2-2 パーティー(1)
「あら、来てくれたのね、エイネシア姫。てっきりまた理由をつけて断られると思っていたのよ」
アフタヌーンパーティーという過去にない催しが開かれるその日。招待客が入るよりも早く、昼過ぎに登城したエイネシアを待っていたフレデリカ妃は、そう言ってエイネシアをサロンへと招き入れた。
「ご機嫌麗しゅう、フレデリカ様。このたびはお招きありがとうございます」
嫌味にも少しも動じることなく、ニコリと綺麗な微笑みを張り付けてドレスを摘まんだエイネシアに、その肩を零れ落ちるプラチナの髪を凝視しするフレデリカが、一つ忌々しそうに目を吊り上げた。
「相変わらずため息がこぼれるほどにお美しいこと。そちらの薔薇の髪飾りは、うちの子がしつらえさせたのかしら?」
いつまでも顔を上げる許可を出さぬままに話を続けるものだから、体勢が辛くて仕方がなかったのだけれど、それを微塵も揺らさぬようじっと耐えたまま、髪飾りのことを思い出す。
今日の髪飾りは、ガラス製の薄紅色の薔薇に、淡いグリーンの葉が絡んだ髪飾り。
薔薇は、王家の紋――。
「いいえ。こちらは小さな頃、上王陛下にいただいたものでございます」
正しくは祖母のアンナベティ王女の持ち物だったらしい。それがいつの頃だったか、夏の離宮でお会いした女王陛下――今の上王陛下が、妹のアンナベティ王女と、お城の部屋からこんなものが出てきたわよ、と、楽しそうに昔の姉妹達の持ち物を見ながら思い出話をしていらっしゃった。
その中の一つ。このキラキラとした薄紅色の髪飾りがなんとも涼しげでかわいらしいのを、隣からちょこんと顔を乗り出して見ていたエイネシアに、『あらあら、気に入ったのかしら』『おいで、エイネシア。つけてあげるわ』と、陛下みずからエイネシアの髪にあしらってくれた。
そのまま下賜されたものなので、フレデリカが想像するような“贈り物”とは違うが、上王陛下からのいただきもの、といっても間違いはないだろう。
「それは結構なことだけれど、薔薇を飾るにはまだ早すぎるわ。誰か、別の物を選んであげて頂戴」
その指示を受けて、侍女が一人、恭しく一礼をして下がってゆく。
王太子様の入学祝のパーティーという正式な場でエイネシアが薔薇を飾ることは、王太子を支える地盤が強固であることを内外に示す絶好の御標である。そのために意図して選んだ髪飾りだったのだけれど、致し方ない。
きっとフレデリカには、“誰か”を思い起こさせるこの色の髪に、薔薇があしらわれることが気に入らないのだろう。
側妃という立場の彼女には、許されていないものだから――。
ところでそろそろ、顔を上げるのを許してくれないだろうか、と、限界に近い足がプルプルと震えそうになったところで、ようやく「お座りになって」と席へ促された。
片や公爵家の姫。片や正式には伯爵令嬢という立場であるフレデリカ。それでも彼女が上座に腰掛け、上の立場にあたるエイネシアに礼を尽くさせるのは、彼女がひとえにエイネシアの許嫁の生母という立場だからに他ならない。そのことに優越感を抱いているのであろう面差しはとても満足そうで、むしろ安堵に満ちているかのようにも思われた。
それを咎めるつもりはない。彼女もまた難しい立場にある女性なのだ。
正妃としての身分を持たず、非権門の生まれでありながら王太子の生母としてあらねばならない。その虚勢を満たすには、権門に媚びることなく、己の権勢を誇示することでしか賄えないのであろう。権門の象徴ともいえる公爵家のエイネシアを苛む物言いも行動も、すべては彼女の安寧と安定のためにある。
それがよくわかっているから、エイネシアもこの席次に何を言うわけでもなく、言われるがままに腰を下ろした。
とはいえ……さて、どうしたものか。
「お嬢様。代わりの髪飾りはどれにいたしましょうか」
座ったエイネシアの前に侍女が差し出したのは、クッションに乗せられたいくつかの髪飾りだった。
どれもおそらくは王室であつらえられたのであろう、きちんとしたものばかりだったが、並んだ何のモチーフもないそれらの飾りは、アーデルハイド家の娘が身に着ける物としてはいささか場違いなものだった。
薔薇でないのであれば、アーデルハイド家の家紋である百合であるべきだ。それが正式な王宮での催しに臨むにあたってのセオリーである。なのにあえて関係のない物を持ってきてみせるというのは、百合なんて必要ない、と言われている……と解釈してよいのだろうか?
