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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第二章 エデルニアの雪融け
22/192

2-1 手紙

「エニス村の収穫率は二年で二割の向上。土精霊技師の採用による成果の割合は七割。セドニア村の果物栽培には八割の成果が出ていて、木精霊技師の採用成果よりも十七パーセントの産出高……品質に関する報告がないわ」

 ハラリ。ハラリ。

 指先が冊子を捲り、書類を探す。

「確かオーニッド博士の論文では品質向上には土精霊の助けが最も有効的だと……」

 論文は確か、と大きな机の引き出しを開け、紙の束を漁る。

 その指先が、チリリと一瞬焼け付くように傷んで、はっと引き寄せる。

 じんわりと滲んだ指先の血。

 段々と膨らんでゆくそれを、じっと見つめた。

 もうすぐ、十五歳――。

 あの日よりずっと大きくなった手と、綺麗に整えられた爪に手入れの行き届いた肌。

 傷一つないその手の紅が、茨に傷ついたかつての痛みを思い出させる。

「まぁ、お嬢様! お怪我を?」

 パッと飛んできたのは紅茶のお盆を手にしたジェシカ。

 かつてよりずっと立派なお姉さんになり、公爵家の正式な侍女、エイネシア付の侍女長となった彼女は、すぐに机にお盆を置くと、エイネシアの手を取った。

「平気よ。少し紙で切っただけだわ」

 ポケットから出したハンカチでジェシカが血を拭ってくれる。

 一瞬血を止めた傷口に、エイネシアはそっと精霊の言葉を囁く。

 そうすればピシピシと傷口には目に見えない程度の氷の膜が張り、溢れてやまない血はすっかりと姿を消した。

 それをジェシカが、ほぅ、と嘆息して見やる。

「いつみても鮮やかな精霊魔法です。今のもお嬢様がご自分で編み出された魔法ですか?」

「範囲魔法の応用よ。こうして冷やせば血管が収縮して止血を促してくれるから、治りも早くなるはず」

 そうだ。この力を応用すれば、医学の方面でも精霊魔法は有効に働くようになるのではないか。

 そうふっと興味が移り、おもむろに席を立つ。

 背後にぎっしりと詰まった書棚の背表紙を追い出したエイネシアに、あぁまったく、と、ジェシカが呆れた顔をするのにも気が付かず、一つ、二つと本を引き抜いては捲る。

 けれど医療関係の蔵書はこんな小さな書斎の本棚ではちっとも賄えず、かつて通った偉大なる図書館の情景が脳裏に浮かんだその瞬間、パタン、と本を閉じて本棚に納めた。

 もういい。

 もう、いいのだ。

 こんなことをしたって、全部無駄なのだから。

「お嬢様……?」

「ジェシカ。お父様はもうお戻りかしら?」

 話を切り替えるエイネシアに、何処となく眉尻を下げながら「ええ、今しがた」と答える。

 それでは、と、代わりに机の一番上にしまってあった書類の束を取り出して、部屋の外を目指す。

 今日は父に任されていた、所領の生産改革に関する報告と、財政改革の報告。上がった成果を元に、兼ねてから検討をお願いしていた所領南北を分つ山間部の新規街道整備の許可を貰って、それからこれを委託するための民間への入札準備。すぐに所領の代官に手紙を送って……、と段取りを確認しながら廊下を歩いていると、ふと、道すがらの扉が開いて、エドワードに遭遇した。

