2-2 パーティー(2)
そうやって人目を忍んで歩いていると、なんだかまるで二年前のあの日のようで。
思い出の場所……女王の庭への入り口が目に入ったところで、流石に慌てて引き返そうとしたのだけれど、間もなく背後で十代後半と思しき青年集団がガヤガヤと庭へ降りてきて、更にエイネシアの後姿に「おいあれ……」と囁くのを耳にした瞬間、ココで踵を返して彼らの相手をする方が億劫に思え、気が付かぬふりをして庭への扉へと近づいた。
相変わらず律儀に立つ近衛が、エイネシアの姿に庭への柵を開けてくれる。
そうして滞りなく庭へ足を踏み入れると、やはり何だか懐かしく、その外界から遮断された雰囲気がほっと吐息を零させた。
やはり久しぶりでも社交はしんどい。ずっと立っていたから、足も疲れた。少し座って、そしたらいっそこのままフェードアウトしてしまおうか、と、確かここからほど近かったはずの噴水の間を目指した。
あまりいい思い出のない場所だけれど、今はそれよりもどこかに座りたいという気持ちの方が先んじていて、何ならそこで少し休んでから、また移動すればいいと思う。
久しぶりに足を踏み入れた噴水の間は、昔とちっとも変っておらず。
だが思えば二年前よりもまだ日が高いのか。庭の様子がよく見えて、久しぶりにこの庭の美しさに見惚れた。
しかし数歩足を進めたところで、噴水の裏に人影があるのを見て驚きに肩を跳ね上げた。
きらりと光った金の髪。ゆるりと広がった薄いブルー。
もしかして、と逃げ出しそうになったのは一瞬で、すぐにそれが少女の後姿だと気が付くと、「あっ」と声を溢して足をとめる。
その声に気が付いたのか、はたと振り返ったブルーグリーンの瞳がエイネシアを見やった。
それは多分、ここにアレクシスやヴィンセントがいるという可能性の次に気まずい相手。あちらも同じ感想を抱いたようで、一度目を丸くしたその人物は、間も無くあからさまに困惑した様子で視線を逸らし、チラ、チラ、と逃げるタイミングを伺うようなそぶりを見せた。
アンナマリア王女――何故だか小さな頃からちっとも懐いてくれない、ヴィンセント王子の妹だ。
「……こ。こんばんは」
「こんばんは……アンナマリア王女。王女様も……」
王女様も“逃げ出してきたんですか”は違うだろう。“ご休憩ですか”にしては休憩場所が会場から遠すぎる。声を掛けようとして、いきなり出鼻をくじかれた。
だがその言葉の先は言わずと察してくれたようで、「ええ。エイネシア姫も」という可愛らしい声色が返ってきた。
返事があったことにも驚いてしまったのだが、それに頷いたところで、どちらとも話題を振ることができずに沈黙してしまった。
ご一緒しても……よいものだろうか。
ではと踵を返すのも変だし、逆にこれ以上奥へ行くのを見られるのも、今がまだパーティーの途中という事を考えれば憚られる。要するにこの場所くらいがちょうどいいのであって、そうと分かっている二人はどちらもここを去るタイミングがつかめず、黙りこくるしかなかったのだ。
何なら先んじてここで休んでいたらしいアンナマリアが、『では私はそろそろ』と会場に戻ってくれたらいいのだが、その気がまったくないらしいアンナマリアが動く気配はない。
「お座りに……なりますか?」
ただアンナマリアがそう意を決したように口を開いてくれたおかげで、なんとかこの無言地獄からは脱することが出来て、「宜しければ」と、アンナマリアから少し離れた場所に腰を下ろした。
そうすれば、ようやく腰を下ろせたことにほっと安堵する。もうくたくただったのだ。
とはいえ座ったところで、このまま無言で居続けるというのもどうなのだろうか。
すごく気まずいし、ちっとも休まらない。
折角の機会だから少し話をしてみようか、とアンナマリアを見てみたら、あちらもエイネシアを見ていたようで、バチリと目が合った瞬間、どちらともなく逸らしてしまった。
何をこんなにも緊張しているのだろうか。