いくらなんでも、挑発的すぎる気がしないでもないが、フレデリカもまさか本気でそんなことを言っているわけではあるまい。
「このように美しいものを頂くのは恐縮です。よろしければかわりにそちらの花瓶の花を一輪、いただいてもよろしいですか?」
幸いこの部屋の隅に置かれた花瓶に、春の花がふんだんに盛り込まれた花束がある。
この季節に咲く白くて小ぶりな百合の花は、エーデルワイスではメジャーな花であるから、当然のようにその花束の中にも幾つも入っていて、目についたそれを指差したエイネシアには、チラ、チラ、と侍女が困ったようにフレデリカの方を見た。
さて。フレデリカはどう反応するのか――。
そうジッと見つめるエイネシアの眼差しに、チラリと花瓶を見やったフレデリカは、わずかに口元をゆるめながら、「あぁ、そうね。かまわないわ」と頷いて見せた。
あんまりすんなりと受け入れられても、それはそれで気味が悪いのだけれど、なんて思いつつ、どうやらエイネシアとフレデリカとの水面下でのやり取りが理解できなかったらしい侍女が、困惑した挙句、結局花瓶ごと抱えてエイネシアのもとに持ってくるのを見ると、仕方なく、その中から自ら百合を一本引き抜いた。
手に取ってすぐに、思わずため息をこぼしそうになった。
一体いつから花瓶に飾られていた百合なのか。なみなみと注がれた水に茎はふやけ、ふにゃりと首を垂らしたしおれ気味の百合には、芳しい香りに交じって濁った水の青臭い匂いが混じっていた。
まさかそこまで計画済みなのだとしたら、実に周到で、実にくだらない意地悪だと思う。
でもそこで、“フレデリカ様の部屋の花瓶から拝借した百合”に文句を言うわけにはいかないから、仕方なく、そのしおれた百合を侍女に託し、編み込まれた髪に百合の花を挿してもらった。
茎がふやけているせいで随分と苦労したようで、おかげさまで折角ジェシカが編んでくれた髪も、かき乱されてしまった気分だった。
とはいえ、こんなつまらない嫌がらせは小さな頃からだから、もうとっくに慣れてしまった。
「そういえば貴女。最近は、所領の運営に関わっておいでなんですって?」
切り出された話題に、チラリと顔を上げたエイネシアは、「はい」と頷く。
「ささやかなことばかりですが、父の手伝いをさせていただいております。将来国政を担われる殿下のお役にたてるようにと、しがない教養程度のものですが」
「そう……感心するわ。けれど王家の妃たるもの、国政よりも社交を大事になさるべきよ。一人でも多くの味方を得るためにもね」
フレデリカが言うところの“味方”とは、公爵家をはじめとする権門貴族の派閥に対し、そうではないメイフィールド家と懇意にしている側妃派の貴族達という意味なのだろう。
いまや宮中は、権門派と反権門派。つまりは既存の権力に対して、フレデリカ派の反権門がすさまじい勢いで既存権力を駆逐する状況にある。
そんな中、アーデルハイド家というのは、権門でも非権門でも冷酷なまでに実力だけで取り立てる宰相ジルフォードの元、権門の筆頭ともいえる家格でありながら、娘を非権門生母の王太子の許嫁に据えていることもあって、明確な“中立”の立場に立っている。
当然父がエイネシアに求めている立場もそれなわけだが、要はフレデリカとしては、その中立のエイネシアをより強固にメイフィールド家の血縁として取り込んで、今なお絶大な存在感を持つ王妃エルヴィアを凌ぎ、エイネシアの義母として全貴族からの崇敬を集めたいのだろう。
「ご指導、心に留めておきます」
決してそれが悪いなどとは言わない。彼女の立場としては、当然のことだろう。