 相変わらず華奢だけれど、かつてよりずっと大人びて、すらりと背も伸びてみるみる麗しさを増してゆくかつての天使。

「姉上。父上のところですか?」

 かつての天真爛漫とした声色とは違う、いつの間にかすっかりと落ち着きを醸し出すようになった声色は、最近声変わりし始めて父の声色に似てきた。

「ええ。エドは今日は登城していたのではなくて?」

 ニコ、と、少しばかり口元に静やかな微笑みを浮かべる姉に、エドワードは僅かに眉尻を下げながら、「はい」と頷く。

 いつの頃からだっただろうか。

 この姉の微笑みが、“暖かい”から、“氷のよう”と思うようになったのは。

 かつてより遥かに冴え冴えとして美しいその微笑みは、こぞって貴族達を嘆息させて羨まれたけれど、エドワードはその微笑みが好きではなかった。

 なぜかいつも……寂しそうで。

「ヴィンセント様から手紙を預かっていますよ。後ほどお部屋に持って行かせます」

「そう」

 とても短い返事に、エドワードは思わず口を噤む。

 これも、いつの頃からか変わってしまった反応。

 微睡むような微笑みはなく、ほのかにはにかむ可憐な少女は、もうそこにはいない。

 相も変わらずエドワードには優しい姉だけれど、彼女が図書館に通うことは無くなり、同時に意味も無く王宮へ行くことも無くなった。

 それでも姉が、こうやって時折エドワードが持って帰ってくるヴィンセントからの手紙を、大切に宝箱にしまっていることを知っている。

 どこか寂しい、華奢な飾りの宝箱に。

「それではまたお夕飯でね、エド」

 優しいはずの言葉をかけながら、それでいてどこか地に足のつかない流れるような足取りに、エドワードは思わずパッと、その後ろをついてゆくジェシカを掴みとめる。

 すぐにジェシカも足を止め、引き止めた若様に軽く頭を下げた。

「姉上は、今日は屋敷の外に出たか?」

 問うた問いはもう慣れた物で、それを聞いたジェシカは眉尻を下げて、ゆっくりと首を横に振った。

「お庭どころか、テラスにも……」

 その言葉に俄かに息を吐いたエドワードは、「分かった、行っていい」とジェシカを促すと、エドワードがジェシカを引き止めたことにさえ気が付かずに先へ行くエイネシアの後姿に、ため息を吐いた。

 一体いつからだろう。

 いや、分かっている。

 譲位式の日からだ。

 あの日何があったのかは知らないが、少し休憩をしてくると言ったはずの姉がいつまでたっても戻ってこないことを心配して、同じく庭の手前で心配そうにしていたアルフォンスと共に、探しに行ったのだ。

 けれどエイネシアは中々見つからなくて。

 そしてやがて、女王の庭のガゼボで、ひとりポツンと空の月を見上げて座るその人を見つけた。

 そしてその顔を見た瞬間。

 何かがおかしいと、気が付いた。

 くしゃくしゃになったドレスの裾。傍らに脱ぎ置かれた、リボンの切れてしまった靴。膝の上に置かれた手に滲む沢山の小さな傷と、すっかりと解けた濡れた髪に、絡み落ちた花々。

 一体何があったのかと問うてみても、何故だか姉はポヤンと首を傾げるだけで、仕方なく問い詰めた近衛からは、「迷い込んだ令嬢がいたようです」との情報を得られたものの、それが原因なのかと問うてもエイネシアは少しも反応しなかった。

 何があったのかは、結局わからぬまま。

 そしてその日から、エイネシアは変わってしまった。

 それはまるで死を待つ老人のように。

 最後の時を待つ囚人のように。

 その心を解きほぐしてあげたいと願うけれど、エドワードが何をしてもそれは無理で。

 唯一その可能性があるであろうヴィンセントにと色々頼んで手を凝らしては繋がりを持たせ、また一緒にお茶会をしよう、と登城を促しもするが、それはすべてやんわりとした微笑み一つに噤まされてしまった。

 その視線は多分今も、あの日の空の真ん丸な月を見ているのだろう。

 あの月は、姉の心を連れ去ってしまったのだ。


 ◇◇◇




「アフタヌーンパーティー……ですか?」

 所領運営の一部を実験的に担わされるようになって一年。

 この日の報告を終えたところで父から切り出された話に、エイネシアは首を傾げた。

「大茶会ではなく……?」

「ああ。王国誕生祭に合わせて、大茶会の代わりに開かれる。場所は舞踏館。時刻は十六時から。招待客は十代の少年少女を中心に、あとは茶会と同じで夫人達がメインだ」

 聞いたことのない行事に、どうしてまた、と問う。

「この春からヴィンセント殿下が学院に入学される。それに合わせて、生母のフレデリカ妃が企画なされたものだ。お前も出席するようにとの招待状が届いている」

 差し出された招待状は立派な金の縁取りが為された正式なもので、これを受け取った以上はよほどの事情でもない限り欠席はありえない。

 三年前、この先の未来と自分の思い上がりに絶望をしたあの日以来、エイネシアは登城を控えるようになっていた。

 去年の王国大夜会の前日に執り行われた大茶会には王太子の許嫁として出席したが、今や大茶会を取り仕切るべきエルヴィア王妃は離宮へと移り住まわれて一切の公の場には出てこなくなっており、茶会の主催者もフレデリカ側妃がお勤めになった。