目を背ける必要なんてちっともなかったのに。
だから一つ深呼吸をしながら、もう一度アンナマリアを見てみる。
今度はアンナマリアは下を向いていて、こちらを見ていなかった。
「王女様は、パーティーを抜け出してしまって良かったのですか?」
思い切って口を開いたところで、ピクリと肩を揺らしたアンナマリアがエイネシアをのぞき見る。
そして何を言うかと思えば。
「エイネシア様こそ」
そう返されては言葉が無くて、うっ、と詰まってしまった。
その様子を見たアンナマリアがふと首を傾けた。
「もしかして、お兄様にも何も言わずに出ていらしたのですか?」
ますます、うっ、と肩を跳ねあがらせたエイネシアに、「うそ」と呟くアンナマリアの言葉がどうにも腑に落ちず、アンナマリアを見る。
そんな彼女は何やら口元に手を当てて己の言葉に反省しているようだったが、だが反省していただくまでも無く、彼女が言う通りなのだ。
ヴィンセントに告げ口されたらどうしよう……。
「エイネシア様は、お兄様がお好きなのではないのですか?」
その確信の有るような物言いには、もれなくドキリとした。
そりゃあ……蔑ろにしたつもりはないが、取分けそんなそぶりを見せたことなんてなかった。エドワードやアルフォンスにはそれはもう、ばれているだろうとは思っていたけれど……あまり接点のなかったアンナマリアにまで言われるだなんて、もしかして自分は昔から案外顔に出ていたのだろうか。
そしてその問いに対して答えるべき答えもまた、とても難しかった。
王太子の許嫁としては、『勿論です』と答えるのが正解か。けれどアンナマリアのどこか懐かしいブルーグリーンの澄んだ瞳を前に、そんな取り繕った言葉を口にはできない。ましてや敏い彼女はきっとすぐにその上辺に気が付いて、この折角成り立っている会話をやめて再び黙りこくってしまいかねない。
でもだからと言って、『そんなことありません』とも言えないし、思ってもいない。
だからぎゅっと。膝の上で手のひらを握りしめて。
その冷たく汗ばむ緊張を、胸の内に押し込めながら。
「……お慕い、しています」
囁くようにこぼした声は、まるで千尋の谷を飛び下りんかというほどに緊張した。
たった一言。その事実を口にするだけなのに、心臓は痛いくらいに高鳴り、頬には血が上り、体は緊張に震える。
どうしてただ好きというだけの言葉が、こんなにも辛いのだろか。
こんなにも、身を引き裂くように痛いのだろうか。
その様子を見て取ったのか、暫し口を噤んだアンナマリアは、やがてとても静かに、「そう」、と呟いた。
それに驚いて顔をあげたところで、すでに彼女はあらぬ方向を見てのんびりと寛いでいて、エイネシアは言葉を失って困惑した。
そう、とは。どういう意味なのか。
今そこにいるその人の空気が少し和らいで感じるのは、気のせいなのか。
あぁ。今なら、どうして自分が避けられていたのか聞ける気がする。
でもどう聞いたらいいのだろう。
率直に『どうして私を避けるんですか?』は不躾だし、『私は昔何か失礼なことしたことがありますか?』だと、聞きたいことがはっきりとしない。
そう。例えば……『王女様は、私とお兄上のことをどう思っているのですか』なんて聞いたら……呆れた顔をされるだろうか。
そう、そわそわとしていたら、「流石にそろそろ戻らないと駄目ね。抜け出したのが見つかったら叱られるわ」とアンナマリアが立ち上がったため、声をかけそこなってしまった。
まだ来たばかりで、何ならもう少し休んでいたいくらいだったけれど、彼女の言う通り。あまり長く勝手に会場を開けてもいられない。
本音を言えば、このまま中座してしまいたいくらいなのだけれど、許嫁が今日の主役である以上、主催者であるフレデリカにきちんと退出のご挨拶をしなければ失礼に当たる。戻る以外の選択肢はなかった。
だからエイネシアも慌てて立ち上がり、会場の方へと体を向けた瞬間。