ましてや最近は、あろうことか現国王の実の妹であるラングフォード公爵夫人アデリーン王女が、真っ向からフレデリカに反する立場にあると聞く。
というのも去年、フレデリカの茶会に招かれたアデリーンが、まるで王妃のようにふるまうフレデリカに何やら大層礼を失するような態度を取られたのだという。それにすっかりとへそを曲げた王女様は、フレデリカ主催、ないしフレデリカと親しい貴族の開く催しのすべてをボイコットするという、仕返しをしているのである。
これに対しフレデリカも王女殿下に対し素直に謝罪をすれば丸く収まった話なのだが、プライドが邪魔をして謝罪を拒否し、こじれにこじれてしまった。
アデリーン王女はエイネシアにとっても母の義理の妹であり、だがフレデリカもまたいずれは義理の母となる人物。間に挟まれるエイネシアとしては早急にどうにかしてほしい所だが、この話を聞いた母もどうやら義妹のアデリーン王女に頗る同情し、反フレデリカ派に気持ちが傾いておられるらしい。
これにはやれやれとため息をつくしかない。
こんな中で“中立”を誇示してこい、なんて父からも難題を押し付けられ、どう解けばよいのやら、さっぱりとわからない。
でもとりあえず、席についてフレデリカと会話をする、という、フレデリカ派への面目は立てた。
これで、フレデリカ側への配慮はもう十分だろう。そろそろ潮時だ。
「ところでフレデリカ様。本日は上王陛下が王宮にいらしているとの事。長らくお暇致しておりましたので、陛下にもご挨拶申し上げに参ろうかと思っております。来て早々ではありますが、退出させていただいても宜しいでしょうか」
上王陛下のお名前を利用するのは気が引けるが、彼女もまた絶対中立の立場にある人物だ。だからそのお名前を借りて、ついでに真っ当な理由をつけて退席を請う。
エイネシアがいかに先の女王に気に入られているかはフレデリカも存じているし、今なお絶大な権力を持つ上王陛下を味方につけておくに越したことは無いから、エイネシアがそう言えば、フレデリカもすぐにそれを許可した。
それに感謝を述べて席を立つと、代わりに入ってきた馴染みの侯爵閣下にご挨拶をしながら、部屋を出た。
あのタイミングで母やラングフォード公と懇意にしている侯爵閣下がいらしたのも、フレデリカの策謀だろうか。ラングフォード家出身のエリザベートの娘エイネシアは、フレデリカと懇意にしていますよ、とか誇示するための。
本当にくだらない。
でもそんな顔は微塵も見せることなく、いつも駆け込んでいた大好きな女王の庭を横目に、通りざまの侍従に目についた百合を一本切り取ってもらうと、しおれた百合を捨て、代わりに摘み取ったばかりのみずみずしい百合を自らの髪にあしらってから、内殿の一室へ向かった。
久方ぶりにお会いした上王陛下は、なんだか二年で少し年老いたような印象を受けたが、しかしその朗らかさは少しも変わらず、性格などは前よりもはつらつとしてお元気になられたようにさえ感じた。
それどころか、エイネシアの髪が少し乱れているのを見て取ると、すぐにエイネシアを鏡の前に座らせて、手ずからやんわりと櫛を入れて整えなおしてくれた。
「綺麗な百合だわ。あら……でもなんだか」
そう首を傾げられてすぐに、まだ古い百合のにおいが残っていただろうかと懸念したが、どうやら杞憂だったようで、「一輪だと寂しいわねぇ」と、侍従に命じて、女王の庭から百合を取ってこさせて、手ずから編み込んだ髪に沿って沢山編み込んでくれた。
おかげさまで、青臭い水のにおいはすっかりと消えた。
もしかしたら、分かっていてのことなのだろうか?