 それ故に欠席する公爵家や侯爵家も少なくなく、エイネシアも義務を終えると早々と退出した。

 それだけでなく公爵家での社交も最低限のものに限るようになっていた。

 何なら今年の大茶会は所領運営を学ぶために所領へ赴いているという理由で断ってしまおうかとさえ考えていた所に、このようなお誘いを貰ってしまうとは思ってもみなかった。

 だがよく考えれば、そうだ。

 王子はこの春、アルフォンスと共に一足先にエデルニア学院へと入学する。

 あれからもう三年。

 本当ならば、アレクシスは今年卒業だったはずだけれど、彼は去年の夏頃に、早々と単位満了の申請を出して、異例の飛び級卒業をしたのだと聞いていた。

 それからは何処で何をしているのかなんて知らない。

 あるいはどこぞの所領を巡っているとか、どこそこで目撃情報があったとか、そんな話題をエドワードがふってくれたけれど、「そう」と薄い反応ばかりしていたら、段々とエドワードもアレクシスの話をしなくなっていった。

 もらった手紙には、一通も返事を返していない。

 やがてその手紙も途絶え、その人との関係は何もなくなってしまった。

 唯一未だに関わりがあるのはハインツリッヒで、直接会うことは無いが、彼はアレクシスと何があったのかなど何一つ聞くことなく、折々の便りと、良い論文や本があった時はそれを贈ってくれた。

 でも最早他人との繋がりも、それくらいのものだ。

「これは、欠席できない催しという事ですよね?」

「国王のエルヴィア妃に対する処遇と、メイフィールド伯爵家の発言力の増長。勢いを得た反権門勢力の度の過ぎた行動は目に余るほどに深刻だ。だからこそお前が出席して、こうした勢いが権門を後見とした上で成り立っているのだと、公爵家の威厳を示す必要がある。今更、聞くまでもないことだろう」

 そう言う冷たささえある父の言葉に、何の関心も無く一つ頷いた。

 王室側にとっての自分は、ヴィンセント王子にアーデルハイド家という後見を与えるための道具。そしてアーデルハイド家にとっての自分は、メイフィールド家を牽制し、王家の正当性が公爵家の血縁によって守られていることを誇示するための旗頭だ。

 それで間違っていない。何の問題もない。

 けれどいずれはそれも王子の側からかなぐり捨てられ、王子はアイラ・キャロライン男爵令嬢と婚約し、それを万民に祝福されるのだ。

 アーデルハイドの家名と血筋が、一体どれほどのものなのだろうか。

 今ではそれが、虚無にさえ感じる。

「畏まりました。すぐに出席の旨の返書をしたためます」

 そう一礼して招待状を手に父の書斎を出ると、「返事をしておいて」とそれをジェシカに手渡した。

 受け取った煌びやかな封筒に、「私がですか?」とジェシカが目を瞬かせていたけれど、それに気が付くことも無く。

 いや。分かっているけれど、少しも気に留めることも無く。

 立ち戻った部屋の机に置かれた似たような封筒を目にすると、僅かに息を呑んで机に駆け寄った。

『親愛なるエイネシア――』

 端正で華奢な流れるような文字。

 くるりとひっくり返した差し出し名には、『ヴィンセント・ルチル・エーデルワイス』。

 王家の印章の刻まれた封蝋を指先だけでペリリとはがし、急いたように紙面を開く。

 内容はいつも同じ。

 季節の挨拶と、僅かばかりの近況報告。たまには顔を見せに来なさいという社交辞令。

 紙面一枚の短い手紙は、これで二十通目になる。

 毎月、月の初めに送られてくるようになったその手紙には、すでに義務的な慣習とでもいうような気配が色濃くなっていたけれど、その現実味の薄い手紙が今のエイネシアにはちょうどよかった。

 愛おしい――。

 今もまだこんなにも愛おしいのに。

 でも少しも会いたいだなんて思わない。

 きっとこの無機質で、顔の一つ見えない手紙という薄っぺらいものが、エイネシアを微睡み夢見させてくれるのにちょうど良い距離なのだ。

 だからその手紙をぎゅっと胸元に抱きしめて。

 それから大切そうに、一番下の引き出しにしまってある白地に金の装飾とブルーの花形の鍵がかかった宝箱に、それを夢ごと閉じ込める。

 ぎっしりと詰まってそろそろ一杯になって来たが、これ以上に大きな箱はいらない。

 このくらいがちょうどいい。

 手紙をしまって、鍵をかけて。

 でもそれからしばらく、その箱に手を添えたまま動くことができなかった。


 一体こんな状況で。

 あと何年、堪えればいいのだろうか。






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