ガサガサ。ガサガサガサと。
何やら凄まじく既視感のある音と、垣根を揺らすその情景に、まさか、と嫌な予感がする。
――嫌だ。会いたくない。
咄嗟に逃げ出しそうになったところで、「何かしら?」と横にアンナマリアが並んだものだから、逃げ去るわけにもいかなくなった。
そもそも逃げる時間なんて与えてくれるはずも無く、案の定、垣根からバサッ!! と飛び出してきたピンクの髪の少女に、ビクリと肩を揺らした。
相変わらずの、ピンクのドレス。それから……あぁ、そうだ。自分は馬鹿だ。どうして忘れていたのだろう。
前回とは違う。今日の殿下のお召し物は“白”。今日がその、“イベント”とやらの日だ。
だがしかし、そのイベントで出会うのは彼女と王子であるはずで、どうしてこうも中途半端な場所から登場した上に、自分の前に現れるのだろうか。
明らかに何か変なバグが生じているとしか思えない。
「あぁ、もう、また変なところに出たッ!」
やはり第一声でそう愚痴った少女に、びくっ、と、何やら肩を跳ね上げたアンナマリアがエイネシアの後ろに隠れて、そのドレスのリボンをチョンと摘まんだ。
どうしよう。とても……可愛いのだけれど。
「しかもまた貴女なの!?」
そうエイネシアを指差すピンクちゃん。こと、アイラ・キャロライン。
ええ、ええ。その言葉はそっくりそのままお返ししたいのですよ、と、そう思いながら、密かに息を吐く。
出来る事なら、もう二度と見たくない顔だった。
「何で呼んでもいないのに貴女っていつもいつも私の前に現れて邪魔ばかりするのかしら! ゲーム補正なの?!」
どきんっと益々肩を跳ね上げて小さくなるアンナマリア王女には、なるほど、これは毒が強すぎる。
色々と突っ込みたいところが多すぎるのだが、今はそれよりも王女様をどうにかして差し上げる方が先決な気がする。
まぁ取りあえず、氷の姫と呼ばれるにふさわしい凜とした佇まいを心掛けて気持ちを落ち着けると、「ごきげんよう。アイラさん、でしたか?」と、アーデルハイド公爵令嬢に相応しい態度で声をかけた。
目上への挨拶も忘れている男爵令嬢への教訓のつもりだったのだが、少しもそれを理解した様子のないアイラは既に自分の世界に入り込んでしまっているようで、「もしかして私の行動で王子との親密度が上がりすぎて、悪役令嬢の出現が早まったのかしら」とか呟いている様子には、ハァ、とため息を吐いた。
出現も何も、いつもいつもアイラの方から飛び込んでくるのであって、しかも邪魔したつもりは微塵もない。
「エイネシア姫……あの子と、知り合いなの?」
そんな中。どこか驚いたような声色で、こそっと背後でアンナマリアが囁いたのを耳にして、これまた返答に困った。
知り合い……ではない。一度会ったことがあるだけで、その時も一方的に散々アイラが話していただけ。
そして一番辛い裏切りを……知ってしまっただけ。
そうぎゅっと胸元を握りしめたところで、「え、うそ。アン王女!?」とアイラが声をあげたから、アンナマリアが再びびくんと肩を跳ね上げた。
チラリとエイネシアの後ろから顔を出したアンナマリアに、アイラはすかさず顔色を引き締めると、これまでの態度とは打って変わった満面のヒロイン顔で笑みを浮かべ、ドレスの裾を摘まんで、ちょっと大げさなくらいに首を傾げてポージングを決めながら、「ごきげんよう、アン王女」とご挨拶した。
なんだ。この子、一応挨拶の仕方は知っていたのか、と、思わずエイネシアは感心してしまう。
だが如何せん、それは非常に最悪な“ご挨拶”だった。
まず第一に、親しい間柄でもない限り、目下の者は目上の者から声を掛けられるまで、自分から声を掛けてはならないという原則を破っている。
また王族に対し許可無く名前を呼ぶことも無礼であるし、ましてやいきなり愛称で呼ぶだなんて、王族じゃなくたってぎょっとする。普通に考えて、初対面の相手をいきなりあだ名で呼ぶなんて、普通の神経ではまず考えられないだろうに、本当に、この子は一体どんな痛い前世を送って来たのだろうかと不安になる。
