1-13 国王の戴冠
「お嬢様、お嬢様。そろそろ準備を致しませんと!」
春。温かな陽気が眠気を誘うような初春を過ぎて、花もほころぶどこかせわしない華やかな季節となった頃。少なくともエイネシアの人生で最大と言っていいほどの賑わいとなった王国誕生祭に、王国中から貴族と観光客が集まってきて、さながら王都の人口密度は倍以上に膨れ上がった。
広々とした敷地を持つはずの公爵家にいてなお、一般参賀に登城する民衆の声が聞こえるのではないかと錯覚するほどで、その上屋敷の中も譲位の件で両親が忙しく働きまわっていたから、余計にそわそわとする。
だがそれでもエインシアは周りから見れば落ち着き払って見えていたようで、朝から焼き立てのパイを箱に詰めてリボンの色を選んでいたら、探し回っていたらしいジェシカとネリーに抱きかかえられ、浴室に放り込まれてしまった。
かくしてこんがりと焼き上がった甘いチェリーパイの匂いを纏ったお嬢様は瞬く間に花の香りのお湯で洗い清められ、ちょっぴり背伸びした香水をひと吹きと、自家製の精油で髪を梳いて、仕立てたばかりのブルーのドレスに身を包んだ。
お恥ずかしながら今日のドレスは、この日ブルーの王太子の正装を身に着けるヴィンセントの色に合わせて王室御用達店のマダムが仕立ててくれたペアルックだ。
ドレスの裾にこれでもかというほどに縫い付けられた眩いクリスタルガラスが上品な薔薇の模様を彩っていて、それに合わせたシルバーの首飾りにはアーデルハイド家の百合の紋章を象ったサファイアが埋め込まれている。
先月開けさせられた耳元のピアスホールは、最近ようやく気にならなくなってくれたばかりで、そんなお嬢様のためにと小ぶりな同じデザインのピアスが付けられた。そうするだけで、もうすぐ十二歳になる幼い少女をうんと大人っぽく見せてくれる。
長いプラチナの髪は、正式な祭礼ではアップにした方が良いのだろうけれど、まだ子供だから降ろした方が可愛いわ、という母の言葉で、ハーフアップに結わえられた。
うねうねと波を打つ癖っ毛に、ジェシカが丁寧に真珠の髪飾りを編み込んでいって、クルンと回ってみるとドレスの裾と一緒に泳いだ髪が、きらきらと光を反射する。それがとっても素敵だったけれど、このずっしりと重たい装いには一日堪えられる気がしなかった。
少しばかりのチークとシルバーのアイカラーを少し。ピンクのリップをのせると、最後に子供には少し高めのヒールの靴を履き、ジェシカの手を借りて立ち上がる。
ホゥと吐息を溢す侍女たちが、「とってもお綺麗ですわ」といつもよりたっぷりと含みを込めた声色で称賛してくれたから、きっと随分素晴らしく仕上がっているのだろう。
そうこうしている内にコンコンと扉を叩く音がして、今なお五十代半ばという年齢を微塵も感じさせない、ほっそりとたおやかな紫のドレスに立派な綬をかけた貴婦人が顔を出した。
エイネシアを見た瞬間、「まぁまぁ、なんて可愛らしいのかしら」と顔をほころばせたその顔が母とよく似ているのは、この貴婦人が母の母。つまりエイネシアの祖母だからだ。
「お祖母様。おはようございます」
そう数日前からこの屋敷に滞在している祖母に丁寧な挨拶をしたところで、「ええ、おはようございます」と、祖母もまた丁寧なご挨拶を返してくれた。
アンナベティ・ルチル・エーデルワイス王女殿下。臣籍に下りラングフォード公爵夫人となってなお、王女としての気品や威厳を損なうことは無く、礼を尽くす孫にもこうやって王家の先輩として指導し、導いてくださってきた。
日頃はラングフォード領内の別荘で過ごしておいでだが、元々息子であるラングフォード公より娘であるエリザベートと仲が睦まじいこともあって、王都に来てすぐこちらのアーデルハイド家にお渡りになり、この屋敷でお過ごしになっておられた。この日一日、新王太子の許嫁として諸々の王家の典礼に参加することになるエイネシアのための先生を勤めてくれただけでなく、今日は介添えとして一緒に行動して下さることにもなっている、とても心強いお祖母様だ。
「とっても素敵なドレスだけれど、やっぱり可愛い子供に王太子の正装の色はきつすぎるわね。しきたりなんて無視して、もっと可愛らしい淡い色のドレスにしてしまえばよかったのに」