「貴女にも苦労をかけているわね……いえ、貴女をヴィンセントの許嫁にと命じたのは私だから、私が言う資格はないのだけれど」
そうやんわりと髪を整えながらあしらわれてゆく百合に、しかしその不器用さにジリジリとしていた侍女が、「あぁもうっ、お貸しくださいませ!」と場所を変わった。
しょぼんとした上王陛下はなんだかとってもかわいらしくて、陛下には悪いけれど、なんだかほっと安堵の笑みがこぼれてしまった。
「私は貴女の味方ですからね、エイネシア」
ただ最後にそういって、これだけは、と、百合と一緒に摘み取られてきた薔薇の生花を一つ、百合の間に挟んで結わえてくれたその手には、慰められるような、同時に追い詰められるような心地がした。
陛下に他意なんてものはなく、ただ正式の場に薔薇を付けずにやってきたエイネシアに、“貴女は王太子の許嫁なのだから遠慮することないのよ”と、自信をつけさせようとしてくれたのだろう。
彼女はエイネシアが身に着けてきた薔薇をフレデリカに取り上げられたなんて知らないから、ただ単純に、エイネシアがそれを拒んでいるのではと不安になって、あしらってくれたのだと思う。
だけどこの髪を見たら……きっと、フレデリカは目くじらを立てて憤慨なさるだろうな、と。
何やら今から、ため息がこぼれそうだった。
「久しぶりに出てきたというのに、アディもリジーもいないだなんて、親不孝もいいところだわ。エイネシア、代わりにリジーのお話を聞かせて頂戴」
ただそういって、娘のアデリーンや姪のエリザベートを理由にエイネシアをこの場所に引き留めてくれたことには、心から感謝した。
おかげでパーティーが始まる時間まで、上王陛下という強力な楯に守られたまま、わずらわしい権力争いに巻き込まれずに済んだ。
◇◇◇
やがて日が傾き、眩いほどの春の日差しが少し和らぎ始めた頃、「そろそろ時間ね」という上王陛下の言葉に促され、折よく迎えにきたヴィンセントに連れられて部屋を出た。
この許嫁の君と直接顔を合わせるのも久しぶりで、「お久しぶりでございます、殿下」と礼を尽くしたエイネシアに、少しも変わらない様子で「あぁ」と答えたその態度が、彼の中でのエイネシアの存在意義というものを露わにしているようであった。
「長らくお暇して申し訳ありません」
「別にエイネシアの登城は義務ではないだろう」
そう淡々と言われた言葉に、「そうでしたわね」と笑顔を張り付ける。
「お手紙をいつも、有難うございます。きっとエドワードがご無理を言ったのではと、申し訳なく思っておりましたの」
「いや。あれは大した手間ではない」
そんなことは知っている。
しかし義務であることを少しも否定しない様子は相変わらずで、何だかそれが今ではむしろすがすがしいくらいだった。
「図書館通いを止めたのだな」
次いでそう言われたから、はい、と頷く。
「ちょうど……アレクシスが学院に入学したころからか」
そう呟いたヴィンセントには、「それは考え過ぎですわ」と笑って見せる。
「譲位式の祝典を機に、私も私の学ぶべきものが見えてまいりました。それで図書館ではなく、家で勉強を。社交を控えていましたのも、私があまりでしゃばるのはよくないと思ってのことだったのですが」
「あぁ。そうだな」
良かった、と安堵する。取り繕ったような言い訳だったが、それで納得してもらえたなら何よりだ。
最も、納得というよりは、関心がないだけなのかもしれないが。
「久しぶりの社交だが、まさか仕来りを忘れているなどという事はないな?」
「ご心配には及びません。勉強を怠っているわけではございませんから」
「それならいい。今日はシンドリー侯の孫も来ている。くれぐれも揉め事は起こすな」
「まぁ殿下。そのような昔のわだかまり、少しも気になど止めておりませんわ」
ニコリと微笑んで見せたエイネシアに、何やらジッと探るようにヴィンセントの視線が投げかけられたが、「なるほど」と言うと、おもむろに手を差し出された。
もう何度も差し出された手。
それでも久方ぶりのその手はやはり懐かしく、愛おしい。
この手に率いてもらえるのは、あと何回だろか。
「随分としおらしいな。王家の妃として皆喜んでくれることだろう」
思いがけなかったのは、そう言ったヴィンセントが僅かに口元に微笑みを携えたから。