それに、そんな漫画のヒロインみたいに首を傾げて笑みを張り付けたご挨拶をするのは少女漫画やファンタジーでの話であり、そもそも顔をあげたままただ腰を下げただけのそれはもはや礼とは呼ばない。
アイラは王女に対する礼を完全に失しているのである。
だからすぐにも顔色を引き締めたエイネシアは、「ご無礼ですよ」と慌てて口を挟んだ。
“転移者同士”、アイラの常軌を逸した行動に冷めた眼差しながらも一応の理解をすることができるエイネシアならまだいい。例えどれ程彼女が公爵家の令嬢に対して礼を失しようが、彼女がこの世界を誤解しているのだと客観的に判断し、その恥ともいえる行動を見て見ぬ振りすることができる。
だがアンナマリア王女に対するその態度は、見過ごせない。
貴族の模範であるべき公爵家の一人として。そしてヴィンセント王子の許嫁として。王女への礼儀を失する貴族の少女を咎めるのは、エイネシアの責務だ。
そしてそれは、気分を害するであろうアンナマリア王女が、アイラを快からず思い叱責を行なうという可能性を回避するという、ある意味アイラの為の行為でもあった。
絶対に好きになれない子であるのは間違いないが、しかし同じ、このフィーの作り出した世界に巻き込まれた者同士、少しの仲間意識が疼いたのは間違いない。
それにもかかわらず、エイネシアが咄嗟にした忠告に対してパッと顔をあげたアイラは、何故かとても嬉しそうに、一応眉を寄せて身をすくめて見せながら、「いやっっ。怖い!」だなんていう白々しい言葉でよろめいて見せた。
いや。え、何で!? と。それはもう、シリアスのなんたるかを忘れるかのような驚嘆ぶりで、それには傍らでアンナマリアも目を点にした。
それは……そうだろう。
何がどうして、突然何もないところでいきなり垣根にしなだれこむのだ。
なんかもう、一周まわって、可哀想になってきた。
「きちんとお立ちなさい、アイラさん。殿下の前でご無礼です」
今度はできるだけ声色がきつくならないよう気を付けながら、ため息交じりに声をかける。
その様子にアイラはチラとアンナアマリアの方を見たけれど、彼女が何の反応も示さないでポカンとしているのを見ると、眉を顰めながら仕方なさそうに垣根を離れた。
自分で倒れるふりをしておきながら、あてつけるように右手で左腕をさすって怪我でもしたかのような顔をしているのが憎らしい。あのう、そこは垣根にも微塵もついてませんでしたよね、と突っ込みたい。
ただ如何せん、ヒロイン補正なのか、無駄にウルウルとした大きな瞳が澄んでいて、本当に苛められていたかのように儚げだから始末に負えない。
今誰かに見られたら絶対に誤解される。
だから何だかその目を見ていたくなくて、スッとアイラに背中を向けたエイネシアは、もはや呆気にとられているといった様子のアンナマリアを向くと、一つ、アイラに宛てつけるように見事な謝罪の意を込めた礼を尽くす。
ドレスの裾を軽く摘まんで、腰を落としても地面につかない程度に持ち上げる。しかし掌は見せぬように、ドレスの布地に隠して。左足を下げて腰を落とし、そのまま三十度、きちんと腰から折って頭を下げる。
無駄に首など傾げて見せずとも、こうしてきちんとした礼を尽くせば、その凜とした姿は充分に美しい。
「お許しください、王女殿下。こちらの者は、アイラ・キャロライン男爵令嬢。何分社交に不慣れなようで、礼を失する言動をお取りいたしました。本来ならば罰を被るべきところではございますが、何とぞご寛大なるお目こぼしをいただけましたなら幸いです」
そうきちんと申し上げたところで、ようやくハッと我に返った様子を見せたアンナマリアが、「あぁ、ええ。あぁ。そうよね。そうだわ」と、混乱した中でとりとめのない言葉を呟いた。
その気持ちはとても分かる。