でも仕方がないわ、という祖母の言葉は、このドレスを仕立ててくれた仕立て屋のマダムも同じ意見だったようで、深い青を基調としながらもスカートは柔らかいシフォンで仕立てて、内側には明るいシルバーのレースをたっぷりと用い、あえて透明度の高いクリスタルを編み込んだ刺繍も、重たい色のドレスに華やかな明るさを加えてくれている。デザインも重たくならないよう、華やかだけれど軽やかな作りにしてくれていて、上品さが際立つ仕上がりだ。
それでも随所の手の込んだフリルやきゅっと絞って象った花型とふわりとした腰の後ろのリボンが年相応の愛らしさも醸し出していて、始めて仕立て上がったドレスを試着したときには、なんて素敵なドレス、とうっとりしたものである。
「ジェシカ。この家のお庭には白くて小さな可愛らしい百合が沢山咲いていたでしょう? あれを摘んできてちょうだい。それから一緒に編み込んだら素敵そうな小さなお花も。ドレスに合わせた青いお花がいいわ」
そう指示する祖母に、はい、と首肯したジェシカがすぐに庭へと駆けてゆく。
間も無くもたらされた花を、祖母が手ずから手毬型に編んで行くと、エイネシアの髪を束ねていた重々しいバレッタを外して、その生花を編み込んで行った。
それに小さな青い小花とリボンを一緒に編んで行くと、たちまち華やかさと軽やかさがました。
いつもながら、とても良いセンスをしていらっしゃる。
「これでいいわ。やっぱり、シアは白百合がとっても似合うわ」
「有難うございます、お祖母様」
「どういたしまして。さぁ、そろそろ時間ね。早くいかないと、エリザベートに叱られてしまうわ」
そう冗談めかしながら手を差し伸べた祖母の上品なレースのグローブに手を借りて、慎重に足を踏み出す。
これでもかというほどに詰まったレースに足が絡まないか心配だったけれど、流石はプロのお仕事で、足さばきがとても軽やかになるよう縫い合わせてあり、神経質にならずに自然に歩くことができた。
◇◇◇
階下で母と合流すると、すぐにも馬車に乗りこんで王宮に向かった。
公爵家の前の道を延々と連らなっている馬車の群れは、そのすべてが譲位式に参加して新国王に拝謁をする貴族達の列だ。
そんな列の中でもやはり公爵家の馬車は別格で、渋滞する馬車列の横をすいすいと通り抜けたかと思うとあっという間に王宮へと到着した。
馬車が止まったのは外廷の一角。礼殿という儀式典礼の行われる建物群で、ずっと前の建物で馬車を降りる他の貴族達を横目に、馬車は建物の真正面に停まった。エイネシアは来るのは初めての建物だったけれど、そこは王宮育ちの祖母がいるから何事も安心だ。
すでに集まった幾人もの貴族たちが向ける、エイネシアの“青”に対する好機の目は中々のものだったけれど、女王陛下の実の妹であるアンナベティ王女がその隣に並ぶと、彼らはたちまちいつもより三歩は後ろに下がって大人しく頭を垂れた。
その様子には思わずエイネシアも背筋が伸びる思いがしたが、呑気な母が、「お祖母様がいると移動がとっても楽でしょう?」だとか、「でもお父様の鉄壁という安心感には適わないと思うのよ」だとか囁くものだから、思わず吹き出しそうになってしまった。
そんな娘の惚気にも耳を貸さないお祖母様は、我が家のようにスイスイ歩を進めると、迷うことなく内廷と通じる奥向きの方へ向かう。どうやらその先の広々とした部屋が王家の控室になっていたようで、祖母が少しの遠慮も無く扉を開けて入っていくと、すぐにも「まぁ!」と声を華やがせた女王陛下が駆け寄った。
「ベティ。待っていたわ」
「ごきげんよう、陛下。ようやく退位できますのね。おめでとうございます」
ふふっ、と笑って見せて言う気心の知れた妹の物言いに、「ええ、ええ、まったくよ」と女王陛下も朗らかに笑う。
「これでやっと隠居の身よ。これからは私の旅行にも付き合ってちょうだいね、ベティ」
「ええ。勿論よ、お姉様。でもそのようにあけすけにはしゃいでは、うちの婿殿が眉間のしわを深くなさるからお気を付けにならないと」
そう朗らかに笑うアンナベティの言葉の先で、案の定書類を手に難しい顔をして立っていた父ジルフォードの眉間がミシッと深くなった。
