」

 その言葉は確か、ゲームでのアイラの言葉だ。

 彼女の無邪気に花を愛でる姿は、よくこの庭で見かけるにもかかわらず、無表情に、何の関心も見せず佇むエイネシアの姿と対比されて、ヴィンセントの興味を引く。そしてその可憐な少女の髪に摘み取った薔薇を添えて、『こちらの方がもっといい』と、うっとりとした笑顔を浮かべるのだ。

 エイネシアには到底そんな光景が我慢出来ようはずもなく、せめて目にしなくていいようにと、堅く、堅く目を閉ざしたけれど。

「そうであっても禁苑への立ち入りは本来、極刑にも準じる重罪だ。アル。すぐに彼女を外へ。近衛に事情を話して、今回は保護者への厳重注意に留めることを伝えろ」

 その思いがけない真っ当な指示に、エイネシアも思わず驚いて顔をあげる。

 何故だろう? ゲームと、違う?

 そこには同じくキョトンとしているアイラの顔があって、エイネシアと目が合うなり、ギッッ、と、きつく睨まれた。

 いいや、違う。エイネシアは何もしてない。

 睨まれる筋合いいなんてない。

 それにそもそも……そのくらいのことが、何だというのだろうか。

 「さぁこちらへ」と促すアルフォンスの丁寧な態度に促され、大した咎めも与えられず。だというのに残された自分は、今なおそこで笑みの一つも浮かべない冷めた面差しのヴィンセントに、視線の一つもあわせてもらえない。

「アン。お前はもう自分の宮に戻れ」

 チラチラと何度もヴィンセントを気にするアイラが、何とかようやくアルフォンスに連れられてアーチの向こうへと消えた頃、そう言い出したヴィンセントに、「でも!」とアンナマリアがエイネシアを見た。

「いいから戻りなさい」

 その有無を言わさない声色に、一つ黙りこくって。今しばらく躊躇う様子を見せたけれど、どんな言葉をかけていいのかわからずに口を噤んだアンナマリアは、仕方なさそうに息を吐いて、兄王太子への礼を取った。

「では……お先に失礼します。お兄様。くれぐれも、エイネシア様に酷く当たったりしないで。私を助けてくれたの」

「分かっている。早く行け」

 そう言われて信じたのか信じていないのかは分からないが、アンナマリアもそれ以上立ちすくんでいるわけにはいかず、チラ、チラ、とエイネシアを気にしながら、会場とは逆の方向へと去って行った。


 そうして二人。取り残された、気まずい空気。

「会場に戻る。着いてきなさい」

 最初にかけられた言葉が、叱責でなかった事に安堵した。

 けれど歩き出したヴィンセントは、会場に戻ると言いながらもいつものようにエスコートの手を伸ばしてはくれず、その事実が、エイネシアを愕然とさせた。

 いつも……義務だ責務だとわかっていながらも、差しのべられる手に安堵してきた。

 だが、その手が差し伸べられない。その事実に、彼の怒りが凝縮されている。

「母上に退席の挨拶をするのに、君がいなくてどうする。まさかわざとこのまま退席するつもりだったわけではないだろうな」

 ドキリと跳ね上がった心臓を掌で押さえつけ、「勿論です」と声を絞り出す。

 いっそこのまま、なんていう気持ちがあったのは確かだ。だがそれでは駄目であることも分かっていて、ちゃんと息を抜いたら戻るつもりだった。

 けれどそんな予定など関係ない。今実際この場所でエイネシアが“側妃フレデリカ”の催した宴を抜け出し時間を紛らわせていたことは、ヴィンセントにとっての事実なのだ。下手をすれば、エイネシアが主催者であるフレデリカ側妃を侮って起こした行動ともとられかねない。