もう何から突っ込んでいいかわからず、突如さらされたエイネシアの“真っ当”な態度に、はて、なにが真っ当だったのかと分からなくなってしまったのだろう。
「罰?! 何を言ってるの? アン王女は私の味方よ!」
お前はもう黙っとれー! と、般若になりそうな顔で振り返ってしまう。
「アイラさっ……」
「そうだわ! アン王女。少し早いけれど……折角ここで出会えたのだもの。お友達になりましょう!」
良い考えだわ、と手を打ってそんなことを言うアイラに、またもアンナマリアはぎょっ、と目を瞬かせて硬直した。
あぁ、もう。これはもう、何もフォローできないと、もはや投げ出したい気持ちをぐっとこらえる。
いっそのことここでアンナマリアから厳しいお言葉の一つでもあれば、我に返るのではないだろうか。そんな期待をしてしまう。
だがもはや頭がキャパオーバーと言った様子のアンナマリアは完全に凍り付いてしまっていて、びしっと言ってやってください、とは言い難い。
「殿下……」
ただ一縷の望みをかけてそう恐る恐る声をかけてみた。
幸いにして、ハッとした顔をしたアンナマリアは、エイネシアを。それから今にもエイネシアを跳ね飛ばしてアンナマリアに飛びついて来そうなアイラを見てから、咄嗟に、パシッとエイネシアの手を取って、「顔をあげて」と促した。
なるほど、そう来たか。
完全にアイラ少女をスルーしにかかってきた。中々にやる。
「貴女が謝罪することではないわ」
この王女様が大変に良識のある方でほっとした。
ゲームだとここでコロっとアイラの味方をして、『どうして貴女がでしゃばるの? アイラは悪くないわ』的な感じになるのだが、どうやらそんな思考回路が破綻するような無茶な補正は存在しないらしい。
安心した。
「しかし……」
「それから貴女。アイラ、と言ったかしら?」
改めてアイラを向いたアンナマリアに、「そうですわ」と声を弾ませるアイラ。
「王宮の催しに出席されるのであれば、相応の礼儀を身につけてからになさって」
「あぁ、申し訳ありませんアン王女。私の家はしがない男爵家。母は無理やり父に手籠めにされ、生まれた私は庶出の身っ。魔法の素質があるせいで学院……あ、いえ。えっと。なんかこういう感じの。今みたいな感じの立場になっていますが、礼儀や作法なんて教えてくれる人は誰もいなかったのです」
ぐすん、と涙ながらに言って見せるややグダグダなそのセリフは、確か学院に入学して間もなく、礼儀を失して周りに嘲笑われていたのを助けてくれたアンナマリア王女に、王族や公爵家、上流貴族の一部しか入れない最も格の高い寮へと連れて行かれて慰められた際に語った、ヒロインの過去話だっただろうか。
当たり前だが、この場で突然その話をされても白けるだけで、ましてや母の不幸を『手籠めにされて』だなんて母の尊厳を傷つけるような物言いをしている時点で、アイラの性格が知れるというものだ。
大体、男爵家には不釣り合いな立派なドレスを仕立ててもらって、パーティーにまで出席させてもらっておいて、不遇も何もない気がするのだが、どうなっているのだろうか。
「ご存知ないのであれば、学んではいかがですか? 今貴女の目の前で模範をお示しになって下さっているエイネシア姫は、私が知る中で最も美しい所作をしていて、最も貴族として相応しい振る舞いを存じておられる御方ですよ」
いやいや。それをアンナマリアが言うのか、と、驚いてしまった。
勿論エイネシアにしてみれば、アンナマリア王女にそう言われるというのはとても光栄なことであるが、まさかやがてはアイラの味方をしてエイネシアのきつい物言いを窘める役回りをする御方が、そう口にするとは驚いた。
「え、え?! 何を言っているのっ、アン王女?! だって。この人、悪役令嬢よ!?」
だから……なんでそう少しの躊躇いも無く、よく知りもしない人を悪役と呼び、ましてやそれを他人に紹介できるのだろうか。
おバカちゃんか。おバカちゃんなのか?