「まぁまぁ、エイネシアも。なんて可愛らしいのかしら」
父の視線を避けるかのように、アンナベティの後ろに控えていた少女に矛先を変えた女王陛下に、エイネシアはすぐにドレスの裾を摘まんで礼を尽くす。
「ご機嫌麗しゅう、女王陛下。この度は殿下のつつがないご即位をお慶び……」
「堅苦しいことはいいのよ、シア。さぁ、こちらに来てお座りなさい」
そう口を噤まされてしまったので、すぐにチラと父の傍らの新国王陛下を見やったのだけれど、そのウィルフレッドまでもが仕方なさそうにハハハと笑って頷いているのを見て、大人しく女王陛下の仰せのままに勧められた椅子に腰かけた。
アンナベティがいるせいで、一層、砕けた態度になっていらっしゃるようだ。
「ベティ、エリザベートは一緒ではなかったの?」
「途中で侍女たちに掴まって、先に会場の方へ行きましたよ。慌ただしい様子で」
「エリザベートにはこの後の祝宴の設えを任せているの。貴女と同じで、こういうことのセンスは間違いないもの」
そう楽しく会話を交わす二人は、これまでは姉妹とはいえ立場が違っていることもあって、あまりこうしてゆっくりと話す時間も取れなかったのだろう。毎年夏には離宮で一緒に過ごされているものの、それでも片や女王陛下。片や公爵夫人。仲の良い姉妹には、さぞもどかしい垣根であったはずだ。けれど女王陛下が隠居すれば、その垣根も少しは低くなる。
それが喜ばしいのか、いつも以上に話題は尽きないようで、すっかりと寛いでしまった二人にやれやれと息を吐いた父は書類をテーブルに置いた。仕事にはならないと悟ったらしい。
「お父様。エドは何処に?」
そんな父に、父と一緒に先に登城したはずの弟の居場所を聞いてみたら、「殿下とおられる」と言われた。その“殿下”の居場所を聞きたかったのだが。
しかしそれは尋ねるまでも無く、続き間の扉から当のヴィンセントが顔を出したことで解消した。
エイネシアと同じ、青を基調とし、銀の縁取りの為された綬をかけた正装はとても麗しい。だがそれはヴィンセントばかりでなく、その後ろからついて入ってきた白い騎士服のアルフォンスと、アーデルハイド家の白百合の紋章を刺繍したマントを肩にかけた弟エドワードもいつになく素敵で、もしこの場に写真機というものがあったなら間違いなく連写していたに違いないほどだった。
とはいえいつまでも見惚れているわけにはいかない。すぐに席を立って礼を尽くす。
「陛下の賑やかな声がなさると思ったら、エイネシア達が来ていたのか」
「ごきげんよう、ヴィンセント様。このたびはつつがない王太子殿下のご即位と殿下のご立儲の事、お慶び申し上げます」
「ああ。楽にしていい」
そうエイネシアに身を起こさせたヴィンセントは、すぐに祖母と話している女性に視線を移すと、丁寧に礼を尽くし、「お久しぶりです、アンナベティ王女」と声をかけた。
「ごきげんよう、ヴィンセント王子。長く見ない間に、とても素敵な王子様にお育ちになりましたね。王太子の青いご装束が、素直で可愛かった頃のウィルフレッド殿下を思い出しますわ」
「光栄です」
そのやり取りには、「あれ、叔母上。今は?」とウィルフレッドが呟いたけれど、ちっとも相手にされなかった。
こうやってわいわいと賑わう大人たちの中で、間もなくラングフォード公爵がウィルフレッド新王の妹でもある妻アデリーン王女と共に顔を出すと、段々と部屋も手狭になっていった。その頃には子供達は大人に気を利かせて、こっそりと隣の部屋へと引き下がり、それを見て取ったラングフォード家の子女のアーウィンやアンジェリカもそれについてきた。先ほどヴィンセント達がこちらの部屋にいたのも、同じ理由なのだろう。
隣の控えの部屋には、白と薄水色の可愛らしいドレスに身を包んだアンナマリアもいて、さらにフレデリカ側妃もいらっしゃったから、すぐにエイネシアは妃に丁寧なご挨拶をした。
やはり……というべきか。この日王妃に立つはずのエルヴィア様がいらっしゃらない。段取りでは確かエルヴィア妃がウィルフレッド新王の傍らで儀式に臨むはずなのだが、何処にいらっしゃるのだろうか。