さらにはその目が、チラリと上王陛下の結わえてくれた薔薇を見て、「良く似合っている」と言ってくれた。
そんな顔を見られるとは思っていなくて。そんな言葉を聞けるとは思っていなくて。不覚にも失ったはずの心がトクンと淡く疼いてしまった。
どうしてそんなことを言うのだろうか。
本当にそう思っているのだろうか。
だけどそうやって期待させておいていつか反故にするのならば、期待なんてしない方がいい。
喜んだりしない方が、傷つかなくて済む。
なのにエスコートするその手は覚えているよりもはるかに優しい手つきで。
それが、彼が年を重ねたことで所作を洗練させたためであることなんて百も承知なのに、どこかでまた期待してしまった。
もう少し。
もう少しだけ。
この場所でこの人の隣に、立っていてもいいだろうか。
始まったパーティーは、なんだか上品で荘厳な舞踏館の大ホールには似つかわしくない少年少女の集まりだったけれど、王族にまみえる数少ない機会とあってか、日頃フレデリカ妃の招きに現れないような貴族までこぞって参加しており、かなりの大盛況だった。
本日の主役でもある王太子にエスコートされてエイネシアが顔を出せば、そういえば最近一緒にいる所を見ない、と懸念していた貴族達も、ほっと安堵の顔をする。
上座に導かれて、まずフレデリカ様に挨拶をした時には、案の定一瞬エイネシアの髪の薔薇を見て目くじらを立てたのが、夢に見そうなくらい強烈だった。
それから傍らの席の、見覚えのある姿に段々と近づいてきたアンナマリア王女にも挨拶をした。
相も変わらずエイネシアに懐かない王女様は、社交儀礼的な言葉を一言二言かわしただけでさっと視線を逸らして俯いてしまわれたけれど、気にした様子もないヴィンセントが早々とエイネシアを階下に連れていってダンスパートナーを求めた。
そして私達は、儀礼的に差し出された手に手を重ね、かつて踊ったワルツよりももっと軽快で難しいワルツを軽やかにこなす。とても義務的で、少しのミスも許されない見世物だ。
それでもそれを難なくこなし、笑みを絶やさず楽しそうに踊ってみせるエイネシアには、もう以前のような『笑え』との指摘は飛んでこず、彼もまた完璧な王子様の微笑みでこの儀礼をやりこなした。
これで、本日最初の仕事は終了だ。
最初の一曲が終わるなりわっと砕けた様子になった会場に、エイネシアも上座に戻るヴィンセントを丁寧な一礼で見送ると、そのまま下座の貴族達の中へと紛れた。
ここで手持無沙汰に、いきなり壁に張り付くわけにもいかない。さぁ、どうしようかしら、と周囲を見渡したなら、すぐにも気が付いたエドワードとアルフォンスが言葉を交わしにやってきてくれた。
相変わらず気の利く頼もしい幼馴染と弟だ。
「ご機嫌よう、アル」
「お久しぶりです、姫様」
「お変わりなく……いや。変わったわね」
久しぶりの友人の姿に、いつもより少し心を解きほぐし、その随分と背丈が伸びて立派になった幼馴染を見上げながら嘆息した。
思えば彼も十五歳。この春、ヴィンセントと一緒に学院に入学するわけだ。うっかり見惚れてしまいそうなくらいに素敵に成長していた。
「そうでしょうか? 自分では分からないですが」
「背丈も。あぁ、お声もかしら?」
そうですか? と傍らのエドワードを見るアルフォンスに、エドワードも、「言われてみれば」などと答えた。
彼もほとんど日常的にアルフォンスを見ているから、特に気にしていなかったようだ。
「そういうエイネシア姫こそ。お綺麗になられました」
はてはそんなことを言われるものだから、これには「まぁ」と、本気で目を瞬かせてしまった。
「驚いたわ。アルがそんなことを言える紳士になっていただなんて。一年って長かったようね」
彼に最後に会ったのは去年の大茶会だ。それからたった一年で、この無骨な騎士様がまさか女性を褒めるだなんていう芸当を身に着けているとは思わなかった。
だからそう言ったなら、「私は社交辞令で女性を褒められるほど器用ではありませんよ」と、なおさら器用なことを言って眉尻を下げた微笑みを浮かべたものだから、何ならうっかり抱き着いてしまいそうなくらいだった。
もしかしたら、近頃“氷の姫”などとの噂が流れているエイネシアのことを気遣って、空気を柔らかくしようとしてくれているのだろうか。