「貴女……」
思わず口元に手を添えて。何かジッ、と考えるようなそぶりをするアンナマリアが、チラリとエイネシアを見る。
あぁ、そうか。ここでエイネシアは、謂れもないその呼称に対して何らかのアクションを起こすべきだったのだろうか。
だが最早何を言っても無駄なアイラに反論する気は起きず、ただ困った顔で瞼を下ろした。
なんだかもう、逃げ出したい。
いやいや。逃げ出したいが、逃げては駄目だ。
取りあえずゲームのことはいったん忘れて、エイネシア・フィオレ・アーデルハイドとして、為すべきことを為さねばならない。
だから改めて意を決してアイラを向くと、すぐにも敵対心をむき出しにしてこちらを睨みつけてきたアイラに、「お聞きになって」と冷静さを促す。
「まず礼はきちんと頭を下げて相手への礼儀を尽くし、下の身分の者は上の身分の御方が先に声をかけて下さるまではお声を掛けてはならないのが仕来りです」
「は? ちょっ。何で私が貴女のいう事を聞かないといけないの?!」
いいから黙って聞いとけ。
「それから王女殿下をいきなり愛称でお呼びになるなんて、不敬罪で投獄されてもおかしくないことですよ。どうか殿下に謝罪を」
そう説得させるためにも下手に出て言ったところで、何言ってるの? とでもいうようなキョトンとした顔をされたから、嫌な予感がした。
そして案の定、エイネシアを避けてバッ! とアンナマリアの腕に抱き着いたアイラは、勝ち誇ったような顔をする。
「アン王女は貴女と違ってお優しいのよ! 言ったでしょう? アンは私の味方なの!」
ジッ、と、掴まれた自分の腕を見やるアンナマリア。
それを防ぎきれなかったことにエイネシアは慌てて、「貴女!」とアイラに手を伸ばす。
だがそれを、「きゃー!」とわざとらしい甲高い悲鳴を上げてアンナマリアの後ろに隠れようとする態度に、エイネシアの手が宙を掴み、そのままアンナマリアに触れそうになってしまったから慌てて手を引っ込めた。
なんてことだ。
許しも無く王族に“触れる”だなんて、打ち首ものだ。エイネシアなんて、許嫁である殿下にでさえ、こちらから触れることが無いよう細心の注意を払っているというのに、アイラの行動はそれを一瞬にしてぶち壊すものだった。
“私にはできない――”
「アン王女、助けて! 私は何もしていないわ。王子様を奪おうだなんて微塵も思ってませんわ。そんなの身分違いだと分かっていますものっ。なのにどうして。どうしてエイネシア様は私のことをこんなにも追い詰めてしまわれるの!?」
これまたどこかで聞いたことのあるようなセリフだが、彼女は前回、初対面のエイネシアに向かって“王子は私の物だから!”宣言をしたのを覚えていないのだろうか。
奪う気満々だっただろうが。
「いい加減になさいッ。そんな大きな声を上げて、近衛が来たらどうするんですッ」
いやいっそ近衛が駆けつけて来てくれたらいいのにとさえ思う。
ここは女王の庭。許可なき者が立ち入ることが許されない禁苑。
というか今更だが、近衛が入口を固めているはずのこの庭に、一体どうやってこの子は毎度潜り込んでくるのだろうか。
そう思いながらも王女を引っ掴んで楯にするアイラに必死に手を伸ばす。
だがそうやってエイネシアがアイラを捕まえようとすると、まるで遊んでいるかのように、「キャー、キャー」と大げさな声をあげながら右に左にとアンナマリアをグイグイ動かしてその陰に隠れるから、これでは駄目だッ、と、手を引いた。
どうしよう。アンナマリアを楯にされたらどうにもならない。
しかしそうやってエイネシアの手が緩んだのを見て取ったのか、ぎゅっとアンナマリアの手を握ったアイラが、「こっち!」とアンナマリアを引っ張って走り出そうとする。
それに、え、え?! と困った顔をするアンナマリア。
「ッ、危ない!」
その危うい足取りに、思わず伸ばした手と。
はっと振り返って、エイネシアに向かって差し出されたアンナマリアの手。
つかまないと、と。
そう必死に、必死に伸ばして。
それを避けるように強引に引っ張ったアイラに、アンナマリアが足を絡ませ、体を傾けさせた。