 それだけでもどれ程の怒りを買っているか。

 それが、差しのべられない手のすべてに集約されている。

 だから彼は、エイネシアの薔薇を打ち捨てたのだ――。

「長く座を開けていたなどと知れては不味い。早くしろ」

 そう颯爽と歩いてゆくその背中が、とんでもなく遠い。

 何とか足を踏み出してみたところで、距離とは裏腹に、なにか恐ろしい隔たりができていくかのようで恐ろしい。

 追いかけたいのに、何かが絡みついたように体が重たく、前に進めない。

 その遅い歩みに痺れを切らせたような冷たい眼差しに、慌てて足をもつれさせながらヴィンセントを追いかけたが、それでもまるで距離が詰まっている気がしなかった。

 女王の庭の終わりに差し掛かる頃になって、視線だけで自分の腕を指したヴィンセントの存在が、まるで今までとは別人のように異質なものに感じられる。

「何をしている、エイネシア」

 だがその咎めの言葉が、ほとんど反射的にエイネシアを突き動かして、あわててその腕に手を絡ませた。

「最後まで気を抜くな」

 そう囁くヴィンセントに、微塵もそんな気にはなれないにもかかわらず、ひくり、ひくりと、ひきつるようにして、その顔に()()を張り付けて行く。


 冷たく絡んだ手。

 重たい枷を引きずるかのように、ジリジリとしびれる足。

 気持ち悪いほど万全の笑みの下に、すべての恐怖と不安を押し殺し、さも少し抜け出してヴィンセントと逢瀬ていたかのごとくはにかみながら、会場に戻る。

 その二人の様子に疑いを抱く者など一人もおらず、「まぁ、どちらにお隠れでしたの?」「お二人で何をお話なされていたの?」と俄かに冷やかす声に「秘密です」などと上っ面の言葉で受け流し、何事も無かったかのように上座へ向かう。

 睦まじい様子の二人に満足そうにするフレデリカ妃に、揃って、「そろそろ退出を」とのご挨拶をして、「楽しんでもらえたかしら」というフレデリカに、「えぇとても」と偽りの言葉で受け応える。

 そうして最後まで睦まじく会場を出たところで、スルリとほどけたヴィンセントの腕が、エイネシアの胸にどうしようもない虚無を植え付けた。

 ふわり、ふわりと支えを失った腕が、頼りなく宙をさまよった。

 触れられない。

 触れることを許されない。

 明確な拒絶が、このわずか数歩の距離の間に築かれている。


「姉上! 心配しましたよ。なかなか戻って見えないので」

 その切ないほどの虚しさに、ポツンと小さな灯火を与えてくれたのは、脇目も振らずに駆け寄ってくれた弟の存在だった。

「エドワード……」

 エイネシアを見て、ほっと安堵の吐息をこぼしたその顔が、わずかにエイネシアを我に返らせる。

「ごめんなさい。お庭で王女様にお会いして、話しこんでしまったの」

 そう誤魔化したエイネシアに、ヴィンセントは何も真実を口にすることは無く、黙秘を貫いた。

 そんな王子に、「ご迷惑をおかけいたしました」と恭しく頭を下げる。

「アンには私から言い聞かせる。今後はくれぐれも軽挙を慎むように」

「はい……」

 しおらしくゆっくりと礼を尽くして下げた頭に、ジィッ、と、静かな視線が投げかけられた。

 なかなか、もういい、と、頭を上げることを許してくれないその人に、また俄かに体が凍えた。


 この冷たい仕打ちは、自分のせいなのだろうか。

 それとも、アイラと出会ってしまったから……?


「……ヴィン……」

「三度目はない」

 厳しい言葉を残して踵を返したヴィンセントの後ろ姿に、再びびくんっ、と怯えたように肩が弾んだ。

 いつまでも、顔を上げろとの言葉はなく。エイネシアが馬車に乗り込むのをいつものように見送ってくれることもなく、ただ去ってゆく後ろ姿を見送ることさえも許されない。

 このまま自分も……あの打ち捨てられた薔薇のように、地に落ち踏みつぶされて消えるのだろうか。


 恐怖のままに、硬く拳を握っていつまでもそのまま硬直した体と。

 やがて、「姉上――」とやんわりと背を押し出した優しい手に、はっとして顔をあげた。

 いつのまにか、もうそこにヴィンセントの姿は欠片もなくて。

 ただぎゅっとエイネシアの手を包み込んだ、いつの間にか大きくなってしまったエドワードの手が、ゆっくりと、その固く閉ざされた指先を一つ一つ、解きほどいて、自分の手に絡ませた。


「すっかりと疲れてしまいましたね。早く“うち”に帰りましょう」


 切なげな眼差しと。そっと微笑んでくれた口元と。

 エイネシアとお揃いの泣き黒子をくしゃりと歪めて背を押すエドワードが。

 そのエスコートの指先が、どうしようもなく優しくて。

 今にも零れ落ちそうな涙を飲み込み、唇を引き結んだ。


 早く。そうだ。はやく、ウチに。

 あの家に、帰ろう。


 その帰路、弟は何も言わず、ただエイネシアの傍らに座って。

 ただただ、そこにいてくれた。



 それはなんだか……少しあの、“過去の人”を思い出させて。

 でももう決して与えられないあの大きな掌を思い出して。


 窓の外の満月に、エイネシアの心はまた再び、ポッカリと夜空に浮かぶその月のようにと、静けさを取り戻してゆく。






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