「有難う、アル。貴方のそういう取り繕わない優しさが、私は昔から好きよ」
そうふわりと笑みをこぼして言ったなら、流石に恥ずかしそうに頬を掻いたアルフォンスが、「殿下のお耳に入ったら困ります」と言う。
そんなに深い意味ではなかったのだけれど……確かに。このような場所では慎重になるべきだろう。
「ザラトリア候はお変わりなく?」
「ええ、相変わらずです。近頃はエドも放っておいても腕を上げるので、教え甲斐が無くなってきたと寂しがっています」
あら、そうなの? とエドワードを見ると、「ご冗談を。未だに青痣が絶えません」と苦笑した。
あの御仁も相変わらずなようで、公爵家の令息だろうが容赦ないところは変わらないらしい。
「殿下もアルも、これから学院の寮に入ってしまわれるから……エドは少し、寂しくなってしまうわね」
「そのかわり姉上と過ごす時間が増えます。また昔のように色々と教えてください」
最近めっきり父に似てきたと思っていたのに、どこか昔懐かしい無垢な顔をしてそんなことを言うから、心がほだされかけた。
けれどそれをニコリという笑顔一つでおさめたエイネシアは、それに“はい”とも“いいえ”とも答えない。
その理由が分かっているのだろう。エドワードも眉尻を下げただけで、それ以上この話題を続けることは無かった。
姉はもう、かつてのように好奇心を一杯に膨れ上がらせ、本にかじりついて議論を楽しむということを止めたのだ。ただひとえに、王太子の許嫁として相応しい偶像であるために。
何も言わないが、エドワードの視線が先ほどからチラチラとエイネシアの髪を見ている。彼も、家を出た時と姉の髪型が変わっていることに気が付いているのだ。そしてその理由も察しているから、余計に姉を煩わせるようなことを言いたくないのだろう。
とても、優しい弟だ。
「さぁ、二人とも。もう私の事は良いわ。早く殿下の所へお祝いのご挨拶にお行きになって」
一通り談笑を楽しんでキリが良いのを見て取ると、エイネシアはそう二人に促す。
今更改まってお祝いをいう間柄ではないが、ヴィンセントの近侍として一番最初に拝謁する権利を持っているのがこの二人だ。殿下にご挨拶したくてうずうずと待ち構えている他の子弟たちのためにもそう促すと、エイネシアがもう充分に場に馴染んだのを見て取った二人は安心した様子で頷き、まだ少しエイネシアを気にかけつつ、傍を離れていった。
さて。ではこれからどうしようか、と、壁際に場所を移したところで、迷うことも無く、すぐに何人かの近い年頃の子女らが近づいてきてエイネシアに挨拶した。
とりわけシシリアが先んじて歩み寄ってきて挨拶をして、さりげなく一緒に行動をしてくれたおかげで、手持無沙汰という社交界での恥にも等しい状況にはならずに済んだ。
こういうことを考えると、やはり女友達の一人や二人は大切だな、と実感する。
アルフォンスやエドワードがいない時、今までならラングフォード公の子である従兄のアーウィンや同じく従妹のアンジェリカが一緒にいてくれたのだが、今日はその二人の姿も見当たらない。
何しろフレデリカ側妃の主催のパーティーだ。近頃めっきりフレデリカと派閥割れしている権門の人間がこれを欠席することは珍しいことではないし、彼らの母であるアデリーン王女がその筆頭に立っている今、ここに二人がいないのも驚くようなことではなかった。
しかしそんな大人たちの事情など露知らず、純粋無垢にパーティーを楽しみに来た少年少女は、しがらみなどなく一言未来の王太子妃にご挨拶しようとかわるがわるやって来て、いつの間にやらエイネシアの周りは人混みで溢れ、ダンスを求める青年たちのお誘いを断るのに必死になった。
そうやって一体どれほど歓談に花を咲かせていたのか。
セイロン伯爵夫人が娘のシシリアの所に、「そろそろお暇しましょう」と声を掛けに来たのをきっかけに、自然とエイネシアの周りに集まった人たちも散って行った。
その遠ざかる熱気にほっとしつつ、「それではまた」と礼を尽くして去るシシリアを見送ると、誰かに捕まる前にとさりげなく物陰に身を潜め、テラスに躍り出る。
こっそり休憩を取るには良い頃合。
今年は春の進みが早いようで、頬を撫でたぬるい風が心地よい。
そう新鮮な空気を吸い込んだところでその静寂が恋しくなり、少しだけ、と庭へと降りた。