エイネシアにとってエルヴィアは父の叔母。父が幼少期、姉のようにしておられた御方だ。立派な縁戚なのできちんとご挨拶をしたかったのだが、しかしこの場でフレデリカに『王太子妃様はどちらに?』なんて聞けようはずもないから、堅く口を噤んでおいた。
あと気になると言えば、新国王の義理の弟に当たるはずのアレクシスの姿が見えないことだろうか。あの王子様が正装しているところなんてちっとも想像がつかなかったから見て見たかったのだけれど、はて、もしやこんな日まで図書館で本に埋もれているなんてことはあるまいか。
少し気になったけれど、しかし時計が定刻を指し示す頃にはそれどころではなくなっていて、「手を」と促したヴィンセントにエスコートをされながら、この国随一の大聖堂へと向かう道中は、今世一番の緊張の時間だった。
戴冠の儀式は、聖堂での女王陛下から王太子殿下への譲位式と、譲りを受けた新王の即位式に始まる。その後、礼殿のバルコニーで一般への新王拝賀が行なわれ、さらに内殿では貴族達が新国王陛下へ拝謁をする謁見の儀が執り行われることになる。ただ公爵家については、後日正式な晩餐会が予定に組まれていることもあり、改めて拝謁しなくてよいとのお言葉だから、この間時間の空くエイネシアはその後の祝宴のためのお召し替えをすることになる。この青のドレスはあくまでも式典用。夕方からの祝宴には、別のドレスが用意されているのだ。
つまり夜明け前に起こされ、朝から仕度をして、昼前に登城し、まだまだ今日のお仕事は夜まで続く。すでに若干くたびれているのだが、ここからが本番である。
ただいざ行事が始まってみると、疲れなんて感じる暇もなかった。
譲位式では、息を呑むほどに美しい荘厳な大聖堂に驚いている暇などなく、教会の最高司祭を先頭に、女王陛下、新王陛下と、ようやくお顔を見ることのできた美しい白のドレスを纏ったエルヴィア妃。それに先んじて聖堂の前でゆったりと待っていた王子の装いのアレクシスや二大公が続いて、その後ろにヴィンセントのエスコートを受けたエイネシアも続いた。
さらに後ろにはフレデリカ妃とアンナマリア王女。王家縁者と四公爵家のご当主たち。ハインツリッヒも含む大公家や公爵家の縁者、騎士長であるザラトリア侯爵をはじめとする威儀のための近衛など、その大きな聖堂の端から端まで為すかのような沢山の行列が両脇にぎっしりと集まった貴族達の間を厳かに進んで行く物々しさには、足がすくんでしまいそうなほどだった。けれどただ一つ、エイネシアをエスコートするヴィンセントの手が大きな支えになり、なんとか王子の許嫁として恥ずかしくない態度で任務を終えることが出来たように思う。
そのまま聖堂の一番前の列に、殿下と並んで座る。
上座では金の縫い取りが施された白と紫の正装に身を包んだウィルフレッド王が、女王陛下から王の錫杖を受けとり、冠を戴き、大司教が王国紋の刻まれたマントを被かせた。
新国王の誕生が宣言され、わっとフラワーシャワーの降り注いだ大聖堂には、感じたことのない熱に包まれたような胸の高鳴りに、心臓がこぼれそうなくらいだった。
それに続いて、新たに王となったウィルフレッドがヴィンセントの立太子を宣言する。
恭しく進み出て礼を尽くすヴィンセントの姿はとても立派で、そのまま退席の流れとなった聖堂で、ウィルフレッド王と新王妃様のすぐ後ろについたヴィンセントがエイネシアに手を差し伸べた時には、もはや呼吸も忘れる勢いで、それでも何とか無心で足だけは動かし続けた。
わぁわぁと惜しみなく両側からかけられる歓声は、優越感をはるかに越えるプレッシャーとなり、だがその重責が、自然とエイネシアの背筋を伸ばさせた。
これで自分は名実ともに、王太子の許嫁になったわけだ。
今までの、ただの王子の許嫁とも違う。これからは自分の言動の一つ一つに、今まで以上の責任が伴うようになる。
それはこの流れのままバルコニーに顔を出した際、数多に詰めかけた民衆からかけられた“王家の安寧にお慶びを!”という歓声にすべてが集約されており、その人の隣に立つということの意味を知るには、まったく十分すぎるほどの時間だった。
そして父や母とも離れ、王家の居並ぶこの場所に共に立つというその意味も。
自分の為さねばならない義務についても。
充分に、思い知ったのである。